大通り
大通り
ところが、春香とマフポップの期待はあっさりと外されてしまう。
二人が官庁街に入ると、至るところで黒い煙が吹き上がっていた。すでに燃え尽きた建物もある。日が傾いてかなり薄暗いのに、街灯もついていない。もちろん建物の中も真っ暗。動くものといえば、警邏隊の自走車が巡回するように走り回っているだけで、まるで官庁街を放棄したかのような光景だ。
細い街路を辿りながら、二人は政府の中央庁舎に近づいた。非常時には、政府関係の諸機関は、中央庁舎の地下にこもって業務に当たることになっている。照明が消してあるのは非常時なら当たり前、一応それを確かめてみようと思ったのだ。
建物の陰から、火災に赤く照らし出された迎賓館の展望塔が覗いている。最上階の下に数カ所、砲弾が直撃したのか、大きく抉られた穴が空いている。その展望塔を見上げながら、マフポップは自分が戦争というものを全く理解していなかったことを痛感していた。
戦争となれば真っ先に叩くのは相手の中枢、政府や警邏隊の本部だ。おそらく朝の開戦直後に行われた榴弾砲の撃ち合いは、相手の榴弾砲陣地と共に、相手国政府諸機関も標的としたはずだ。それに、今ここが水路からの小型の榴弾砲や油弾の着弾域に入っている以上、この場所に要人のいるはずがなかった。それは火災が野放しになっていることや、警備が厳しくないことからも分かる。
しかし、だとすれば、場所を移した政府をどうやって探せば……。
歩く二人を呼び止めるように、道端で呻き声が上がった。
振り返った二人が、瓦礫から突き出た人の手を見つけた。マフポップと春香は一瞬顔を見合わせたが、すぐに瓦礫の山に駆け寄り、手に続く瓦礫のなかを探った。崩れ落ちた屋根と壁の隙間に人が挟まっていた。瓦礫の反対側に靴が食み出ているということは、かなりの長身だ。手袋を填めた手が、瓦礫の間で開いたり閉じたり、なんだか手の平でパントマイムをしているように見える。
マフポップは屋根と煉瓦塀の間に体をこじ入れると、力まかせに背中で押した。上手くやらないと、屋根が崩れて挟まっている人を押しつぶしてしまう。気合いを入れてマフポップが屋根を押し上げ、屋根が動いた瞬間を狙って、春香が挟まれている人の足を掴んで渾身の力で引っ張る。挟まれていた人がズルズルと引き出される。
「抜けた!」と思ったとたん、ズンという鈍い音がして、屋根が下にずり落ちた。
塀に寄り掛かって荒い息をつくマフポップを前に、春香は引きずり出した人に「大丈夫ですか」と声をかけた。擦れてはいるが、しっかりとした声が返ってきた。
「やれやれ助かった。瓦礫で顔が圧迫されておって、声が出せなかったんだ」
その声を聞いて春香はオヤッと首を傾げた。どこかで聞いたことのある声と思って、体を起こしかけたその人と目が合う。向こうも春香に気づいたのだろう、二人同時に声を上げた。なんと迎賓館のガラス室で会った園丁のおじさんだった。
「こりゃまた、あの時のお嬢さんじゃないか」
よろけながらも立ち上がった園丁のホロは、壁と屋根の間に挟まっていたのが幸いしたらしく、背中を擦ってはいるが怪我はないようだ。
背筋を伸ばしながら、園丁のホロが都の中で起きたことを教えてくれた。
春香たちの推測どおり、朝の開戦直後に猛烈な爆撃が官庁街の一帯になされた。ただ先に戦火の口火を切ったバドゥーナ国としては、それは織り込み済みで、政府関係者はとうに避難を済ませており、人的な被害はほとんどなかったらしい。らしいというのは、政府の広報馬車も、有線放送も、戦争が始まってすぐに報道管制を敷いて、何も伝えなくなったからだ。園丁のホロは、爆撃が一段落するとガラス室の様子を見にきた。ところが運悪く、迎賓館の手前で、崩れ落ちてきた屋根の下敷きになってしまう。
春香が気負い込んでホロに尋ねた。
自分たちは緊急の用件でユルツ国に連絡を入れたいのだが、どこか衛星通信が使える場所、もしくは政府の移動庁舎のある場所を知らないかと。
祈るような顔の春香に、ホロが残念そうに目を伏せた。
政府はゴーダム国との対立が表面化して以来、非常時に備えて、政府機能を地下に移す準備を進めていた。ただそれは極秘事項で、巷の噂では都の南部らしいが、都の外、塁壁の外だという説もある。それほど曖昧なのだ。
春香が悲壮な顔で、ジャーバラちゃんの居場所だけでもと聞くが、ホロの考えでは、政府の要人宅は、比較的分水路に近い場所に集まっているので、早々に避難して、そこにはいないはず。それ以上のことは、下級職員の自分には分からないと、声を落とした。
「すまんな、せっかく救けてもらったのに、何の力にもなれんで」
申し訳なさそうに首を垂れるホロに、春香が繕うように言った。
「いいのよ、今は戦争中なんだから、要人の所在が簡単に分かるほうが、変だもん」
そうは言ってみたものの、園丁のホロに会えて一瞬希望が見えたと思った分、落胆は大きい。
園丁のホロは、やはり背中を痛めていたようで、いつものように背を伸ばすことができず、少し屈んだ姿勢で二人に礼を言うと、ガラス室の木々が気になるのか、爆発で崩れた塀の間から迎賓館の庭に入っていった。腰の上を擦りながら歩くホロの姿が痛々しい。元衛士のホロにとって、あのピンと背筋の立った姿勢は誇りであったはずなのだ。
ホロを見送ると、二人は大通りに出ることにした。
時刻はすでに五時を回っている。マフポップが、ザックから携帯食の挟み餅を取り出し、春香に渡す。凍った挟み餅をガリゴリと噛りながら、雪の舗道を大通りに向かって歩く。融雪の設備が壊れてしまったのか、以前なら黒いタールブロックの路面が露出していた道が、どこも一面の白い雪道に変わっている。もう走る気力は失せていた。
二人はなんとなく南に向かって歩いていた。
マフポップが通りを見ながら、ぼそりと話し始めた。
そこは、マフッポップが少年時代に住んでいた場所だという。
父がバドゥーナ、母がゴーダム国出身のマフポップにとって、子供時代に良い思い出はない。生まれつきの特殊な体質、何かの拍子に突然音が聞こえなくなるという、突発性の難聴を抱えていたマフポップは、学塾の級友のなかで、いつも浮いた存在だった。聞こえていたと思うと、突然聞こえなくなる耳である。完全に聞こえないのなら、友達もそう思って対応してくれる。それが友だちにしてみれば、聞こえていると思って話をしていると、聞こえていなかったりするのだ。
母親が妊娠中に飲んだ薬が原因ではないかというが、母方の祖母も似た症状を持っており、遺伝も関係しているらしい。友達ができたかと思うと、すぐに離れてしまう。そんな生活が続くなか、マフポップが見つけた楽しみが、兇音を聞くということだった。
最初から兇音が心地良く聞こえていたのではない。
母は徴税吏、父は音盤の花形弁士として共に多忙だった両親は、マフポップの子守り代わりに音盤を聞かせていた。しかしマフポップは、音楽よりも、音盤の再生機に付いている受信機、そこから流れ出る兇音を聞くことを好んだ。兇音を聞いていると、不思議と心が落ち着くのだ。やがて気がつくとマフポップは、四六時中耳にヘッドフォンを当て、兇音に耳を澄ませるようになっていた。
ところが、このことでマフポップは、ますます子供たちの中で孤立するようになってしまう。皆が嫌がる兇音を嬉しそうに聞くのだから、当たり前といえば当たり前。それに両親が共に高給取りで、仕事がら人に妬まれることも多く、その影響が子供のマフポップにも及ぶことに。酷い嫌がらせを受けるようになった。
マフポップが極端に挨拶を苦手にしているのは、何年にもわたって、同級生たちに挨拶を無視され続けたからである。さらにマフポップが人と喋ることを尻込みするようになったのは、父親に原因がある。幼児の頃、マフポップには軽い吃音があった。それを花形弁士であった父は、手酷く叱りつけ、矯正しようとした。吃音だけでない、発音が悪くとも、手の平でマフポップを叩いた。父の指導は吃音の矯正には逆効果で、吃音は悪化、いっときなど父親のことを考えただけで、声が出なくなるほどだった。
先にマフポップは都から抜け出すために排水坑を通ってと、船頭のチョアンに説明した。しかし正確には、塁壁の内側に居場所のなかったマフポップが、都の外に逃げ出すルートとして見つけたのが、あの排水坑だった。
マフポップは、九歳の時に両親が離婚したのをきっかけに、母親の実家のある濠都に移った。しかしそこでも人の輪から外れるということでは同じだった。
マフポップにとって不幸だったのは、家が金銭的に恵まれていたということかもしれない。これが窮民街の子供なら、少々体に異常があっても、心に嵩を負っていたとしても、しゃにむに生きていくしかない。あのフィルルのようにだ。そして必死で生きていくなかで、他人との関わり方を学び、その付き合い方にも馴れていく。
結局十歳を過ぎて、マフポップは家に籠もるようになった。
外部とのトラブルを怖れた母親は、マフポップをそこから引き出そうとしなかった。
人と関わることを勧める代わりに、母親は必死でマフポップの難聴を治そうとした。突発性の難聴さえ良くなれば外に出ていくことができると考え、特殊な丹薬を息子に飲ませた。しつこいほどに。
マフポップの体が、マグカップのような寸胴の体形をしているのは、丹薬の副作用のせいである。母親の期待に反して、難聴は一向に改善しないばかりか、難聴に併せて頭痛が続くようになってしまう。さらに新たに服用を始めた頭痛薬によって酷い胃腸障害が引き起こされる。そこに至って、母親は藁にもすがるつもりで、針治療を行っている診療所の門を叩いた。それがシャンの診療所だった。
シャンは、マフポップに薬の服用の停止と、針治療、加えて生活の改善を提案。マフポップ自身が希望したこともあり、住み込みで診療所の手伝いをさせることにした。このままでは通常の社会生活が行えないと判断した母親も、それに同意。マフポップは河岸のベコス地区で暮らすことになった。
ボソボソと喋り始めたマフポップが、いつの間にか饒舌に、それも早口でまくしたてている。まるで言葉が後から後から湧いて出てくるような喋り方だ。
春香があっけに取られていると、マフポップ自身もそれに気づいたようで、「人とこんな風に喋るのは初めてだな」と、照れたように頭を掻いた。
「人と喋ろうとすると、いつも首が絞まって声が喉につっかえてしまうんだけど、それがない。言葉がツルツルと滑るように出てくる」
照れ隠しに言い訳をするマフポップを見て、春香は自分の経験を思い出していた。
小学四年生の時のこと。母の仕事の関係で、春香は一カ月だけ山村の小さな学校に転校した。その学校で貴重な経験をした。
クラスの皆は、春香が腰かけの級友で、ひと月すれば都会の学校に帰ってしまうことを知っている。その結果何が起きたかというと、春香がクラスの皆の不満や陰口の聞き役にされたのだ。
クラスメートの全員が幼稚園からの持ち上がりで幼馴染みである。まだこのあと小学校を二年、中学も入れれば、五年は勉学を共にする仲間、いや大人になって村から出て行かない限り、一生顔を突き合わせていかなければならない隣人である。互いに嫌なことや、文句を言いたい事、不平不満があっても、下手にそれを口にして関係を悪くすることはできない。もし関係を悪くして、それを修復できなければ、気まずい思いを抱えたまま、死ぬまで顔を突き合わせて行かなければならなくなる。
都会のように、問題が起きれば別の学校に転校して、などということが絶対にできない狭い田舎町。文句や不満はお互い様、そう思って腹に収めるしかない。
言いたくても言えないことが、澱のようにどんどん心の淵に溜まっていく。
小学の四年生。人生を十年も生きていれば、みなそれぞれ腹の内に、人に言えないことを、たっぷりと抱えこんでいる。そして十歳という年齢は、腹の内に溜め込んだ物の処置に悩み始める時期でもある。
そんな同級生たちのなかに春香は足を踏み入れたのだ。
腰かけの、ひと月後には遠くに行ってしまう級友、何を喋っても問題のない級友。
春香が、今まで我慢して腹に仕舞い込んでいた不平不満の聞き役にされてしまうのは、自然の成り行きだった。
決して口外しないでよと言いつつ、クラスの皆が次々と級友の悪口を口にする。驚かされたのは、いま陰口を叩き合っていた同士が、そのすぐ後で、何事もなかったように仲良くゲームに興じていたりするのだ。どれだけ嫌なやつでも、表向きは仲のいい友達を演じ続ける、それが田舎の学校での人の付き合い方だった。それはもう、ほとんど人間不信に陥りそうな経験だった。無口でほとんど喋らないとされていた女の子が、春香と二人きりになったとたん、堰を切ったようにベラベラと喋り始めたこともあった。
きっとマフポップにとって、わたしは遠い世界から来た、異国の転校生のようなものなのだ。何のしがらみもない相手。自分の生きている世界の外にいる人。
たとえわたしがマフポップのことを悪く言ったとしても、マフポップとしては、それは違う時代のものの見方だと割り切ることができる。マフポップからすれば、わたしは安心して話のできる相手なのだろう。
マフポップのお喋りを耳にしながら、春香は盤都の町並みに視線をめぐらせた。
迎賓館の上から見えていた町並みである。屋根の瓦も洗浄したように美しい黄色一色で、壁はすっきりとした白。人の暮らしが臭い立つような河岸の窮民街と正反対の街だ。
ようやく息継ぎをするように話を途切らせたマフポップに、春香が独言のように話しかけた。
「あーあ、地下の臨時政府がどこにあるのか、国務大臣のガヤフさんに、情報局のラジン、それにジャーバラちゃん、三人の内の誰かに会うことができれば、何とかなると思ったんだけどな……」
確かにそうだった。ところが、悲しいかな三人とも、どこにいるか分からない。施療院などの公的な施設でもあれば、そこで尋ねることができるかもしれない。しかしもう日が沈んで夜。たとえ窓に明かりが灯って人が起きていたとしても、爆弾が飛び交っている最中に、はいそうですかと扉を開けて教えてもらえる気もしない。
マフポップもそのことを考えたのか、重い足取りを更に重くした。
このまま歩いて大通りに出たとして、そこから先の当ては何もなかった。
都とはいっても古代のメガロポリスのような大都会ではない。春香の時代でいえば、地方の県庁所在地ほどの規模の町だが、それでも歩けば一周するのに半日はかかる、そして政府の諸機関が避難しているであろう南部の地区は、都の半分を占める広さがあって、おまけに臨時政府は地下の秘密の場所にあるというのだ。
盤都に住んでいたことがあるとはいえ、それが子供時代のマフポップにとって、政府の避難先を予測するのは正直不可能なことだった。
止んでいた雪が降り始めた。全く猫の目のようにコロコロと変わる天気だ。
何かいい方法がないかと考え込む二人の頭上に、鐘の音が流れてきた。通常の経堂の鐘の音よりも高い音、経練堂の鐘の音だ。
聞き留めたマフポップが、強ばっていた表情を緩めた。
経練堂には盤都で唯一自分に良くしてくれた経主様がいた。あの経主様なら、この状況でもきっと相談に乗ってくれるのではないか。
マフポップが救いの手が見つかったとばかりに、「あの鐘の音の経練堂に行ってみよう」と春香に呼びかけ、そしてオヤッと首を傾げた。
春香がどこを見るともなく、ぼんやりしているのだ。
「何してる、あの鐘の音の方向に行くんだよ」
急かして春香の手を取ろうとするマフポップに、春香は「鐘……」と言って、マフポップとは別の方向に足を踏み出した。
怪訝そうに見つめるマフポップに、春香が慌てて首を右に左に回した。それはつい少し前、発作で耳が聞こえなくなったマフポップの仕草そっくりだった。
実は頭上に煩いほどに鳴り響いている鐘の音が、春香にはほとんど聞こえていなかった。鐘の音程が、春香の耳の難聴域にすっぽりと填り込んでいたのだ。
「おい、耳がおかしいのか」
「あ、ごめん、さっき爆風を受けて、ちょっとね」
とっさに誤魔化すと、春香はマフポップの示す腕の方向に目を向け、「そっちね」と言ってスタスタと歩きだした。
「おい、耳が変なら変って言えよ。音が聞こえなくなったら大変なんだぞ」
「分ってるわよ」と、怒ったように言い返すと、春香は小さな声で「二千年前に十分過ぎるほど」と付け足した。
何かに抗うように足を速める。歩く先に広い道が見えてきた。
都の大通り、自走車で疾走したあの道だ。
その大通りに出る。
融雪装置が止まって、歩道と馬車道の境界の段石が、ぼんやりとした雪の膨らみに変わっている。まるで真っ直ぐな雪の平原が、突然町の中に出現したかのようだ。ただ、ほかの通りは街灯が消されて真っ暗なのに、この大通りの街灯には明かりがついている。雪が光の粉のように舞うなか、ずらりと並んだ安息灯や蛍光球の明かりが目にまばゆい。
それはまるで聖夜の輝きで、聞こえてくる銃声や爆発音がなければ、戦争を忘れてしまいそうだ。白銀色に照らされた雪面の先、大通りの反対側に、学校のような建物と尖塔が三つ並んで建っていた。
マフポップの言う経練堂と、そう思って春香がその建物に目を凝らしていると、マフポップが「あれを」と、大通りのやや右手を指した。
「あの建物じゃないの」
「いや、経練堂はそうだけど、道の右手を見て!」
目を向けると、数台の馬車が大きな物を取り囲んでいた。太い丸太の両端に、プロペラの付いた翼、飛行機だ。有翼日輪のマークは、確かユルツ国の……、
側面の扉が引き開けられ、横づけされた馬車の荷台に、貨物用の箱が積み込まれている。
マフポップが「近づいてみよう」と腕を振った。
「えっ、経練堂はいいの」
「当たり前だろ、目の前にユルツ国の連中がいるんだ」
言うなりマフポップは、春香の手を引き、いったん路地を後ろに下がった。
大通りの一本裏手の通りを、双発のプロペラ機の止まっている方向に向かって走る。積もった雪が柔らかく、足がズボッズボッと填まり込む。
その時、家の屋根を越えて、バリバリと空気を切り裂く音が聞こえてきた。プロペラの回る音だ。もしや飛行機が離陸。戦争をやっているところに降りてきたのだ、荷を下ろして一刻も早く離陸しようとしているのかもしれない。
二人は足を速めた。雪を蹴散らし走る。
足を動かしながら春香が考えたのは、もしかしたらダーナさんが同乗しているのではということだった。もしそうなら、何が何でも、飛行機にしがみ付いてでも会わなければならない。でもそれは有りえないことだ。一国の命運をかけた事業の責任者が、荷の搬送に付き合って、爆弾が落ちるかもしれない場所に来るはずがない。でもダーナさんがいなくても、飛行機の搭乗員はユルツ国の人間、それもおそらくどこかで今回の計画に繋がっている人たちだろう。それなら、自分が持っているシャン先生のサインの入った手紙を託すことができる。いや託さなければならない。
一方、春香と並走して走りながら、マフポップは別のことを考えていた。
ユルツ国の飛行機なら、当然ユルツ国と連絡の取れる通信機、衛星通信のできる無線機を装備しているはず。ならそれを使って、ここからでもユルツ国に通信を入れることができる。問題は、それが装備されていたとして、どうやって操縦士を説得して、通信機を使わせて貰うかだ。
ダーナさんへのメッセージは、ファロスサイトの危機についてだ。それは、国の命運を賭けた計画を停止せよというメッセージでもある。いくらシャン先生のサインがあったとして、一介の現場の操縦士が、そんな重大な情報の送信を可と判断してくれるはずがない。では書面を操縦士に託すか。だがその書面がダーナさんに確実に届けられる保証は、どこにもない。計画を中止させるための謀略とでも思われて、握り潰されてしまうのが落ちだ。
やはり直接交信して話さなければならない。
しかし、いま操縦士たちに何かを依頼するとしても、必ず盤都の警邏隊の取り調べを受ける。その場合、やはりメッセージの内容が問題になる。計画の中止は、ユルツ国の未来だけでなく、バドゥーナ国の未来にも関わってくる問題だからだ。ファロス計画の中止、それはユルツ国からの移民がバドゥーナ国に流れ込んで来るということだ。バドゥーナ国に譲渡される古代兵器と移民の受け入れが取引の条件になっているということは、もう周知の事実だ。それを思えば、バドゥーナ国側としては、石にかじりついてでも計画に成功して貰わなければならない。そのファロス計画を中止しろというメッセージを隊員が読めば、どう判断するかは自ずと知れたこと。
では、どうすれば。
一番確実に、ダーナさんにシャン先生のメッセージを伝える方法とは……、
雪が強くなってきた。
路地を曲がると、再び大通りが二人の前方に見えてきた。あともう一息で大通りに出るというその時、プロペラの空気を切り裂く音が鳴り響き、狭い通りの先を、左から右に双発機が横切った。
だめだ離陸してしまう。二人がそう思った直後、遠ざかって行くプロペラの音が、そのまま通りの右手から近づいてきた。二人は慌てて大通りを見渡せるところまで走り出た。すると二人のすぐ前方、道の真ん中で、双発機がゆっくりと停止した。
さっきと機体の向きが逆になっているので、ドアは見えない。
ドアが開く音に続いて、小箱を一つ抱えた搭乗員らしき人物が、機の向こう側で雪の上に降り立つのが見えた。飛行服姿のその隊員は、そのまま機首の前方に残っていた盤都警邏隊の関係者のところに、雪を蹴散らしながら駆けていく。
マフポップが春香に耳打ちした。
「春香ちゃん、これが一番早く、そして確実にダーナさんに、シャン先生のメッセージを伝える方法だ。説明するから聞いてくれ」
興奮しているのか、マフポップの声が少しどもる。しかしマフポップは、自分の声のことなど全く意に介さず、真剣な表情で背負っていたザックから白いシーツを引き出した。一枚を春香に渡し、もう一枚を自分が被る。
「いいか、これからボクは、あいつらの注意をこちらに引きつける。その間に君はあの飛行機に乗り込むんだ。見つからないようにだ」
「わたしが?」
「そうだ、あの飛行機は、これからユルツ国に帰るところだ。あれに乗って、君がユルツ国に行くんだ」
有無を言わさぬ声でそう言うと、マフポップは懐から取り出した銃を春香に押しつけた。
「使う使わないは君の自由。どんな方法を取るかは君が考えてくれ。飛行機だから通信機が必ず装備されている。ただ乗り込んでも、すぐにはユルツ国への交信を頼まない方がいい。交信を断られて盤都に連れ戻される公算が高い。交信を依頼する時は、状況をよく判断してくれ。使った方が良さそうなら、その銃を使うのもいいだろう。
とにかく一番の方法は、君が直接ダーナさんのいる所に行って、話すんだ。操縦士を泣き落としてでも、銃で脅してでもなんでもいい。君がダーナさんに会って、その書面を見せて話す。それが最良の方法だ。後は君の判断に任す」
渡された銃の重みを手の平に感じながら、春香が目をしばたいた。
「でもこの銃は、シャン先生がマフポップさんの安全を考えて……」
「先生の願いは、惨事が二度と繰り返されないことだ」
マフポップが、ポケットから鉄の塊のような物を引き出した。
「ぼくはこれを使う、手留弾だよ。あの排水坑に倒れていた死体から失敬した。これを爆発させれば、ゴーダム国の攻撃が始まったと思って、飛行機は慌てて飛び立とうとする。乗り込んでしまえば絶対に上手くいく」
自らを奮い立たせるように言うと、マフポップは春香の手の上に自分の手を重ね、ギュッと握り締めた。
「絶対に上手くいく。さあ、そのシーツを被って、飛行機に近づくんだ」
「分かったわ、やってみる。先生によろしく」
「ああ、幸運を祈ってる」
力強くそう言うと、マフポップは頭から被ったシーツを首元で絞り、降りしきる雪のなかを警邏隊の馬車に向かって腰を屈めて走りだした。それを見て春香も右手の双発機の方へ。シーツを被った二人が、袂を分かつように雪の中を移動する。
マフポップは馬車に近づくと、塵芥箱の陰に身を寄せ、春香の動向を見守った。
雪の吹き溜まりのようなシーツが、そろそろと進んで飛行機のすぐ手前に到達。道のこちら側からは分からないが、反対側のドアは開いたままになっているはずだ。
マフポップにしても、こんな方法を大人になら勧めなかっただろう。しかし春香のように小柄な子供なら、機内に隠れることができるだろうし、それにもし見つけられたとしても、酷い扱いをされることもないのではないか……。
ところがマフポップの思惑とは別に、春香は飛行機の腹に手が届きそうなところまで行くと、そこで足を止めてしまった。
いや足を止めたのではない、足が動かなくなってしまったのだ。飛行機を間近にして、春香の頭の中に、母を亡くした時の事故の惨状が蘇っていた。燃え盛る飛行機の残骸と、夜の闇の底に散らばった無数の肉体の破片。ちぎれた母の手が春香の足首を掴んでいた。まるで飛行機に乗るのは止めなさいとでも言うように。
飛行機を目の前にして、春香の身体は鎖で縛りつけられたように固まってしまった。
すぐ目の前、手を伸ばせば届くところに飛行機の昇降用の梯子がある。これを上がらなければ、ユルツ国に行くことも、ダーナさんに手紙を渡すこともできない。ユルツ国に行ってダーナさんに会わなければ、会ってヴァーリさんの伝言を伝えなければ……、
でも……、
マフポップは、飛行機の下で動かなくなったシーツの塊を睨みつけていた。春香が階段を上れば、あとは自分が手榴弾を投げて飛行機を離陸させる、そう打ち合わせたはずだ。それがなぜか春香は飛行機の真下でじっとしたまま動こうとしない。飛行機のタラップのところに、もう一人操縦士がいるのだろうか。飛行機というものは、最低二人の搭乗員を乗せて飛ぶものだということを聞いたことがある。
警邏隊員に小箱を渡した操縦士は、最後の挨拶を交わしている。急がないと、あの隊員が戻ってきたら、それこそ機内に忍び込むチャンスは失われてしまう。
じりじりとしながらマフポップは、作戦の手順を春香に説明した際、手榴弾を爆発させた騒動の隙に飛行機に乗り込めと言っただろうかと、自分の記憶を疑い始めていた。そうであったような気もするし、そうでない気もする。
つい先程のことなのに、記憶があやふやになっている。緊迫した事態のなかで、自分も余裕がなくなっているのだ。手榴弾を持つ手が、手袋の中でじっとりと汗ばむ。それに頭痛がどんどん酷くなり、頭痛と共に、音という音が耳から消えていく……。
操縦士と警邏隊員が、握手した手を離した。春香のシーツは動かない。
もうだめ、これ以上は待てない。
マフポップは「よしっ!」と自身に声を掛けると、身を屈めたまま塵芥箱の陰を抜け、馬車に向かって歩を進めた。
そして操縦士が踵を返したその時を狙って、手榴弾のピンを抜き、這うような低い姿勢から、思い切り大通りの反対側に向かってそれを投げた。雪の舞うなかを、小さな塊が道の反対側に向かって飛んでいく。
自分は銃を撃ったこともない。ましてや手榴弾を触ったことなどあるはずもない。こんな場面でもなければ、一生使うこともなかったろう。うまく爆発してくれ。
願って数を数える。一、二……、
その時、春香は必死で身体を動かそうとしていた。母のちぎれた手が、自分の足を、ひしと掴んでいる。引き返してマフポップに自分は飛行機に乗ることはできないと、言い訳をしたい。だけど後ろを振り向こうとすると、シャン先生やヴァーリさんの顔が浮かんでくる。いったい自分はどうすればいいの。
そう叫ぼうとした時、激しい爆発音が轟いた。
「あっ」と思った瞬間、足が軽くなった。母の手が離れた。そう思った刹那、春香はシーツを抜け出し、目の前の手すりを掴んで昇降用の階段を這い上がっていた。後ろは見なかった。見る余裕もなかった。
すぐに次の爆発音が轟く。
マフポップは二発目の手榴弾を投げると、雪の窪みに体を寄せて様子を窺った。
飛行機のタラップを上がる小さな足と、猛然と飛行機に向かって走りだした操縦士の姿が見えた。馬車の鞭と、自走車のエンジン音、そして人の叫び声が交錯する。
双発機の左右のプロペラが一気に加速するように回りだす。
マフポップは慎重に周囲の様子を見計らいながら、手にしていた最後の手留弾を自走車の方向に投げた。数秒して爆裂音。その音が地の果ての音のようにしか聞こえない。
双発機はゆっくりと弧を描いて方向転換をしている。その双発機の側面の昇降口に、飛行服姿の男が手を伸ばし、しがみ付くように這い上がった。すぐに昇降口が閉まる。
経練堂の方向からは、けたたましく打ち鳴らされる鐘の音と、笛と、人の叫ぶ声が聞こえているのだが、すでにその音はマフポップの耳には届かなくなっていた。
飛行機はゆっくりと大通りを前方に向かって、雪の段幕を裂くように加速、その行方を見届けることなくマフポップは「上手くやれよ」と呟くと、頭痛の波に洗われ始めた額を押さえ、大通りから狭い路地へと走りこんだ。そのマフポップの背後で、双発機の鋭いプロペラ音が、大気を震わせながら上空へと舞い上がった。
次話「サイト2」




