質量転換炉
質量転換炉
十二月十三日、午後七時過ぎ。
サイトを脱出した人質と反対派のスタッフの一行が、氷のトンネルから氷床上に這い出た頃、核力炉は順調に緊急停止に向けた手順を踏んでいた。
冷却水の取り込み口を非常時用の貯水プールに切り替え、炉心内には核分裂反応を抑えるための制御板が挿入された。一時、三千度近くまで上昇しかけた粒子パックも、今は二千五百度、その発熱する粒子パックから、高速で循環する水が熱を奪い去っていく。当然のことながら、蒸気タービンも回転を止め、乾壺に送られていた核力発電ユニットからの送電も停止している。
前回の惨事の時は、核力炉の緊急停止に失敗して事故が発生しているだけに、作業は慎重に進められたが、管制室のスタッフは、モニターの画面上に表示される数値を確認するだけで、あとは自動制御装置が全てを取り仕切ってくれた。
一般電源を賄う褐炭発電ユニットも滞りなく稼動、万一に備えての小型の第二褐炭発電の施設は整備中だが、全ての発電設備が何らかの理由でストップしても、最後は蓄電ユニットに装備した大型の有耳泡壺群が、サイトの機能が半日間維持できる電力を供給する手はずになっている。
揚水所の破壊に対する対応が順調に進み、ほっとした空気が漂い始めるなか、スタッフの一人が奇妙なことに気づいた。核力発電ユニットがすでに発電を停止しているにも関わらず、乾壺への電力の供給が続いているのだ。すぐに送電ルートをチェック。すると一般電源を供給している褐炭発電ユニットの電力が、核力発電ユニットをバイパスして乾壺に流れている。おまけに非常時用の有耳泡壺群に貯えられた電力までが、乾壺に流れ込んでいた。急いで乾壺への電力供給のラインを切るが、すぐに送電の迂回路ができて、電力が乾壺に流れる。
別のスタッフが気づいた。
管制室の第二褐炭発電ユニットのブースに電源が入り、操作盤のモニター画面の中で、情報が雨垂れのように踊り始めたのだ。無人のブースのなかで、青白いモニター画面だけが、チカチカと生き物が呼吸するかのように輝く。発電の施設図、回線図、燃料タンクの容量、まるで誰かが情報を検索でもしているかのように見える。だが第二褐炭発電ユニットは現在整備中で、管制室の担当ブースには、まだ基礎データしか入力されていない。
ブースの制御盤とモニターは、起動後数秒でスッと電源が閉じた。もしスタッフが目を向けていなければ、ブースに電源が入ったことさえ誰も気がつかなかっただろう。
目撃した数人のスタッフは、顔を見合わせ、恐る恐るブースの機器を覗きこんだ。
データブース主任のロンフィアが、入力用の電子ペンで、しきりと鼻の頭を擦っていた。
このロンフィアは、腰まである長い麻色の髪を頭の上にとぐろ状に巻き上げ、そこにお気に入りの電子ペンをかんざしのように何本も差している。
「誰かが、管制システムに外部から侵入しようとしたんじゃないかしら」
ネズミマークのペンで鼻の頭を擦り上げつつ、ロンフィアが首を捻った。
「揚水所を破壊した奴らが、陽動作戦でこちらをまごつかせようとしているんじゃないですか」
言って部下の一人が、機械の故障でないことを確かめるべく、無人のブースに入る。
その若手の男に、参覧席から下りてきたオバルが話を続ける。
「だとすると、回路に侵入できる場所、つまりこのサイトのどこかに犯人がいるということになるな」
管理室長のバッカンディーが、保安部のスタッフに目配せをした。
「管制棟の中に不審な人物が紛れこんでいないか、調べてくれ。それから総監はどこに」
「さっき、大臣を見送りに行かれたままですが」
管理室長とは、管制室の雑用係のようなもので、統括ブースが施設の舵取り役なら、管理室はブースを持たないブース、スタッフの世話役といえる。機械に例えるなら、潤滑油のようなものだ。大きな組織になると、存外こういう部署の存在が重要になってくる。
管理室長のよく響く俳優のような声に、何事かと他のブースのスタッフが顔を上げた時、施設全体の電源系統をチェックしていた統括部長のジャブハが、「これは!」と、控えめな当人には珍しく大声を上げた。
サイトの施設内で、照明配線への通電が次々と途絶えている。すぐに正面のスクリーンパネルに、施設内の配電系統図を引き出す。その中で照明系統の配線だけが、さみだれ式に次々と通電を途絶えさせていた。
なぜ……と、配電系統図に見入る管制室のスタッフの面前で、今度は空調設備への通電が、配線の系統ごと、あるいはブロック単位で、次々とシャットダウン。まるで目に見えない虫がどこかに潜み、片っ端から配線を喰い散らかしていくような光景だ。
ファロスサイトの動力は、都から搬送してきたアイスバイクや一部の工作機器などを除いて、ほぼ百パーセント電力を動力源としている。施設内を走りまわる移動車両や重機も、燃焼系のエンジンではなく、モーターで動く。そのため電源が切れると、泡壺を装備している物を除けば、全てその働きを止めてしまう。
ドアの開閉装置も停止、空調も停止、暖房も停止、壁面照明も、調光ガラスも、何もかもがその機能を停止していく。
電気を動力源とする施設は、巨大なヒーターを内蔵した発熱機関でもある。電気を導体に通せば熱が発生するからだ。その発生する熱を冷やすためにファンを使う。
部分水冷式もあるが、基本的にはサイトの施設内の冷却は、気体の循環によって行われる。配線や電子基盤やモニター画面や、通電によって発熱するあらゆる機器を冷やすために気体を循環させている。電力を消費する施設は、同時に過熱する設備を空冷で冷やし続ける施設でもある。
その冷却のため、器械内部に小型のファンから、施設内全体の大気を循環させるための大型のファンまで、無数のファンが設置されている。電気の通電が停止するということは、そのファンを回すモーターが停止するということだ。そしてモーターはどんな物でも必ず音を出している。その無数の音が一斉に消えた。
不思議な静寂がサイト内を包んだ。
ところが、その中で電源が途切れなかった場所がある。それが管制室とその下の情報処理室、それに褐炭発電ユニット、核力炉に冷却水を送水している補助送水設備だ。
ただ管制室にしても照明は消えている。管制室内で電気が通じているのは、操作盤とモニター類、そして正面のスクリーンパネルだけだ。暗い室内に巨大なスクリーンパネルと無数の小さなモニター画面が青白く浮かび上がった。
呆然とする管制室のスタッフたちの所に、ダーナが半開きのままの状態で停止した扉に体をこじ入れるようにして、駆け込んできた。
「いったいどういうことだ、何が起きた」
ドア近くのブースにいた女性スタッフが、当惑した顔で話す。
「分からないんです、突然、電源という電源が切れて、褐炭発電ユニットは依然発電を継続していますが」
「核力発電のユニットは?」
「すでに制御板の挿入は終わり、タービンも停止、発電は停止しています。プールの補助冷却水の送水システムは、別系統の動力を使っているので、問題ありません。ですが、この状態は……」
配電システムの担当スタッフを見やると、年配の担当技官が凍りついたように画面を凝視している。予想外の事態に頭が混乱、判断停止の状態に陥っている。
モニター上では、施設内の電力の流れは、断線していない回路が全て質量転換炉に繋がっていることを示している。褐炭発電ユニットで生みだされた電力も、同様、質量転換炉の乾壺に吸い込まれている。
「まるで、おっぱいを欲しがる赤ん坊だな」
統括ブースの後ろで掠れた声がした。ダーナたちの背後に、車椅子に乗った博士が来ていた。医務室の電源が切れたことで、また何か異常が発生したのではと、無理を承知で看護師に頼んで管制室に連れて来てもらったのだ。
「ハン博士、これは?」
振り向いたジャブハ部長に直ぐには答えず、博士はしばしモニター上に描き出された電力の送電経路図を食い入るように眺めた。自分たちではもうお手上げと思ったのか、配電ブースのスタッフが統括ブースに指示を求めてきた。
焦れてジャブハ部長が再度声をかける。押されたように博士が口を開いた。
「生まれ出ようとしている胎児が、母親からの養分を欲しがっているということだろう」
声が掠れて良く聞こえなかったのか、ジャブハを初め、統括ブースのメンバーたちが博士を取り囲む。博士がモニター画面を見つめたまま指摘した。
「機械というのはシステムだ。単純な機械は、ボタンを押せばそれに対応して一つの目的を果たす。しかし複雑な機械ではそうはいかない。ひとつのネジの緩みが、一本の配線の引き違いが、想像もしない部分の異常を引き起こすことがある」
話しながらハン博士は、この異常を引き起こしたであろう原因を探っていた。故障と違う別の原因も含めてだ。
「このまま褐炭発電ユニットの電力を流し続けてもいいが、どちらにせよ、それでは乾壺を一杯にすることはできない。質量転換炉を臨界状態に持っていくには、もう一度、核力炉を稼働させなければならない。そのためには、乾壺に流入している電力を、強制的にでもストップさせることだ。そうしないと、再稼働のための準備もできない」
「強制的にとは?」と、配電ブースの若手が聞く。
普段は物静かなジャブハが、予想外の事態に気が上ずっているのだろう、部下を頭ごなしに叱りつけた。
「ばかなことを聞くな、電気的な信号で回路の切断ができないなら、直接電力を流している送電ラインを切ればいい。要は自分で出向いて、スイッチをオフにするか、配線を切断するんだ。迂回路ができて電流が流れるようだったら、しらみつぶしにその回路を断て、分かったらさっさと現場に出向いてそう伝えろ」
浮き足だったジャブハの手を、ハンが熱を持った自分の手で押さえた。
そして「落ち着け、ジャブハ」と諭す。
立ち上がっていた自分に気づいたジャブハが、恥じるように博士の手を押さえ返した。
しばらく後、モニター画面上で、乾壺に流れ込む電力量はゼロに戻った。しかし誰もこれで事が治まったような気にはなれなかった。
ダーナが、スクリーンパネルの調光ガラスを透過状態にするよう指示。すぐにパネルは透明度を増して、黒いシルエットの質量転換炉が眼前に現れる。いつもは臓器が蠕動でもするように見える巨大な炉が、今は、じっと身を竦めているようにも見える。
「まだおっぱいを欲しがっているんじゃないかな、あいつ」
「しかし送電をストップされては、どうしようもないだろう、赤ん坊のように泣く訳にもいかんだろうし」
スタッフの囁きを耳にしながら、ダーナが腕組みをしたまま古代の炉を睨みつけた。
ダーナは今回の計画を進める中で、初めてこの古代の炉を蘇らせることに迷いを感じていた。質量転換炉は夢のエネルギー発生装置だ。しかしなぜか古代人は、この炉に手を付けることなく滅びた。それが気になっていた。
なぜ人類は理想のエネルギーを放棄したのか。
何となく想像できるような気もする。
理想のエネルギー、それは取りも直さず、人類の果てのない欲望の到達点でもある。言い換えれば、目の前の黒い炉は、人類の欲望の結晶といってもいい。人類の進歩を支えたものが欲望であれば、人類を常に苦しめてきたのも欲望だった。その人類の欲望をモニュメントにするなら、このグロテスクな黒い柱塔は、それに相応しい姿といえる。
それでもと、ダーナは思う。人類はその欲望ゆえに人類だったと。
たとえ欲望が自身を滅ぼすと分かっていても欲望に走る、それこそが人類だ。
理想のエネルギーを手にし、それを使わずに終わるような人類が果たしているだろうか。もしそれを使わなかったとしたら、その理由は何か。開けてはならない禁断の箱の中に、よほどの災禍が潜んでいるということなのか。しかし、たとえそうであっても、人類は蓋を開けるだろう。それが人類だからだ。たとえそこにあらゆる恐怖と悲しみが詰まっているとしても、閉ざされた蓋があれば、それを開ける、それが人類の辿り続けた道、選んだ道だ……。
ダーナの妄想を破るように「ハン博士、これを」という、ジャブハの抑えた声が統括ブースに響いた。「何だ」と博士が車椅子を寄せ、モニターを覗き込む。
「見てください、質量転換炉の炉心の温度が上昇しています」
「転換炉……、核力炉の間違いじゃないのか」
「いえ、転換炉のです」
素早くモニター画面の数値に目を走らせるハン博士の後ろから、ダーナも画面に注目。確かに質量転換炉の炉心温度をトレースするグラフが、わずかではあるが上昇傾向を示している。数値は基準熱量の摂氏四度を上回っている。隣のモニターの核力炉の収束状況を示すデータに目をやり、核力炉の炉心温度が下がり続けているのを再度確認。やはりこの数値は、質量転換炉の炉心温度に違いない。いやそのことよりも、豚虫の一件で質量転換炉の炉心温度が上昇した際には、数値の異常は炉心の温度だけだった。それが今回は、質量転換炉に関する様々な数値が、一斉に連動するように変化している。
ジャブハと、その後ろに集まっていたスタッフが、一様に息を呑んだ。
乾壺の中にあるエネルギーの重心座標が、質量転換炉の炉心へと座標軸を移し始めたのだ。おまけに質量転換炉の炉心温度が、見る見る三百度にまで上昇。皆の見ている目の前で、温度上昇を示すグラフが、蛇が鎌首を持ち上げるように上を向き始めている。
「これはいったい」
「乾壺が飽和状態にならない限り、質量転換炉を稼動することはできないはずだろう」
「しかし、この表示では……」
「センサーの故障による表示ミスではないのか」
「すぐに調べさせろ」
配電整備担当の男性が、前方のブースで立ち上がって声を上げた。
「無理です。保安関係の配線への通電がストップしている状態では、情報処理室の電磁ロックの扉は開きません。あの扉はとても人の力で開けることのできるものでは……」
予期していなかった状況に意見が錯綜する。
理解を超えた現象に、人の脳の判断が追いつかない。
その上昇を続ける質量転換炉の炉心の温度と較べて、透化したスクリーンパネルの向こうに見える黒い炉は、全く何の変化も見せていない。しかしあの黒い柱塔の中で、いま何かが始まろうとしているのだ。
車椅子から身を乗り出すようにして、幾つかのモニター画面を見比べていたハン博士は、自分の予想が的中してしまったことに奥歯を噛み締めた。
質量転換炉の動きを見ていると、単純な機械以上の状況変化への対応が見られる。それを行わせているのは、階下の情報処理室だろう。あの不必要に容量の大きな演算装置の群れは、ある程度自分に与えられた目的が達成されかければ、外からの指令が途絶えても目的を遂行できる人工知能に準じた自律的な判断能力を付与されているに違いない。
だとすれば、いま起きている現象は、階下の演算装置が、乾壺の充填を待たずに質量転換炉の稼動を決定したということなのか。それとも、見切り発車でとにかくやってみようと、なりふり構わずチャレンジ精神を起こしたということか。いや、単に炉に試験的に少量エネルギーを注いでみただけということも……。
光の世紀、人工知能と呼ばれる電子脳はすでに開発され、様々な用途に用いられていた。もし階下の演算装置が、本当に自己判断の能力を持っているのだとしたら、その決定を覆す、あるいは思い留まらせるためにはどうすれば良いのか。
単純に情報処理室の機能を停止させれば、それで事が済むのか。いや問題はもっと複雑だろう。階下の演算装置に不具合が生じた場合のために、予備の演算装置が炉の内部に設置されている。もし階下の情報処理室の中央演算装置の電源を落とせば、それはそのまま炉内の予備の演算装置を起動させることになってしまう。
情報処理室の電源は我々でも落とすことができるが、完全閉鎖構造の質量転換炉内の演算装置の電源を落とすことはできない。そのことを鑑みれば、あくまでも電源を落とすのではなく、勝手に臨界反応に移行し始めた階下の演算装置に、それを思い留まるように説得をしなければならない。もちろん電気的な信号でだ。
それができなければ……、
熱のある額を押さえ考え込むハン博士をあざ笑うかのように、質量転換炉の炉心温度は上昇を続ける。
そして皆が注視するなか、炉内の温度を表示するグラフの先端が、グラフの上端を突き抜け……、と直後、グラフのスケールが変化、グラフの先端が基線に沿う位置に下がった。
横軸に時間、縦軸に温度、伸び続けるグラフの先端には、チャートの何もない基線の海がある。その海を切り裂くようにグラフの先端は伸びる。ただ、その伸びが、先ほどの急なカーブから、緩やかなものへと変わった。
「やれやれ、坊やも息切れして、よちよち歩きに戻ったようだな」
男性スタッフの発言に、「ばか、よく見て」と、データ主任のロンフィアが、目を吊り上げて画面のスケールをペンで押さえた。表示は対数表示、温度上昇が緩やかになったのではない、温度はさらに加速度的に上がっている。
ロンフィアが画面の中に窓を作り、炉心の温度をカウンター形式、数字で表示させる。スロットマシーンのように連続して変わり続ける数字に、皆の目が釘づけになる。
数字の桁が、百万から千万の位に……。一方、上に伸び上がっていくグラフの基線の目盛りを見た先ほどの男性スタッフが、口走った。
「おいおい、一番上の目盛りは千兆度の遥か上、そこまでいけば宇宙開闢の温度だろう」
若い男性スタッフは、それを冗談として言ったつもりだった。しかし、その言葉を誰も笑わなかった。炉の温度は猛烈な勢いで上がり続けている。いま現在、すでに温度は千五百万度に達している。これは太陽中心部の温度だ。
みるみるその千五百万度を超える。
二千万度から三千万、そして五千万度……、そして数分後、一億度に。
これはかつて地上で核融合を行う際に目指していた温度だ。
それを超えて温度は上がり続ける。炉内で反粒子化反応を引き起こす温度は、宇宙誕生時に素粒子がスープ状態だった数兆度よりも、かなり低い百億度に設定されている。もっともそれは、炉の中の微細な反応極点と呼ばれる位置の温度で、炉心全体がそこまでの高温になることはない。
ところが、温度上昇のラインは未だ急カーブを描いて上昇を続けている。
十億度。臨界反応が可能になる温度まで、あと少し。だがグラフの中にはまだ基線の広い海が広がっている。この調子でひたすら温度が上昇を続けたなら……、
先ほどの男性スタッフの言葉が蘇る。
宇宙開闢の温度。ビッグバンと呼ばれたその瞬間、宇宙はほとんど無限の超高温高密度の状態にあった。宇宙の誕生と共に光は生まれた。この炉は、光を生み出す炉だという。
宇宙を、光を存在あらしめた温度。
魅入られたように上昇を続けるグラフの先端を見つめながら、誰もがゴクリと唾を呑み込んだ。
次話「氷原」




