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星草物語  作者: 東陣正則
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奥の院


     奥の院


 シャンが講堂に入ってから半刻が過ぎようとしていた。

 春香は待合所の椅子に座ってぼんやりと窓の外を眺めていた。霧は息をするように濃くなるかと思えば薄くなる。今は霧が少し流れたのか、辺りが明るくなって、階段の上が、おぼろげに姿を現している。

 煥になっている待合所の椅子は、お尻から暖まって気持ちが良い。隣に座っている船頭のグンズーホは、いびきをかいて眠ってしまった。春香は退屈に耐えられなくなって、脱いでいた手袋を填め直すと、待合所のドアを開けて外に出た。

 暖まった顔が湿った冷気で引き締まる。ミルク色の霧が辺り一面を覆い、目に見えるのは、ちょうど階段の上の衛士のいる詰め所辺りまでだ。

 春香はちょっとだけのつもりで階段に足をかけた。

 詰め所の衛士が愛想のいい人なら時間つぶしの話し相手になってくれるだろうし、先に進むのが駄目と言われれば、待合所に戻ればいい。ところが階段を上がり切り、詰め所の中を覗いてみると、衛士もだらしなく口を開けて居眠りをしている。春香はクスリと笑うと、そのまま前方に歩を進めた。

 霧というのは不思議だ。一歩進めば、もう一歩先が見える。階段の下からは詰め所の辺りまでしか見えていなかったのが、今は前方の石畳の先の別の階段が見える。まるでもう少し足を伸ばせば、また別の物が見えますよと、こちらを誘っているようだ。

 春香はもう一度詰め所を覗いて、衛士がぐっすり寝入っているのを確かめると、正面の階段に向かって歩きだした。もし誰かに見咎められれば、詰め所のおじさんが気持ち良さそうに眠っていたので、自分で手洗いを探しているうちに、霧で方角が分からなくなったのだと言うつもりでいた。

 進むにつれて、本当に次々と霧に隠れていた物が見えてくる。

 砂漠のように地平線の先まで見通せる場所だと、よほどの理由が無い限り、ちょっと散歩などと思わない。一キロや二キロ歩いても、新しい発見など何もないということが分かっているからだ。でも今は違う。足を踏み出す度に何かが見えてくる。

 左手に牛頭を彫りこんだ手すりが現れた。さらに階段を数段、今度は前方に、ぼんやりと経柱が……、これでは麻薬に手を出したようなものだ。

 そう思いつつ、春香はもう自分の足を止められなくなっていた。

 気がつくと階段は終わり、足元は石畳の通路に変わっていた。両側はしっとりと水を含んだ苔に覆われている。その石畳の通路が左右に分かれた。躊躇なく右に折れる。

 霧が薄かった時、右手の丘の上に建物が見えていた。その丘に出たようだ。

 春香もシャンと同じように、地面が雪で覆われずに霧が多いのは、湖の水が温かいせいだろうと考えた。そういえば、ここの地形は火山が作るカルデラだ。もしかしたら火山が生きていて、湖の底から温水でも噴き出しているのかもしれない。

 と、歩を進める春香の耳に、鳥の鳴き声のようなものが聞こえた。

 前方の霧の中からだ。ドバス低地に来て以来ずっと耳にしてきた水鳥の騒々しい鳴き声とは違う、澄んださえずりのような声。声のした方向に体を向けるが、目の前には白っぽい霧があるだけで何も見えない。目を閉じて耳を澄ます。

 と、またそのさえずりが……。

 音の方向に行こうとすると、石畳を外れて、苔の中に足を踏み入れなければならない。どうしようと、そう思った時には、もう足が苔を踏み締めていた。いつものことだ。迷うくらいなら、やってしまえ。それが自分の生まれついての性分だから仕方ない。それにもし本当に迷ってしまえば、叫べば誰か来てくれるだろう。トイレを探して迷った少女を磔にしてしまうような、そんな宗教施設があるはずない。

 そう思って開き直ると、今度は足を忍ばせて歩くのが面倒になってきた。スタスタと大股で苔の上を歩き出した。するとこの苔が、ふかふかとスポンジのようで、何とも気持ちが良い。まるで雲の上でも歩いている気分になる。

 春香はそのまま、さえずりの方向に歩を進めた。

 前方に壁のようなものが現れた。そのまま歩いて壁の縁に到達。壁面が隙間なく苔で覆われている。足で蹴って目印に苔を少し剥がす。もし自分の位置が分からなくなったら、この場所に戻って、壁と直角に歩けば石畳に出られる。

 とまた鳥のさえずり。かなり近い。

 早く来てと急かしているように思える。声のした方向、右に折れる。

 ほとんど垂直に聳え立つ苔蒸した壁に、窓らしきものはない。二十歩ほど進み、確か声はこのあたりからと立ち止まった時、今度は斜め後ろ、腰より低い位置で、さえずりが鳴った。ハッと振り返り。視線を上下させる。

 そして気づいた。垂れ下った紐のような苔が、小刻みに震えている。

 屈むと頬に風が当たる。「見つけた!」と、春香は心の中で手を叩いた。

 はやる気持ちを抑えて苔の緞帳を持ち上げる。

 思った通り、苔のカーテンの後ろに穴が空いていた。

 頭を差し入れ……、とその瞬間、頭を包むように鳥の声が鳴り響いた。穴の奥からだ。

 頭の芯まで届く、くっきりとしたさえずりに、春香は懐かしい鳥を思い出した。

「キビタキ!」、そう春香は心の中で叫んだ。

 春香は自分で自分の背を押すように、四角い穴に体を押し込んだ。

斜め上に伸びる方形の穴が、数メートル先で横穴に繋がっている。春香は手足を左右の壁に突っ張りながら、体を押し上げた。穴は横に向きを変え、奥へと伸びている。その横穴を四つんばいになって進む。乾いた風が春香と穴の間を抜けていく。

 春香は確信した。これは通風口だ。

 横穴の突き当たりに格子の枠がはめ込んである。その格子越しに、通路らしきものが見えた。再びキビタキの声が、吹きつける風のように耳の横を掠める。

 自分を誘っている……。

 これ以上先に進んで、管理人にでも見つかったら何て言おう。さすがにトイレを言い訳にはできない。そんなことを考えつつも、春香は格子を握り締めた手に力を込めていた。いまさら先に進むかどうか迷っても仕方がない。掛け金が鈍い音をたてて折れた。春香は蔀格子のように格子を跳ね上げると、通路に這い出した。

 幅二メートル程の狭い通路で、天井はオバルさんがジャンプしても届かないほどに高い。時代を経たものか、壁はくすんでいるが、照明器具もないのに通路全体が明るい。壁や天井そのものが光を発しているようだ。

 通路を左右どちらに進もうと思って首を振る。狭い通路はゆったりと湾曲、わずかに感じる空気の流れは右からだ。春香はその方向に体を向けた。

 思い出せないが、乾いた暖かい風に懐かしい匂いが混じる。

 しばらく進んだところで、通路の左側、建物の内側の壁に入口が現れた。狭い入口を潜った先に、急な下り階段。大深度の地下鉄に下りるような、狭くて長い階段だ。暗くて、はっきりと分からないが、ビルの四階分くらいの深さがある。

 もう迷わなかった。風はこの階段の下から吹き上がっている。

 春香は奈落の底に落ちるような階段を、足元を確かめつつ下りていった。

 階段を下り切った場所に、小さな踊り場と扉があった。わずかに開いた扉の隙間から、淡い光が射し零れ、吹き出す風に扉が揺れて、鈍いキシキシという音をたてている。それが、おいでおいでをしているようで気味が悪い。

「墓所みたいなところ」という船頭の言葉が頭を過ぎり、納骨堂や墓標が一面に立ち並ぶさまが思い浮かぶ。

 その春香の妄想を払拭するように、キビタキのさえずりが扉の向こうから聞こえてきた。生きている者が向こうにいる。別に扉の向こう側が冥界ということではなさそうだ。

 春香はゆっくり扉を押し開くと、あちらの世界に足を踏み入れた。

 そして一歩足を踏み出したまま、そこに立ち尽くした。

 夢の中に入ったのだろうか……。

 落ち葉が風に転げ、葉ずれの音が耳をくすぐる。

 立ち並ぶ樹幹の向こうに、赤や黄色に色づいた林が望み、その先に、針葉樹の深い緑と、冠雪した山並みが、抜けるように青い空の下に横たわっていた。

 信じられない思いで瞬きをする春香の前に、色鮮やかな木の葉が落ちてきた。掌に受け止めると、仄かな重み。顔を近づけると、枯葉の乾いた匂いが鼻を掠めた。秋の匂いだ。

 自分が待合所で居眠りでもしているのではと、頬をつねる。

 痛い、でも目の前の風景は変わらない。これは現実の世界なの?

 山葡萄のパステルカラーの実が、手を伸ばせば指に触れそうな場所にぶら下がっている。

 足元に目を落とすと、人の踏み跡の残る林の小径を風が抜け、追いかけるように色とりどりの木の葉が宙に舞う。道端では、秋の名残だろう、鮮やかな瑠璃色の花が木漏れ日を浴び、重なり合った落葉の合間には、カシの実が小石のように転がっている。

 気がつくと春香は林の小径を歩いていた。

 乾いた落葉を踏みしだく、サリサリ、パリパリという音が小気味いい。

 林が途切れて視界が広がる。緩やかな下り道の先、林の脇には小川が澄んだ水を流し、川の縁に聳え立つ太い幹の向こうに、鋤き起こした畑と、木の柵と、煉瓦色の家の屋根が覗いていた。春香の馴れ親しんだ里の秋の風景がそこにあった。

 晩秋の景色といっても良い。

 そして、またキビタキの声……。

 景色は晩秋なのに聞こえてくるのが夏鳥の声。それが微妙な違和感を心の内に呼び起こすが、そんなことは問題ではない。アヌィのように鳥の言葉を解することはできなくとも、声の主が自分を呼んでいるということは、春香にもはっきりと感じ取れた。

 小走りに道を駆ける。左手は果樹園だろうか、規則正しく並んだ木々の合間から甘酸っぱい匂いが漂ってくる。落ちて腐った実が発酵しているのだ。一つ二つと採り残された赤い実が日差しを反射、紛うことなく林檎の実だ。

 その赤い果実と並ぶように、キビタキが黄色い腹を見せて枝に停まっていた。

 足を止めると、春香は「あなたがわたしをここに案内してくれたの」と話しかけた。

 ところがキビタキは枝から飛び立つと、鮮やかな黄色い腹をひけらかしながら、煉瓦色の屋根の後ろ、とんがり帽子のような針葉樹の木立目指して飛び去った。

 春香は鳥と話のできるアヌィが羨ましくなった。

 そのまま道を下って小川の縁に下りる。水草が棚引く川面を、風で運ばれたのだろう、手の平の形をした赤い小さな木の葉が回りながら流れていく。

 橋の袂に、二抱え以上はありそうな樅の老木が聳えていた。幹に手を添える。ごわごわとした、それでいて仄かな樹肌の温かみが手の平に伝わってくる。

 春香は抱きしめるようにして頬を寄せた。木の感触が堪らなく懐かしかった。

 涙が溢れてくる。

「あなたは何歳、わたしは二千歳。ねっ、あなたはずーっと生きて、この星で何があったか見てきたのでしょう。教えて、木だって言葉を持っているでしょ。わたしに聞かせて、いったい世界で何が起きたの」

 木に抱きついて一人言のように話しかける。

 と春香の背後で、突然落葉を踏む音が鳴った。

 振り返ると、そこにすらりと背の高い女性が立っていた。

「あなたは誰、どこから入ってきました」

 きつい口調で質すと、その女性は厳しい顔で春香を睨んだ。ところが女性は、春香のはだけた外套の内側に目に止めるや、打って変わったように表情を和ませた。

「そのセーターの編み込み、星草の模様ね。あなたはどこの出身」

 いわれて自分の胸元、セーターに春香が目を落とす。

「あ、あのわたし、この世界の者じゃないんです。だけど、ユカギルという町の近くに住んでいるシクンのおばさんが、これを編んでくれて……」

「やっぱり」と、その女性が嬉しそうに頬に手を当てた。

 その時、春香も気づいた。目の前の女性の着ているセーターの模様が、自分のセーターと瓜二つなことに。春香は、その女性にかいつまんで自分がシャン先生と湖宮に来たことを説明。そして話しながら女性の顔を見た。

 淡い茶肌に灰色の眼、黒髪を丁寧に編み上げ、頭の後ろにまとめている。前掛けが植物の屑で汚れているのは、作業でもしていたのだろう。一見健康そうに見えるが、どこか柳の枝ように、秋の風にも足元が揺らぎそうな不安定さが漂っている。

 春香の話を聞き終えると、目の前の女性は「そう」と暗い表情で頷き、「わたしがシャンの姉のヴァーリです」と、声を呑み込むような調子で言った。

「えっ、でも、だって……」

 先生は姉に会うと言って、桟橋の階段を上って行ったのだ。シャン先生は、今、お姉さんと会っているはず。それが、目の前の女性は、自分がシャンの姉だという。

 当惑している春香に、ヴァーリと名乗った女性は、「とにかくあなたはここにいてはいけません、早く建物の外へ」と厳しい表情で言って、先に立つように歩きだした。

 足早に歩を進めつつヴァーリが、どこからこの建物に入ったのかと春香に聞く。

 鳥の声を追いかけているうちに通風口を抜けてここに来てしまったことを話すと、ヴァーリが表情を和ませた。そして足を止めて指笛を吹いた。

 先ほど針葉樹の林に消えたキビタキが、糸を引くように飛んできて、ヴァーリの細い指先に止まった。愛くるしい黒い瞳のキビタキに顔を近づけ、ヴァーリが何事かささやく。

 その様子を見て春香はハッとした。鳥と視線を交わす仕草が、アヌィのそれとそっくりなのだ。

 ヴァーリは手にキビタキを乗せたまま、春香の方に向き直ると、

「いつか、この子を人に託せる日が来ると信じていました」と、震える眼差しで言った。

「ヴァーリさん、もしかして、あなたは鳥と……」

 ヴァーリが何も言わずに小さく頷く。

「妹の診療所に鳥と自由に話のできる少女がいると聞きました。私はそんなに多くは話せません。片言ぐらい。それでも伝えるべきことは、この子に言い聞かせてあります。鳥と話すことのできる娘に、この子を引き合わせて下さい。きっと私から妹へのメッセージを翻訳してくれるでしょう」

 ヴァーリが「このキビタキに、もしものことがあるといけないので、あなたからもシャンに伝えて」と、真剣な声で話し始めた。

 そのヴァーリの話を聞いているうちに、林の縁、扉の場所に来てしまう。ヴァーリは立ち止まり、願いを込めるようにキビタキの背を撫でると、春香にその小鳥を差し出した。

「わたしはドームの外に出ることができません、体に埋め込まれた装置が作動して、警報が鳴るようになっているの、だからここまで」

 ヴァーリは後ろを振り返り、穏やかな秋の里の景色に目を馳せた。

「ドームの空間のここが境界。空や遠くの景色は、この半球体の壁面に合成された映像です。でもただの映像じゃない。一年三百六十五日、途切れることなく時間の経過とともに変化していく映像。おまけに映像に合わせて、気温から雨、風、雪、全て自然のままの環境が、このドームの中に作りだされる。外の世界との境界の壁面を見なければ、誰もこの世界が閉ざされた空間だとは思わないでしょう」

 春香が扉の横の風景に手を伸ばす。林のなかの小径が、壁の向こうにも続いている。しかし伸ばした手は、そこに見えないガラスの壁でもあるかのようにぶつかってしまう。驚くことに、その手には壁の向こうの幻の林から吹いてくる風が感じられるのだ。手を離してしまえば、絶対にそこに壁があることは分からない。それはドアについても同じで、次元の割れ目のような扉の表面にも、風景が映り込んでいる。おそらく一度この扉を閉ざしてしまえば、そこに扉があることを知っていても、見つけることは難しいだろう。

 信じられない面持ちの春香を、ヴァーリが急かした。

「さっ、行って下さい。船に戻って。それから、その子は通風口の出口で自由にしてあげて。日が落ちてから、この島を抜け出すよう言い聞かせてあります」

「わたしの服の中に入れて行けば、見つからずにこの島を出られると思うけど」

 春香の提案に、ヴァーリが強く首を振った。

「ここを甘く見てはだめ。浅瀬の参道に立っている鳥居型のアーチがあるでしょう。あのアーチは物質のセンサーになっているの。この島に持ち込むもの、持ち出すもの、全てをチェックしています。この島はいつも霧に包まれている、でも霧は外からの人を油断させるための人工的なものです。自分が見えないからといって、他人にも見えないということではないの」

 喋りながらヴァーリの口調が速くなってくる。

「とにかく急いで、誰にも見つからないように、船の所に戻って、そして姉に伝えて」

 思い詰めたように話すと、ヴァーリは春香の背を押した。

 ヴァーリのピンと張り詰めた眼差しに押され、春香は足早に階段を駆け上がった。外の外周路への出口で一度だけ下を振り返る。あの夢と現実の扉の後ろで、ヴァーリが身じろぎもせずに春香を見つめていた。

 通路を元来た方向に引き返す。通風口に潜り、穴の出口にキビタキを残して外へ。

 霧が薄れ始めていた。

 苔の広場を横切り、石畳の通路を通って船着場へ。最後、春香はほとんど走っていた。講堂の方角から人の話し声が聞こえてくる。衛士のいる詰め所の前を、腰を屈めて通りすぎ、よろめきながら階段を駆け下って待合室に飛び込むと、弾む息を宥めながら、居眠りをしているように椅子にだらしなく寄りかかった。

 いびきをかいていたグンズーホが、体を起こすと、あくびを連発しながら眠そうな目を戸口に向けた。

「変だな、いま扉が開いたような気がしたんだが……」

 春香はその声で目が覚めたとばかりに、「どうしたの」と聞き返した。

 船頭が「いや……」と、首をひねる。春香もつられるように首を回し、目をこする。

「お尻がポカポカしてたんで、いい気持ちで眠っちゃったな」

 春香が深呼吸をするように大きなあくびをついた。

「どれ、目覚ましに外の空気を吸うか」

 船頭が立ち上がって扉を開ける。ちょうどそこに、シャンが薬品箱を担いだ従者と並んで、階段を下りてきた。

 あくびをつきながら、春香も小屋から顔を出す。

「先生、お帰りなさい。どうでした」

 待たせたとばかりに、シャンが軽く手を振った。

「姉は、いま沸砂平原にいるらしくて会えなかった、だが薬は大漁だったよ」

 シャンの顔にいつもの笑顔が浮かんでいた。

 船頭は従者から医薬品の入った箱を受け取ると、「こっちは、ひと寝入りさせてもらいました」と、寝起きの生あくびを堪えたような声を漏らした。

 三人は荷物を運んでくれた従者に礼を述べると、船に乗り込んだ。

 ちょうどタイミングを計ったように霧が払われ、頭上に青い空が開ける。

 船頭が、これで今日の仕事は終わったとばかりに、鼻歌を歌いながら櫓を引く。

 船は元来た水路を戻り、参道の鳥居型の柱の並ぶ浅瀬に出た。折しも午後の真上からの日差しに、浅瀬の底が珊瑚礁のように透けて見える。沈めてある様々な色ガラスが、水面の複雑な揺らぎの模様と光の反射で、砕けた虹のように輝く。

 船頭が感嘆の声を上げた。

「いやあ、参道がこんな綺麗に見えるなんて、先生の日頃の行いが良いからでしょう。船頭仲間でも、こんな参道を見たやつなんかいないと思います」

 春香も船頭に調子を合わせて「すごい、すごい」を連発。そして水面に触れるほどに顔を寄せて水の中を覗きこむ。だが本音は、眼の前を通り過ぎていく参道の柱に視線を合わせるのが怖かったのだ。

 すでに春香には、この湖宮という島が、宗教の聖地ではなく、全く別の不気味なものに見えていた。全体を厚く覆っているふかふかの苔も、実はその下にある物を覆い隠すためのベールであるかもしれないのだ。水路から湖へ。再び広がり始めた霧のなか、湖水の上の聖なる島が、後方に離れていく。しかし春香には、誰かがじっと自分たちを観察しているような気がして、胸が詰まるような気がしてならなかった。

 ベコス地区に戻るまで、春香はほとんど口を聞かなかった。

 シャンはシャンで何か考え事をしているようで、焦点の合わない眼差しを、風になびくヨシの草原に向けていた。もちろん春香に声をかけなかったのは、爆音のごとき機扇船のエンジン音のために、大声を出さなければ話ができないからなのだが……。

 そのシャンが一度だけ春香に話しかけた。彼方に立ち昇る黒い煙、火災の跡が燻っているのだろう鉄床島の煙を認めた時だ。

「春香はあの湖宮を見てどう思う」

 唐突に聞かれて春香は答えに詰まったが、率直に思った通りのことを口にした。

「なんだか、薄気味が悪いように思います」

「実は私もそうなのだ」

 シャンが本音を漏らすように言った。

「湖宮はモア教の聖地中の聖地だが、私はあそこに、聖地一般にある霊的なものを感じない。参道にしろ拝殿にしろ、見かけは聖地そのもの。しかし私は聖なる荘厳さよりも、怨念のようなおどろおどろしさを、あの場所に感じる。もっとも信心の浅い信者の感想ではあるがな」

 しばらく間を置いてから、シャンがボソリと口にした。

「海賊たちは影も形も見なかったそうだ」

 シャンは重苦しい表情で川面に視線を戻した。

 春香は先ほどの事を話して良いかどうか解からず、返事も返さずにそのまま黙ってしまった。船の上で話すには、余りに事が重大過ぎる気がしたのだ。



次話「キビタキ」

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