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星草物語  作者: 東陣正則
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刺客


     刺客


 作業服姿の男が二人、診察室の中に招き入れられた。肩を貸している男が、息の上がった声で「脇腹を撃たれた、弾は抜けている、手当てを!」と、素早く状況を説明。

 担がれた男の左脇腹辺り、セーターにべったりと血が滲んでいる。

 ベッドに横になるよう男に促すと、シャンは脱いであった術帽を被り直しながら、アヌィに指示した。

「アヌィ、処置道具を滅菌ケースごと、ワゴンの上に……」

 何をすべきか分かっているのだろう、アヌィはすでに滅菌釜の蓋を開けて待っていた。 中から金属製のケースを取り出す。そのケースを手にしたまま、アヌィが患者とは反対、診察室奥の衝立てに視線を走らせた。

 衝立ての後ろには、昨夜の小鳥が餌と水を与えられて休んでいる。事実、キビタキは箱の中で目を閉じ、動物が休息時によくやるように、仮眠状態に入っていた。そのキビタキがカッと目を見開くや、部屋に入ってきた者に神経を集中した。アヌィが衝立てを貫くキビタキの鋭い視線を感じた瞬間、キビタキの緊迫した声がアヌィに届いた。

「気をつけて、その男たち」

 警告を聞くまでもなく、アヌィも本能的に何かを感じて「危ない!」と、振り向きざまシャンに向かって叫んでいた。

 アヌィの手から落ちたケースが床で弾け、金属性のハサミや管子などが辺りに飛び散る。その派手な音に紛れるように、シャンに支えられてベッドに横になろうとしていた男が、左脇腹を押さえていた手を、シャンの胸に向かって突き出した。

 手の先に白い物が光る。がその手は、男の思惑よりも少しだけ上にずれた。衝立ての後ろから飛び出たキビタキが、一瞬早く、男の目を掠めるように飛んだのだ。

 床に散った処置道具がカタカタと鳴るなか、倒れたシャンが左腕を押さえていた。

 指の間から血が滲み出てくる。

 何が起きたのか理解できず呆然とするシャンの前で、脇腹に傷を負っていたはずの男は、何事もなかったように立ち上がると、手にしたナイフを握り直した。

 後ろではアヌィが、もう一人の男に手で口を塞がれている。

 我に返ったシャンが「何をする!」と、上擦った声を上げる。

 それを無言で聞き流すと、ナイフを持った男が「秘密を知った者を生かしてはおくことはできない」と言い捨てざま、シャンの腕を掴んだ。

 そして無造作にナイフを……。

 その直前である。何も知らない春香が診察室のドアを開けたのだ。

 負傷者らしい二人連れが診察室に入ったことは、春香も分かっていた。今日はまだブリンプッティさんが来ていない。緊急の手当てなら少しでも人の手があった方がいいだろうと、燃料の入った缶を橇の上に残し、二階に駆け上がる。そして春香が診察室の扉を開けた時、何かが足元を風のように過ぎた。

 春香が、アレッと思った刹那、部屋に飛び込んだ白い影は、ナイフを握りしめた男に飛びつき、その手首を引きちぎるように噛み砕いた。そして勢いのままに首を振り、今度は男の首筋を長い牙で切り裂く。倒れる男の首から鮮血が弧を描いて飛ぶ。

 突然の出来事に、春香は硬直したように戸口に立ち尽くした。

 いったい、何が……、

 見開かれた春香の目に、燃えるようなシロタテガミの赤い目が見えた。

 アヌィを羽交い締めにしていた男が、オオカミの出現という予期せぬ事態に一瞬気を散らす。その隙を突くように、アヌィは男の腕を擦り抜け、シャンの元へ。

 ところが男は動じることなくシロタテガミを一瞥すると、胸元から銃を抜き抜いた。

 乾いた音が狭い部屋の中で逃げ場を失ったように反響。

 しかしその音よりもわずかに早く、引き金にかけた指が動く寸前、シロタテガミは跳躍の構えから、そのまま体を滑るように前方に転がせていた。

 銃の音に春香が瞬きをする一瞬の間に、シロタテガミは男の足元から垂直に跳ね上がり、銃を持つ男の手首を牙で粉砕、体を反転しながら、猫のように空中で体制を整えフワリと床に。着地した時には、すでに次の攻撃に移れる体勢に移っていた。狩りだけでなく、オオカミの群れの中でリーダー争いをやって身につけた、無駄のない精密機械のような動きだった。皮だけで繋がった男の手首が、ぶらりと揺れる。

 とどめとばかりに、シロタテガミが男の首筋目がけて飛びかかる。

「やめてーっ!」

 春香が悲鳴を上げた時には、シロタテガミの鋭い牙は男の喉笛に突き刺さり、男は断末魔にもならない掠れた声を上げて体を傾けていた。それでも男は手首から先がなくなった腕でシロタテガミを抱きかかえると、もう片方の手で、ズボンの裾から抜いたナイフを獣の背に突き立てていた。シロタテガミと作業服姿の男が、もつれるように床に倒れ込む。

 全ては、ほんの一瞬の出来事だった。

 ゴボゴボと気味の悪い音をたてて、肉を抉られた男の首筋から血が湧き出る。ただそれも一時のことで、やがて部屋の中に静寂が訪れた。

 春香は腰が抜けたように、その場にしゃがみこんでしまった。

 それはシャンとアヌィも同じで、しばらくは二人とも腰が立たず、声を出すことができなかった。気がつくと、喉がカラカラに乾いていた。

 銃声を聞きつけたのか、集会所にいた年寄りたちが数人、そして船の手配を終えて戻ってきたマフポップが、診察室に飛び込んできた。そして血みどろの床を見て絶句。みな異口同音に白いオオカミが惨劇の犯人だと思った。ところが、春香がオオカミの体に抱きつき、意味不明の言葉を叫んでいる。訳が分からなかった。

 椅子に縋るようにして立ち上がったシャンに、青白い顔をさらに蒼白にしたマフポップが、「何が、起きたの……、ですか」と、唇を震わせ聞く。

 シャンが呼吸を整えつつ言った。

「戦場が、ここにも及んだということだ。そのオオカミが、私たちを殺し屋たちから救ってくれた」

「殺し屋?」

 ぎょっとして、マフポップが血にまみれた二人の男に目を走らせる。

 シャンはナイフで刺された腕を押さえると、部屋を覗いている年寄りたちに呼びかけた。

「後始末はこちらでやる。それよりもマグから聞いただろうが、もしかしたら、ここも争いに巻き込まれるかもしれん。心しておいてくれ。とにかく今は、いつでもこの地を離れられるように準備をすることだ」

 年寄りたちや集まってきた連中を診療所の外に押し出すと、シャンは入口に待機中の札を掛け、内側から鍵を閉めた。ドアの外では、野次馬たちが扉のガラス窓に顔を張り付けていたが、シャンはその連中を無視、ピシャリとカーテンを引いた。

 普段は人のことを悪く言わないシャンだが、興味本位で中を覗こうとする者たちには余程腹が立ったのか、さっさと帰れと言わんばかりに、ドアを足で蹴り上げた。

 その肩を怒らせたシャンが、診察室に戻ろうとして、待合室の隅にうずくまるブチイヌに目を止めた。一見して足を負傷しているのが分かる。シャンは腰を屈めると、怯えた目で自分を見上げるブチイヌを優しく撫でた。

「おまえはあの白いオオカミの相棒かな。怪我をしているようだが、しばらく待ってくれ、私は患者を見捨てることはしない」

 そうブチの雌犬に言い聞かせると、シャンは強張った表情を無理やり柔和な表情にもどし、診察室の中へと入った。床の血溜まりと、乱れた赤い足跡に囲まれ、春香が顔を埋めるようにしてオオカミの首にしがみついている。

 事態が理解できずにいるマフポップが、蒼白な顔のままにシャンを振り返った。

「先生、その腕……」

「大した傷ではない、それより」

 自身の傷を見ることなく、シャンはオオカミを抱きかかえた春香の横にひざまずいた。

 白い毛が返り血でべっとりと赤く濡れ、それに肩にはナイフが突き刺さっている。

 シャンはシロタテガミの背に手を当てると、ゆっくりとナイフを引き抜いた。

 牙の間から「グッ」と呻き声がもれ、シロタテガミが薄目を開けた。

 充血したような真っ赤な目だ。

「春香が話していたシロタテガミというオオカミだな、助かった、ありがとう」

 穏やかな口調で話しかけられ、シロタテガミの逆立った毛が垂れてきた。とそのシロタテガミの前足がガクッと折れる。見ると胸から血が垂れている。二発目の銃弾を胸に受けたのだ。春香が慌ててシロタテガミを抱き締める。

 舌を垂らしたシロタテガミが、喘ぐように吠えた。

「抱き締められると、よけいに傷口が痛む。そんなことは、手当てをしてからにしてくれ。まったく人間という動物は……」

 シャンにオオカミの唸り声の意味は分からない。それでも患者の考えていることは人も動物も変わりないだろうと思い、「そのオオカミに、少しだけ待ってくれるよう、伝えてくれ」と、春香に早口で言った。

 シャンはシロタテガミの脇を離れると、倒れた二人の男に近づいた。作業服姿の男二人は、喉を切り裂かれ、完全に息が絶えていた。ピクリとも動かない。

「殺し屋、ですか」と、マフポップが喉を震わせ聞く。

 シャンは口を閉ざしたまま腰を落とすと、男の顔を覗きこんだ。傷口から流れる血も止まり、瞳孔も開いている。それを確かめると、ようやくシャンは「湖宮の手の者だそうだ」と告げた。益々訳が分からないと男たちに目を向けたマフポップが、慌てて視線を逸らした。あまりの凄惨さに頭痛が湧いてきたようで、みけんを押さえてしゃがみこんでしまう。

 その時、もう一人の男を見ていたアヌィが声を上げた。

 アヌィの指先が、切り裂かれた男の首を指している。抉れた首の内側、血塗れの気管に沿って、チカチカと何かが光っている。

 シロタテガミの脇に座り込んでいた春香が、思いついたように立ち上がると、男の死体に駆け寄った。血で滑ってつんのめり、思わず死体の上に手を着きそうになる。それでも這いつくばるようにして、抉れた首を覗き込む。確かに首の中で何かが光っている。それに首の筋肉や血管に混じって、人工的な配線のような物も……。

 シャン先生の使った「殺し屋」という言葉が頭をよぎる。

 春香が叫んだ。

「先生、早くこの死体を運び出して、もう一つの死体も!」

 何かに憑かれたような形相で叫び、男の足を持って引きずり始めた春香に、シャンがあっけに取られたように「どうしたというんだ」と聞く。

「訳は後で、とにかく早く、なるべく建物から離れたところに、マグさんも手伝って」

 しゃがみこんでいたマグが、「お……、俺が」と声をどもらせる。

「弱虫、引っ込んでろ」と、アヌィがハサミを掴んでぶつける。

「無理ならいい」と、シャンはマフポップを引き下がらせると、もう一体の死体の腕を掴んだ。診療所のドアの外に死体を引きずり出し、その先は野次馬の連中にも手伝わせて、診療所下の空き地へと死体を運ぶ。

 ほんの数分の差だった。運び出した二つの死体が、轟音とともに辺りの雪と氷を吹き飛ばして爆発したのだ。跡には死体の欠けらも残っていなかった。証拠を湮滅すると同時に、男たちを死に至らしめた者を、巻き添えにして消し去ろうという爆発だった。

 先生もそうだが、階段の上で様子を見守っていたマフポップも、掛け値なしの真っ青な顔になって、手すりを握り締めたまま体を凍りつかせてしまった。

 爆発の音を聞いて集まってきたベコス地区の住人は、雪と氷が飛ばされてできた擂り鉢状の穴を見て、てっきり砲弾が飛んで来たと思ったようだ。シャンは住人たちの質問を適当にいなすと、重苦しい表情のまま診療所に戻った。


 診察室の清掃に一時間、その合間にシャンは、シロタテガミとブチの雌犬、そして羽を叩き折られたキビタキ、最後に自分の腕の手当てを済ませた。

 部屋の中には生臭い血の匂いが残っていたが、動物たちの手当と清掃、非常時に備えての準備を一通り終えた時には、すでに時刻は昼前、十一時を回っていた。診療所下の風車小屋には、用心のためにと、若者グループの青年が二人、詰めてくれることになった。また待合室には、ベコ連の老体たちが、自分たちはいつ死んでも惜しくない身だからと、毛布を抱えてやってきた。

 地響きのするような爆発音は止んでいたが、戦況は混沌としてきているようだ。

 床に敷いた布の上には、包帯で素巻きのように胴体を巻かれたシロタテガミと、後ろ足が少し短くなったブチの雌犬、それに折れた羽を薄い皮製の包帯で固定されたキビタキがいる。春香は薬の整理を手伝いながら、しきりにシロタテガミの様子に気を配っていた。

 一方マフポップは、血の惨劇と死体の爆発を目にしたことで、完全に座り込んでしまった。自分でも立てないほどの頭痛らしく、ベコ連の年寄りたちに支えられるようにして風車小屋の自室に運ばれた。頭痛が引くまで休養するようにと、シャンから言い渡されたようだ。

 ベコ連の年寄りたちは、頭を抱え込んだマグを見て、なんとひ弱なと笑っていたが、普通に考えれば、人の体が粉々に弾け飛ぶのを見せつけられれば、誰だってショックを受ける。春香もしばらく体の震えが止まらなかった。

 盗賊同士の争いを見たり、色々な経験がなければ、自分だってマグと同じで、相当なショックを受けたに違いない。血が噴き出るシーンを見たということではない、自分の命が誰かに狙われるということ、それは狙われたことのない人には分からないだろう。血を見慣れているシャン先生にして、シロタテガミの手当ての最中に、手が震えていた。

 昨日のビアボア一味の青年の時と同様、一番元気なのはアヌィだった。殺し屋たちの爆発の後も、すぐにケロッとしたいつもの表情に戻って、さえずりのような鼻歌を唄い始めた。鳥に育てられたというアヌィは、どこか人間離れしている。

 アヌィが皆にお茶を配ると、診察室の中を見ながら感心したようにごちた。

「こういう時、入院患者、犬二頭と鳥、これ、とても不思議、ねっ」

 指摘されてシャンが「確かに、まあ人の負傷者がいないってことは、取り敢えず良いことだ」と言って、薄く笑った。

 昼が近づくに連れ、マフポップの予想とは逆に雪は酷さを増してきた。ただ雪が強くなるのと反比例するように、銃声や爆発音は減ってきた。

 皆が茶を飲む傍らで、シャンは一息入れると言って自室に身を引いた。

 追いかけるように、春香が分類の分からない薬のことを尋ねようと扉の間から中を覗き、口に手を当てた。先生が銃を手にしていたのだ。

 シャンは声を出すなと身ぶりで示すと、春香を部屋に招き入れた。

 外套のポケットに銃を滑り込ませたシャンが、その膨らみを手で押さえて嘆息する。

「時と場合によっては、自分で自分の命を守らなければならない場合がある。医者としては銃など使いたくはないが……」

 シャンは診察室から待合室に戻ると、外への出入口ではなく、奥の扉を開けて、風車小屋に繋がる渡り廊下に出た。突き当たりが風車小屋の二階で、マフポップの部屋になる。

 扉を叩くが返事が返ってこない。シャンはそのまま扉を開けた。

 マフポップは雑多な機械に囲まれたベッドの上で横になっていた。机の上には電鍵用の通信機が置かれ、書き散らかした受信用紙が机の下に落ちている。耳に当てたヘッドフォンからは、相変わらずの耳を締め付ける酷い音が漏れている。

 シャンが匣電のスイッチを切った。

 目を開けたマフポップは、先生が脇に立っているのを認めると、慌ててヘッドフォンを脱ぎ捨て「盤都へ行かれるの、ですか」と聞く。

 シャンは何も言わず、立ち上がろうとするマフポップをベッドの縁に座らせると、その手首を取った。指先に触れる脈と同時に、風車小屋の小窓を通してシャンの耳に銃声が伝わってくる。吹雪をおして、両国の警邏艇が衝突を繰り返している。

 マグの脈の乱れは、まだ続いていた。

 シャンは、マフポップの厚ぼったい手にヘッドフォンを預けると、「もうしばらく寝ていた方がいいな」と注文を付けた。

 ところがマフポップは、ヘッドフォンを机の上に戻すと、逆にシャンに言い寄る。

「先生、やはり対岸に渡るのは危険です。電鍵通信の仲間から連絡が入ったのですが、明日まで待てば、濠都の電信館が復旧する可能性もあるそうです。今しばらく様子を……」

 マフポップの進言を、シャンが途中で遮った。

「マグ、考えてみれば、私が通信を入れようとしているのは、ユルツ国だ。ゴーダム国からすれば、ユルツ国はバドゥーナの同盟国のようなもの。濠都ではユルツ国への通信は拒否される可能性が高い。やはり盤都に出向くのが正解だろう。それに明日では手遅れになるかもしれないのだ」

 マフポップに言い聞かせながら、シャンが言葉を途切らせた。そして昂ぶってきた気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸うと、自身の想いを口にした。

「十年前の惨事が繰り返されるかもしれないのだ。ユルツ国は私の故郷、やはりなんとしても盤都に行って、ユルツ国に連絡を入れなければな」

 何かを決意したような口ぶりだった。

 ところが、いつもはシャンに従順なマフポップが、「それでも」と言い返す。

「盤都へは、ぼくが行ってきます。ぼくが盤都の電信館に行って、送信を依頼してきます。できれば短くていいですから、通信内容を紙に書いてもらえませんか。音声通信が無理な場合は、画像で送ります。確か、この夏に、画像通信のできる新しい器械が設置されたと聞きました。それに画像通信なら、ユルツの政府機関にも直接文面を送ることができる。シャン先生のサインの入った文書をそのままの形で送る。それが一番説得力のある方法でしょう。とにかくここにはシャン先生を必要とする人が大勢います。だから……」

 力を込めて話すマフポップに、シャンが苛立つように声を高めた。

「分かっている。だがこれは私が直接行って、妹かユルツ国の政府筋の誰かに話さなければならない事なのだ。用件が用件、国の命運をかけた計画を停止しろなどということが、紙切れ一枚で了承されるはずがない」

「しかし……」

「マグ、これは私の問題だ、議論の必要はない」

 シャンが強引に話を打ち切ろうとした時、扉の外、渡り廊下で春香が声を上げた。

「先生、わたしが行きます。もしダーナさんと連絡が取れれば、わたしがダーナさんに話します。わたしならダーナさんと面識があるし、それに湖宮でヴァーリさんにも会っている。わたしが話をするのが一番です」

 外で二人のやり取りを聞いていたようだ。

 扉を開けて一歩部屋に踏み込むと、春香は「私が行きます」と繰り返した。

 それでもと、シャンは首を振る。

「駄目だ。私の問題のために、他人を危険な目に遭わせる事はできない」

 厳しい表情のシャンと、泣きそうな目の春香の視線がぶつかる。

 と今度は渡り廊下の先、待合室から「先生、大変。患者さん、いっぱい」という、アヌィの甲走った声が聞こえてきた。

 シャンが身を翻して待合室に戻る。そこにケガ人が運び込まれてきた。

 戦争のどさくさに紛れて火炎樹の樹脂を盗もうとした女たちのグループが、貯油施設の爆発に巻き込まれたのだ。死者こそ出なかったが、爆風で吹き飛ばされて骨折した者、飛び散った高温の油を浴びて体中に火傷を負った者などがいる。

 次々と運び込まれる負傷者を前にして棒立ちになったシャンの手を、「先生、先生」とアヌィが揺さぶる。その声でシャンは我に返った。

 そして額に手を当てると「私は……」と呻いた。ただ次の瞬間にはもう決心が付いたのだろう、こぶしを握り締め目の前の負傷者を見渡した。負傷者は九名。

 グループの一人が、横たわった二人を指している。その二人が危ないということだ。側に寄りながら、シャンは素早くほかの負傷者にも目を走らせた。複数の負傷者が出た場合は、誰から治療するか、優先順位を付けなければならない。極端な話、救命の可能性の低い重症の者は、あとに回すこともありうる。

 横たわったままの二人は、共にウォト製の服の繊維が融けて体中に貼りつき、皮膚も赤黒く焼け爛れている。髪の燃えたムッとする臭いと、失禁しているのだろう汚物の臭いが鼻につく。重度の火傷だ。目の前の中年の女性は、瞳孔が開き脈も触れない。もう一人の側にしゃがみ込んで、呼吸を確認しようとするシャンの後ろで春香が叫んだ。

「先生、わたしが行きます」

「ぼくが連れて」と、こめかみを押さえながらマフポップが続ける。

 患者に視線を当てたまま、シャンは頷いた。そうするしかないのだろう。

 苦渋の表情のまま、シャンがマフポップに言った。

「ブリンプッティ婦人を呼んでくれ、見習いの娘さんもだ。二人とも家にいるはずだ。急いで……」



次話「桝船」

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