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星草物語  作者: 東陣正則
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戦役


     戦役


 シャンは、翌朝一番に塁壁の内側、濠都ゴルの電信館に出向いて、衛星通信でユルツ国に連絡を入れることにした。ファロス計画の総監を務める妹のダーナに、ヴァーリの伝言を伝え、計画の一時停止と調査を要求するつもりだった。本来なら一刻も早く連絡を入れたいのだが、民間人が電信館を使えるのは夕刻の五時まで。もちろん政府筋の関係者や公務としての通信なら、時間に関係なく電信館を使うことができる。しかし都の住人でもないシャンに、それは不可能だ。それに時間は、もう夜の九時。塁壁の門は固く閉ざされ、窮民街の人間が都の中に入ることはできない。

 今は我慢して朝を待つしかなかった。

 そして午前零時、日付が替わる。

 重苦しい気持ちを抱えながら薬の仕分けを続け、深夜の一時を過ぎて床につく。しかし、シャンにとっては寝つかれない夜になった。

 古代の炉に罠が仕組まれ、十年前の惨事が繰り返されるかもしれない。そして姉のヴァーリが幽閉されている。更には、刻々と戦乱に傾きつつある塁京の状況、そういったことが頭の中をめぐり、とても眠りにつける気分ではなかった。

 夜半から強まっていた風も明け方には弱まり、それと同時に外は雪になった。


 五時、寝つかれないままに、シャンはいつもよりも早く寝台から抜け出た。まだ夜明け前だが、すでに春香とアヌィも起きて、待合室の隣の配膳室で、自分たちの朝食と下の療養棟にいる腎肥病の患者の朝食を準備していた。そしてシャンが朝の苔茶を飲もうと、二人のいる配膳室に入った時、鈍い地響きのような音が窓を震わせた。

 剥がれた壁の小片が床に落ちて、バラバラと雨垂れのような音をたてる。

 慌ててシャンが配膳室から診察室に戻ると、机の上に置いたペンが数本、床の上をコロコロと転げていくところだった。診察室に駆け込んできた春香とアヌィが、それを拾い上げようと腰を屈めた時、更に大きな連続した揺れが診療所の建物を揺さぶった。吊した白灯が踊るように揺れる。

 昨日の未明、鉄床島が爆破された時の揺れは、微かに窓ガラスが震える程度だった。それが今は、窓枠までがギシギシと軋み音をたてている。

 何がと思って、診療所の外に飛び出すと、診療所の丘の下で、窮民街の面々が口々に何か叫んでいた。その合間にも、空気を震わす轟音が、夜明け前の闇を通して伝わってくる。ただ音の響き方からして距離はある。

 雪さえ降っていなければ、高台にある診療所からは、二都を含めた辺りの様子が望めるのだが、今はまだ夜明け前。それに雪模様のために何も見えない。雪のカーテン越しに、水路を挟んだ対岸の盤都バンダルバドゥンの方向からも、塁壁の後ろの濠都ゴルの側からも、巨大な太鼓を打ち鳴らす地響きにも似た音が、大気を震わせ伝わってくる。

「始まったぞーっ。ゴーダムがバドゥーナに爆弾を撃ち込んだんだ!」

 下の集会所で誰かが張り裂けそうな声を上げた。

 地区の集会所の前には、ベコ連の年寄りたちが集まって、事態を推し測ろうとするかのように、日の出前の闇を窺っている。その年寄りたちの所に下りて行こうとしたシャンを、診療所の一段下、風車小屋から顔を出したマフポップが呼び止めた。

「先生、受信機にゴーダム国の臨時放送が入っています」

 直ぐさまシャンは風車小屋に飛び込んだ。作業台の上に、電鍵通信の通信機とは別に、真新しい梟型の受信機が置いてある。

 ゴーダム国は八カ月前から、バドゥーナ国は半年前から、衛星通信に使うスポット域を利用して、音声放送による公共放送を行っている。その放送を聴くため受信機だ。

 ゴーダム、バドゥーナの両政府は、放送を普及する目的で受信機を無償で借与している。そのため塁壁の内側の人たちにとって受信機はすでに見慣れたものになっているが、窮民街では、まだまだ経堂が人寄せに使えるほど珍しい。いま目の前にある梟型の受信機は、盤都にいるマフポップの父親が息子に買い与えたものだ。

 ただマフポップがこの梟型の受信機を風車小屋に持ち込もうとすると、シャンは、放送を聞く時には外に音を出さないこと、ヘッドフォンを使うようにと注文をつけた。音を出すと、それを目当てに周辺の住民が診療所に屯するようになることが、見え見えだったからだ。それはさておき、マフポップは突然の事態に臨時の放送があるのではと考え、朝の定時放送の前だが受信機に電源を入れた。果たして、ゴーダム国の臨時放送を告げる男性広報官の声が流れた。

 マフポップが、受信機に繋ぎっぱなしにしてあるヘッドフォンのコードを抜くと、男性広報官の声名を読み上げる声が、受信機の翼部分、拡音機から鳴り響いた。爆発の衝撃だろう、広報官の声に金属を削るような酷い雑音が混じる。

 バドゥーナ国が自国を攻撃してきたことを非難する声名に続いて、ゴーダム国統首の国民への呼びかけが始まる。

 マフポップもシャンも、息を詰めるようにその内容に耳を傾けた。

 そして分かったことは……。

 昨日、ゴーダム国政府はバドゥーナ国政府に対して、南部系避難民の受け入れのために、火炎樹農園の二割の割譲と、緊急支援用の燃料及び食料供出の要求を突きつけた。応じなければ、北部三郡を接収して、門京に集結している避難民の入植地に充てると通告してきたのだ。しかしバドゥーナ国がそんな一方的な要求を受け入れるはずもない。そして本日未明、バドゥーナ国は、その返答をゴーダム国の港湾施設の急襲という形で返した。

 川沿いのゴーダム国の管理する貯油施設が次々と爆発炎上、さらには……、

気がつくと、シャンの後ろに春香とアヌィも来て、放送に耳をそばだてていた。

 先ほど下の集会所付近で、誰かがゴーダム国がバドゥーナ国に砲弾を撃ち込んだと叫んでいたが、実際に戦争の口火を切ったのはバドゥーナ国側だったらしい。もっともこれは、ゴーダム国の流している放送なので、内容を鵜呑みにすることはできない。

 それでも塁京の盟主たる二国が、戦乱に突入したことは確かだ。

 シャンたちが放送に耳を傾けているうちに、下の集会所やその周辺にいた連中が、風車小屋の戸口に集まってきた。覗き込むようにして、机の上の梟型の受信機から流れる放送に聞き耳をたてている。ところがゴーダム国の臨時ニュースは、統首の声明を伝えたあと、『非常事態宣言が出されているので、民間人は屋外に出ないように』ということを、ひたすら繰り返すだけになっていた。

 戸口に集まっていた面々は、衛星放送からは新しい情報が得られないと判断したのか、数人を残し、足早に階段を下りていった。その連中と入れ違いに下から上がって来たベコス地区の若者が、都の放送とは別のクチコミの情報をシャンに伝える。

 それによると、やはり最初に開戦の口火を切ったのは、バドゥーナ国側だったらしい。

 シャンたちが部屋の中にいて最初に感じた爆発の振動と音は、バドゥーナ国の甲機船が明け方降り始めた雪に紛れて、ゴーダム国の川岸にある警邏艇の係留地を急襲、隣接した船舶用の燃料補給施設を炎上させた際の爆発音だったらしい。

 それが開戦のひきがねとなった。

 バドゥーナ国は、開戦直後に、二つの都を結ぶ分水路上の幣舎共栄橋を爆破した。

 いま断続的に雪を通して聞こえてくる爆発音は、盤都と濠都の両警邏隊が、榴弾砲で互いに相手国を砲撃しあっている音だという。

 バドゥーナ国とゴーダム国は、共に相手国側の都全域を射程圏に納める榴弾砲を配備している。射程距離十キロ未満の砲だが、開戦と同時にまずはその榴弾砲陣地を破壊すべく、激しい砲撃を相手国側に加えているらしい。

 情報を伝えてくれた若者が階段を下りて行った後も、断続的に爆発音は続いている。

そうこうするうちに、今度は大音響がベコス地区全体を揺さぶった。音は、やや下流方向からだ。川岸に並んだ樹油のタンクに火が入ったのだろう。

 今までで一番大きな振動が診療所を揺さぶり、風車小屋の風車の羽根が受け軸から外れて、ゆっくりと回転しながら下の集会所に落ちていく。風車の羽根のへし折れる派手な音に、慌てて集会所から飛び出してきた年寄りの何人かが、「あれを見ろ」と水路の対岸を指した。

 その方向、やや小降りとなった雪を通して、ぼんやりと赤い炎が浮かび上がる。

 皆がその方角を注視したとき、猛烈な破裂音が耳を突き抜けた。

 一瞬自分たちのいる診療所に爆弾でも落ちたかと、両手で耳を塞いでしゃがみ込む。衝撃音は診療所の後方からだった。真っ赤な火柱が上空に向けて立ち昇り、窮民街の雪の積もったヨシ葺き屋根を赤く染め上げている。方角と距離からすれば、爆発が起きたのは、ベコス地区の後方、ゴーダム国の東七区にある樹液の貯留兼精製施設に違いない。発火点の高いそれも水分を多量に含んだ樹液の貯留槽なら、火が入ってもあのような爆発にはならない。精油のタンクに火が入ったのだ。

 誰かがそう声高に叫ぶと、言葉尻を取るように、「火が入ったんじゃなくて、火をつけられたんだろう」と、怒鳴り声が返される。

 診療所はベコス地域では一番の高台にある。夜が明け、雪が小降りになって見通しが良くなってきたなか、ベコス地区の窮民街の住人は、状況を確かめようと風車小屋の辺りに上ってきた。そんな人たちにまた新たな情報が伝わる。

 バドゥーナ国の手の者が、ゴーダム国の施設に事前に時限式の爆薬物を仕掛けていたらしく、濠都ゴルの塁壁内で次々と爆発が起きているという。おまけに南部の避難民の集積地では、バドゥーナとゴーダムの二国の衝突を待っていたかのように、一斉に避難民が川を渡り始めたらしい。

 情報はまだ伝わってきていないが、南部だけではない。西部でも北部でも、塁京周辺の各所で同様の事態が発生。各地で侵入してくる避難民とそれぞれの国の警邏隊が衝突。また場所によっては、窮民街の住人と侵入してきた避難民の間で、さらには南の牧人系の避難民と北方系の避難民の間でも、争いが生じようとしていた。

 すでに、ドバス低地全域が争乱状態に突入していた。

 双方の都の塁壁の内側からも、爆発音がひっきりなしに聞こえてくる。

 ゴーダム国の衛星放送は、七時をもって放送を中断、バドゥーナ国側の衛星放送はまだ続いているが、それも非常事態の宣言を繰り返すだけで、具体的な状況は何も伝えなくなっていた。

 集会所の前では、ベコ連の年寄りたちを囲んで、ベコス地区の面々が今後の対応を声高に言い合っていた。この状況下でどう行動するのが最善の策になるのか。ここにじっとしていた方がいいのか、それとも避難した方がいいのか、避難するとしたらそれはどこか。問われても誰も答えられない。答えを出すための元となる情報がないし、断片的に入ってくる情報は、それが正しいのかどうかが分からない。それに避難するにしても、船がなければ、歩いて移動できる場所など高が知れている。

 ただベコス地区は、濠都の塁壁に隣接しており、戦闘や爆発に巻き込まれる可能性が高い。遠隔地への移動は無理と分かった上で、やはりどこかに避難した方がいいのではと、そのことを集まった連中は話し合っているのだ。

 窮民街には行政上の区割りはなく、地区を統率する代表者がいるわけでもない。そんな窮民街でも、歴史の古いベコス地区では、伝統的に老名を持つ年配者に、揉め事やいざという時の判断を仰ぐ習慣がある。その年配者のグループが、集会所に集まってくるベコ連の年寄りたちで、中の顔役が、垂れ瘤の三翁と呼ばれる三人の翁である。

 なぜ垂れ瘤と呼ぶのかは、三人の顔を見ればすぐに分かる。三人が三人とも、顔の一部にだらりと垂れ下がった大きな瘤を持っているのだ。皮膚の下に菌叢を形成する瘤菌の感染によってできる肉瘤で、ビアボア一味の赤鬼と呼ばれた老人の角のような瘤が固い肉瘤なのに対して、垂れ瘤は柔瘤と呼ばれ、柔らかいがゆえに大きく生長して垂れ下がるという特徴がある。

 垂れ瘤の三翁のうち、喉に大きなよだれ掛けのような瘤を垂らしているのが、喉袋のジトパカ、マフポップに親身に接してくれるベコ連の幹事役である。顎まで鼻先が届きそうな大きな鼻瘤を垂らしているのが、鉄火鼻のガビ。怒り性で気が昂ぶると薄土肌の鼻が充血して焼きごてのように赤く染まる。そして目の下に大きな目袋状の瘤を膨らませ、いつも口に一尺ギセルを銜えているのが、目袋のホジチ。布袋をいくつも肩に回し下げているので有袋人という仇名がある。袋の中身は都のごみ捨て場で拾ったがらくたである。

 この三翁に、餅耳のグランダを加えて、垂れ瘤の四翁ともいう。もちろん、グランダは翁ではなく嫗だが、男勝りの当人は全く頓着がない。なお紅一点のグランダは、大きな耳たぶに毛糸の袋を被せている。当人は否定するが地獄耳である。

 ベコ連の年寄りを代表するように、幹事役のジトパカが「皆の衆!」と呼びかけた。

 声を出す度に、喉の大きな柔瘤が、カエルの頬袋のように膨らんだり閉じたりする。袋の中で声が反響するのか、年寄りとは思えないほど声量のある声が辺りに響く。

 ジトパカが提案する。情勢がもう少し把握できるまでは、慣れ親しんだベコス地区に留まるのが賢明だろうと。ただ集団でいると、巻き添えを喰った際に被害が大きくなる。不安はあるだろうが、いつでも避難ができるように準備だけは整え、今しばらくは分散して各自の小屋の中で成り行きを見守る。情報の収集と今後の対応を考えるために、ベコ連の年寄りは集会所に詰め、地区の若者グループが連絡と地域の見回りにあたる。それでどうかと、集まっている地区の衆に呼びかけた。

 全員が、賛同の意を表するように右手を挙げる。

 とその手を揺さぶるように、地響きがして、後方で大きな火柱が上がった。雪が降っているというのに、辺り一面が赤いネオンで照らしたように朱一色に染まる。

 ベコ連の年寄りと若手グループの数人を残して、全員が家族のいるヨシ小屋に向かって走り出した。シャンも慌てて階段を駆け上がり、診療所の中へ。人の対応を眺めている場合ではなかった。この様子だと、何時ここを避難しなければならなくなるか分からない。大量の負傷者が運び込まれる可能性もある。対応できるよう、準備を整えておかなければならなかった。

 それが診察室に一歩足を踏み入れたとたん、頭を抱えてしまう。

 先程の爆発の振動で、棚の上の薬や機材が床に落ちて散乱、おまけに部屋中に消毒液の臭いが充満している。瓶が割れたのだ。思わずシャンは、アヌィや春香と顔を見合わせ、その場に立ちすくんでしまった。

 それでも気を取り直して、窓を開け、三人が手分けして床に散らばった物を片づけ始めたところに、マフポップが「先生、大変です」と、診察室に飛びこんできた。

 手に電鍵通信の記録用紙が握られている。

 マフポップは、兇音を苦にしない同じ体質の者と、日々電鍵通信を交わしている。その通信仲間から、急いで川沿いの窮民街から避難するようにと、連絡が入ったのだ。

 理由を聞くと、ゴーダム国が、都周辺の河川敷に住みついている窮民街の住人、特に北部系の住人を、騒乱に乗じて一掃してしまおうとしているというのだ。その一掃するための焼き討ちを、ゴーダム国は自分たちが直接手を下すのではなく、雇われた牧人系の避難民にやらせようとしている。シャンの診療所のあるベコス地区も、焼き討ちや掠奪にあう可能性が高いので、とにかく急いで避難を……。

 シャンが、普段の温厚な顔からは想像もできない顔で歯がみをした。

「くそう、なんてことを」

「先生、どうされますか」

 シャンが即座に言った。

「考えるまでもない、直接爆弾が落ちてこない限り私はここにいる。それよりも、マグはどうする、母親のことがあるだろう」

 濠都の塁壁の内側でも、間断なく爆発音が鳴り続けている。その都の塁壁の内側にマフポップの母親はいる。事情があるとはいえ、マフポップは一人息子だ。

 思案げに俯いてしまったマフポップに、シャンが「自分で帰る必要があると思ったら、いつでも帰っていい。非常時に身近に肉親がいることほど心強いことはないからな」

 そう言い聞かせると、シャンは怒りに震える手でドアの外を指さした。

「マグ、ゴーダム国の連中の考えている汚い計画を、下の皆に知らせてやってくれ。騒ぎ立てる必要はないが、気持ちの備えはしておいた方が良い。ただし不用意に避難民や南の牧人たちとの間に溝を作ることのないよう、くれぐれもベコ連の年寄りたちには、念を押すように。それから、私はこれから濠都に行ってくる。混乱の最中だが、どうしても電信館からユルツ国に送信しなければならないことがあるのだ」

 マフポップが、ハッとしたようにシャンを見た。

「どうした?」

 マフポップが言い難くそうにそのことを伝えた。

 通信仲間の話では、濠都の電信館は、事前に仕掛けられた爆薬で、今朝、いの一番に爆発炎上してしまったという。

 シャンの顔色が変わった。ベコス地区の周辺で、民間人が衛星通信を使うことのできる施設といえば、濠都の電信館くらいだ。そこが駄目となると、あとは対岸の盤都の電信館か、もしくは門京の長杭まで足を伸ばさなければならない。しかし、よりによって濠都の電信館が炎上してしまうとは……。

「マグ、濠都で、ほかに衛星通信が使えるところはないのか」

 額に手を当てたマフポップが、申し訳なさそうに首を振った。

「残るは盤都か……」

 シャンの声を耳に留めたのだろう、アヌィが縋るような声で言った。

「先生、だめ、橋落ちた。水路の上、弾飛んでる。対岸へ渡る、とても危険!」

 アヌィが顔をブルブルと振りながら、シャンの腕を引っ張る。

 その手をゆっくり振り解くと、シャンはアヌィの乱れた髪を撫でた。

 確かにアヌィの言う通りである。頭上を砲弾が飛び交い、分水路では断続的に銃声が鳴り響いている。おそらくは警邏艇同士が銃撃戦を行っているのだ。こんな時に船を出せば、双方から攻撃の的にされてしまう。たとえ白旗を立てていても、雪降りのなかで、それが識別して貰えるかどうか疑問だ。それにこの状況下では、船を出してくれる船頭がいるかどうかも。だが自分は撃たれても、とにかく連絡だけは入れなければならない。それだけ大切なことなのだ。

 宙を見すえるシャンに、マフポップが悲壮な面持ちで進言した。

「先生、もう少し様子を見ましょう。この地では、朝の雪は、まず午後まで続かない。待てば必ず雪の晴れ間は現れます。船の手配だけして、銃声が納まるのを……」

 いつもは無口で人と目を合わせるのを避けるマフポップが、この時ばかりは、断とした表情でシャンに言い寄った。マフポップが思い詰めたように続ける。

「いざという時は、先生の代わりに、ぼくが盤都の電信館に行ってきます。先生は、先生を必要としている人たちがいることを忘れないで下さい」

 いつもと立場が逆転したように言い含められ、シャンが顔を歪めた。

「とにかく、ぼくは船の手配をしてきます」

「ああ分かった。この状況だ、料金はいつもの倍出すということで交渉してくれ」

 苦渋の表情を浮かべるシャンに、後ろから春香とアヌィが声を揃えた。

「先生、対岸の盤都へは、わたしたちが行ってくるから、先生はここに残っていて」

 シャンが振り向くと、請うような顔の二人がそこにいた。それを見て、シャンは全身の力が抜けたように肩を落とした。そして肩の上に伸しかかる想いを払うように小さく首を振って、目の前の二人の少女に話しかけた。

「ありがとう、いざという時はよろしく頼む。それでもユルツ国への連絡は私でなければな。余りに重大過ぎる事なのだ。私でなければ、ダーナを説得できない」

 願うように話しながら、シャンは窓の外、雪に煙るベコス地区と分水路、そしてその先にあるであろう対岸の盤都に目を馳せた。

「とにかく緊急の際は、やれることからやるしかない。そして後は運を天に任せるしか」

 最後は独言のように呟くと、シャンは気合いを入れ直すように声に力をこめた。

「さあ、散らばった物の片づけはアヌィと私でやる。春香は、裏の倉庫から予備のストーブと燃料缶を待合室に運んでくれ。湯が大量に必要になる可能性がある」

「湯を沸かす、それ、アヌィが……」

 言って戸口に向かおうとするアヌィを、シャンが引き止めた。

「春香に薬の整理は無理だ。アヌィは散らばった物の中から、応急処置に使う医薬品を選り分けてくれ。もしベコス地区が戦争に巻き込まれるようなことになれば、その時は、ここを離れることになる。私は非常時に持ち出す物をまとめる」

「ここを出るんですか」

 春香が驚いて聞き返した。シャンが厳しい顔で頷く。

 先程マフポップには、爆弾が落ちて来ない限りなどと威勢のいいことを口走った。だが現実問題、焼き討ちの危険が近づけば、避難せざるを得ない。

 シャンは少し哀しげな表情を浮かべると、二人に説明した。

「このベコス地区の住人の大半はアンユー族だ。しかし一般には、ここは北部系の窮民の暮らす地区だと見られている。南の連中からすれば、牧人以外は北の人間なのだ。だからこの診療所も、事情を知らない牧人たちからすれば、北の人間のための診療所に映る。もし焼き討ちが始まれば、ここも襲われる可能性が高い。もちろん、そうならないことを願ってはいるが……」

 春香の表情に不安を見て取ったシャンが、春香の頬を指で突いた。

「ほら、春香、辛いときや不安な時こそ、えくぼを見せる」

 ぎごちなく口元を緩めた春香を、シャンが促す。

「非常時には最悪の事態も想定しなければならない。しかしだからといって、その予想を過大に考える必要はない。こういう時はとにかく、目の前にある課題を一つ一つ確実に処理していくことだ。さあ早く倉庫に行って、燃料とストーブを運んで来てくれ。今にも負傷者が来るかもしれないんだぞ」

 春香は「ハイ」と大きく返事をして、外に飛び出していった。

 相変わらず榴弾砲の撃ち合いが続いているらしく、大地に巨大な鉄槌を打ち付けたような音と振動が、間断なく鳴り響いている。春香はその巨大な鉄槌の音に背を向けるように、診療所の裏に回った。

 診療所裏の窪地、そこに倉庫がある。倉庫といっても分厚い土壁で囲われた箱のような小屋で、燃料用の油や危険物はここに保管されている。春香は鍵を外すと、小屋の横に立てかけてあった棒で力まかせに扉を叩いた。つららが折れて飛び散り雪に突き刺さる。もう一度力を込めて叩くと、凍りついた扉が隙間を見せた。

 タンクに入れてある燃料用の油を缶に移し、円筒型のストーブを引っ張り出す。

 そして把手を持ち、腰に力を入れて持ち上げようとした時、小屋の陰から白い影が現れた。雪の白さに紛れるようにして、四つ足が見える。一瞬、春香は声を上げ掛けたが、あとは何も言わず、その白い四つ足の首に抱きついた。

 なんとシロタテガミだった。春香の腕の中で懐かしい唸り声がした。

「痛い、首を絞めるつもりか」

 久しぶりに聞くシロタテガミの声。痛いと言われても、春香は腕を離さなかった。

 春香にとっては命の恩人である。会いたいといつも思っていた。シロタテガミが、子供が嫌々をするように首を左右に震わせたので、ようやく春香はシロタテガミの首に回していた手を離した。春香は体を反らすと、もう一度目の前にいる白いオオカミを見た。以前と変わらない銀白色の毛並みがそこにある。

 春香は懐かしさで滲んできた涙を指先で拭いながら話しかけた。

「シロタテガミ、本当にありがとう、あなたには二度も命を助けてもらったわ」

「三度目がないように、気をつけてくれ」

「うん、気をつける、でも、ありがとう」

 潤んだ声で言うと、また目の前の首に抱きついた。

 シロタテガミは、しばらくは春香の好きなようにさせていたが、地面を伝わってくる振動に体を震わせると、するりと春香の腕を抜け、尋ねた。

「教えてくれ、いったい何が起きている。この振動、それに大気に刺すような臭いが混じっている。銃を撃った後に残る刺激臭もだ」

 春香は野生のオオカミに向かってどう説明すればいいか迷ったが、一言「戦争よ」と答えた。その言葉しか思いつかなかったのだ。

「オオカミの世界にはないかもしれないけど、人と人が争っているの。銃や、銃よりもっと危険な道具を使って」

「人が人に向かって銃を撃つのか」

「ええ……」

「相手が死ぬのではないか」

「そうよ、だって相手を殺して力で屈伏させるのが戦争だもの。今、何十万もの人と人が、殺し合いを始めたところなの」

 シロタテガミが理解できないとばかりに首をひねった。

「それは何のためだ」

「いい物を食べたい、暖かい寝床で眠りたい、蛇口を回せば水が出るような暮らしがしたい、そういうことのためよ」

 話しながら、春香は情けなくなってきた。込み上げてきた気持ちを抑えるように、春香は燃料の入った缶を橇の上に持ち上げた。

 苛ついた表情の春香に、「それは命よりも大切な物なのか」と、シロタテガミが不思議そうに聞く。

「知らないわよ。でも人間は、自分以外の人が、自分よりいい物を食たり楽な暮らしをしてることが許せないらしいの。オオカミだってそうでしょ。お腹が減ってる時に、ほかのオオカミが美味しそうに獲物を食べてたら、羨ましいでしょ」

 シロタテガミが捻るように首を後ろに引いた。

「それは羨ましい、だがオオカミは、そのことで殺し合いをしようとは思わない。食物がないのは自分の狩りの能力が劣っているからで、別に相手の責任ではない。争うよりも、早く獲物を捕まえることの方が重要だ」

「そうよ、動物たちは、そうやって合理的に生きてるんでしょ。でも人間はそうはいかないの。恨みや悩みや喜びや悲しみや嫉妬や、いろんな感情でしか動けないの。神様はそういう風に人間を作ったのよ、それを人間にどうすればいいっていうの」

「そう感情的になるな」

「なによ、先生ぶって……」

 春香は橇の引き綱を腰にまわすと、足に力を入れて歩きだした。

「行くわよ、わたし忙しいんだから。来て、先生に紹介するから。シャン先生もわたしの命の恩人に、ぜひ会いたいって言ってたの」

 前足を揃えて座っていたシロタテガミが、腰を浮かすと小さく唸った。

「その、お前の先生というのは、もしかして体の傷や病を修理する人間のことか。家に出入りしている人間たちを見て、そうでないかと思ったのだが……」

「それを人間の世界じゃ医者って呼ぶの、人間は争いで人を殺すだけじゃない、人の命を救うこともやるの」

「まったく矛盾した存在だな、右の手で相手を危め、左の手で相手を助ける。よくそんな器用なことをやれるもんだ」

「もう、人間はオオカミほど哲学が好きじゃないの、行くわよ」

 春香がシロタテガミを促し先に行こうとすると、シロタテガミが、春香のズボンの裾を噛んだ。

「ちょっと待ってくれ、頼みがある」

 春香を引き留めたシロタテガミが、後ろを振り向き、小屋の陰に向かって軽く吠えた。するとシロタテガミより一回り小さい四つ足が、ヒョコヒョコと小屋の後ろから現れた。ブチの犬だった。もしかするとヤマイヌであったかもしれないが、毛並みがバサバサに乱れて、そこまでは分からない。見ると、後ろ足の先が奇妙に折れ曲がっている。

「おまえの先生に、この犬を診て貰えるよう頼んでもらえないか。戦争とやらの最中に、四つ足の動物どころではないと言われれば、ほかの手段を考えるが」

 足を引きずるブチイヌに目を向け、シロタテガミが寂しげに吠えた。

「残念ながら四つ足の私には、傷ついた足を嘗めてやる事以外、何もできん」

 顔を近づけると、腐った臭いが鼻を突く。患部が化膿している。

 春香はブチイヌの首筋を軽く撫でると、優しく話しかけた。

「とにかく診療所に行きましょ。先生が動物の手当てをするのは見たことがないけど、人と同じ哺乳類なんだもん、何とかしてくれると思うわ」

 ブチイヌを励まし、橇を引いて歩きだした春香が前方を見やる。すると診療所の階段を、作業服姿の男が二人、よろけるように上っていくのが目に入った。

 一人がもう一人の肩を抱きかかえている。

「大変、患者さんだわ、急がなくちゃ」

 春香が橇を引っぱる手に力をこめる。その後ろで、シロタテガミの目が赤く光った。



次話「刺客」

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