油弾
油弾
マフポップがザックから小さなカンテラを取り出し、灯をつけた。
大人の背丈ほどの穴だが、擬石でできた管の下三分の一は、凍りついた汚泥で埋まっている。進むのに支障はなさそうだ。
カンテラの灯芯を絞れるだけ絞ると、二人はその古い排水管の中を歩きだした。
マフポップは右手にカンテラ、首に小型の棒灯をぶらさげている。カンテラを使うのは、もちろん排水管の中が、酸欠状態になっていないかを確かめるためだ。
診療所ではボーッとしているように見えたが、思いのほかマフポップが用意周到なのに、春香は驚いていた。それに早口でよく喋る。最初からこの排水管を通ることも想定していたらしい。マフポップがザックから何か取り出し、腰のベルトに結びつけた。
磁石と万歩計だった。
春香の気持ちを読んだように、「気の小さい人間ほど、事前の準備はしっかりやるものさ」と言って、マフポップが肩を竦めた。
進むにつれてムッとする臭いが管の中に漂い始めた。油の臭いに物の焼け焦げた臭いが混じっている。もし排水管の中に煙でも流れ込んでいるようだと、先に進むことができなくなる。今のところカンテラの灯に変化はないが、マフポップはザックから医療用のマスクを取り出すと、春香に渡した。
そのマフポップが歩きながら何やらブツブツ呟く。万歩計の歩数から、塁壁までの距離を計算しているのだ。
五分も歩くと、天井を白っぽい煙がモワモワと漂うようになった。腰を屈めて進むが、煙の面も徐々に下がってくる。やがて頭が煙を引きずるように。
すでに臭いは排水管のなか全体に満ちている。きな臭い臭いに、油の臭い、硫黄のような刺激臭に、咽返るような下水の腐った臭いが、入り混じりながら体にまとわり付いて離れない。マスクの上から手拭いを当てるが、涙が止まらず、息を吸うと胃液が込み上げてくる。おまけに腰と膝を折り曲げ中腰で歩いているので、筋肉が悲鳴を上げそうだ。
この辺りが限界かと思い始めた時、ようやく主管と呼ばれる都の排水坑に出た。臭いは相変わらずだが、煙は上の方に溜まっているだけだ。地上の煙が地下に流れ込んでいるのかと思っていたが、カマボコ型の主管に到達して臭いの原因を理解した。
汚水の流れに丸太のようなものがゴロゴロと転がっている。
焼け焦げた人の死体だ。慌てて後ずさり、後ろにあった死体の、それも顔を踏みつける。剥き出しになった歯が、カンテラの灯りを鈍く反射。忍び込んできたゴーダムの手の者を蒸し殺すために、排水坑に油を流して火を放ったのだ。排水坑の入口からかなり入った地点に死体があるということは、ゴーダム国の隊員たちが排水坑の奥に侵入するのを待って、火を放ったということになる。
マフポップが、油の浮いた汚水の上に、込み上げてくるものを吐いた。二度、三度。
後ろから春香が背中を擦って「大丈夫」と聞く。
「酷いな、何のために……」
言いかけて、また吐く。
やがてマフポップは、額を押さえてしゃがみこんでしまった。
再度、春香が「大丈夫」と声をかけると、吐くだけ吐いたマフポップが、左右に手を振った。そして自分の耳を指して、もう一度、手を振る。
良く分からないとばかりに見つめる春香に、マフポップが声を搾った。
「聴こえ……、ない、んだ」
「何が」と言いかけ春香は、マフポップが、耳が聴こえないことを伝えようとしているのだと気づいた。耳を指して手を振るというのは、そのことだ。
気を落ち着けるように数回頬を手の平で叩くと、マフポップが自分の耳のことを話しだした。つまり、こういうことだった。
マフポップは体や心に強いストレスを受けると、突発性の難聴に陥る。発症すると、通常の音は聴こえなくなり、聴こえるのは兇音だけになる。
春香が初めてマフポップに引き合わされた時、シャン先生はマフポップを指して「私の患者兼、助手だ」と紹介した。あの時、どういう患者なのか聞けば良かったのだが、事が個人の心身の不具合に関わることで、尋ねることが失礼に当たるような気がして、聞きそびれた。いずれアヌィから教えてもらえるだろうと踏んでいたら、アヌィもブリンプッティさんも、マフポップを病人ではなく、兇音ばかり聞いている変わり者と思い込んでいる。改めて先生に聞くのも気後れのすることで、結局、良く理解できないまま今に至ってしまう。マフポップの抱えている病気とは、特殊な突発性の難聴のことだった。
マフポップは、この難聴の針治療のためにシャンの診療所を訪れ、それをきっかけに診療所に住みこみ、先生の手伝いをするようになった。難聴に伴う頭痛は、かつて難聴治療のために処方された丸薬の副作用で、今では難聴よりも、この頭痛の方が問題になっている。ちょっとしたストレスでも頭痛が湧いてくるのだ。
軽い頭痛の場合は、兇音を聞いていれば治まるが、酷い場合はそうもいかない。そして頻発する頭痛を抑えようと頭痛薬を多用するうちに、今度は胃腸に障害が現れてしまう。マフポップが頭痛薬中毒に陥っているのを見て、シャンは頭痛薬の使用を厳しく戒めるが、それでも頭痛の酷い時は薬に頼るしか手がない。
頭痛に顔を歪めたマフポップが、ポケットから錠剤の入った小瓶を取り出し、まとめて三錠ほど喉に放りこんだ。このこめかみを押さえ、悲壮な顔で頭痛に耐えるマフポップが、「君はタフだね」と呆れたように春香を見やった。
心外とばかりに、春香が口を塞ぐマスク越しに言い返す。
「平気じゃないわよ、でもさっき診療所で血をいっぱい見ちゃったでしょ、あれから神経が麻痺しちゃったみたいなの。それより、これからどうするの」
もちろん、春香のその問いかけは、マフポップに届かない。喋ってから、そのことに気づいた春香は、マフポップの服の袖を引っ張ると、いま歩いてきた穴と、前方に伸びる穴を交互に指さした。
マフポップが側頭部を摩りながら前方に首を振った。
「少し音が戻ってきた。耳元で話してくれ。半刻もあれば、聴くのに支障はなくなる」
言われたように、春香はマフポップの耳に口を寄せ、声高に話しかけた。
「このまま進んで同じことをされたら、わたしたちも同じ運命よ」
「それはそうだな」
言って腰を上げたマフポップが、独り言のようにこぼす。
「排水坑がだめだと、後は引き返して、都の門を正々堂々とノックするしかないか……」
聞きとがめた春香が、マフポップの袖を引っ張った。
「戦争をやってる最中に、正々堂々とは見てくれないんじゃない」
「なら、やはり前に進むしかない。戦場で一番安全な場所は、爆弾の落ちたばかりの穴だって、ものの本には書いてあった」
「どうして?」
「同じところに爆弾を落とすのが、いかに難しいかってことだろう。きっとこれだけやれば、当分排水坑からは誰も侵入しないと思ってるさ」
「ウーン、例えはちょっと違うような気がするけど、でも、こんなことをされたら、さすがに、もう一度同じ穴に入ろうとは思わないだろうな」
二人は互いの顔を見合わせ、納得したように視線を排水坑の先に向けた。
マフポップが頭痛を振り払うように頭を震わせ、「行こう」と春香の背を押した。
カマボコ型の主坑の中を、二人は横に並んで歩きだした。
すでにマフポップは数字を数えていなかった。死体を見たことで数を忘れてしまったようだ。ただ春香はそのことを指摘しなかった。焼け焦げて苦悶の表情のままに転がっている死体を見たら、自分の名前を忘れても可笑しくない。
しばらく進むと、塁壁を越えて都の内側に入ったらしく、小さな配水管が左右の壁から合流するようになった。
シャーベット状の泥の上を、ジャリジャリと音を立てながら進む。
排水坑の天井に、地上に抜ける竪穴が現れた。その穴を通して、人の歩く音や話し声が聞こえてくる。ただ音は小さい。春香が身ぶりでマフポップに音のことを伝達、マフポップがカンテラの灯を吹き消した。
天井の穴から地上の光が柱のように差しこんでいる場所に出た。
マフポップは用心深く春香の手を引き、横穴に移った。
ところがその横穴には、先程の焦げた死体の異臭とはまた別の形で、吐き気を催す臭いが充満していた。家畜の屎尿の臭いだ。暖かい季節ならとても我慢できなかったろう。
その鼻が捻じ曲がりそうな臭いから逃れようと、二人が足を速めた時、横穴がグラッと揺れた。爆弾が落ちたか、あるいは地上の施設で爆発でも起きたらしい。立て続けに数回大地が揺れるような衝撃が体に伝わり、その衝撃に合わせたように、家畜たちの怯えたいななきが頭上から耳に届く。やはり上は厩舎だ。
もうこれ以上この臭いに耐えられないとばかりに、二人は鉄の梯子に取り付いた。
排水坑の縦穴を上に抜けると、果たしてそこは厩舎の中だった。幸い人の姿はない。かなり大きな厩舎で、駄馬たちだけでなく、外には荷車の修理場も並んでいる。
厩舎の出口を探して歩きながら、マフポップがポケットから親指の先ほどの物を取り出し、耳に差し込んだ。耳の感覚を確かめるように、首を左右に振っている。
「補聴器なの?」
「ああ、よく分かるな」
「なんだ、補聴器があるなら、すぐに付ければいいのに」
マフポップが憤慨したように肩を揺すった。
「君みたいに普通に聴こえる人には分からないかもしれないけど、そういう簡単なもんじゃない。ある程度聴力が戻ってからでないと、補聴器を付けても、逆に聴こえ難くなる場合があるんだ」
音というものは、どの高さの音でも均等に聴こえているのではない。人によってそのバランスは違う。特に難聴の場合は、へたに音を拡大すると、聴こえやすい部分の音ばかりが大きくなって、聴こえない部分がその音に隠れ、よけい聴こえ難くなってしまうことがある。もちろん、それは春香も知っていたが……。
「フーン、大変なのね」
春香は大げさに感心してみせた。
「それより、ここがどの辺りかが問題だ」
急いたように言って、マフポップが厩舎の戸口に駆け寄る。
春香も戸口横の小窓から外を覗く。
「ねえ、ここは都のどの辺りなの、通信施設のある電信館は遠いの?」
「ウーン、荷役用の家畜の厩舎は町のあちこちにあるからな。おそらくは都の北側、ウォト材の加工区だと思う。でも正確な位置は、大通りまで出なければ分からない」
ザックから地図を取り出すと、マフポップは地図にメジャーを当て、さらにはコンパスまで出して線を引き始めた。道探しはマグに任せ、春香は厩舎横の階段を上がった。
高窓から外の景色を覗く。
雪雲がべったりと空を覆うなか、工場街の道に点々と非常灯がついている。散発的に銃を撃つ音や警鐘の鳴る音が聞こえてくるが、どれも距離は遠い。上を見ると、工場の煙突の片側がどれも赤く照らし出されている。塁壁の外で燃えている火炎樹の篝火を映しているのだろう。つまり塁壁が赤い火の方向だとすると、都の中心はその逆……。
階段を下りた春香が、その事をマフポップに伝えようとすると、マフポップがこちらだといって、厩舎の前を左に曲がった。雪雲の底が燃え盛る火炎樹の炎を受けて赤く染まる下を、二人はウォトの製材工場に挟まれた細い道を歩きだした。
路地の角を曲がると、目の前に慌ただしく人の動き回る施設が現れた。春香がつい半月ほど前に見た施設、軽便鉄道の格納庫だ。
春香が前に進もうとするのを、マフポップが腕を掴んで路地に引き入れた。目の前を軽便鉄道の貨車が、ガラガラと路面を削るような音をたてて通り過ぎていく。
建物の角から顔を覗かせた春香が、貨車の進行方向に首を伸ばした。
「わたし、ここを覚えているわ。あれが格納庫だから、この道を左に行って、突き当たりの太い道を右に折れると、前方に迎賓館の展望塔が見えるはずよ」
「分ってる、ここまで来れば道は分かる。でも警邏隊の行き交う道はだめだ」
二人は倉庫の間の狭い道に戻った。
「自分たちのいる場所さえ分かれば、後は裏道を行く方が安全だ」
そう言って走りかけたマフポップが、足を止め、工場の壁に体を寄せた。
目の前の四ツ辻を、民間人の一団が警邏隊の隊員に先導されて横切る。四十人ほどの集団で、年寄りや子供も混じっている。後ろに同じような集団が、さらに二組。
最後の集団が過ぎようとした時、近くで軽い爆発音が鳴り響いた。
噴き上がる炎で、二人が身を寄せている建物が明々と照らし出される。物を壊す爆弾ではなく、火災を引き起こす油弾と呼ばれている爆弾だ。
マフポップは春香の手を取ると、目の前の集団に向かって走り出した。
「どうするの」
「あのグループに混ざるんだ、君とぼくなら、よもやゴーダムの手の者には見えない」
開戦直後、バドゥーナ国とゴーダム国は、互いに相手国の榴弾砲陣地を攻撃し合った。
射程距離が十キロもある砲塔類をのさばらせていては、都の全域が相手国の砲弾の雨に曝されてしまうからだが、結果、開戦後六時間ほどで、都周辺の榴弾砲陣地は、ともに壊滅。正午以降、砲弾の音が絶えている理由が、それだ。
そして午後も大きく回り、雪の晴れてきた分水路上で、警邏艇同士の本格的な衝突が始まる。春香たちが分水路を桝船で渡ったのは、この衝突の始まる直前だった。
艇数ではゴーダム国が圧倒的な優勢を誇っている。分水路上で攻勢を取ったゴーダム国は、直ちに甲機船を出動させて、水路沿いの塁壁越しに盤都の町を砲撃し始めた。撃ち込まれる弾は炎上を目的とした油弾で、マフポップと春香の前を行く集団が、その油弾の射程圏から避難してきた民間人だった。
後方の路面に弾が着弾、炎が噴き上がる。
避難の一行が角を曲がる時、マフポップは春香を連れて脇道に逸れた。
道に人がしゃがみ込めるほどの穴が空き、雪の上に砕けた氷やタールブロックの黒い塊が散乱している。黒煙を上げて燃える家に、喚くように鳴り続ける鐘の音。しかし梵鐘の低い音なので、この緊急の場にはいま一つそぐわない。こんな時はやはりサイレンでなくちゃと、そんなことを思いながら春香は、マフポップの背中を追いかけた。
工場街を抜け、都北部の住宅街の一角に入る。
雪雲の下のどんよりとした街路に、安息灯がポツリと一灯だけ取り残されたように灯っている。その明かりに見惚れるように二人が立ち止まった時、空気を切り裂くような音が頭上を通過、ハッとして耳を塞ごうとする間もなく、内臓を揺さぶるような破裂音が二人後ろで響き渡った。爆風に押されて、二三歩前につんのめるように歩いて倒れる。耳がボーッとして、頭の奥がじんじんと鳴る。
両手で耳を塞ぎながら春香が叫んだ。
「弾が飛んできそうだったら、先に弾の落ちた穴に隠れるのよね」
「そうだ、隠れる暇と穴があればね」
言い返すマフポップも、奥歯を噛み締め、こめかみを押さえている。
前方に黒煙が上がり、鐘や、物の弾ける音、人の叫び声が交錯。辺り一面に舞っているのは、炎で舞い上げられた煤を含んだ雪だ。煤や灰そのものも舞っている。二人は耳を押さえながら、とにかくその場を逃げ出すように走りだした。
そして数分、幹線道路の一つに飛び出す。
道の対面に高い壁に囲まれた三階建ての建物が見えた。明らかに一般の住宅と異なるその建物の二階からは黒煙が噴き出し、後ろでは捻じ曲がって倒れた鉄塔が、下からの炎に身もだえするように炙られている。消防隊が一組、道から消火作業に当たっているが、周辺の家屋もみな煙を上げているので、もう手の施しようがないといった状態である。
走り続けて息の上がったマフポップは、民家の壁に手を着いていた。その顔が引きつっている。春香が炎を吹き上げている建物を見て「もしや」と、口に手を当てた。
「あれが電信館なの」
「ああ、正確には電信放送館っていうんだが」
「炎上してるわ、どうするの」
「あそこが電信館のセンター、分局も幾つかあるが、その場所をぼくは知らない。それに分局には衛星通信の設備はないはずだ」
実際、盤都に足を踏み入れて理解した。爆弾が炸裂し、避難勧告が出ている状況では、たとえ炎上していなくとも電信館は閉鎖されていただろう。
自分の考えが甘かったことを悔やむように唇を噛み締めるマフポップに、「どうするの」と、春香が苛立った声で迫る。
「どうするって……」
「大人なんだから、もっと考えてよ、わたしは余所者で何にも分からないんだから」
強い口調で言い寄られて、マフポップが視線を下に逸らせた。
その時、すぐ横の路上で拡声器を通した割れた声が響いた。
「こらっ、そこの民間人、ここは危険だ。避難するよう勧告が出てるだろう」
いつの間にか警邏隊員を乗せた自走車が、二人の側に来て止まっていた。
銃を構えた隊員が、凄い形相でこちらを睨みつけている。
春香がとっさに怒鳴り返した。
「大事な物を忘れたから取りに戻ったの、ガヤフ大臣の娘、ジャーバラちゃんに貰ったものなの」
突然大臣の名前を出されて面食らったのか、自走車の上の隊員は、意見を求めるように隣の運転席の同僚に目を向けた。二言三言、隊員たちは何か言葉を交わしていたが、やおら春香の方に向き直ると、
「義理が大事なのは分かるが、命を失くすと友だちが悲しむだろう。早く避難することだ」
ガヤフという名前が効いたのか、若い隊員は銃を振って行くことを促すと、車を発進させた。前方では、電信館の消火に当たっていた消防の人たちが、消火を諦め、引き上げる準備をしている。二人は来た道を引き返すことにした。
そして走り出したとたん、また油弾が近くに着弾。噴き上がる炎に背中を炙られながら、春香がマフポップに話しかけた。あることを思いついたのだ。
「ねっ、さっき排水坑の中で、最後は正面突破って言わなかったっけ」
「正々堂々だろ、おれが言ったのは」
「どっちでもいいけど、それより、盤都の政府の建物ってどこにあるの、警邏隊の本部でもいいけど」
走りながら、何を言ってるんだとばかりに、マフポップは自分の横を走っている少女の顔を盗み見た。自分たちを追いかけるように次々と爆発音が鳴り響いているのに、この少女は澄ました顔で話しかけてくる。
「ねっ、どこなの?」
面倒そうにマフポップが言い返した。
「政府庁舎、それは、君たちがここで閉じこめられていたという迎賓館の……」
そこまで言って、マフポップは春香の考えに思い当たったのだろう、「まさか」と声を詰まらせた。
「そのまさかよ、もう都の中にいるんだから、門を叩く必要はないわ。扉を叩くの。直接ここの政府のお偉いさんにお願いして、ユルツ国に緊急の連絡の必要があることを説明するの。本当に緊急の連絡なんだから、こそこそする必要なんてない。ちゃんと正面玄関から受付を通して乗り込むのよ。裏口から入ると、逆に疑われて牢屋にでも押し込まれるのがおち。とにかく正面から行って、ユルツ国の命運に関わる一大事が起きているから、それをダーナさんに伝えたいんだって、はっきり言えばいい。バドゥーナ国は、いまユルツ国と大事な交渉をしているんでしょ。だったら、ユルツ国の危機といえば、無視できないはず。いざとなれば、ガヤフ大臣の名前を叫べば何とかなるわ」
そこまで一気に喋ると、春香は最後これが肝要とばかりに、「政府や軍は、自前の通信設備を持っているはずよ」と語気を強めた。
マフポップがなるほどと頷いた。言われればその通りだ。通信、それも政府間のホットラインを使わせてもらえば、一番確実にユルツ国の、それも確たる要人に伝言を伝えることができる。それに春香が国務大臣のガヤフと面識があるというのも、大きな力だ。
走りながらマフポップが手を打ち鳴らした。
「分かった。ということは、一番の課題は、その正面玄関まで無事に辿り着くことだな」
「そこまでは、お任せするわ」
「任しておけ、これでも子供の頃は、迎賓館の近くに住んでいて、あの辺りの地理には詳しいんだ」
安請け合いで答えながら、マフポップは、もしかしたら自分たちの試みが上手く行くかもしれないという予感を感じていた。政府高官、それもガヤフ大臣のところまで春香を送り届けたら、後はこの少女が役人どもを説得してくれるだろう。
二人は息を切らせて、政府庁舎のある盤都の中心部に向かって走りだした。
次話「大通り」