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星草物語  作者: 東陣正則
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桝船


     桝船


 午後、一時。

 風はそれほどでもないが、雪が酷くなってきた。

 その雪によって、両国の衝突は一時休戦の状態に入ったらしく、爆発音が消え、銃声も半刻前から絶えている。盤都の電信館へは、マフポップと春香の二人が赴くことになった。だが問題はまだ残っている。船の手配だ。

 今朝の開戦直後のこと、濠都の電信館が炎上したことを知ったシャンは、マフポップに盤都側に渡る船の手配を頼んだ。すぐにマフポップは、渡し船の番屋に駆け込んだが、先生ご用達、往診の足となってくれている船頭のパバフが捕まらない。ほかの船頭連中が全員揃っているのに、パバフだけ姿がない。

 聞くとパバフは、両都の争いが始まると同時に、自前の桝船で下流に逃げ出したという。パバフは元々河口の漁村の出で、塁京には出稼ぎに来ていた。出稼ぎ先で争いに巻き込まれたくないということだったらしい。

 ベコス地区の船着場は、窮民街の渡し船乗場としては大きな方で、居付きの船頭が六〜七名いつも番屋で待機している。パバフが駄目ならと、マフポップは他の船頭に声をかけた。ところが、その場にいた船頭の誰もが、こんな時に船を出せる訳がないだろうと、けんもほろろに首を振る。マフポップが倍の渡し賃を出すと言っても、嘲るような顔でそっぽを向いたままだ。仕方なくマフポップは、銃声が落ち着いたらもう一度来ると言って、診療所に戻った。そして午後、先生の代わりに自分と春香が盤都に足を運ぶことになり、再び船の手配に番屋に出向いたのだが……。

 マフポップは考えていた。

 この窮民街の診療所に来て、はや一年。自分はシャン先生に感謝している。なぜなら自分は先生に救われたようなものだからだ。

 自分は特異な体質ゆえに居場所を失い、塁壁の内側から押し出されるようにして窮民街に来た。いつも兇音を聴いているために、都でもそうだったが、ここでも変人扱いである。ところがシャン先生は、兇音を聴くことで体調が良くなるのなら、遠慮せずにどんどん聴きなさいと言ってくれる。これは自分にとって初めての経験、新鮮な驚きだった。

 シャン先生は言う。

 医者をやっていると、世の中には、様々な体質の人間がいるということが良く分かる。

 例えば、苔を食べることのできる人がいる。これは腸の中に苔を分解する菌が共生しているからで、往々にしてそういう体質の人は、餅を食べると腹を下してしまう。

 アルコールを全く分解できない体質の人もいれば、いくらアルコールを飲んでも酔わない人。体の色素が抜けてしまった人から、体中が毛に覆われた人。手の平に五感以外の感覚器のある人や、足の裏に同様の感覚器がある人。マグのように兇音が快音となって聞こえる人、といった風にだ。

 おそらく二千年前の災厄のあと、人が過酷な状況を生き延びようとして、必死になって今までにない能力を獲得しようとした結果なのだろう。マグの能力も、そういう人が人としての能力を拡げようとした結果なのだから、マイナスに考える必要はないと。

 ただ先生は、そう説明した上で、こうも言う。

 世の中は、肉体的にも能力的にも、そして心の部分でも様々な人がいる。その雑多な人が、肩をすり合わせて生きているのが日々の暮らしの場だ。大切なのは、自分がどういう者で、何を考えているのかということを、しっかりと周りの人に伝える、理解してもらうこと。マグの場合も、自分の体質のことを、もっと人に伝える努力をするべきだろう。私から窮民街の連中に、マグのことは説明しない。自分でやってみなさい。もちろんできる範囲からでいいからと。

 先生は子供に噛んで含めるように言い聞かせると、最後じっとこちらの目を見て、「外に出る時は、そのヘッドフォンを外す努力をすること」と、首に回しかけていたヘッドフォンを、指先でチョンと弾いた。

 酷い頭痛持ちの自分は、頭痛を宥めるのに兇音が有効であることから、いつでも兇音が聞けるようにと、受信機とヘッドフォンをザックに入れて持ち歩いている。しかし頭痛のしていない時まで、ヘッドフォンを耳に当てる必要はない。実は人と話すことが苦手な自分は、ヘッドフォンを付けることで、人から話し掛けられないようにしていた。そのことを先生は見抜いていたようだ。

 シャン先生にそのことを指摘されて久しい。しかしヘッドフォンを外すことは、自分にとっては塁壁のように高い壁で、未だに外に出る際、ヘッドフォンが手放せない。そんな自分を見て、先生は無理せずにゆっくりとチャレンジしなさいと言ってくれる。両親からも、都の誰からも理解して貰えなかった自分を、シャン先生は受け入れてくれた。理解しようとしてくれた。そのことに自分は本当に感謝している。

 その先生に代わって、重要なメッセージをユルツ国に送信するのだ。

 ここは、何としても……。


 銃声が途絶えて半刻、マフポップは気負い込んで番屋に足を踏み入れた。

 先生は船賃をいつもの倍でと言った。だがマフポップとしては、母親から渡されている生活費を注ぎ込んでもと考えていた。

「船を出してくれ、シャン先生の急用だ、料金はいつもの三倍出す」

 大声で船頭たちに呼びかけるが、誰も振り向かない。全員が山札という賭け札を張りながら、マフポップに背中を向けている。

「三倍だぞ!」と、マフポップが畳みかける。そして、「四倍」とマフポップが言いかけた時、船頭の一人が、激しい口調で怒鳴り返してきた。

「雪で見通しが悪い、間違われて撃たれる可能性があるのが分からねえのか」

 塁壁の内側出身のやつのために危ない橋が渡れるかという、小馬鹿にしたような空気が、煙苔の煙と共に番屋にこもっていた。おそらく船頭たちは、雪が晴れれば晴れたで、見通しがいいと撃たれると言い張るだろう。

 もしこれが、シャン先生が直接頼んだのなら、あるいは先生自身が船に乗るというのであれば、船頭たちの対応も違うのかもしれないが……。

 以前、ベコ連の年寄りたちの嘆きを耳にしたことがある。

 渡し船の船頭職が許認可制になってからというもの、都の船舶局に株金さえ納めていれば、新規の船頭に職を奪われる怖れがなくなった。そのために、船頭たちが横柄な態度を取るようになってしまったと。そんななかで、パバフなどは例外的に遠出の仕事や面倒な時間外の渡しでも、気持ち良く船を出してくれた。それが、そのパバフにして、戦争が始まるや早々に姿を晦ませてしまっている。

 マフポップとしては、船を出す交渉に先生の手を煩わせたくなかった。

 どうすればと番屋の入口でマフポップが天を仰いでいると、小屋の隅で鼾をかいていた男が、むっくりと起き上がって「五倍なら船を出すぜ」と声をかけてきた。

 チョアンという古手の船頭である。

 四十半ばのチョアンは、いつも酒瓶を抱え、番屋の仲間と山札を張っている。シャンの診療所に住み込むようになって丸一年のマフポップにして、このチョアンが船の櫓を手にした姿を見たことがない。聞いた話では、自分で船を漕ぐよりも、人が漕いで稼いだ金を山札で巻き上げる方が楽だと、豪語しているという。しかしそれにしては、いつも懐が空っ穴と嘆いている。噂では、酒だけでなく薬に填って、巻き上げた金を湯水のように麻苔に注ぎ込んでいるらしい。

 いつも番屋でゴロゴロしていることから、陸漕ぎのチョアンという仇名まで付いている。その陸漕ぎのチョアンが、「あーっ、待て待て。五倍に、酒手もたっぷりとだ」と、縒れたような声を張り上げた。

 マフポップが、やれやれと耳の穴を掻いた。船頭としての腕に不安は残るが、誰も船を出そうと言ってくれない以上、選択の余地はない。足元を見られたことに苦々しげな表情を浮かべながらも、マフポップはチョアンに渡しを頼むことにした。


 午後一時半、散発的に銃声が鳴り響くなか、春香とマフポップは、チョアンが櫓を握る桝船に乗りこんだ。

 桟橋に出てきた船頭仲間が、久々に櫓を握ったチョアンに野次を飛ばす。

「いつも俺たちの稼ぎを巻き上げてんだ、今度はこちらが巻き上げてやるから、しっかり稼ぎな」

「それより、櫓の使い方を忘れてないか、そのまま冥土の川に漕ぎ入れるなよ」

 仲間の野次に対して、「俺も船頭、死ぬときゃ船の上さ」と、チョアンが冗談とも本気ともつかないことを言い返す。

 薄暗い番屋にいる姿しか見ていなかったが、間近で接して、マフポップは船頭の指が左右どちらも、親指と人差指の二本ずつしかないことに気づいた。耳も片方がない。この二本指のために、チョアンはカニ指のチョアンとも呼ばれる。おそらく賭けで負けて落とされたのだ。指だけではない、酒浸りになっているせいか、近づくと中肉中背、褐炭肌の浅黒い体から、プンと酒が匂う。麻苔の甘酸っぱい匂いもだ。

 春香は船の上から雪に煙る診療所を振り返ると、外套の胸のポケットを押さえた。そこに先生から託された署名入りの書面が入っている。先生が患者の処置の合間を縫って、ユルツ国政府宛にしたためたものだ。これを何としてでも、盤都の電信館からユルツ国に電送する。できれば、ヴァーリさんのメッセージを直接口頭でダーナさんに伝える。

 それが自分の役目だ。

 マフポップはマフポップで、外套のポケットを服の上から押さえた。中にあるのは先生から渡された銃だ。その銃は、シャンがユルツ国の家を離れる際に、祖父から「政治家に銃はいらんが、一人で生きていこうとするお前には、必要になる時が来るやもしれん」と言って、形見分けとして渡された物だという。

「医者の私が銃を渡すのは、どうにも気がとがめる。だが私のために命を危険に曝そうとしている者を、丸腰で送り出すこともできん、無事に帰ってきてくれ」

 そう言ってシャンは、マフポップにブィット家の菱形の家紋の刻まれた銃を手渡した。


 水分を含んだ重い雪が舞っている。

 頭の上、肩の上に、どんどん雪が降り積もっていく。

 ところが二人が桝船に乗り込んでも、船頭のチョアンは酒手の瓠を傾け、グビリグビリと喉を鳴らすだけで、一向に船を出そうとしない。

 船頭という者は気難しい連中が多いと聞いていたので、急かさずに様子を見守っていたが、半刻待ってもチョアンは櫓を握ろうとしない。

 しびれを切らしてマフポップが、「まだ、出さないのか」と声をかけるが、チョアンは答えない。マフポップが、もう一度「出さないのか」としつこく聞くと、「出す出さないは俺が決める、嫌なら下りろ」と、威圧的な声が返ってきた。

 マフポップの頬の筋肉がヒクヒクと波打つ。

 先渡し、それも五倍の船賃を渡してあるだろうと口にしかけて、マフポップは、なんとかその言葉を呑みこんだ。とにかく今は対岸に渡らなければならない。気難しい船頭を怒らせることは避けたかった。それにカッとしたせいで頭痛が湧いてきた。慌ててポケットからガラスの小瓶を取り出すと、中の錠剤を手の平に開ける。シャン先生から止められている薬、即効性の頭痛薬だ。多用すると副作用が出るが、とにかく今は……。

 そう思って、白い錠剤を口の中に放り込んだマフポップに、番屋の脇を足早に急ぐ人たちが見えた。荷物を抱えた者が多い。

 何だろうと見ているうちに、その連中が艀の上をこちらに移動。あれよあれよという間に、二人の乗っている桝船に乗りこみ始めた。

「おい、この船は、貸し切りの……」

 マフポップの声など関係なく、大人や子供、年寄り、赤ん坊を抱えた婦人までが次々と乗りこんでくる。その窮民街の人たちに押されるようにして、春香とマフポップは、桝船の舳先へと押しやられてしまった。見ると船頭のチョアンが、乗りこんできた人たちから金を受け取っている。渡し料を徴収している。それだけではない、もやい綱越しに、桟橋の上の船頭仲間と山札を遣り取りしている。

「チョアンのやつ、船頭仲間で賭けをしとるな」

 聞き慣れた声がした。見ると、横に、いぼ指のゴズネルヒが荷物を抱えて座り込んでいた。翁がチョアンや船頭たちを見て、小ばかにしたような薄笑いを浮かべた。

「どうせ、乗船する客の数でも賭けとるんじゃろう。あいつら、船が浸水を始めれば、船が沈没するかどうかで賭けを始めるようなやつらじゃからな」

「まさか」

 信じられないという目で、山札の受け渡しをするチョアンを見やるマフポップに、ゴズネルヒが桝船に乗りこんできた人たちのことを説明した。

 つまり、今暁の開戦直後に二つの都を結ぶ幣舎共栄橋が落とされ、盤都側に出向いていた者の相当数が、こちら側の窮民街に取り残された。牧人による焼き討ちや、襲撃があるかもしれないという噂が広まるなか、対岸に戻ろうにも、どこの船着場も渡し船は岸に繋がれたままだ。そんな時、臨時の桝船がベコス地区から出るらしいという情報が流れた。それを聞きつけ駆けつけてきたのが、今船に乗りこんでいる連中なのだという。

 ゴズネルヒ自身は、娘と孫が対岸で暮らしているので、様子を見に行くとのこと。

「しかし、この船は貸し切りで……」

 そうマフポップが言いかけると、ゴズネルヒが冷ややかな目でマフポップを睨んだ。

「おまえさん、一年も先生のところにいるくせに、相変わらず窮民街の事が分かっとらんな。いつも耳に何か当てて、気持ちの悪い音を聞いとるからじゃろう。ここでは人が借り上げた船でも、渡し料さえ払えば誰でも乗れる。それがここのルールじゃ」

 さらにマフポップを叱り飛ばそうとして、ゴズネルヒが口を噤んだ。

 船に乗りこんだ連中がざわついている。チョアンが櫓を手にしていた。やっと桟橋を離れるつもりになったらしい。

 ほんの数分で臨時の渡し便には、船が傾きそうなほどに人が乗りこんでいた。その満席の船が軋むような音を立てて岸を離れる。とそこに、息を切らせた青年が一人、荷物を船に放り込みざま飛び乗った。桟橋の上に屯していた船頭仲間の四人のうち、二人が恨めしそうに青年を見やり、残りの二人がしてやったりとばかりに握手を交わす。賭けていたのは、桝船に集まる客の人数、賭けは丁半で、最後の青年で数が逆転したということだろう。

 見回りの若者グループが、桟橋の袂で護身用の棒を振って見送ってくれる。

 ただその姿も、チョアンが櫓を一漕ぎすると雪にぼやけ、さらに二漕ぎすると、もうどちらに岸があるのか分からなくなった。辺り一面ただ雪模様の白一色だ。

 船足が重い。なにせ定員二十名の船に三十名余りも人を乗せているのだ。

 舳先にいるマフポップが、客の頭越しにチョアンを見やる。二漕ぎ三漕ぎしては肩で息をつく。酒浸りで息が続かないのだ。

 それにしても雪が酷い。

 目標は盤都側の窮民街にある船付場である。盤都側の対岸は、約二キロに渡って、城壁のような塁壁が河岸に連なっている。河岸に聳える塁壁にも盤都内に繋がる水門が幾つか口を開けているが、窮民街の住人はそれを利用できない。窮民街の住人が塁壁の内側、都に入るには、盤都西側にある経閣門の補助口か、その反対側、盤都東側に数カ所ある家畜専用の蹄閣門を潜るかのどちらかである。マフポップとしては、川下側の窮民街に船を着け、そこから家畜用の蹄閣門を通って盤都の町なかに入るつもりにしていた。

 チョアンが櫓を漕ぐ手を止めた。息が上がったのかと船頭を見ると、チョアンだけでなく、船の上の乗客も、動きを止めて雪降りの向こうを見透かしている。

 チョアンが防寒帽をずらし、削がれて穴だけになった右耳を櫓の柄に当てた。水を通して伝わってくる音を聞いている。

 雪をついて警邏艇のエンジン音が聞こえてきた。抑えた音からして、ごくゆっくりと走っている。音が遠ざかるのを待って、チョアンが再び櫓に力をこめた。

 とまた櫓を止め、柄に耳を押し当てる。

「古い形式のエンジンだな」とチョアンが呟いた直後、近くで発砲音が鳴り響いた。

「伏せろ」と客の一人が叫ぶや、別の誰かが「声を上げると、気づかれるぞ」と言い返す。

 寿司詰め状態の船の上で、体を屈めようにも隙間がない。

 空気を切り裂く音と共に、釘を打ち抜くような音が春香のすぐ脇で鳴った。

 焦げるような臭いが鼻の奥を刺激する。マトゥーム盆地を出発した夜に、瓦礫の穴でウォト製の家具を燃やした時の臭いだ。見ると舷側の板に黒い穴が空いていた。桝船に弾が撃ち込まれ、ウォト製の板が焼け焦げたのだ。その黒い焦げ跡の前でゴズネルヒが手を押さえている。指の間から血。舷側を突き抜けた弾が翁の手を掠めたらしい。

 赤ん坊を背負った婦人がマフポップの背中を突いた。

「あんた、シャン先生の助手だろ、ぼーっとしてないで手当てをしなよ」

 マフポップが腰の引けた目で、翁ではなく婦人を見た。

 マフポップはシャンの助手ではあるものの、診療の手伝いはしてない。マフポップは血が苦手で、怪我をした患者が来ると風車小屋に逃げ込んでしまうような性格なのだ。

 引きつった顔のマフポップに、「わたしが」と春香が小声で名乗り出た。背中のザックに携帯用の救急キットを入れてある。自分でも止血と消毒の応急処置くらいならできると思ったのだ。ところが、キットを出そうと春香がザックに手を掛けたとたん、「だめだめ、傷口を触られると、古代病がうつるじゃない」と、女が無遠慮に春香の胸を押した。

 続けざまに「燭甲熱の患者がいるのか」と男の声。その一言で、身を屈めていた全員が、首をもたげて春香を見た。

「先生の所の古代人……」と誰かが言い掛けた時、チョアンが抑えた声で怒鳴った。

「撃たれたくなかったら黙ってろ、まだ近くに警邏艇がいるぞ」

 桝船の上が静まり返った。

 その静けさのなか、先の赤ん坊を背負った婦人が、「貸しな、私がやる」と言って、春香の手から救急キットをもぎ取った。

「まったく、自慢のいぼが、二つも抉られちまったわい」と、ゴズネルヒがぼやく。

 手当ての最中に、桝船からさほど離れていないところで、エンジン音が鳴り響いた。チョアンの言うように、警邏艇がエンジンを止めて様子を窺っていたらしい。

 音が完全に遠ざかるのを待って、桝船が降りしきる雪を掻き分け進み出す。

 雪降りにも人の息のように強弱がある。ちょうど息の切れ目に来たのか、雪が小降りに代わった。と同時に、雪のベールの向こうに、ぼんやりと赤いものが見えてきた。赤々と燃える松明、なんと火炎樹の丸太に火を放った巨大な灯明が、河岸に並んでいる。雪が晴れるにつれ、炎の後方に、盤都の塁壁が黒い影として浮かび上がった。

 三十人余りの客を乗せた桝船は、すでに対岸までもう一息のところに来ていた。

 塁壁の上にいる衛士たちの動き回る様子が、はっきりと見てとれる。その塁壁上からだろう、銃声が散発的に伝わってくる。

 砲撃の直弾を受けたのか、半分ほど崩れ落ちた進路塔が眼前に迫ってきた。その水路東端に突き出た進路塔から二百メートルほど陸側に入ったところに、家畜や貨車の出入りに使われる蹄閣門がある。が、その門前で軽便鉄道の貨車が火を噴き上げていた。

 マフポップが天を仰いだ。あれでは蹄閣門から都に入るのはむりだ。

 皆が燃え盛る炎に気を取られているうちに、チョアンが桝船を窮民街の船着場に近づけた。河岸に人の姿がないのは、巻き添えを嫌って別の場所に避難したからだろう。うねうねと続く窮民街のヨシ小屋では、いたるところで火の手が上がっている。

 貰い火に煽られる桟橋を避け、チョアンは家も何もない砂洲に船を寄せた。

 火のついたヨシ屑が熱風で吹き上げられ、火の粉と共に辺り一面に降り注いでいる。炎を宿してフワフワと漂うヨシの葉は、まるで火を運ぶ笹船だ。この時期、ヨシ小屋の中はどこもサイロ並に、たっぷりとヨシを積み上げてある。そこに火が回って燃え上っているのだ。火の粉を払いながら、乗客たちが競うように上陸していく。

 マフポップが腕の時計で時間を確認、対岸を離れてから、ちょうど半刻が過ぎていた。

 最後の客に続いて桝船を下りようとした春香を、マフポップが引き止めた。

 再び降り始めた雪のなか、マフポップは、立ちはだかる盤都の塁壁を厳しい顔で睨んでいた。丸顔のマフポップは、いかにも坊ちゃん顔で、蹄閣門が入れない今、どうすればいいのか動揺を抑えて考え込んでいるように見える。

「どうするの」と聞く春香に答えず、マフポップは「このまま、川を下ってくれ」と、チョアンに下流を示した。

「上陸せずに、戻るかね」

「違う、二番水路の奥に、使われなくなった古い機船の解体工場がある。そこから、火炎樹農園の中の資材用の水路に入ってくれ」

「解体工場?」

 チョアンが意外そうな目でマフポップを見返した。

「追加の料金は、診療所に戻ってから払う。今はこれで我慢してくれ」

 マフポップはザックから酒の入った瓠を取り出すと、それをチョアンに押しつけた。

 片手で器用に封を切った瓠を、チョアンが中身を確かめるように一口、口に含む。

 納得したのだろう、チョアンは何も言わず、桝船をマフポップの示す水路に向けた。

 銃声が対岸の濠都側からも聞こえてくる。銃声も遠くで聞くぶんには、子供の水鉄砲の音と変わらない、軽快な音だ。

 また雪の息が荒くなってきた。五分ほどで桝船は、窮民街を左右に分断する水路の一つに入った。水路にかかる橋を、荷物を抱えた窮民街の住人が、下流側へと走り抜けていく。橋の下を潜り水路を奥へ。雪の切れ間に、塁壁沿いに置かれた篝火が覗く。

 水路から水路をたどり、機船の解体工場へ。倉庫のような建物だ。

 マフポップがチョアンに、次の指示を出した。

「この先にヨシの集積所がある。そこに排水口が三本ずつ口を開けているところがあるだろう、その並びの奥だ。十六番排水口の手前につけてくれ」

 崩れかけた工場からマフプップに目を移したチョアンが、「あんた、何者だ」と、警戒したようにマフポップを半眼で睨んだ。シャンの助手が濠都の裕福な徴税吏の息子であるということは、診療所近辺の者なら誰もが知っている。部屋にこもって兇音ばかり聞いている、無口で挨拶もろくにできない変わり者ということもだ。

 チョアンの視線を感じたのだろう、マフポップが弁解するように首を振った。

「間違わないでくれ、俺は九歳まで盤都にいたんだ。いたずら小僧だったから、塁壁の抜け穴には詳しい、それだけだ」

 盤都の東側の湿地にヨシの集積所がある。その集積所の奥に、都造成当時の古い排水管が泥に埋まりながら口を開けている。盤都の一部の子供たちにとって、それは親に黙って塁壁の外に遊びに出る、公然の抜け穴だった。

「なるほど、そういうことか」

 チョアンは二本の指で櫓を撫でると、雪降りの底、水路の先を見透かした。

 両岸から張り出す氷に挟まれるようにして、水路の中央に黒い水面が覗いている。その水面に浮かぶ無数のちぎれたヨシの葉をかき分け、桝船を先へと進める。

 火炎樹の林が途切れヨシの貯蔵庫の並びに入る。都で飼養される家畜のエサを蓄えたサイロだ。人の気配はない。おそらく警邏隊は分水路沿いに集中しているのだろう。

 マフポップの指定した十六番排水口が近づいてきた。

 チョアンが桝船を水路の端に寄せる。岸の氷が割れて、思いのほか大きな音が辺りに響く。ここから、都の塁壁までちょうど半キロ。

 マフポップが背中のザックから白い布を取り出した。診療所のシーツだ。洗い晒したもので真っ白とはいかないが、これを被れば、遠目にはまず見つかる心配はない。

 マフポップと春香は、それぞれ頭からシーツを被ると船から下りた。

 マフポップが、船頭のチョアンに向かって手を挙げた。

「助かった、先生に代わって礼を言うよ」

「それは無事、通信とやらを送ってから言った方がいいんじゃねえか。俺は盤都側の窮民街の船着場にいる。どうせ盤都側にも、対岸に戻りそびれた逆の立場の連中がいるだろうから。そいつらを集めて待ってるぜ」

 マフポップが怪訝な表情を浮かべた。

 渡しを頼む時に、船頭のチョアンから、状況次第では帰りを待たずに濠都側に戻ると言い渡されていた。だからマフポップ自身、船は対岸に渡る片道キップのつもりでいた。それに予想していた以上に盤都側の状況は悪い。頭上を赤く染めるように火の粉が舞っているのだ。この状況では、船頭は直ぐに濠都側に引き返すだろう、だから帰りの便はまた別に探さなければと、そう覚悟したところだった。

「どうした、通信を入れたら、診療所に戻るんだろう」

「それはそうだが……」

「さっきは待ったんだ、今度は待ちくたびれた客の船に飛び乗るというのも悪くないぜ」

 チョアンが櫓で船を岸から押し出しながら言った。

「安心しろ、窮民街の連中はみんな我慢強い。待つことには慣れてる。おまえさんみたいに文句を言ったりしないさ」

 薄笑いを浮かべ、チョアンが、さっさと行けと手を払った。二本だけになった指が雪の間に揺れる。それが春香には幸運を祈るVサインのように見えた。

 水路を離れていく桝船から、チョアンの声が届く。

「できれば瓠の中身が切れる前に、戻ってこい」

 櫓の軋む音が、酷くなってきた雪降りの向こうに消えていく。

 二人は前方の埋もれかけた排水管の穴に向かうと、身を低くして中に滑りこんだ。



次話「油弾」

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