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星草物語  作者: 東陣正則
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キビタキ


     キビタキ


 風が凍風に変わり、厚い雲が空を覆い始めた。

 夕刻、シャンと春香を乗せた機扇船は、ベコス地区の桟橋に戻った。シャンはそのまま患者の家を何軒か回ったが、その際いつものように子供が後ろを付いてこない。往診の途中、先生が患者の家に入り、春香が一人外に残されて立っていると、通りの陰で窮民街のおかみさんたちが、春香の方を見て何かささやきあっている。その中には、洗濯場で何度も顔を合わせたことのあるおばさんの姿もある。

 これ見よがしの「死神」という声が耳に飛び込んできた。

 先生は気にするなと言ってくれたが、それは無理だ。ただ今に限っては、ヴァーリさんから聞かされた話が頭の中をぐるぐる回っていて、それどころではなかった。

 風が強くなってきたからか、ヨシ小屋の陰から春香を窺う人たちの姿が消えた。気持ちが少し楽になる。しかし、とにかく今はヴァーリさんのことだ。

 日も完全に沈み、夜の八時、ようやくシャンと春香は診療所に戻った。

 湖宮で調達した薬は、先にグンズーホが診療所に届けてくれている。診察室を覗くと、アヌィとマフポップが、机の上に薬を並べて仕分けをしていた。中に燭甲熱の特効薬も十錠ほど入っていたらしい。一錠で三日ほど効果があるという。

 シャンがその錠剤を見て、「これでひと月は、窮民街の連中も春香を見て逃げないで済む」と、力のない笑いをついた。

 外套を脱ぎ、すぐに薬の仕分け作業に加わろうとするシャンの袖を、春香が引いた。

 春香の思い詰めたような顔を見て、シャンが「さすがに疲れた、一息入れてからにするか」と、診察室の隣にある自分の個室を指した。

 部屋で話を聞こうというのだ。

「マグ、湯を持って来てくれるか、体を温めたい」

「足湯ですか、そうして下さい。ざっと見た感じ、ボクでも分かる薬がほとんど、大まかな仕分けは、ボクで大丈夫です」

 その言葉に、アヌィがキッと肩を尖らした。

「何が大丈夫よ。ここの薬、理薬と方薬で分ける。それから、服用、間違う薬、字の読めない人、いる、だから色糖塗って、色分け。その薬、こっちの箱……」

「でも、理薬は」

 手を上げたシャンが「マグ、湯を!」と、二人の言い合いに割って入ると、奥の個室の扉を引いた。春香も茶器を手にして、シャンに続く。

 シャンの個室は、四畳ほどの納戸のような部屋で、魚のカビ臭い臭いがこもっている。

 シャンの診療所は、昔この分水路で魚がたくさん獲れた頃に、干し魚の集積所として使われていた建物である。そこを買い取り診療所を開設するに当たって、シャンとしては、来訪する患者のことを考え、一階を診察室にと希望したが、一階は沁みついた魚の臭いが酷く、仕方なく当時事務所として使われていた二階を診察室にした経緯がある。

 その二階、診察室の奥にあるのがシャンの個室で、備えつけの寝台と机、天井の梁にぶら下げた数着の衣類を除けば、あとは医療関係の備品の入った箱がうず高く積み上げられ、ほとんど物置と化している。春香はドアを閉めると、机の上に茶器を置いた。

 茶を入れる間もなく口を開きかけた春香を、シャンはベッドに腰かけさせると、自分は立ったままコップに白湯を注いだ。そうして机の上に置いてあった小ビンの中身を、白湯に混ぜて飲み下した。

「麻苔と似た成分の薬、これであと一時間は頑張れる」

 自身で肩を揉み解しながら説明すると、シャンは春香の横に腰を落とした。そして目を閉じ頭を後方に仰らせた。薬が体の中に入ってくるのを待つように、ゆっくりと息をする。シャンの指先が呼吸の数を計るように上下。その指がちょうど三十を数え終わると、シャンはパッと目を開き、春香に向き直った。

「待たせた、もう大丈夫、さあ話してくれ」

 顔は疲れているが、目には輝きが戻っている。

 春香は姿勢を正すと、緊張で口が震えそうになるのを抑え、「わたし、ヴァーリさんに会いました」と、そのことを口にした。

 その瞬間、シャンが体の動きを止めた。帰りの船の上で、シャンは春香の沈鬱な表情を見ている。シャン自身考え事をしていたため、あえて話しかけなかった。春香が例の燭甲熱の事で悩んでいるのだろうと思っていたのだ。それが突然、春香の口から姉の名が出た。ジュール公師話すところの、療養に出て湖宮に不在のはずの姉の名が……。

 重苦しい春香の声から、姉の名の後にもっと重大な話が潜んでいることが感じ取れる。シャンは無言のまま机の引き出しを開けると、そこから一枚の写真を取り出した。年配の男女を囲むように、三人の若い女性が写っている。シャンの家族の写真だ。

 春香は指を伸ばすと、右端の控えめな姿で佇んでいる女性を指で押さえた。

「この方です。ただし髪は揚げていました。わたしと同じ星草柄のセーターを着て……」

 シャンが昔を思い出すように言った。

「あのセーターは、伯母が姉の十五歳の誕生日にプレゼントしたものだ」

 話す声の最後が上擦っていた。そして「姉が……」と呟くと、腕組みをしたまま宙に視線を漂わせた。姉が湖宮にいたということが何を意味するのか、予想もしなかった話に、頭の中が電源の切れた魔鏡帳のように思考を停止する。

 そこにマフポップが部屋の外からドアを叩いた。足湯の準備ができたのだろう。

 春香がドアを開けて湯気の立つ桶を受け取る。

 空白になった頭の中に言葉を取り戻すべく、シャンがブルブルと首を振る。そして靴下を脱いで素足を桶の湯に浸すと、仕切り直しをするように顔を上げた。

「それで」と、シャンが春香に話の先を促す。

 春香はつい数時間前に湖宮で見たことを、かい摘んで説明した。ドーム状の建物に忍び込み、偶然にもヴァーリさんに会ったこと、ヴァーリさんから聞かされたことを。

 シャンは口を閉ざしたまま、じっと天井を見上げていた。いや天井に視線を向けてはいたが、何も見ていなかった。今、春香が語ったことの意味を考えていた。

 義兄であるジュール公師の言葉が全て本当だとは、シャンも思っていない。裏商人のことも含めて、何か隠し事があるだろうことは容易に察しがつく。ただそれは義兄に問い質す筋のことではない。だから「手紙を託します」とだけ言って、それ以上は言及しなかった。それが……、春香の話は、全くもって自分の想像を超えたものだ。

 湖宮の中に古代の環境がそのまま残されている。おまけに霧は人工的なもので、拝門の列柱には、部外者を監視するためのセンサーが仕込まれている。湖宮の宗教施設は、その裏側に聖地とは全く別の側面を隠し持っているのだ。

 そして姉は地方に療養に行っているのではなく、幽閉されていると。

 姉が幽閉。言われてみれば思い当る節はある。前々から、姉からの手紙に開封されたような跡を認め、不審に思っていた。それに昨年来、自分の出した手紙への返事もぷっつりと途絶えたまま。思えば前回自分が湖宮を訪れた時も、姉と二人きりになることはなかった。姉が不用意に情報を洩らさないかと、監視をしていたのかもしれない。

 時々姉が何か言いたそうにしていながら、それを言い出さず、あからさまに言葉を呑み込む姿を見て、自分は姉が夫のジュール公師と上手くいっていないのではと、勝手に想像を脹らませていたのだ。そして男女の問題なら、自分があれこれ割り込むべきではないと考え、とくに詮索などしなかった。だが幽閉されているとなると話は別だ。もしかしたら、姉が何か重大な問題を背負い込んでしまったという事なのだろうか。

「私は湖宮の秘密を知ったために、幽閉されています」

 春香がヴァーリの言葉を繰り返した。

 目を閉じ、頭の中で春香の言葉を確かめるように反芻していたシャンは、静かに目を開けると、カップに白湯を注ぎ直し、気を落ち着けるようにゆっくりと飲み干した。

 そして机の上に置いた家族の写真に目をやりながら、春香に語り始めた。

 自分たち姉妹のことを……。

 シャンはユルツ国に古くから続く政治家の家に生まれた。子供は三姉妹で、一番上の姉が、湖宮の公師に嫁いだヴァーリ。シャンの双子の妹が、いまユルツ国で例のファロス計画を取り仕切っているダーナだ。父は長女のヴァーリに自分の仕事を継がそうと考えていたが、元来が母の気性を継いで優しい性格に生まれついた姉は、誰もが政治家には不向きと考える存在だった。本人もそれを分かっていて、結婚を口実に父親の反対を押し切って、さっさと家を出てしまった。

 シャンはシャンで、悪鬼羅刹うごめく政治の世界を子供の頃から見ていた関係で、政界に入ることを拒否。姉に続いて家を離れ、遠いドバスの地で診療所を開設した。結果として父の子供への願望を妹のダーナに押しつけることになったが、それはそれで良かったのではないかと思っている。妹のダーナが一番政治の世界に向いていたからだ。

「しかし……」と、シャンは押し黙った。

 昼間会って話を交わしたヴァーリの伴侶、ジュール公師の姿を思い浮べたのだ。

 宗教というものは、聖なる部分とバランスを取るように、闇の部分を併せ持つと言う。八年前に初めて湖宮に姉を訪ねた折に、シャンはそのことを何となく感じ取った。しかしそれが宗教として当たり前の姿であるなら、そしてそれを分かった上で、姉がその世界に飛び込んだのなら、他人がとやかく言うべき筋のものではない。

 だからシャンは、姉には何も進言せずに黙っていた。

 だが、いま春香の話を聞いているうちに、もしかしたら姉は、政治の世界を嫌いながら、もっと酷い闇の世界に入り込んでしまったのではないかと、そう思うようになった。

 考え込んでしまったシャンに対して、春香は胸の内にあったことを吐き出して気が楽になったのか、明るい声に戻ってシャンに話しかけた。

「でも先生、不思議なんです。あそこには、この世界で失われた昔の自然が残っているんですよ。それにヴァーリさんの話では、他にも様々な昔の技術が湖宮の地下に保存されているって。それって凄いことでしょ、でもなぜそれを隠してるんだろう」

 春香の問いかけに、シャンが乾いた布で足を拭きながら言った。

「私は講堂しか見ていないから何とも言えないが、おおよその見当はつく。もしこの世に、陽光眩しく緑がしたたり、果実がたわわに実り、小鳥のさえずりが耳をくすぐる、そのような世界があれば、誰だってそこに住みたいと思う。春香の生きていた時代では、何のことはない当たり前の風景だったかもしれないが、今の時代を生きる者にとって、それは楽園そのものだ。誰もが生涯に一度でいいから、そういうところで暮らしてみたいと願う」

 話しながらシャンは目を細めて壁を見た。

 診療所の漆喰の禿げかけた壁の向こうには、水路を挟んで対峙する二つの都がある。

「この地を見ていれば良く分かる。火炎樹が育つ、仕事があるかもしれない、ただそれだけのことで、人は大陸中からこの地に集まってくる。その押し寄せる人の波を怖れて、バドゥーナとゴーダムの二国は、共に高い壁を築き武器を買い漁る。あの二つの国が武器を求めるのは、相対する隣の都が憎いからでも攻撃したいからでもない。本当に怖れているのは、脹らみ続ける避難民が、いずれ自分たちの生活を脅かすであろうことを、本能的に知っているからだ。豊かな生活に向けられる羨望の眼差しが、ほんのちょっとしたきっかけで憎悪に変わることを、人は知っている」

 口にこそ出さなかったが、シャンは河岸の窮民街の暮らしのなかで、そのことをいつも痛感していた。持てる者と持たざる者の相克をだ。

 口には出さずシャンは「本当にそうなのだ」と、心の中で続けた。

「たかが、樹脂で作った餅がたらふく食べられ、凍えることのない暖かな家に住める。都の連中はそれを失いたくない。だから、その生活を守るために武器を買い集める。そのことを、あの湖宮の聖職者たちは良く分かっているのだ。もし閉ざされた楽園のことが外に知れたなら、世界中の人が押し寄せてくるということを。

 人の羨望というのは恐いものだ。もし楽園があっても、それを己が手で触れることもできないと知れば、持たざる者は、持てる者たち、楽園の暮らしを享受している者たちを羨み、やがて憎む。そして触れることもできないなら、破壊して無くしてしまえと考える。消えて無くなれば、羨望や嫉妬で胸をかき乱されることも無くなるからだ。

 人間は悲しいかなそういう生き物なのだ。だからこそ、人目に触れることのない、城塞のようなカルデラの、さらに窓もない墓所のような建物の中にそれがある。そしてそこの住人が外界の者と接する時は、質素な姿、清貧そのものをイメージさせる僧侶の姿で出てくる。人の欲望を刺激しないこと、それこそが楽園を守る唯一最良の方法なのだ」

 話しながら下を向いてしまったシャンに、春香が焦れたように尋ねた。

「でもシャン先生、それだったら、外界との繋がりも一切断ってしまえば、その方が安全なような気がするけど」

「楽園を維持していくためには、外部から物資の補給が必要ということだ。それが、貢朝というシステムだろう」

 そうシャンが断言した時、春香が忘れていたことに気づいたように目を見開いた。

「大変、先生、大切なことをまだ話してなかった。ヴァーリさんが、湖宮の秘密や自分のことよりも、もっと緊急を要することだって、忘れずに伝えてって何度も念を押されたことがあるの」

「なに!」と、シャンが眉間にしわを寄せた時、ドアが叩かれ、シャンの返事を待たずに、アヌィが部屋に飛びこんできた。

 アヌィの胸に、濡れそぼった一羽の小鳥が抱きかかえられていた。

「この鳥が」とアヌィが言いかけると、春香が話の後を取った。

「その小鳥が、ヴァーリさんの伝言を託された小鳥です。ヴァーリさんが、妹のシャンへのメッセージをこのキビタキに託すから、鳥と会話のできる診療所の助手の娘に翻訳してもらってと……」

勢いこんで喋る春香に、シャンは感情を抑えた表情で立ち上がると、ドアを閉めた。

 そしてアヌィの手の中で震える小鳥を軽く一撫ですると、

「この小鳥は疲れているように見える。しかし姉の伝言は重大な事らしい。支障がなければ、すぐに聞かせてもらえるとありがたい。そう小鳥に伝えてもらえるか」

 すぐにアヌィが小鳥に顔を寄せてささやく。そしてシャンを見上げて目配せ。

「やってくれ」と、シャンが頷いた。

 アヌィがキビタキに向き合う。人のように会話を交わすのではない。目を見つめ合っているだけだ。けれども良く見ると、アヌィの円らな瞳が忙しなく動いている。心の声で話をしているのだ。そうやって心の声を交わしながら、時折、春香を見やって何か尋ねる。託された伝言の中に、アヌィの知識では理解できない言葉が混じっているのだ。

 託された話自体は長いものではない。話を聞き終えると、アヌィは優しく小鳥の背を撫でた。ただ表情がさっきよりも重く強ばっている。アヌィはキビタキを膝の上の置くと、目を閉じ、キビタキから聞いた話を復唱するように、ゆっくりと話し出した。

 ヴァーリが小鳥に託したメッセージとは……、

『私……、自分は、湖宮の禁忌に触れたために、奥の院のドームの一つに、四年前から幽閉されています。手紙は検閲され、内容に手が加えられるために、外部とは連絡が取れません。そのため、鳥に伝言を託すことにしました。どうしてもユルツ国の人々に伝えなければならないことがあるからです。ユルツ国が、いま北の氷床地帯で進めている復興計画、サイトのエネルギー発生装置には、仕組まれた重大な欠陥があります。仕組んだのは、かつてユルツ国に遊学していた、私の夫、ジュール公師です。もし欠陥を修正しないままに装置を稼働させると、十年前と同じように、取り返しのつかない事故が引き起こされます。とにかく直ちに計画を中止して、全ての施設を点検するように……』

 短い内容だったが、アヌィは二度それを繰り返した。

 血の気の引いたシャンの口から「そんな」と、悲憤とも取れる言葉がこぼれた。



次話「戦役」

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