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星草物語  作者: 東陣正則
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夜間飛行


     夜間飛行


 ユルツ連邦北方の氷床が天の照明で照らし出される一時間ほど前のこと、春香の潜り込んだ貨物用のプロペラ機は、一路ユルツ国に向けての飛行を続けていた。

 操縦席の後ろに一列座席があるほかは、機の後部は貨物室でガランとしている。春香はその貨物室の右側に置かれたコンテナとコンテナの間に、体を押し込んでいた。

 暖房は入っているようだが、機内の温度は氷点下に近い。春香は油臭い布を体に巻きつけ、寒さを我慢しつつ、コンテナの間から操縦席に座っている二人の様子を窺っていた。

 残念ながら、プロペラの音が邪魔をして、操縦席の会話は聞き取れない。

 貨物機だからだろう、窓はほんの飾りのように小さなものが、数か所についているだけだ。その一つが、身を寄せている頭のすぐ上にある。時々背を伸ばして外を覗くが、雲が空を覆っているようで、闇しか見えない。眼下に灯火でもあれば、飛んでいる高さが分かるのにと思うが、その灯火一つない。

 時計がないために時間の経過が分からないが、離陸後三時間くらいは過ぎたように思う。ウィルタの持っていた地図を頭のなかに思い浮かべ、想像の地図に線を引いて、今いる場所を推測する。ドバス低地の中心から、ドゥルー海北岸に位置するユルツ国に向かって線を引けば、今はドゥルー海の上ということになるのだが……。

 ようやく雲の切れ目に出たらしく、窓の外に星が見えた。眼下に雪を戴く小さな山脈が幾筋も身を寄せ合うように並んでいる。小さな窓のために見える範囲が限られるが、北極星らしき星が、やや右手前方に認められる。ということは、機は北西に向かって飛んでいるということだ。

 ところが、頭の中の地図と眼下の山脈の形を照合する間もなく、また視界が闇に閉ざされた。それでも待つこと数分、雲が途切れて星が戻ってきた。

 と今度は、黒い海面と白い大地がぶつかりあって、複雑な境界線を描いている。海岸線だ。その海岸沿いに、小さな明かりがポツンポツンと並んでいる。明かりが幾つか固まっているのは、海岸沿いの村か町だろう。

 自分のいた時代、夜間飛行の飛行機の窓から外に目を向ければ、眼下に眩しいくらいの照明が輝いていた。いたる所に町があり、町がなくとも、町と町を道が繋いでいた。道に沿って街灯がピンで光を止めたように瞬き、道路が光の点線となって大地を縦横に覆いつくす様、それを指して父は光のマスクメロンと呼んだ。

 電球が発明されてちょうど百五十年、人は夜の世界に光の網を被せた。

 街灯が作り出す光の点線に沿って、無数の光の目玉を持った生き物が走り回る。

 自動車。小さな炉を積んだ機械仕掛けの馬車。

 当時、自分のいた国では数千万台もの車が走っていた。それは狭い国土で数千万の篝火を焚いているということだ。家やビルの照明は、発電所という巨大な篝火を無数のカンテラに切り分けたものだ。電気を使うということは、炉を焚くということ。ポケットに入る小さな通信機から、映像機器、学習スタンド、電磁調理器、交差点の信号、トイレの温水洗浄器、電気を使うものは、みんなみんな小さな炉だ。世界のあらゆる場所、人の暮らす所ならどこでも、昼夜の別なく無数の炉が焚かれた。それが宇宙からして、この惑星の夜を星草の草原のように輝かせていた。

 それに較べれば、いま眼下に見えている明かりのなんとささやかなことか。

 闇の大海原に光の水滴を落としたていど、あっと言う間に闇に呑み込まれてしまいそうな小さな明かりだ。

 それでも灯は灯、夜の闇を照らす明かりこそが、人の営為そのものだと思える。

 北極星の見える位置が右前方にずれていく。どうやら機は、ドゥルー海の東岸を海岸線に沿って北上しているらしい。

 黒い海面に白い塊になって漂っているのは、寄り集まった流氷だろう。

 右手に厚い雲の壁が聳え、その下に雪を戴く黒っぽい襞が連なりながら、雲を下から掬い上げるように上に向かって迫り上がっている。オーギュギア山脈だろうか。

 そう思って山脈に目を凝らそうとした瞬間、また機が雲の下に潜り込んで、何もかもが闇に紛れてしまった。何だか壊れた幻燈機の映像を見せられているような気分だ。途切れ途切れにしか視界が晴れない。

 右側の操縦士が、先ほどから、しきりに何か喚いている。

 我慢できず、春香はコンテナの間から抜け出すと、操縦席の後ろににじり寄った。

 操縦席の背にへばりついて聞き耳をたてる。

 右側の操縦士が、いまいましそうに声を張り上げていた。どうも雲によって本来の飛行ルートを阻まれているらしい。

 春香は椅子の後ろから顔を覗かせると、操縦席の計器に目を向けた。

 と思わず笑いが込み上げてきた。様々な計器が並んでいるが、そのどれもがデコボコの金属板の中に填め込まれているのだ。一見して最新式に見える計器でも、その周りに手書きの計器名や記号などが貼られていたりする。想像するに、このコクピットは、光の世紀や満都時代の機材を寄せ集めて作ったものらしい。

 操縦悍は左の操縦士が握っている。話し方からしても、左側の太い声の男性が機長だろう。後ろからなので顔は分からないが、操縦桿を握る手は良く見える。がっしりとした革手袋の甲に、円に翼が生えた浮き彫り。有翼日輪のマークだ。飛行機の側面にも同じマークが付いていた。きっと航空局のマークなのだ。手首には、お守りのような古びた革製のバンドも。

 やや線の細い声で話す右側の隊員が、副操縦士ということか。

 計器のことは何も分からないが、横並びに二つ四角いディスプレーが並び、それを取り巻くように雑多な計器類が配置されている。電子機器の檻のような昔のハイテク機と違って、操縦席の前面に最低限の計器が並ぶ様は、コンパクトの一言。春香が唯一知っている姿勢指示器も、左側のディスプレーの上にあった。画面の中央に、翼を広げた飛行機がヤジロベエのように映っているので、それと分かる。

 機長の側の二つのディスプレーに目を向ける。

 左側のディスプレーには、地図の上に、飛行ルートと現在位置がラインで表示されている。今この機は、ドゥルー海の東岸を少し内陸に入った辺りにいる。北北西に飛行中で、つい数分前に眼下に見えた海と思ったものは、ドゥルー海から飛び火したように平原の中に浮かぶ湖だった。憶測で判断するのは怖い。

 一方、右側のディスプレーには、周辺の雲の分布図が映し出されている。画像を見て分かった。飛行機の左側に雲の壁がそびえ、右側にも山脈に這い上がるように雲の壁が南北に連なっている。飛行機は、その雲と雲の壁の間を抜けるように北上しているのだ。機としては、どこかで雲の壁の途切れる場所を見つけて西に針路を取りたいのだが、レーダーで見る限り西側に雲の切れ目はない。

 機長側のものと同じ計器が、右側の副操縦士の前にも並んでいる。こちらの画面には、雲の三次元映像、立体画像が映し出されている。

 しばらくディスプレーの画面を見ていて気づいた。

 左側、つまり西側の雲の壁が、ゆっくりと東に向かって動いているのだ。その雲に押されるようにして、飛行機は北上しながら、どんどん東寄り、山脈側の雲の壁に向かって押しやられている。左側の機長側、航路図のモニターを見ると、それがよく分かる。

 予定航路のラインと離陸してから取った航路のラインが、別々の色で表示されている。本来ならドゥルー海を北西方向に横切る予定が、行く手を雲に遮られて、ドゥルー海東岸の陸上を北北西に飛行、それが更に北寄りに針路をねじ曲げられ、じりじりとオーギュギア山脈の側に押しやられているのだ。このまま西側の雲が途切れなければ、いずれどこかで雲海に突入するか、それとも雲の上を越えなければならなくなる。

 頭上のスイッチを何度も入れたり消したりしていた副操縦士が、いまいましそうに拳で膝を叩いた。

「機長、融氷システムの電圧が下がっています。これでは雲を越えるのは無理、機内が冷凍庫になっちまう」

 機体表面に着氷する氷を融かすヒーターの調子が悪いようだ。着氷が続けば、機体はバランスを崩して、失速の怖れもある。暖房が効いていないことからしても、電気系統に問題が発生しているらしい。

「与圧システムの電圧も……」と副操縦士が言った直後、機体がガタガタと揺れた。西側の分厚い雲の壁に、翼が掛かっている。

 機長は航路図の画像を雲の三次元映像に切り替えると、画像を見ながら、機を雲から引き剥がした。左に拡大した雲の立体画像、右に周辺地域の雲の分布画像、その二つの画像を見ながら、航路を探りながら機を飛ばす。機の針路方向で、左の雲海上部から大きく伸びた傘状の雲が、右側の雲の壁と繋がりつつある。

 春香の潜り込んだ双発機は、今しも雲の洞窟に入ろうとしていた。

 春香は迷っていた。

 このままユルツ国に到着するまで機内に隠れているべきか、それとも操縦士に銃を突きつけてダーナさんに連絡を入れて貰う、あるいはダーナさんのいる場所まで飛行機を飛ばして貰うべきかと。

 ダーナさんに直接会うことができないのなら、自分の預かった書面を誰かに手渡さなければならない。マフポップはそれを政府高官、できればシャン先生の父親にと言った。でも、それをやるにはどうすればいいのか。マフポップは無造作にそう言ったが、素性のはっきりしない娘が、一国の要人と簡単に会えるはずがない。政府の高官に渡りを付けるために、その前の段階として誰に会えばいいのか、いやそれ以前に、どこに行けばいいのか。どう考えればそれが分かるのか、何も分からない。わたしはユルツ国など行ったこともないし、どんな国かも知らないのだ。

 操縦席の背の後ろに体を張り付けたまま考えあぐねる春香の耳に、副操縦士が無線に向かって張り上げる声が聞こえた。ヘッドフォンだけでなく、天井のスピーカーからも音が出ている。兇音の混信が少ない。スポット域の衛星通信だろう。それでも時々物が裂けるような音が混じる。雲の中で雷が走り回っている。

 交信しているのは警邏隊の本部とのようだ。副操縦士は、航空局に対して整備不良を訴えると同時に、融氷ヒーターと与圧システムの不具合への対処法を求めている。

「こちら空飛ぶ箱馬車どうぞ、指定のスイッチ切り替えでは、融氷ヒーター作動せず。次の対応策を……、はあ……、聞こえないので、もう一度……」

 何度も聞き返す副操縦士に、機長が自分の耳に当てたヘッドフォンを押さえて言った。

「おい、いま航空局のやつ、馬乳酒がどうとか言ってなかったか」

「ええ、凍りつく前に帰還しろ、熱々の馬乳酒を用意して待っている、とのことです」

 ヘッドフォンの調子が悪いらしく、機長は音量の摘みを回しては顔をしかめる。

 その機長に副操縦士が、「それから、ダーナ総監からのラブレターが届いているとも言ってました」と続けた。

「ラブレター?」

 怪訝そうに機長が言葉を繰り返した時、機体の周囲がパッと白く輝いた。

 ほとんど同時に、激しい音と振動が機体を揺さぶる。機が斜め前方に吸い込まれるように沈み、同時に激しく乱高下を繰り返す。雷鳴と同時に乱気流に巻き込まれたのだ。

 機長が操縦悍を引き上げ、機首を立て直す横で、副操縦士が切ってあったマイクのスイッチを入れ「こちら、空飛ぶ箱馬車、本部どうぞ、聞こえますか本部どうぞ」と叫ぶ。

 航空局を呼び出そうとするも、耳に飛び込んでくるのは、火花を散らしたような雑音と頭の芯を刺す兇音だけだ。

「くそっ、なんだ、この兇音は」

 余りの兇音に、副操縦士がヘッドフォンを外して耳を押さえた。理由は定かではないが、スポット域でも兇電放射が高まっている。

 機長が副操縦士に命じた。

「もういい。雲を抜けてから、もう一度やってみろ」

 副操縦士が、ギョッとして体を起した。

「雲を抜けるんですか」

「仕方ない、これ以上雲の壁に沿って北に流されたら、山脈沿いの乱気流に巻き込まれる。東側の雲の壁を抜けるしかない」

 観念したように言うと、機長は少しでも雲が薄いところを探すようにディスプレーに顔を近づけた。ただ兇電反応が高まったせいか、レーダーの画像も明瞭さを欠く。

 乱れる雲の画像のなかで、雷がパチパチと光が弾けるように付いては消える。まるで雲海の下で絨毯爆撃でも行われているようだ。部分雲が途切れる場所はあるが、それが雲の壁の向こうまで続いている保証はない。雲の隙間も移動する雲によって刻々と変化するからだ。

 雲の上に出るか、それとも低空を吹雪にもまれながら飛ぶか、与圧と着氷防止用のヒーターが不調では、高高度の飛行は無理。とにかく綱渡りになるが、雲の間の小さな切れ間を辿りながら東に抜けるのが一番現実的な選択だと、機長は判断した。

 機長は操縦桿を傾けると、新たに生じた雲の割れ目に機首を差し向けた。機体が派手に上下動を繰り返すが、思ったほどでもない。雲の割れ目の回廊は、三次元パズルのような複雑さで前方に続いている。難しいのは雲が動いているために、雲の迷路が刻々とその組み合わせを変えることだ。それでも機長は、乱れるディスプレーの画像を睨みつつ、なんとか雲の動きを予測して航路を確保。そうするうちに、やや大きな雲の切れ間に出た。

 一息ついた機長が、副操縦士に話しかけた。

「さっき、ダーナ総監からラブレターが届いていると言ってたな」

「ええ、新しい指示が出たということだと思って、内容を確認しようと呼びかけたんですが、そのとたん雷で通信が切れちまって、でも、まさか都に戻ったとたんに、またバドゥーナに飛べなんて指示じゃないでしょうね」

「可能性としては、大有りだな」

「でも、この一週間に二往復。嫌ですよ、あんな爆弾の落ちてくる場所になんか、何度も行きたかないです」

「当たり前だ。しかし、残してきた兵器担当の技官を、誰かが迎えに行かなければならんだろう」

「あれは、自分たちじゃなくて、小型機のやつらの仕事でしょ」

「総監が、そう考えてくれればいいがな」

 話しながら、機長は空調の噴き出し口に手を当て舌打ちした。隣の副操縦士が、機内温度の表示が三度になっているのを見て、歯をギリギリと擦り上げる。

「くそう、ヒーターが虫の息だ。機内の温度がどんどん下がっている。整備の連中、万一の時のためだなどと抜かして、出発時に特注の保温服を出してきたが、あいつら最初からヒーターの不調を知ってたんだな」

 副操縦士が、怒り心頭の手つきで空調のスイッチを動かす。その副操縦士が、突然、何かを挟みこむように両手を叩いた。

「どうした?」

「大変だ、機長、雪虻だ」

 そう言いながらも、副操縦士は手の平に潰されたものが無いのを見て取ると、慌てて操縦席の周りに目を走らせた。その横で機長の目が、操作盤の上を右から左に飛ぶ雪虻を捉えた。羽音が耳元を掠める。

「盤都で着陸した際に、しばらく扉を開けたままにしていた。あの時に入ったんだ」

「あっ、こっちにもいやがる」

 雪虻の羽音に反応するように、副操縦士が首を右に振って、小さな吸血鬼を追いかける。機内の温度が下がるにつれて、貨物室に入り込んでいた雪虻が、比較的温度の高い操縦席の付近に集まってきたらしい。

 軽いエアポケットに入ったのか揺れが厳しくなるなか、いつもは温厚な機長が、「だから扉をちゃんと閉めておけといっただろう」と、苛つく声を上げた。

「あんな雪の中で雪虻が飛んでるなんて思わないですよ」

「ばかやろう、だから雪虻って名がついてるんだ。もし都に雪虻を連れて帰ったら、懲罰もんだぞ」

 いつになく声を荒げる機長の横で、また副操縦士がバンと両手を打った。

「くそっ、素早いやつらだな、まさか、燭甲熱の患者の血を吸った虻じゃねえだろうな」

 機の運航規定は、外地を離陸する直前に、機内に備えてある殺虫スプレーを二度機内に散布、帰還後、扉を開ける前に、再度散布することを義務づけている。

 古代病、つまり燭甲熱で都が壊滅に瀕した過去を持つユルツ国は、病原菌を媒介する雪虻に対して、非常に厳しい防除措置を課している。燭甲熱の保菌反応が出た人物は、都から遠く離れた氷床の隔離施設に最低でも半年は収容されるのだ。

 しかし爆弾が炸裂するバドゥーナの都を逃げ出すように飛び立つなか、規定のことなど頭の中から完全に消し飛んでいた。それに、前に二度続けて盤都に荷を運んだ際には、雪虻など影も形も見なかったので、高を括っていた部分もある。

「あっ、逃げた。くそう、三匹もいやがる」

「先に薬を噴霧しろ、刺されたら後が面倒だ」

 右に左にと手を振り回す副操縦士に、雪虻が座席の後ろに逃げる。追いかけるように、副操縦士が安全ベルトを外して立ち上がった。薬の散布器は後部の備品箱の中にある。

 操縦桿を握り締めた機長は、ディスプレーの雲の映像を睨みつつ、雪虻と副操縦士の動きを目で追った。ところが立ち上がって操縦席の後ろに回った副操縦士が、何をしているのか座席の背に手をあてたままじっとしている。

「何をしている、早くしろ」

 その声に副操縦士が答えない。異変を察知した機長は、体を傾け、風防ガラスの左に目をやった。そこに操縦席の後部を映す鏡がある。と鏡の中に、棒立ちになった副操縦士の体と、その体に半分隠れる形で小柄な人の姿が映っていた。少女らしき人物が、副操縦士に銃を突きつけている。

 その少女、春香が銃を構え、プロペラの音に負けじと声を張り上げた。

「幽霊なんかじゃないわ、ちゃんとした人間よ。さっき話してたわね。ダーナさんは、いまサイトという場所にいるのね」

「おまえは何者だ」

 副操縦士の誰何に、春香が腹に力を込めた声で叫ぶ。

「ダーナさんの姉の、シャン先生の診療所で働いている者よ。ダーナさんにどうしても伝えなければならない事があるの。ダーナさんの二人の姉、シャン先生とヴァーリさんからの緊急の伝言、サイン入りの書状も持っているわ」

 副操縦士は春香の声を聞いて、目の前に立っているのが別に幽霊などではない、ただの小娘だと分かったのだろう、素早く後部の貨物室に目を走らせ、ほかに誰も乗っていないのを確かめると、平然とした表情に戻って小娘に話しかけた。

「総監の身内の使者ってことか。だがな、使者というのは銃を突きつけたり、飛行機に勝手に乗り込んだりしないものだぜ」

「答えて、ダーナさんは、サイトという所にいるのね」

「いたらどうする」

 副操縦士がばかにしたように歯を見せた。

「この飛行機をそこに向けて」

 一瞬の間があり、前の操縦席で笑い声が上がった。機長にも春香の声が聞こえたようだ。

 ムッとした春香が、声を上擦らせた。

「笑わないでよ、行ってくれないと、銃を撃つわよ」

 呆れたとばかりに、副操縦士が大きく首を振る。

「あのな、お嬢さん、俺たちは上からの命令で動いてる。勝手にどこへでも飛んで行っていいという身分じゃないんだ」

「お願い、十年前に悲惨な事故があったでしょ。それがもう一度起きようとしているの」

「あれは単純なミスで、施設そのものに欠陥はなかったという調査結果が出ている」

「違うわ、ヴァーリさんの話では、十年前の事故は仕組まれた罠で、今回も炉に何か重大な操作がされているっていうの」

「反対派はいろんな話をでっち上げる、悪いが俺は薬を散布しなければならないんだ」

 副操縦士は春香を押し退け、機体の後部に足を向けた。

 その副操縦士に向かって春香が、すがるように叫ぶ。

「お願い、急がないと。嘘じゃないわ、文書もあるんだから」

「なら、前の機長に渡してくれ。ルート変更の権限は機長にある」

 その指示につられて春香が前を向くと、それを待っていたように、副操縦士が春香の手から拳銃をむしり取った。そのまま春香の腕を捻り上げる。

 春香が顔を歪め、「離してーっ!」と、自分の腕を掴んだ太い指を叩く。

 副操縦士が、したり顔で言った。

「知ってるかい、お嬢さん。銃というものは安全装置を外さなきゃ撃てないんだぜ」

「お願い、ダーナさんの所に行って」

「ああ、行くさ、本部に戻って、おまえさんを児童収監所に放り込んだらな」

 副操縦士が春香の腕を締め上げながら、前の機長に聞く。

「機長、どうしますか、この娘」

「備品箱のロープで、後ろの椅子に縛りつけておけ。それより早く薬剤散布だ」

「了解、ボス」

 副操縦士は抵抗しようとする春香の口を、素早くぼろ布で縛ると、横抱きにしたままロープを取りに後ろに向かった。

 そのとたん機体が大きくバウンドするように揺れる。

 機長が後ろの副操縦士に檄を飛ばした。

「急げ、雲に突っ込む、椅子に座ってベルトを締めないと、瘤が半ダースはできるぞ」

 そう言う機長の目が、三次元レーダーの映像を睨んでいた。画像の乱れがどんどん酷くなっている。今、機は辛うじて雲の中にポッカリと開いた気泡のような空間にいる。ところがその気泡が、空気の抜けた風船のようにどんどん狭まっているのだ。雲がどこかで途切れない限り、あと数秒後には雲塊に突っ込む。

 画像の角度を変えながら、雲の裂け目を探るが、天地左右どちらの方向にも密度の濃い雲が、壁のように立ちはだかっている。

「くそっ、これまでか」

 機長が自身を叱咤した時、左前方七時の方向に、新たな雲と雲の隙間が現れた。雲の壁に突っ込む直前、機長は機首を大きく左下に捻って、そこに機を突っ込ませた。後部で副操縦士がバランスを崩して体をぶつけ、呻き声を上げる。

 新しくできた雲の割れ目は、上手い具合に、雲の移動に合わせて前方へと伸びていく。予断は許さないが、今しばらくは雲への突入を避けられそうだ。操縦桿を微妙に傾け、機を雲に挟まれた回廊の中央に誘導しながら、機長は詰めていた息を吐いた。

 その機長の目が足元に落ちている紙を捉えた。少女の持っていた紙片だ。

 拾い上げ、文面に目を走らす。

 と機長の後ろ、後部の備品箱の前で、「くそっ、薬が入っていない」と、副操縦士が罵声を飛ばした。殺虫剤のボトルが空なのだ。副操縦士は操縦席に戻ると、頭に来たという顔で、機長の前にそのボトルを突き出した。

「酷い話です機長、薬剤がカラ、充填されていない。整備のやつら手を抜きやがった。諮問委員会に提訴してやる」

 ところが副操縦士の怒り声に、機長が答えない。

 何が……と、ディスプレーの三次元画像に目を向けた副操縦士に、機長が「こっちだ、読んでみろ」と、副操縦士の鼻先に紙片を突きつけた。

 雪虻が戻ってきたのか、羽音が煩い。副操縦士は羽音を払い退けるように手を振ると、渡された紙片に目を落とした。文章が苦手なのか、ジェットコースターのように上下運動を繰り返す機内で、三度ほど文面に目を通す。そして折り目のついた紙片から顔を上げると、「本物ですかね」と機長に尋ねた。半信半疑、眉間にしわが寄っている。

 頷きながら機長が操縦桿を引いた。雲に挟まれた回廊が前方で上下に分かれている。

 瞬時の判断で、斜め右上の回廊に飛び込む。機体が大きく傾き、座席の横の小物入れに突っ込んでいた銃が、副操縦士の足元に転がり落ちた。

 嬉しくない振動が左右の翼から伝わってくる。翼の着氷が限界を越えようとしている。

 銃を拾い上げた副操縦士が、もう一度手紙のことを聞く。

「サイトにまた惨事が起きるって書いてありますけど、機長はどう思われるんで」

 操縦桿を保持したまま、今度は機長が答えた。

「内容はともかくとして、書いたのはブィット家の人間だろう、ダーナ議員の姉が湖宮に嫁いだのは事実だからな。それに銃の紋章はブィット家の家紋。いま思い出したが、後ろの少女は、夏にユカギルの近くで見つかった古代人の少女、ハン博士の息子と一緒に探索令が出ていたはずだ」

「そういえば、懸賞金で話題になりましたね」

「通信機が使えれば、サイトに連絡を入れて、ダーナ総監に直接話をして判断を仰げる。もう一度本部に通信が繋がるか、試してくれ」

 言われて副操縦士が通信機のスイッチを入れるが、余りの兇音に副操縦士は直ぐにヘッドフォンを耳から外してしまった。

 機長がもういいとばかりに首を振った。いまいましげに通信の電源を切る副操縦士の耳元で、また雪虻の羽音が鳴る。

「また寄って来やがった」

 機長の周りでも飛んでいるらしく、片手で操縦桿を保持したまま、機長が空いた手で虻を払う仕草を繰り返す。

「どうしましょう」

「六滂星へ飛ぶか」

 予想外だったのだろう副操縦士が「六滂星へですか」と、その地名を繰り返した。

「雪虻を乗せたまま都の本部に戻ることはできない。ここから一番近い警邏隊の駐屯地は、セヌフォ高原中北部にあるバミルだが、それなら六滂星のほうがいい」

 氷床上に点在する岩山には、星座同様の呼び名が付けられ、氷床上の座標とされる。

 六滂星駐屯地とは、六滂星山の南東に張り出す第三星腕横に設けられた、北方開発の前線基地だ。前にも述べたように、サイト1とサイト2は、六滂星山の西側に位置する第四星腕と、第五星腕の中ほどにある。

 春香の潜り込んだ双発機は、雲の壁に進路を遮られ、予定のコースよりも北に押し流されている。現在、緯度はドゥルー海北岸のラインとほぼ同じ。この飛行地点からだと、都の本部と六滂星基地とでは、飛行時間にすれば十分ほどの違いだ。

 氷床の只中にある基地は、終日マイナス十度以下の気象条件にある。たとえ雪虻が機外へ逃げ出しても、生き残る可能性はない。それに六滂星基地の近くには、燭甲熱の患者の隔離施設がある。自分たちが虻に刺された場合のことを考えれば、迅速に対処できる六滂星に着陸した方が問題を大きくせずに済む。

 副操縦士が驚きの声を上げた。

「え、隔離施設がそんなところにあるんですか。あれは都のすぐ北、貴霜山の麓だと聞いていましたが」

「そっちは宣伝用だ。実際の病棟は絶対に都に影響のない、氷床のど真ん中にある。勝手に都に戻ることができない収容所だ。そこなら十分な消毒設備がある」

「でも機長、一度本部に戻って指示を仰ぐ。機の扉を開けなければ問題ないんじゃないですか。通信機の故障も、薬の充填のし忘れも、責任は整備の連中にあるんですよ」

 不満気な副操縦士の声に被るように、後ろの座席で春香が叫んだ。口を塞いでいた手拭いを外してある。

「燭甲熱だけじゃないわ。古代人の私の体の中には、誰も知らない未知の病原体がいるかも知れないのよ。あなたたちは知らないでしょうけど、わたしたちの時代には、人の免疫力を無くしてしまう病原菌だっていたわ。その菌に侵されれば、人はちょっとした病気でも命を落としてしまう。そういう菌が、私の中にいるかも知れないのよ。そんな人間を都に連れて行って、もし怖い伝染病が流行ったらどうするの。

 それに病気がなによ。病気なら薬で直すことができるかもしれないけど、十年前の惨事は薬じゃ止められないんでしょ。もう待ったなしなの。とにかく、大変なことが起きるんだから、わたしをダーナさんのいるサイトに連れて行って」

 悲鳴のような声に機長は苦虫を潰すと、副操縦士に黙らせろとばかりに首をしゃくった。

 やれやれと言いながら、副操縦士が後部座席に括りつけてある春香の口を布で縛り直す。

 そして自分の座席に戻ろうとして、機長がディスプレーではなく、風防ガラスの向こうを見ているのに気づいた。

「どうされましたか、機長」

「おい、俺の目がどうかしたか」

 安全ベルトを手に、副操縦士も窓の外に目を向けた。

「俺には、雲の向こうが明るいように見えるんだが、おまえはどうだ」

 四方を雲に囲まれ、肉眼では何も見えない闇が拡がっているはずなのに、風防ガラスの向こう機首の前方に、ぼんやりと雲らしきものが見えている。操作盤の三次元画像で見ても、機体の上には、上空四千メートルに達する厚い雲が覆い被さっている。星明かりが雲を通して射し込むような状況ではない。

「月では」という副操縦士の言葉を、「今日は新月。それに、月の光が雲を通すか!」と、機長が即座に否定。薄い雲ならいざ知らず、分厚い乱雲が層をなしているのだ。いくら月でも、雲を通すほどの照度はない。それに前方だけでなく、すでに辺り全体が夕暮れ時の薄暮のような状態に変わっていた。

「変だ。もう一度通信を、本部に問い合わせるんだ」

 言われるまでもなく、副操縦士は通信機のスイッチに手をかけていた。しかし兇音で、とても通信どころではない。

 前方の雲が、どんどん明るさを増し、闇夜の黒い雲がどんどん白っぽく変わっていく。

「機長、雲の上か下に出てみてはどうですか」

「雲の下は吹雪、翼への着氷が止まらない状態で、吹雪に突っ込めるか」

 冷静でならす機長の言葉が上擦る。数分前から、着氷の警報を示すランプは赤く点灯したままだ。話しかけると罵声が飛んで来そうな気配のなか、副操縦士はディスプレーの航路図に目を向けた。機はオーギュギア山脈の東に広がる幅四十キロほどの雲の帯の中を、西北西に向かって飛行している。この調子で飛べば、あと数分で雲を抜ける。あとは着氷がこれ以上進まないことを祈るだけだ。雲を抜けてしまえば、氷床上の空域は低温の乾燥した大気に覆われ、飛行に支障はない。

 辺りがどんどん明るくなってくる。

 前例のない現象に、機長は胸騒ぎを覚えていた。もしこの現象がサイトの実験と関係があるのだとしたら……。

 自分は前回の事故の現場を見ている。今回の計画が、あの二の舞にならないという保証はどこにもない。警邏隊の本部かファロスサイトの現場と交信さえできれば、何が起きているか掴めるのだが、その連絡を取る方法がない。

 そうするうちにも、ついに雲の間の廻廊が塞がり、機は雲の壁に突入。激しく上下左右に揺さぶられる。ところが雲自体がぼんやりと明るいため、雲の薄い場所を探しながら飛ぶことができる。この薄暮のような不思議な現象がなければ、深夜に雲の中を有視界飛行など絶対に出来なかったろう。

 雲が照明を仕込んだ綿菓子のようになってきた。尋常でない何かが起きている。間違いない。通信も不能、ディスプレーの三次元画像は、もはや猛烈な乱れで用を為さない。それに着氷の警報ランプは点灯したままだ。

 機体が激しく乱高下を繰り返すなか、雲を抜けるまでもう一息。機の外は、もう真昼の明るさだ。魅入られたように機外前方を睨んでいた機長が、副操縦士に指摘されて、慌てて航空眼鏡を装着した。後ろを振り向き、副操縦士が怒鳴った。

「眩しいぞ、娘、目を閉じてろ!」

 その刹那、揺さぶられていた体がスッと軽くなったような感覚と共に、双発の貨物機は雲の壁を突き抜け、薄暮の世界から外の世界に踊り出た。

「なんだ、あれは!」

 思わず機長が口走る。副操縦士も、あっけに取られたように、風防ガラスの先を凝視。

 右手前方に巨大な光の壁が見えていた。

 この時期、ドゥルー海の北岸はどこも雪と氷に覆われている。その白い大地が、光の壁の向こう側で白銀に輝いている。

「機長、これは……」

 あまりの光景に、あんぐりと口を開けたままの副操縦士の横で、機長は首を上下左右に動かしながら、冷静に目の前の現象を観察。光の壁の向こう、ちょうど機と同じくらいの高度二千メートル辺りに、ちぎれ雲が点々と浮かび、その影がくっきりと雪の大地に落ちている。つまり、光は上からだ。

 光の上端は悠か上、おそらく飛行機でも到達できない上空にある。そのため壁のように見えているのだ。光の壁の向こう側、照らされている側の奥行は分からないが、左右の広がりは、左はユルツ連邦の波崙台地の付け根、右は氷亜大陸のパルリ氷湖の辺りまでが光の圏内に入っている。光の壁が左右どちらも緩やかに弧を描いていることからして、おそらく光はサーチライトのように円形を成しているのだろう。

 しかしと思う。このような巨大なサーチライトが有り得るだろうか。

 機長は航空眼鏡を頭の上に跳ね上げ、操縦桿を持つ手を何度も握り直しながら目を擦った。それでも見えている光景に変わりはない。

 そんなことよりも機は着実に前方の光の壁に近づきつつある。

 光の内側と外側は、光と闇、昼と夜ほどに明暗が分かれる。また光の壁に接する周辺は、雪と氷の大地でぼんやりと薄明るい。大気中の微粒子で光が乱反射しているせいだ。

「どうしたの、何、この光は」

 ロープを外した春香が、操縦席の後ろに立って、呆然とした顔で外の光景を見やる。

 機長が予備の航空眼鏡を取り出し、後ろ手に渡すと、春香に聞いた。

「おまえの言っていた、サイトで何かが起きるというのは、このことなのか」

 航空眼鏡を目に当てがいつつ、春香はブルブルと首を振った。

 これまでにもウィルタやオバルさんから、十年前の惨事の話を何度も聞かされてきた。

 春香としては、その惨事とは、エネルギー発生装置の爆発によって引き起こされたものだと理解していた。施設の中に核分裂反応を利用した発電装置が組み込まれていたという話からして、核爆発のようなものが起きたのではと思っていたのだ。ところが、いま目の前に見えているのは、そんなものとは全く別の現象だ。

 春香がもう一度、今度は大きく首を横に振った。

 機長が「そうか」と思案げに頷く。

 機長の横では、副操縦士が憑かれたように、ヒーターのスイッチを押し続けている。

 娘から目の前の現象を理解できる情報が得られないと知るや、機長は直ぐにまた視線を光の壁に移した。

 通常なら大気中で光は散乱、壁のようには見えないはずだ。とにかく光の壁の向こう側は、暗闇の中の明かりの灯った部屋のように、明るく照らし出されている。

 昼と夜の世界を区切る境界面が、巨大な壁となって迫ってきた。

 ヒーターのスイッチから手を離した副操縦士が、不安丸出しの顔を機長に向けた。

「機長、どう……されるんで」

 操縦桿を握りしめた手の人差し指が、先程から小刻みに桿を叩いている。判断が付きかねていた。光の壁を見据えたまま、機長が自問するように呟く。

「俺は今回の計画が成功すれば、電気がふんだんに使えて、家の中でも植物が簡単に育てられるようになると聞いた」

「ええ、おふくろが、町のホールに行って、紅珊瑚の大玉をもらったって喜んでました。人工の光を当てて育てた紅珊瑚ですよ。計画が成功すれば、それを自分の家で育て、口にすることが出来るようになるって」

「あれは俺も口にした。旨かった。しかし夜を昼にするなんて話は、これっぽっちも聞いてない。これが凄いことなのか酷いことなのか、俺にはさっぱり分からん」

 近づいてくる光の壁に、副操縦士が声を震わせた。

「機長、このまま行ったら、光の中に入ってしまいます」

 泣きそうな声の部下を、機長が叱咤する。

「だからどうした。見えるだろう、貴霜山の麓の都も、あの光の中にあるんだ」

 部下を叱責しながらも、機長はふっと息を吐いた。気がつくと高度が上がっていた。無意識に操縦桿を引いていた。操縦桿を押し倒し、高度をゆっくり落していく。

 高度千六百辺りに、小さな雲が幾つか浮いている。その雲の下に入ると、日陰に潜ったように機内が暗くなる。着氷のせいか揺れが酷い。

 もう光の壁はすぐ目の前だ。

「機長」と、副操縦士が、今度は本当に怯えた声をだした。

「機長は良くこんな状況で平然としていられますね」

「あほーっ、これでも苦労して心臓に毛を生やしてきたんだ」

 即座に言い返すと、迷いが吹っ切れたのだろう、機長がはっきりと口にした。

「光に入る。そして飛行に影響がないことが確認できたら、針路を六滂星の駐屯地から、サイトに変更する」

「サイト?」

「そうだ」

 機長が断言した。

「責任は俺が取る。都の本部に帰還する予定だったが、機内に雪虻が見つかったために、六滂星の収容施設に針路を変更、その途中で機体に不備が発生、急遽サイトに降下したことにする。サイトで雪虻への対処を済ませ、娘を下ろせば、あとはダーナ総監に判断を仰ぐ。おそらくは、念のために六滂星の収容施設に行かされるだろう」

 副操縦士は不満げな顔をしたが、機長の命令は絶対である。自分は機長に従うしかないと思ったのだろう「了解」と、大きな声を返した。

 部下の返事に頷きながら機長は考えていた。

 雪虻の件があれば、サイトに着陸しても言い訳は立つ。しかし自分がサイトに飛ぶことにした本音は別のところにある。それは、自分の恩人が、今あのサイトにいるということだ。目の前の光の壁を見ていると、どう考えても、サイトで何か起きているとしか思えない。その人物が、危険な状態に曝されているのではないか。

 後ろの少女は、『サイトで何か起きる』というダーナ総監の姉たちの伝言を伝えに来た。その『何か』が良い何かであるはずがない。そして、足を運んだ古代の少女自身が、目の前の光の壁に呆然としている。

 何か想像もつかないことが、サイトで起きている。

 機長はさらに高度を下げた。光の壁の内側に入って何か異変があった時のことを考え、上昇もしくは、不時着のどちらにも移れる高度まで下げていく。上空から降り注ぐ光よりも、眼下の雪と氷の照り返しが眩しい。

 もうすぐそこ、手を伸ばせば届きそうな所に光の壁がある。機長はゆっくりと機首を右に向けた。様子を見るため、光の壁の側面に沿ってしばらく機を飛ばす。昼と夜の境界を見ながら飛ぶ。左手下方に明るく照らし出された雪の丘陵地帯が見えてきた。昼の世界に変わった雪原で、毛長牛の群れが苔を食んでいる。

「どうやら、昼と夜の間にあるのは空気の壁だけのようだな」

 そう呟くと、機長はゆっくりと針路を左に戻し、夜から昼の世界に機首を向けた。

 一瞬世界が白々しいほどの眩しさに包まれたほかは、何も感じない。ただ強い光だけが辺りを支配している。そんな感じだ。光の中でも機体は何事もなく飛行を続けている。昼間の飛行と変わりはない。

 翼が上空からの強い日差しを浴びてギラリと輝く。全くの昼の世界だ。

 遠く西方には低い山稜の連なりの先に貴霜山が聳え、また北には、曠野の雪原の先に、広大な氷の大地が白い地平線を横たえている。この地点からでは、六滂星山の岩山を目視することはできないが、サイトはその六滂星山の西側にある。

 機長は方位を確認すると、機首の針路を右に二十度修正した。これまでに何度も資材を運ぶために都とサイトの間を飛んでいる。サイトに向かって飛ぶこと自体に違和感はない。それに夜間飛行ではない。明るい日差しのなかでの飛行なのだ。昼間の飛行と違うのは、後方の光の壁の外側に、闇があるということで、明るい室内から窓越しに夜の闇に目を向けても何も見えないように、後方にはただ暗闇が拡がっている。

 隣の副操縦士は、光の壁の内側がただ明るいだけだったことに、ほっとしたようだ。

 機長は懐に入れた少女の銃を取り出した。銃に紋章がある、それはユルツ国の者なら誰もが知っている名門政治家一族、ブィット家の紋章だ。少女が口にしたダーナ総監の二人の姉妹のことを、自分は知らない。だがこの銃を授かっているとしたら、本当のことだろう。少女はサイトに事故の危険が迫っていると言った。この光がその前触れなのかどうか、それは分からない。しかし……、

 雲のない安定した大気のなか、今までの雲海の中の飛行が嘘のように、飛行機は安定した飛行を続けている。

 機長が後ろを振り向くと、少女の請うような目が自分に向けられていた。

 機長はしばし春香の目を射すくめるように見返すと「ダーナ総監の姉が、サイトを稼働させては危ないと言ったのだな」と、念を押すように問い正した。

「ええ、はっきりと」春香は言葉を区切るように答えた。

「分かった、おまえをダーナ総監の元に送り届けよう」

 機長は、しっかりした口調で言うと、前を向き、操縦桿を握る手に力を込めた。

 機はやや高度を上げ、サイト目指して一直線に飛ぶ。

 サイト方向に棚引いていた雲が流れ、やがて六滂星の方向に、天上に向かって伸びる一筋の光の糸が見えてきた。



次話「スポットライト」

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