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星草物語  作者: 東陣正則
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サイト2


     サイト2


 ファロスサイトでの臨界実験を実力で阻止しようとする反対派の一団が、サイトからほど遠くない氷原上の岩山に待機していた。この場所に集合して三日、連日の悪天候で足止めを喰らっていたのだが、その天候がようやく回復の兆しを見せていた。

 質量転換炉の臨界実験は一週間後に予定されている。直前になれば、いま以上に警備が厳重になることが予想され、実行するなら早い方が望ましい。天候を考えれば機会はもう何度もないだろう。

 実力阻止を狙う反対派のスタッフは、防寒テントの中で身を寄せ、このまま夜間にも晴れ間が覗くことを期待して、自分たちの立てた作戦の最終確認を行っていた。

 第二次ファロス計画を中止に追い込むための手段は二つ。

 一つは単純明解、施設を部分破壊して、物理的に臨界実験をできなくすることである。

 その場合も、サイトそのものには手を出さない。現在、臨界実験に備えて、炉内の乾壺に電力が蓄え続けられている。その乾壺に電力を供給している核力発電ユニットの発電を停止させる。具体的には、核力炉に冷却水を供給している揚水所を爆破する。冷却水の供給に異常が生じれば、核力炉は自動的に緊急停止に向かう。送水管を切断する程度ではすぐに復旧されてしまう可能性が高いが、揚水所自体を破壊すれば、当分の間、核力炉による発電は不可能になる。

 この方法には利点がある。揚水所はサイトから離れた位置にあり、爆破自体の影響がサイトに及ばないということ。さらに揚水所を破壊しただけでも、復旧には半年の時間がかかるということだ。

 そして、ファロス計画を中止に追い込むための、もう一つの手段。

 それが世論に訴えることである。サイト内に閉じこめられている民間人を救出して都に連れ帰り、今回の都での燭甲熱の流行が、感染を口実にして反対派を幽閉するための、情報局が仕掛けた謀略であることを明らかにする。その閉じ込められている人質の救出は、揚水所の破壊によってサイト内が混乱に陥った隙を突いて行う。

 また、人質の救出と同時に、復興省の文書室から、復興計画関連の機密文書を盗み出し、ファロス計画再開の根拠となった前回の惨事の事故調査報告書が、全くの捏造であるということを白日の元に曝す。そして現統首バハリに、都の地権グループから、高額の賄賂が贈られていることを公表する。

 以上が、今回の反対派の阻止行動の概要である。

 午後を回って、三日続いた吹雪が嘘のように治まってきた。実力阻止を目指すスタッフたちは、それぞれのチームが所定の位置に着いていた。すでに、サイト2と都を結ぶ送電、通信ラインには細工が施されている。あとは日没を待って、それを切断、計画を実行に移すだけだ。


 その反対派が不穏な動きを見せるなか、一般には公表されなかったが、サイトの内部で問題が生じていた。発生したのは三日前、ちょうど実力阻止を目論む反対派のスタッフが、サイト近くの岩山に集結、吹雪に吹き込められた日だ。

 その日……、

 サイトの管制室では、反対派の活動などとは全く関係のない別のことを原因として、想定外の事態が引き起こされていた。質量転換炉の炉心温度が突然上昇を始めたのだ。臨界反応は乾壺が飽和状態にならなければ始まらない。それが「なぜ」と、管制室のスタッフ全員に緊張が走った。

 臨界反応に至るサイト内の一般電力を供給する褐炭発電と核力発電、そして乾壺と質量転換炉の関係は、宇宙船の打ち上げに例えられる。褐炭の燃焼熱で水から蒸気を作りタービンを回して発電、その電力でサイト全体の施設を立ち上げ核力炉を稼動、原子核反応の熱で熱水を作りタービンを回して更なる電力を作りだす。その膨大な電力を乾壺に蓄え、高容量の電気エネルギーを使って原子核をばらばらの素粒子に解体、多様な素粒子をオセロを返すように反粒子に転換、対消滅によって次々とエネルギーに変えていく。

 宇宙船打ち上げの第一段階のブースターが褐炭発電、第二段階が核力発電、第三段階が乾壺という手順である。

 その乾壺から質量転換炉へのエネルギーの放出は、乾壺が飽和状態になるまで始まらず、かつその段階までは、質量転換炉の内部は、摂氏四度の熱状態に保たれているはずなのだが……。モニターの数値は質量転換炉の炉心温度の上昇を示しているが、乾壺は相変わらず核力炉から送られてくる電力を溜め込み続けており、乾壺から外部にエネルギーが放出されていることを示すデータはどこにもない。

 調べていくうちに、問題は質量転換炉ではなく、情報処理室の演算装置にあることが分かった。演算装置を構成している無数の電子基盤に、回路不全が発生していたのだ。電子基盤の表面が何者かによって引っ掻かれたような跡が、無数に発見された。

 犯人は情報処理室に進入した豚虫だった。

 問題が炉本体でないことにホッとする反面、これは別の意味で厄介な問題を孕んでいた。

 質量転換炉の炉心で行われる反粒子化反応と対消滅反応は、素粒子の動きを制御することによって可能になる。その素粒子の制御に膨大な演算能力が必要であり、そのために管制室のある建物の下、三階分の空間が、情報処理室に当てられている。情報処理室内の巨大な演算装置こそが、ファロスサイトの管制システムの心臓部であり、人が配置された管制室は、演算装置の外部モニターのようなものに過ぎない。

 基盤の一部に使われている樹脂系の物質が、豚虫の食欲をそそる成分と似ていたために、情報処理室に入り込んだ豚虫が餌と勘違いして噛ったのだ。直ちに虫の燻蒸薬が焚かれた。その結果、這い出してきた豚虫は数百匹に上った。

 しかし一匹ならいざ知らず、大量の豚虫の発見は理解しがたいことだ。

 サイトは密閉された空間である。外部との出入口は厳重に管理され、浄化処置によって、細菌や微細なゴミまでが排除されている。なのになぜ大量の豚虫が……。

 豚虫は、淡いピンク色の体色から頬紅虫という可愛い呼び名も持っているが、何にでも噛りつく貪欲な食欲から、一般には豚虫という蔑称で呼ばれている。

 豚虫は光の世紀に広く分布していた衛生害虫の一種が、災厄後の環境変動のなかで変異して生まれたものである。つまりそれは、発見された豚虫がファロスサイトの封印が解かれて以降、外部から進入したということを意味する。

 いったい豚虫はどこから侵入し、繁殖したのか。

 対策室が設けられ、緊急の調査が進められる。分かったことは、今回見つかった豚虫の親虫は、サイト2が発見された直後に、内部に持ち込まれたらしいということだ。サイト2の発見当時、サイト1は復興事業の真っ最中であり、サイト2は内部の調査のみが行われ、開封後四カ月ほどで厳重に封印し直された。その調査の際に持ち込まれた機材の中に、豚虫の親虫が潜んでいたらしい。

 機材から施設内に這い出した豚虫は、サイト2が封印されたために、氷点下のサイト内で仮死状態となって眠り続ける。そして十年、再びサイト2に人が出入りするようになって、サイト内の温度が上がると同時に活動を始めた。

 ただそれでも、サイトの各ブロックは隔壁で仕切られ、おまけに小動物や昆虫からカビなどの微生物に至るまで、内部を擾乱する可能性を持つものを徹底的に排除する機能を備えている。そのサイト内で、なぜ親指大の豚虫が大量に繁殖できたのか。それもサイトの心臓ともいえる情報処理室でだ。

 それは幾つかの偶然が重なって起きた珍事だった。

 サイトで働く人たちの食料は、専用の部屋で管理される。その食料庫に収蔵している食料の一部が紛失していた。

 サイト内で使われる食材には、ユルツ国内では配給されない貴重な物も含まれる。おそらくそれを持ち出した者は、食材を都に持ち帰って売り捌くつもりだったのだろう。しかしサイト内での物資の搬出入はチェックが厳しく、犯人は隠匿した食材を外に運び出すことができなかった。結果、持ち出された食材は、隠匿した場所に残された。その場所というのが、不幸にも情報処理室であり、隠匿された食材が豚虫の餌となった。

 情報処理室に豚虫が侵入した経緯については、今となっては想像するしかない。

 サイト2の封印が解かれて第二次ファロス計画の準備が始まり、その後計画が正式に国家のプロジェクトと認定されて動き出すまでに、一年と七カ月の期間がある。その間の業務日誌を調べると、中央演算室隣の配電室には、作業員が頻繁に出入りしている。

 今でこそ各ブロックや個々の部屋の出入りは、扉に設置された電子装置で管理され、扉が開いたままなどということはない。それが、サイト2に一般電力の供給が始まるまでの数カ月、扉が手動で開け閉めされていたことがある。おそらくは、その時期に配電室に豚虫が忍び込み、配電室から情報処理室に配線された集合ケーブルの配管の隙間を通って、情報処理室に入りこんだのだろう。

 ただそれでも不思議なのは、情報処理室には特別の空調設備が備わっている。温度や湿度の管理だけではなく、カビや微生物の侵入を抑える殺菌用のライトまでが定期的に点灯され、さらには、万一虫や小動物が室内に入り込んだ時のために、それを排除する小型の移動捕殺機、マイクロロボットまでが装備されている。

 ところが演算室の奥にある保安室、そこに設置された環境保全システムの統括回路を、まったくの偶然といっていいが豚虫が噛っていた。事故というものは二重三重の偶然が重なって起きるものである。豚虫の一件もその典型だった。

 それでも、燻蒸により情報処理室から豚虫は駆逐された。

 ただし齧られた基盤はそのままである。その補修を早急に行わなければならないが、情報処理室の中央演算装置には、電子回路のユニットが四十万単位も収納されている。おかげで膨大な量の回路の検査を行なわなければならなくなった。

 検査と同時に、不具合の見つかった基盤を、予備の基盤に取り替える作業が始まる。

 作業を始めて三日、ようやくゴールが見えてきた。

 すでに炉心温度を示すモニターの表示も、定温の摂氏四度を示している。今回の騒動の間にも、乾壺は核力炉から送られてくる電力を着実に蓄え続けている。乾壺の充填率九十四%、臨界実験が可能になる充填終了まで、あと五日の段階に来ていた。

 この豚虫騒動にピリオドが打たれるのと時を合わせたように、三日ぶりに吹雪が治まってきた。


 ビアボア一味の鉄床島が爆破された日の夕刻、ハン博士はユルツ国から運ばれた荷の回送便の機に乗せられ、霜都ダリアファルに搬送された。

 意識不明の博士は、いったん警邏隊の施療施設に収容、手当ての後、中一日を置いてサイトに向かう飛行機に乗せられた。その機が、ユルツ国の北方三百五十キロ、ダイバル氷床の南縁部、六滂星山の二本の星腕の間に位置するサイト2に到着。小降りになった雪の舞うなか、ハン博士を乗せた双発機は、サイト本体のある氷の窪地脇に舞い下りた。格納庫と簡単な照明設備があるだけの離発着場である。

 格納庫の前には、ハン博士搬送の連絡を受けて、アイスバイクがエンジンをふかせながら待機していた。意識があるのか無いのか、眠ったように目を閉じた博士は、アイスバイクの後ろ、連結した荷橇の上に横たえられた。

 待ち構えていた医務官が、毛布に包まれた博士の状態を確認、手を挙げてアイスバイクの運転手に発車を合図。アイスバイクが氷の上を滑るように走りだす。

 機内から出てきた操縦士が「貴重品だ、大事に扱えよ」と、声を張り上げた。

 飛行機の離発着場とサイトの窪地を仕切る金網の間には、検問所がある。

 連絡が届いているのだろう検問の扉は開けられ、詰め所の保衛員がどうぞとばかりに誘導棒を振る。その検問をフリーパスで抜けると、バイクは前方に白っぽくもやるダイヤモンドダストの霧に突っ込んでいった。


 ハン博士は、サイト内にある医務室で意識を取り戻した。

 擂り鉢の底の岩盤上に設置された褐炭発電所。そこから噴き出す蒸気が、次々と氷霧に変わり、サイト中央の天蓋が作る穴に流れ込む。医務室の壁に開いた小さな窓から、古代の炉がダイヤモンドダストの霧の中に陽炎のように立ち現れる。

「サイトか……」

 博士の口から漏れた声に気づいた医務官が、ハン博士の耳に口を寄せると、「お気づきですか、点滴を打ちます」と声をかけ、寝間着の袖を押し上げた。

「帰ってきたか……」

 ハン博士はもう一度呟くと、ゆっくり目を閉じた。


 時刻は夕刻に差しかかっていた。

 ようやく豚虫の問題に終止符が打たれたところだった。

 三日間で、約八千の基盤が取り替えられた。サイトの官制室では、スタッフが各自担当のブースで目の前に並ぶモニターの画面と向き合い、基盤の補修によって制御機器の回路に新たに不具合が発生していないかを、逐一検査していた。

 管制室は質量転換炉を挟んで、ちょうど核力炉の反対側に位置する構造物の上部にあり、階下が演算装置のびっしりと詰まった情報処理室になる。二階分の高さがある管制室の前面には、巨大な映像パネルが設置され、そのスクリーンパネルと呼ばれる映像パネルを取り囲むように、サイト内の各施設ブロックに対応するブースが階段状に並んでいる。

 ブース群の中央最後列が、統合指揮を司る統括ブースで、サイトに関する情報は、ここに集約される。現在、スクリーンパネルは基本モードと呼ばれる状態にあり、全ブロックの情報を二十の区画に分割、核力炉関連の状態を示す各種の数値や、乾壺への電力の供給量、果てはサイト周辺の気象や設備の保安状態にいたるまで、サイトの情報を網羅する形で映し出している。

 中央の統括ブースに、ダーナと並んで上背のある恰幅のいい男性が立っていた。

 茶肌茶眼に、黒い縮毛とブラシ状の顎ひげ。茶筒のような寸胴の顔に肉厚の頬が盛り上がっている。腕組みをして前方のスクリーンパネルを睨みつけているこの男が、第二次ファロス計画の最高責任者、国土復興省の大臣ズロボダである。

 大臣のズロボダは、臨界実験を一週間後に控えたこの日、豚虫の一件を確かめる意味もあって、急遽、現場の視察に訪れていた。

 サイト2で核力炉が稼働を始めてから二カ月、閣僚級の要人の訪問はこれが初めてである。だが大臣の訪問とはいえ、管制室のスタッフは、担当のブースに張り付き、振り向きもしない。豚虫の一件以来、ピリピリとした空気が現場には漂っていた。

 今回のファロス計画を核とした第二次国土復興計画を実際に後押ししているのは、ユルツ国評議会のバハリ統首である。復興省大臣のズロボダは、そのバハリ統首の元秘書であり、腰巾着として有名な男で、今回は統首の代役として、計画の全責任を任される形で復興省の大臣の席に座っていた。

 口の悪い評議員仲間は、計画が成功しなかった際に責任が統首に及ばないための防波堤だと後ろ指を差すが、秘書としての能力しか持ち合わせていない凡庸な政治家のズロボダとしては、どんな形にせよ大臣としての肩書きは魅力だった。

 ズロボダにとっての関心は、自身が国政の表舞台に参画することで、ファロス計画自体に対する思い入れはない。そのこともあってか、最高責任者という立場であるにも関わらず、現場の視察も何かと口実を作っては断ってきた。それが統首の叱責もあって、今回ようやく足を運んだのだ。

 もっともダーナにすれば、責任者の大臣が飾りである分、現場の最高責任者である自分が実権を揮うことができるので、ありがたい存在ではあった。

 ダーナはスクリーンパネルの端末に手を伸ばすと、基本モードの画像を切り替えた。

 画面上の情報は全て縮小されて画面右隅に移動、その一角を残してスクリーンパネル全体が一旦ブルーの基準画面に戻り、続いてパネルの下部から、銀幕を引き上げるように透明に変わっていく。スクリーンパネルは、それ自体が厚さ数メートルもある巨大な調光ガラスで、透明になった調光ガラスの向こう側に、サイトの中心、『竜のはらわた』と呼ばれる質量転換炉が見えてきた。

 初めてこの炉に接した人は、ほとんどといっていいほど不快感を覚える。

 炉の表面は固まりかけた血を想起させる赤黒い色で、おまけに軟体動物の皮膚のようにヌメリを帯びて見える。まるで、土に埋めた死体が掘り出されたような、隠しておかなければならないものが、むりやり白日の元に引きずり出されたような、おぞましさがある。しかも、この視覚的には有機物の見える不定形の管状体は、硬度や弾性、耐熱性において、自然界にある金属素材では考えられない堅牢さを持っているのだ。

 管制棟とほぼ同じ高さ、ビルの六階に相当する高さを持つ異形の炉の前に立つと、人は重苦しさで息が詰まりそうになる。生命と非生命の間にあるような存在、命を持つべきでない物が命を持ってしまったような不気味さがそこにはあった。

 この炉が人に不快感を与えるのは、何も外観だけではない。

 炉内を映す映像に目を向ければ、質量転換炉の内部には、無数の乾壺と呼ばれる人頭サイズの白い壺が納められている。この乾壺は擬似ブラックホールの機能を持ち、小型の発電所の発電量では、到底充填できないほどの容量を持っている。膨大な量のエネルギーを吸収する象の食欲を持った蟻のような存在。小さなスポンジがプールの水を全て吸い取ってしまうような薄気味悪さが、乾壺にはあった。

 乾壺は、泡壺から有耳泡壺、十字泡壺、牛角泡壺と続く泡壺の蓄電容量を高める研究の中から生まれてきた装置ではないかと考えられている。この白い壺が、壺の表面に浮き出た黒い斑によって頭骸骨のように見えるのだ。炉の中に、その頭骸骨がぎっしりと詰め込まれている様は、納骨堂のようでもあり、不気味以外の何物でもなかった。

 先に乾壺を擬似ブラックホールと呼んだのは、ブラックホールが物質やエネルギーを呑み込むだけの存在なのに対して、乾壺は呑み込んだエネルギーを再び取り出すことができるからである。質量転換炉の炉心内で行われる素粒子を用いた粒子転換と対消滅反応は、この万能のエネルギー貯蔵容器である乾壺を使ったエネルギーの圧縮貯蔵と取り出しの技術なくしては成り立ち得なかった。

 質量転換炉内での一連の反応が行えるようにするには、最低一個の乾壺を飽和状態にする必要がある。その飽和状態をもって、質量転換炉は反粒子化反応の可能な臨界状態に入り、質量転換炉にセットしてある粒子パックを元に、素粒子スープを作り始める。

 原子核を解体して発生した素粒子を制御し、反粒子化反応と対消滅反応によって質量をエネルギーに変える。発生したエネルギーは一旦すべて乾壺に移される。そして、その雑多なエネルギーの中から、この宇宙界に働く四つの力の内の一つ、電磁力の、更に特定の周波数域の電磁波だけが外部に取り出される。この一連の反応の結果として、炉全体では物質から光が取り出されたように見える。

 乾壺一個を満たす量の電力とは、この時代のエネルギー消費からすれば莫大な量になる。目の前の質量転換炉の中に並ぶ乾壺のただ一個が呑み込んだ電力だけで、すでに都の電力消費量の数年分に匹敵するのだ。ひたすら電力を呑み込み続ける白い頭蓋骨のような壺、その乾壺を、目の前の柱塔は何万と抱えている。それは人の想像を遥かに越える存在といえた。

 腕組みをしたズロボダの盛り上がった頬の肉が、ヒクヒクと動く。報告書に添付されていた写真と、目の前の質量転換炉のギャップにたじろいでいる様に見える。眼鏡を何度も外し、柄物の手拭いで拭いては古代の炉を見直す。

「これが、底なしの胃袋の主か」

「その胃袋の一つが、もうすぐ満杯になります」

 ダーナがあっさりと答えた。


 この二カ月、乾壺は、サイト内にある二つの核力発電装置で作り出された電力を呑み込み続けてきた。乾壺一個を充填するだけなら二カ月あれば十分だが、その充填作業に入るために、サイトの設備を全て点検整備し、核力炉を稼動させるための諸施設を建造しなければならなかった。乾壺一つを満たすために、ほぼ半年の時間を要したことになる。前回の計画が四年近い歳月をかけて臨界実験にたどり着いたのに比べ、異例の速さである。

 これは、十年前の第一次ファロス計画の際に建設した揚水設備や送水管などが、まだそのまま使える形で残されていたからである。

 ファロスサイトは、ほぼ二千年前のままの姿で岩盤の中から掘り出された。しかしながら、サイトは封印されていた施設だけでは、自立運行ができない。サイトは、それ自体で完結した閉鎖型の施設ではなかった。湖宮が外部から物資の補給を必要とするように、サイトも外からの力を必要としたのだ。

 その一つが一般電力の供給である。

 サイトには通常電力の発電設備が備わっていなかった。核力発電ユニットが稼動し始めれば、核力炉によって生み出される電力が、サイトで必要となる全ての電力を供給することになる。ただその段階に至るまでの作業に必要な電力、サイトの施設を点検整備し、核力発電ユニットを稼働させるまでの電力が必要だった。おそらくは、このファロスサイトが作られた当時、通常電力はどこからでも簡単に入手できるものだったのだろう。その通常電力を確保するために、都の乏しい電力の四割がサイトに送られた。

 非常時のことも考え合わせ、サイトに隣接する岩盤上に、褐炭燃焼式の発電施設が建設された。前回の事故は核力発電ユニットで起きている。諸施設の電力源は、核力発電に依存しない形で切り放しておくべきという判断である。その結果として、サイト内にある二基の核力発電ユニットで生産される電力は、全て乾壺を満たすためにだけ使われることになった。

 ズロボダがため息まじりにいう。

「その核力発電の電力だけで、我が国は十分救われると思うのだがな」

「大臣、核力発電は、予め核力炉の内部に装着されている燃料の粒子パックが燃え尽きてしまえば、それで終わり。そして代用ウランと呼ばれる粒子パックを作り出す技術は、未だ解明されていないのです。核力発電ユニットは、宇宙船を打ち上げるためのブースターのようなもの、乾壺を満たせばそれで役割を終えるように設計されています。本体の質量転換炉が稼動し始めれば、素粒子スープの元となる素材は、水素原子の形で大気中から補給されるようになる。言うなれば、動き出しさえすれば、このサイトのエネルギー発生装置は、永久機関のようにエネルギーを発生し続けるのです」

「それは分かっておる。しかしな、あの劇場の地下ホールのデモンストレーションを見てしまうと、核力発電の技術だけでも、何とか実用化できんもんかと思う。要は電力さえ豊富に生産できれば、わが国のエネルギー事情は解決するんだろう」

 大臣のズロボダは、目の前の質量転換炉の異形に、前回の惨事をだぶらせているようだ。 十年前の事故は、質量転換炉ではなく、核力炉の異常に端を発して引き起こされている。そのことを考えれば、大臣の気持ちも分からなくはない。

 人間には直感というものがある。核力発電ユニットは、惨事を引き起こしはしたが、核分裂反応を利用した発電装置として、理解の範疇にある。燃やす物が粒子パックというだけで、基本的には発生した熱で水を蒸気に変えてタービンを回す、発電機なのだ。

 対して目の前の黒い塊、質量転換炉は、あまりに自分たちの想像を超えたものだ。

 物質の存在を全てエネルギーに変えてしまう。

 もしこれが自分たちに手の負えない物で、暴走を始めたらいったい何が起きるのか。大臣が、もう十分見たとばかりに、前面のスクリーンパネルに背を向け、後方の壁に貼られた進行表に目を落とした。手書きの文字や乱暴に書きこまれた書き込み、日付の上の×印や○印に、ほっとした表情を浮かべる。

 大臣が愚痴めいて言う。

「何としても成功してもらわねばな。先日の劇場のデモンストレーション以来、今回の計画は成功するだろうという甘い期待が高まっておる。もし上手くいかなかった時は、その反動が恐い」

 ダーナが端末を操作、スクリーンパネルを通常の情報画面に戻した。

「炉が稼働を始めれば、そんな不安など直ぐに吹き飛びましょう。それよりも、生み出された光を搬送する光伝ケーブル、その生産プラントの整備に、かなりの追加予算が必要になります。大臣にはそちらの心配をしてもらいたい」

「そうあって欲しいものだ」

 ズロボダが皮肉めいた笑みを返した時には、すでにダーナは、統括ブースの後ろに目を向けていた。作業服姿の男たちが数人、後ろの来賓用の一段高い参覧席に、テレビカメラを据え付けている。説明書片手に、作業員を指図しているのはオバルだ。

 そのオバルが、ダーナに指示を仰ぐ。

「中継カメラの映像の確認を!」

 ダーナが了解とばかりに、片手を挙げた。

 あの地下ホールで行ったデモンストレーションの試験中継の翌日から、サイトの映像が日に一時間、都の議会講堂と、都本庁舎に設置された映像パネルに流されるようになった。議会講堂のパネルは限られた者しか見ることができないが、都の本庁舎は、都の住人なら誰でも視聴できる、そしてこの試みは、ダーナの思惑通り、ユルツ国市民のサイトへの印象を大きく変えることになった。もちろん良い意味でだ。

 結果に自信を深めたダーナ、それに統首のバハリは、サイトの資材ブロックに保管されていた小型の映像パネルを市内の要所に設置。さらには、サイト管制室のスクリーンパネルの予備を、氷の劇場の大ホールに据え付けることにした。

 これには、政治家特有の思惑が込められている。

 前回の惨事のこともあり、万一の事を考慮して、政府の要人は臨界実験の現場に列席しないということが、評議員の間で申し合わされている。しかし国の予算の大半を注ぎこんだ事業に政府の関係者が誰も参加しないのでは、市民に対して申し開きができない。その釈明として、都にいても十二分に現場の状況を把握でき、かつより多くの関係者、市民が式典に参加できるようにと、臨界実験の当日、都内の劇場に設置した巨大なスクリーンパネルにサイトの映像を同時中継しながら、セレモニーを行うことにしたのだ。

 そのスクリーンパネルの搬送と組み立ての作業が、急ピッチで進められていた。

 加えて、たとえ臨界実験が成功したとしても、それが実用に供され、市民が実際にサイトの恩恵に浴するようになるには、かなりの時間が必要となる。その間の市民の不満を解消するためにも、ファロス計画の進捗状況を逐次国民に伝えていく必要がある。スクリーンパネルだけでなく、小型の映像パネルを都内各所に設置することは、ぜひやっておかなければならないことだった。

 

 大臣のズロボダが、オバルの手にしたカメラに視線を送る。

「臨界実験の当日、ほかの評議員たちが議会にいるなかで、わしがここから挨拶すれば、その政治的な効果は凄いだろうな」

「もちろんです、政治家を含めて政府要人の方々は、サイトの重要性を唱えながらも、なかなか現場に足を運んで下さらない。いざ見学にいらしても、そそくさとお帰りになる。それを市民も耳にしているから、期待はすれど、それ以上に今回も事故が起きるのではと、不安を抱いてしまう。そんな風潮のなか、臨界実験のその日に大臣がここにお立ち下されば、今回は誰もが違うと思うでしょう。それに、怖がって何かと理由をつけては逃げまわっているほかの推進委員との比較もあって、大臣の株は大いに上がるはず。政治家としての大臣の地位を築くにも、格好の機会となるのではないでしょうか」

 ズロボダは肉厚の頬をひくつかせると、

「そう焚きつけるな、それもこれも、実験が成功すればの話だろう」

「もちろんです」

 ダーナが端末を操作して、中継映像をそのまま正面のスクリーンパネルに大映しにした。大臣の上半身のアップの後ろに管制室全体が映っている。いかにも大臣の指揮の下に計画が進められているがごとき映像である。

 パネル上に現れた巨大な自分の拡大映像を見ながら、ズロボダが、まんざらでもない様子で、ブラシのような顎ひげを撫でつけた。

「考えてみるかな」

 そう嘯くと、ズロボダは映像の中の自分に向かって手を振った。

 その様子を横目にダーナは思った。

 大臣が臨界実験の当日ここにいることを即答できないところに、サイトに対する根深い不安があるのだと。ダーナ自身、バハリ統首の参謀役をしている補佐官の父や、今は政界を引退して技術院の顧問に納まっている祖母を、当日ここに招くかどうかで迷っている。他人ならいい、しかし身内やあるいは自分自身のこととなると、人はどこかで本音が出る。ダーナも数日後に行われるであろう臨界実験が百パーセント安全と言い切れないところに、どうしようもないもどかしさを感じていた。

 自分だけなら、成功の確率が十パーセントでも、命をかけてやるだろう。この計画の成功しかユルツ国の生き残る術がないと、自分は信じているからだ。

 しかし……、

 今、計画の最終段階になって、やっとダーナも、前回の実験の際にハン博士が臨界実験の延期を提案した、その気持ちが分かるようになっていた。

 安全は百パーセントの保証があって初めて安全なのであって、それが保証されない限り、安全と言い切ることはできない。それは優れた古代の科学技術を神のごとく信奉しながらも、それが結果として人類を滅びの縁に追いやるしかなかったことに、一抹の猜疑心を覚え、百パーセントの信奉にのめり込ませてくれないことに似ている。そして信奉する古代の高度すぎる科学技術を、自分たちが理解し切れていないことへの不安が、それに拍車をかけていた。

 重要なのは安全と言い切れる状態にすることではない。というよりも、それは不可能なことだ。人の行うことに完全ということは有り得ない。回路は正確でも、そのスイッチを間違って押すことはある。二重三重の安全策を講じていても、その堰が破れることもある。豚虫の件のようにだ。

 必要なのは、安全を突き詰めていくと同時に、不測の事態が起きた時に対応できる対策を、十二分に用意することだ。

 ダーナがハン博士を探し出し、連れ戻すことに拘わった最大の理由がそこにある。

 サイトの臨界実験は、施設の管理保全と操作運用マニュアルに基づけば、現行のスタッフでも十分実行可能である。何度も言うようだが、施設を作るのではない、操作するだけなのだ。車を作ることはできなくとも、出来上がった車は誰にでも運転できる。核力発電ユニットの操作にせよ、情報電子機器の保守管理にせよ、確かにある程度の専門的な知識や経験が必要なものもあるが、長年に渡り古代技術の調査研究に国力を注いできたユルツ国にとっては、それほど困難を伴うものではない。

 最後の詰めの一手で、どうしてもやっておかなければならないのは、詰まるところ、想定外の事態が起きた時にどう対応するかだ。

 その一点でダーナはハン博士にここにいて欲しいと考えた。

 ある程度の確率で起こるであろう事故や災害には、対応策も準備できる。しかしどれだけ多様な事態を想定しようとも、人災を含めて、そこから外れた不測の事態は必ず起きる。

 そして往々にして、想定外の事態では、即座の判断が要求される。その際、複数の対応策に瞬時に優先順位をつけ、判断を下すことを可能にするのは、知識と経験の蓄積である。

 今回のスタッフに一番欠けているのはそれだった。

 巨大プロジェクトの事故というものは、判断すべき要素が複雑多岐に渡り、個々の担当箇所に関する専門知識だけでは対応しきれないことがままある。異なる部署の異なる専門分野の人たちが、互に意見を交換しながら対応策を練る余裕のある場合ならいい。だが、待ったなしの緊急の場合はどうするか。

 刻々と変化する全体状況を把握し、トップダウンで迅速に判断を下す役割の者が、こういう巨大な事業や複雑な施設の場合にはどうしても必要になる。そしてそれは、前回のサイト1の復興計画の中心にいて、かつ、ファロスサイトの膨大な資料に精通しているハン博士以外には考えられなかった。

 ダーナの腰の館内無線機が着信のブザーを鳴らした。医務室からである。ハン博士が意識を回復、熱は残っているが、これからそちらに向かうとの連絡が入った。意識が戻り次第、ハン博士をここに連れてくるようにと、ダーナは医務官に通達してあった。

 数分後、看護士の男性の押す車椅子に乗せられて、ハン博士が管制室に入ってきた。

 体調が回復していないのか、車椅子をダーナの目の前に止めても、博士は首を横に垂れたままだ。看護士がダーナに近寄り耳打ちした。鉄床島の水牢に閉じ込められていた博士は、盤都からユルツ国に飛ぶ長時間の飛行も重なって、かなり憔悴しているとのこと。まだ八度余りの熱が続いているし、脈も乱れがちである。

 ようやく車椅子が停止したことに気づいたのか、博士が目を開けた。

 ハン博士の黒い瞳に向かって、ダーナが挨拶をした。

「ようこそ、ハン博士、お待ちしておりました」

 熱で頭がぼんやりしているのか、すぐに返事が返ってこない。何度か瞬きを繰り返し、ようやく博士の口が動いた。

「仮面……、そうか、ダーナか」

 ダーナは軽く頷くと、隣に立っている大臣を紹介した。

「こちらが、今回の復興プロジェクトの最高責任者、復興省のズロボダ大臣だ」

 ズロボダが満面に笑みを浮かべて、挨拶を述べた。

「少し顔を変えられたようだが、お越しいただいてありがたい。役者が揃って、これでようやく幕が上げられます」

「幕の向こうが地獄ということもある」

 咳きこみながら博士が応じた。

 大臣は一瞬ムッとした表情を口元に浮かべたが、すぐに笑顔に戻って、

「もちろん、そういうこともあるでしょう。しかし、落ちることを恐れては樹上の果実を採ることはできないと、古の諺も言っております。失敗を恐れていては進歩はない。それに政治家は天国より地獄を好む者、その方が舵取り役の存在が際立ちますのでな」

 頷きながらズロボダの言葉を聞いていたダーナは、さっと手を挙げると、参覧席で映像機器の調整をしているスタッフに、中継カメラのレンズを自分たちに向けるように指示した。そしてパンパンと手を叩き、各ブースで持ち場の仕事に集中しているスタッフの視線を自分に集めた。

「作業の手は止めないでいい。ようやくハン博士にお越し願えたので、皆に紹介だけしておく」

 そう言って、端末のスイッチを押した。正面のスクリーンパネルに、ダーナと大臣、そして車椅子に座ったハン博士の姿が大映しになる。

 マイクを通さないダーナのくぐもった声が、管制室全体に響いた。

「本来の現場の最高責任者がようやく到着された。ハン博士だ。博士は十年に渡る長旅の疲れで体調が優れない。この後いったん部屋で休んでもらうことになるが、博士には今回の計画の最終チェックをお願いすることにしている。ここでのハン博士の立場は統合監査役で、もちろん中央の統括ブースに座ってもらう。各自の仕事はこれまで通りで変更はない、では予定どおり作業を進めてくれ」

 中継カメラを手にしたオバルが、参覧席で立ち上がって「ハン博士」と、抑えた声で呼びかけた。声が届いたのか、ハン博士が答えるように手を挙げようとする。しかしその動きがいかにも弱々しい。

 ダーナが顎をしゃくって、オバルに座るよう命じた。

「前回のプロジェクトからの同僚も何人かいる。積もる話もあるだろう。しかしそれは、今回の計画が無事終了してからにしてもらおう。とにかく今は、一週間後の臨界実験を成功させることに集中してくれ。もし失敗して事故でも起こせば、命を失うのは君たちなのだからな」

 車椅子から体を前のめりに浮き上がらせた博士が、「一週間後、そんなに早くなのか」と、咳き込みながらダーナに質す。

 ダーナは、ハン博士の肩を押して椅子に座り直させると、

「博士には早く体調を元に戻すよう尽力願いたい。体調不良で仕事をされて、ミスでもされたのでは、仕事に打ち込んできた他のスタッフに失礼になる。それにまだ時間は一週間ある。博士にとってみれば、緊急時のプログラムに眼を通す時間は、それで十分でしょう」

 命令するようなダーナの口調に、「待て……、私は協力すると言った覚えはない」と、ハン博士が掠れた声を上擦らせた。

 抗う博士に、ダーナが冷たく言い放った。

「それは息子さんのことを、一般に公表してもいいということですかな。先日政府は、前回の事故の原因が、サイトに迷い込んだ子供の悪戯にあったということを公にした。ユルツ国の市民は、その子供が誰か知りたがっている。特に事故で亡くなった三千人の方々の身内の人たちはな」

 一瞬、博士はカッと目を開け、ダーナを睨んだ。

 無視するようにダーナは続ける。

「博士、あなたが協力しようがしまいが、臨界実験は予定どおりに行われる。もし前回の惨事に対して少しでも罪の意識があるなら、今回の実験の安全性を高めるために手伝いをするのが人の道というもの。それにもしサイト2が前回の徹を踏めば、サイトの特別室にいるあなたの息子さんは、間違いなく蒸発して消えてしまうことになるのですからな」

 博士は車椅子から完全に体を浮かせると「息子がここに」と、絞るように声を出した。

 ブースの中で端末を操作しながら、ダーナとハン博士のやり取りを背中で聞いていたジャブハ統括部長が、立ち上がって博士に進言した。

「博士、ここまで事が進行している以上、残されているのは、少しでも事故の可能性を減らし、計画を成功させることでしょう」

 博士は声の主に視線を走らせ、それが前回の計画の際に、自分の下で働いていた技師のジャブハだと分かると、顔に手を当て深いため息をついた。

 そして「乾壺の充填完了までの正確な時間は」と、ダーナに尋ねた。

「五日と九時間だ」

「そうか……」

 何か考えているようだったが、ハン博士はやがて顔を上げると、

「分かった、ダーナ、私にできることがあれば力を貸そう。だがその前に少し眠らせてくれ、いい仕事をするには少し体力を戻さないとな、今の状態では……」

 それはダーナも分かっているのだろう、管制室右の小部屋を示した。

「控室を使ってくれ、何なら作業もそこでやってもらっていい。あの部屋にも情報処理室の端末は来ている。助手が必要なら指名してくれ」

 言ってダーナは脇に置いた袋を取り上げ、「それに、これもだ」と、四角い袋を博士の膝に乗せた。

 訝しげに袋を覗き込んだハン博士が、信じられないという目でダーナを見上げた。

 それは二十年来ハン博士が愛用してきた、小型の情報処理機、『魔境帳』だった。博士はこの機械で古代の言語と情報を学び、第一次ファロス計画の際にも、サイト1の情報の翻訳と解析を行った。博士にとっては分身のような機械。都のダリアファルを離れ、息子をシクン族のミトに置き去りにした後も、これだけは持ち歩いていた。

「どうしてこれが」

「ティムシュタット国の隠れ家から運ばせた。いい仕事をするためには、使い慣れた道具が必要だろうと思ってな」

 車椅子の上で背を丸めながら、博士が魔鏡帳の上に手を置き、その感触を懐かしそうに確かめる。蓋の隅には、幼い息子のシール状の写真が擦り切れかけたままに貼ってある。

 博士の熱でむくんだ指が、その小さな写真をなぞった。


 同じ頃、当のウィルタはベッドの上で絶望的な気分で横になっていた。気分だけではない、実際に胃が不快なのだ。昨夜は三度も吐いた。夕食が傷んでいたらしい。

 そして夕食が傷んでいたことの理由が問題だった。

 ウィルタがサイトに連行されてから、今日で十日余り。

 ウィルタという少年がこの施設に閉じ込められているということ、その少年がハン博士の息子であるということは、サイトで働く人たちには知らされていない。

 たとえウィルタという名前を耳にしたとしても、惨事当時のウィルタは幼名である。指摘されない限り、ウィルタという名前だけでハン博士と結びつけて考えられる心配はない。それでもダーナは用心を期して、オバルと共に到着したウィルタを直ぐに隔離。反対派の人質たちと同様、部屋に閉じ込めた。

 ウィルタのことを知っているのは、飛行機に同乗していた者を除けば、健康のチェックをした医務官と、人質の世話を担当している警護官の二人、計三名だけである。

 当然その三人には厳重な箝口令が出された。ところが、それが漏れた。

 ウィルタとバニアが壁の穴を通して会話を始めて三日目、つまり昨日の事。警護室に詰めている警護官の二人が、交代の際にウィルタのことを話題にした。それを例の通話機の混信で、バニアが耳にしたのだ。さらにそれはバニアだけに留まらなかった。人質の食事を担当している給膳係の女性が、警護室に食器を下げに出向いた際に、半開きのドアの外から、ハン博士の息子が反対派の人質と一緒に閉じ込められているということを聞いてしまったのだ。

 もっともこの中年の女性は、不用意にそれを周りの者に話すことはなかった。情報を漏らすことの重大さと、それによって今の職を失うことを恐れた。ただ問題は、この女性が前回の惨事の被害者だったということである。

 彼女は、事故で警備員の夫を失い、二歳の息子とともに残された。

 被災者のほとんどがそうであったように、生活は困窮を極める。ところが惨事の後、政府からは何の補償もない。そして幼い息子を栄養失調による内臓疾患で亡くしてしまう。生きていれば息子は十二歳。その息子とほぼ同い歳の犯人の少年がここにいる。そしてその少年はといえば、栄養失調で亡くなりもせず、健康に育ち、今も十分な食事が提供される環境にいるのだ。それだけでも怒りで身が焼かれそうな想いなのに、なんと、その少年の食事の世話をしているのが自分なのだ。

 給膳係の女性は、息子を死に追いやった少年の食事を自分が配膳しているということが、許せなかった。亡くなった自分の息子に対して、どうにも言い訳ができないと感じたのだ。理性ではだめと思いつつも、犯人の少年の食事に古い料理を盛った。毒を盛らなかったのが、せめてもの彼女の良心だったろう。

 それが昨日の夕食である。

 ウィルタは夕食を食べた後、すぐに腹の具合が優れないことに気づいた。胃がムカムカして吐き気が込み上げてくる。夕食のあと、半刻もすれば、またバニアと話をする約束を交わしていたが、とてもこの調子では無理。仕方なく約束の時間になると、具合の悪いことをバニアに伝え、調子が戻ったらまた壁を叩くからと言って、会話を打ち切った。

 その時、バニアからは「そう」と、短い返事が返ってきただけだったが、吐き気を我慢していたウィルタは、バニアの返事が妙に素っ気なかったことに気がつかなかった。

 その夜、ウィルタは吐いた。吐くと腹部の不快感は和らいだので、特に世話役の警護官には連絡せずに、そのまま眠りについた。

 明けて、翌朝。ウィルタは気分が持ち直したので、バニアが心配しているかもしれないと思い、壁を叩いて、穴に差し込んだ紙のラッパに向かって呼びかけた。ところが三度ほどそれをやっても、壁の向こうからは何の返事も返ってこない。まだ寝ているのかと思い、もう一度ベッドに横になる。

 そして七時半、朝食が届く。昨夜の夕食のことがあるので、出てくるものが気になった。すると気をつける必要もないほどに、スープから酸っぱい臭いが立ち昇っていた。

 朝食には手をつけなかった。

 ウィルタにとっては、出された食事が傷んでいたということよりも、いくら呼びかけてもバニアから返事が返ってこないことの方が気になった。もしかすると、バニアの食事にも悪いものが混入、それを食べたためにバニアが寝込んでいるのかもしれないと考えた。

 どうしようか迷った。

 しかし警護官に隣の部屋の女の子の様子を見てくれとは、言い難かった。言えば、なぜ隣に女の子がいるのが分かったかが、疑われてしまう。ウィルタとしては、バニアとのことは絶対に秘密にしておきたかった。ただ自分の食事に二度続けて傷んだものが出されたことは、伝えなければと思った。

 意を決し、机の上の通話機で警護官に連絡を入れる。

「自分の胃は丈夫だけど、ほかの人たちは大丈夫かな」と、暗にバニアを含めて他の人質の様子を確かめるよう、警護官に話の矛先を向ける。すると「余計な心配はするな」と、突き放した返事が返ってきた。やはりほかにも人質がいるのだ。

 そして昼食。あからさまに傷んだ物は出なかったが、餅粥はそのとろみが妙な粘り気を帯びていた。それにズヴェルの酢漬けは色が黒ずんでいた。すでに夕食と朝食の二食を抜いていたので酷く空腹だったが、口を付けずに我慢した。

 空っ腹を抱えたまま壁を叩く。相変わらずバニアからの反応はない。ウィルタは心配になって、もう一度、警護官に連絡を入れた。

 再度食事が変だと告げると、「ちゃんとしたものを出している、好き嫌いを言わずにちゃんと食べろ」と、警護官の男はにべもない。

 ウィルタが「みんなと同じものが出ているのか」としつこく尋ねると、「当たり前のことを聞くな」と、怒鳴り声と共に通話機を切られてしまった。

 同じ物が出ている、そうだとしたら……、

 ウィルタは心配になって、椅子の背板で壁を思い切り叩いた。それでも反応がない。どう考えても変だ。どこか別の部屋に移されたのだろうか。でも昨夜はいたのだ。突然部屋を移されるとは考えにくい。やはり悪いものを食べて苦しんでいるのでは。

 叩いては呼びかけ、叩いては……、五度目に呼びかけた時、穴の向こうから声が返ってきた。バニアの声だ。

 しかし返ってきた言葉は、「あんたなんか、腐ったものを出されて当然よ」という、吐き捨てるような声だった。

 それっきり穴の向こうからは、何も聞こえなくなってしまった。穴に直接耳を当てても、何の気配も感じない。壁の穴を塞いでしまったのかもしれない。

 ウィルタは床に寝転がったまま天井を見上げた。そして理解した。

 バニアは、自分がハン博士の息子であるということ知ったのだ。傷んだ食事が出たということは、それを担当している人もまた、ウィルタが何者であるかを知って、意図的にそれをやっているということだ。

 会話用の紙のラッパが手から落ちた。

 無性に悲しかった。涙が出てきて部屋の中のものが歪んで見えた。父さんが恨めしかった。今まで面倒な旅をしてきて、こんな気持ちになったことなど無かったけれど、初めて「どうして」と、言いたくなった。

 空腹を抱えたままベッドに横になる。

 もしこのまま毎日ずっと腐ったものを出されたら、いずれ飢え死にをしてしまう。骸骨のようになった自分を見て、父さんは何て言うだろう。

 机の上でカリカリと音がする。見ると、ピンク色の豚虫が腐った焼き餅に取りついていた。胴体の幅ほどもあるアゴを動かして、カリカリと音をたてて焼き餅の表面を削り取っている。ウィルタはそれをぼんやりと眺めた。

 豚虫がいなくなってから焼き餅を裏返すと、ソースのついていない側に、びっしりと青いカビが生えていた。

 しばらくすると、机の下に隠れていた豚虫がまた姿を見せた。今度は三匹、ウィルタが見ていることなど関係なく、カリカリと、あごを動かして餅を噛りだす。まるでそこにいる人間がこれを食べる気がないと、分かっているかのようだ。

 水だけを飲んで、ベッドに横たわり、豚虫から窓に目を移す。暗い赤紫色のヌメッとした質量転換炉が、相変わらず無気味な姿を曝している。その異形の炉が涙で滲む。

 頭の横ではカリカリという音……。

 その音を耳にしながら、やがてウィルタは空腹を抱えたまま眠ってしまった。



次話「異常」

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