湖宮
湖宮
ヨシの草原と水路と沼と小河川が迷路のように複雑に絡みあう湿原を、船の後部に大型の送風機をつけた平底の小船が、水面を撫でるように疾走していた。時速にして五十キロは出ている。湖沼地帯で急ぎの際の足として使われる機扇船である。機扇船の運航は、両都の機船組合が運営、操船は組合に雇われた船頭が担当する。
ヨシの枯葉が突風のような風に煽られて宙に舞い、激しい送風機のエンジン音に、水路に隠れていた水鳥たちが、右に左に逃げ惑いながら飛び立つ。
シャンと春香を乗せた機扇船は、網の目のように交錯する水路地帯を突き抜けると、開水面に出た。亀甲大地からドバス低地に流れくだるオールベ河である。
グンバルディエル同様、大河らしい流れの見えない水面は、どちらが上流でどちらが下流か分かり難い。岸辺に流れ着いたヨシの葉の堆積具合で、左方向が下流と判断する。
なお貢朝船が沖待ちをするオールベとグンバルディエルの合流点、包湖は、ここから下流に三十キロほど下ったところになる。
オールベの流れに出た機扇船は、速度を上げ、水面を跳ね石のように疾走し始めた。走るというよりも滑空する感じだ。船底に水面がぶつかり、ドコドコとにぶい音をたてる。
船の前面に取り付けられた透明な防風板の後ろに、シャンと春香は毛布を被り、身を縮めるようにして座りこんでいた。
シャンがショールを襟元に掻き寄せながら、春香に話しかけた。
「機扇船は速くていいが、さすがに寒いな」
春香は目だし帽を被った上に、さらに外套の頭巾を重ねている。それでも風は顎の下の隙間から容赦なく侵入してくる。自分で自分を抱き締めるように体を丸めると、春香は少しだけ弱音を吐いた。
「初めての場所だから、景色を眺めていたいけど、とても無理だわ」
体を寄せ合う二人に反して、船頭のグンズーホは、風などものともせず、船の中央に立って舵のハンドルを握りしめている。窮民街の船頭たちが、まとまりのない雑多な格好をしているのと比べ、機船組合の革の防寒外套と防寒帽をピシリと決めこんだ姿は、船頭というよりも、船長の呼び名がふさわしい。風をまともに受けるグンズーホ船長の背後には、ブルブルと激しく振動する剥き出しエンジンと、燃料油の入った半透明のタンクが置かれている。エンジンが油を呑み込みながら船を走らせる、そのことが実感できる船だ。
姉のいる湖宮を訪問するのに、シャンは春香を同行させることにした。
昨夜、シャンはマフポップから話を聞いた後、下の集会所に出向いて、世間話に興じていたベコ連の年寄りたちに、燭甲熱のことを説明した。春香が燭甲熱の健康保菌者である可能性、それが限りなく低いということをだ。シャンの話に、ベコ連の年寄りたちは頷いていた。だが彼らがどこまでそれを理解できたかは疑問である。
迷信や俗説に人は弱い。偏見ではないが、教育を受けていない人は論理的な理解力が低いために、そうなりやすい。衛生概念などはその典型で、目に見えない病原菌が宿主を変えながら人にたどり着くという話は、抽象的な生態系のサイクルをイメージできるだけの知識と思考力がなければ、理解し難いことだからだ。
集会所に出入りするベコ連の年寄りたちは、日々の付き合いがあるから、シャンの話に耳を傾け、納得したふりだけでも見せてくれる。一方で、周辺の窮民街の連中が皆そうあってくれるとは、とても思えない。
昨夕、患者の家に薬を届けに行った春香は、そこのおかみさんに露骨に嫌な顔をされたらしい。春香は訳が分からず憤慨してアヌィに愚痴を零していたが、それは、そのおかみさんが、牧人会の施療師から、燭甲熱と春香の関係を聞かされていたからだろう。
今朝シャンは診療所を出る前に、春香に事情を説明した。
春香はショックを受けたようだ。
しかし燭甲熱に限らず、ただの風邪で考えてみれば良い。自分が保菌者となって、意識せずに人に病気をうつしてしまうということは、よくあることだ。だからそのことを引け目に感じる必要はない。それよりも窮民街という場所は、迷信やタブーや偏見や、そういった類の物の見方が、色濃く残っている場所ということだ。
それでも実際問題、燭甲熱の流行が治まるまでの間、春香自身は窮民街の住人たちと接するのを控えた方がいいだろう。窮民街で患者が発生した場合、それが春香から感染したのでなくとも、春香が犯人扱いされるだろうからだ。燭甲熱の薬を手に入れるまでの間は、診療所の中にこもるしかない。とにかく春香が保菌者である可能性は、ゼロではない。
そう考えてシャンは、春香に当面外出を控えるよう言い聞かせたが、今日の湖宮行きに関しては、自分に帯同させる形で外に連れ出すことにした。この地が風土病と偏見の巣窟であるということも含め、早くこのドバス低地の全体像を理解することが春香には必要と考えた。
それに本音では、今日に限って、誰か同行者に側にいて欲しいということがあった。
シャンの心の中に、言いようのない胸騒ぎのようなものが渦巻いていた。
機扇船は順調にオールベ河を遡上している。
前にも述べたように、ドバス低地には大河グンバルディエル以外にも、何本もの河川が周辺地域から流れ込んでいる。亀甲台地の北東部から流れ出るオールベ河もその一本で、そのオールベ河の流れ込むドバス低地南東部に、平坦な低地帯にポツリと置き去りにされたようなドーナツ型のカルデラ、セリ・マフブ山はある。そのカルデラの火口湖、ラリン湖に浮かぶ小さな島が、モア教の聖地湖宮だ。
湖宮を訪問するには、カルデラ湖からオールベ河に流れ出るスブア川を遡上する。
機扇船は二時間ほどオールベ河を遡ったあと、幅四百メートルほどのスブア川に入った。すぐに標高千六百メートルの断崖に囲まれたセリ・マフブ山が、目の前に立ちはだかるように迫ってきた。川の周囲に沼とヨシの湿地帯が交互に現れる。
両岸がヨシの湿原から雪の下にゴツゴツとした岩が感じられる曠野のような地形に変わると、船頭のグンズーホは送風機を止めて、船上に引き上げてあったスクリューを水の中に下ろした。船足が疾走から小走りに変わる。
目の前に岩肌が迫り、やがて鋭く切れこんだ絶壁に挟まれたスブア峡谷に機扇船は分け入った。両側は切り立った断崖絶壁である。その間を縫うように川は流れる。ただ川幅は相変わらずで、峡谷といえども流れはほとんど感じない。スブア川のカルデラへの入口と、ラリン湖側の出口の標高差は、赤ん坊の背丈ほどもないそうだ。
エンジンの音が左右の絶壁に反響して、太鼓の合奏のような奇妙な音の強弱を生み出す。まるで何艘もの船が川を遡上しているように聞こえる。
水面がよどんだようにのっぺりとしてきたのを見て、船頭がエンジンのスイッチを切った。プレス機の連弾のようなエンジン音が消えて、静寂があたりを包む。湖でエンジンの音は御法度なのだ。
積んでいた櫓を手にした船頭が、屏風のようにそそりたつ岸壁の右手に船を進める。巻くように屏風の後ろに回り込むと、両側の絶壁が雲のちょうど下辺りで内側に湾曲して繋がり、壮大なアーチを形作る。水路をまたぐ天空の橋だ。不信心な者がこのアーチの下を潜ると、挟まれた岩がその者の上に落ちてくるという。
良く見ると、巨大なアーチは一枚の岩で繋がっているのではなく、左右から伸びた岩の突起が、その間に巨大な岩を挟み込んでいる。あたかも左右から手を伸ばして、真ん中で岩を掴んでいるようだ。岩の名は雷岩、この地にふさわしくない訪問者に、イカズチを落とすということか。
船頭は、地方僧を案内して何度か湖宮を訪れているので、リズムよく船を先へ先へと漕ぎ進めていく。春香は不安な面持ちで、頭上の雷岩を見上げた。やましいことがなくとも、頭上に岩があるというのは落ち着かないものだ。
アーチを潜ると、水路の両側に水中から屹立する岩の塔が現れた。塔は中空になっているらしく、所々に窓が穿たれ、内側に青灰色の僧衣をまとった僧官の姿が見え隠れ。湖宮に拝宮する人々を検閲する臨検門である。
船頭が手を振ると、窓の中の僧官が行けと大きく腕を振った。
僧官の指す方向で絶壁は左右に離れ、間にラリン湖の鏡のような湖面が見えてきた。
船頭の一漕ぎで、一気に目の前の視界が開ける。
鏡のように波一つなく、青い空を映したカルデラ湖がそこに拡がっていた。
磨きあげた鏡のような湖面を、落差一千メートル以上の断崖がほぼ円形に取り囲み、ドーナツ型に連なる真っ白な雪峰が湖面に秀麗な姿を映している。もっとも湖面の広がりが大きいので、カルデラの対岸は遙か先、それほどの標高には見えない。
ラリン湖の湖面をざっと見渡しながら、船頭が感心したように言った。
「ここにくるのは六度目ですが、全く霧のない日は初めて。ここは霧の壺って言われるくらい、いつでも霧に覆われているんですがね」
前方に目を凝らした船頭が、「対岸の映奉山の山襞が、くっきりと見える」と、感嘆の声を上げた。
風景に見惚れて動かすのを忘れていた櫓を、船頭がまたゆっくりと左右に引き動かす。
音も風も何もかもが動きを止め、まるで静止した一枚の風景画になったようだ。その風景に水の波紋を描き加えていく。水深があるのか、透明な水はどこまでも空の光を吸い込み濃紺の闇を捕らえて重い。その巨大な水鏡を切り分けるように船は進む。小船の上からの低い目線では捉え切れなかった湖の左手、やや岸寄りに、小島が見えてきた。
モア教の聖地、湖宮だ。
診療所のあるベコス地区を朝の五時に出発、機扇船を風のように飛ばして四時間半、やっと目的地に到着した。徐々にその島影が近づいてくる。島といっても山はなく、水の上に緩やかな丘の曲線が覗くだけだ。
丘の所々に建物らしきものが三角の屋根を連ねている。
貢朝船などの荷を積んだ船は、島の反対側の港に入る決まりになっている。進むにつれて、島の向こう側に沖泊まりしている貢朝船の帆柱の先端が、手前の建物の間を通して見えてきた。翡翠のような帆は下ろしてある。
やがて島の手前、湖宮の南側に並ぶ拝門と呼ばれる柱の列が近づいてきた。水中から古代遺跡の柱のような石柱が、水没した疎林のように突き出ている。その拝門の手前で、濃紺の水が淡い水色に変わった。浅瀬に入ったようだ。水はあくまでガラスのように透明で、水底に敷きつめられた玉砂利の一つ一つが、くっきりと判別できる。水に没した塑像やオブジェに気を取られているうちに、また霧が忍び寄るように水の上を流れ始めた。
あっという間に霧が辺りを覆う。湧き出す霧の中から、樹海の木立のように苔蒸して藻類のたれ下った鳥居が、次々と立ち現われては、後方に退いていく。
ここは水上の参道なのだ。
前面に石組みの岸壁が見えると、シャンが岸壁に開いた狭い水路に腕を向けた。
「拝宮するのではないから、脇の水路に入ってくれ」
船頭が器用に櫓を操り、水路に船を漕ぎ入れる。両側を石垣に圧迫される狭い水路が続いている。シャンは今までに二度湖宮を訪問したことがある。シャンの話では、この水路の先に拝殿や修養殿などの施設が建ち並んでいるという。シャンの姉がいるのは、湖宮の一番奥の寝生区と呼ばれる一画になるが、それが実際にどの辺りを指すのかは、シャンも知らなかった。姉のヴァーリとは、宗教施設内にある講堂で面会していたからだ。
石組みの桟橋が現れた。青灰色の僧衣をまとった衛士が、塑像のように立っている。
船頭が桟橋に船を寄せると、シャンは身軽に桟橋に跳び移った。
僧衣姿の衛士が僧帽を脱ぎ、体を腰から折り曲げて挨拶をすると、問うた。
「何用か、ここは湖宮の住人しか立ち入ることの許されておらぬ場所だ」
言葉は高圧的だが口調は優しい。シャンを誰か知った上で、手続き上の問いかけをしているのだ。
シャンが一礼して答える。
「ヴァーリ妃の妹のブィブァスブィット・イル・シャンと申す。姉のヴァーリ妃か、もしくはジュール公師に面会を請う。突然の訪問ではあるが、火急の用で来訪した、よろしくお取次ぎを願いたい」
衛士は慇懃に頷くと「承りました、しばらくお待ちを」と言い置き、急ぎ足で桟橋の階段を上がっていった。上に詰め所があり、そこから連絡を入れられるようになっているらしい。ほとんど待たされることなく衛士が戻ってきた。
「ジュール様がお会い下さるそうです、お通り下さい」
シャンは、グンズーホと春香に、桟橋横の待合室で待つように、また二時間以上かかるようなら連絡を入れるからと言って、衛士の後ろに付いて階段を上がっていった。
以前シャンが湖宮を訪問した際に応対してくれたのが、この衛士である。
衛士はシャンに案内の必要はないと判断したのか、階段上の詰め所まで来ると、この先は一人で行くようにと、霧の中に浮かぶ講堂を示して、自分はさっさと詰め所に引っ込んでしまった。シャンは軽く会釈をすると、一人で霧の中に歩を進めた。
衛士の話では、講堂の揺籃の間で待つようにということだった。前に訪問した時もそこで姉と会っているので、建物の位置や道順は覚えている。それよりも問題は霧だなと、シャンは辺りを見まわし思った。湧き上がるように発生した霧で、みるみる講堂が埋もれていく。そういえば八年前に初めて自分がここを訪れた時も、突然立ちこめてきた霧で、前を行く衛士を見失いかけた。シャンは後ろを振り返って詰め所の位置を確かめると、前方の講堂に向かって足を早めた。
階段の先にさらに階段があり、そこを上り切ると円形の広場に出る。広場中央には、火炎樹のように太い石柱に囲まれて、貢朝船と同型の船が安置されている。本物の木造船で、古代のさらにその昔の、神話創世の時代に人類を救ったとされる古代の船を復元したものだ。全長三十メートルくらいか。
シャンは広場右手の講堂に向かった。
階段、手すり、門柱……、辺りの何もかもが苔蒸し、霧を吸ってしっとりと濡れなずんでいる。雪と氷が見当たらないのは、カルデラの火山が生きていて、湖の水温が高いからだろう。だとすれば、この霧も何となく納得がいく。
裾を引く淡い青灰色の貫頭衣を着た衛士が、講堂の大扉を開けて待っていた。衛士はシャンを招き入れると、「ホール奥、右の回廊の突き当たり、揺籃の間でお待ち下さい」と、丁寧な口調で告げた。
天井の高い回廊が奥に向かって続いている。ヒタッ、ヒタッと靴の裏が床に吸いつく音が、静かすぎる回廊の壁や天井に反響する。塵一つなく細部まで磨きこまれた回廊は、神々しくはあっても、人の息吹が感じられず暖かみに欠ける。ただ意外なほどに暖かく空気も乾いているので、シャンは、外のまとわりつくような冷たい霧から解放され、ほっと一息ついた。そして濡れた体を乾かすように、大きく肺に息を吸いこんだ。
回廊奥のホールに出た。
晶化した火炎樹がドーム状の天井に向かって聳え立ち、無数に枝別れを繰り返しながら天井一面に広がっている。一見すると、ガラスの木が天井を支えているように見える。天を支える神樹ということか。その幹の内側に、人の腕ほどの木片が埋め込まれている。
初めてここを訪問した際、シャンは姉のヴァーリから解説を受けた。
それによると、この木片は貢朝船の神話の元となった、古代の船の遺片だという。広場に展示してある古代船は、その復元船になる。
姉の説明に、シャンは笑って「ご神木という訳ね」と指摘した。
その少しおちゃらけたシャンの返答に、姉は真面目な顔で、
「宗教を一般の人に教え広めるには、何か即物的に感情移入のできる物があった方がいいということなの。現在のモア教は物を介した教えを否定してしまっているけど、教義が開祖された当時、つまりこの地に聖地が築かれた当初は、まだご神体を使って教義を広める活動をしていたのね」
そう説明を加えると、シャンは信仰心の薄い妹を軽く睨んだ。
聞いてしまうと有り難みがなくなるが、土台聖蹟の類などはそういうものなのかもしれない。万の人が千の年月祈りを捧げれば、ただの石でも聖蹟に変わる。
シャンがその木片に手を合わせると、姉が苦笑して「そんな義理で手なんか合わせなくてもいいの、あなたが信仰に肩入れする性格じゃないのは分かっているから」と優しく突っぱね、祈りというのはこうやるのと見本を見せるように、神木の入ったガラスの柱に手を触れ、もう片方の手を自分の胸に当てて、祈りの言葉を唱え始めた。
今でも当時のことは良く覚えている。一心に祈りの言葉を唱え続ける姉を前にして、それで何が救われるのだと、詰問したくなる気持ちを抑えるのに苦労したからだ。
しかしあれから八年、窮民街で毎日病に倒れる人たちを見続けているうちに、いつしか祈りに対する抵抗がなくなってきた。足元に死が積み重なっていくような暮らしのなかで、時に人の心にも杖が必要だと感じる瞬間がある。人が人の杖たれる場合もあるが、現実はそうなれない場合の方がほとんどだからだ。
人が自分に与えられた運命や死を受け入れるには、自分で自分の心を支えるための何かが必要なのだろう。そういう人生を歩んでいくための摂理が、歳を経るごとに少しずつ見えてきた。むろんだからといって、自分が宗教に帰依するかといえば、それはまた別の話だ。ガラスに封じ込められた木片に向かって長い祈りの言葉を詠じ終えた姉は、一仕事終えたように晴れ晴れとした顔で妹の方を振り向いた。
随分性格の異なる姉妹だと痛感したものだ。
しかしそんな姉とも、診療所の仕事に追われるうちに、もう六年も会っていない。
シャンは指定された揺籃の間に入ると、姉の夫、ジュール公師を待つことにした。
シャンが一人で講堂に入った時、船着場の待合所では、船頭のグンズーホと春香が長椅子に並んで腰かけていた。
火鉢が一つ置いてあるだけだが、長椅子の中が煥になっているようで、座っているとお尻からポカポカと温まってくる。
待合所の窓から岸壁の石垣の向こうに、霧に霞んだ建物の一部が見えている。
グンズーホは、待合室に入るなり、袂から取り出した冊子を読み始めた。横から覗くと、文章の上に書き込みや線が引かれている。船頭の真剣な眼差しに、春香は黙って外を眺めていたが、それでも船頭があくびをついたのを機に、何を読んでいるのかと話しかけた。
船頭が込み上げてくるあくびを抑えて、教えてくれた。
塁京の水路を航行する船は、船の種類によっては操船に認可状が必要で、明日その最難関の甲機船の資格試験がある。その予習をしているとのこと。陸の馬車と同じで、船頭の仕事も過当競争の状態にあり、少しでも上のクラスの船に乗れるようにしないと、家族を養うのが大変なのだそうだ。この数日、遠出の仕事が重なり、おまけに夜遅くまでテキストに目を通していたので、疲れが溜まっているという。
大変だなと思いながらも、春香は船頭がテキストを閉じたのを見て、話を続けた。
「ここって不思議な場所ね。人の息遣いがしないっていうか、シーンとして、何だかお墓にでも来たみたい」
「そりゃお嬢さん、人間をグチャグチャと詰めこんだ窮民街から来れば、静かなのは当たり前。なんたってここは、聖地の中の聖地。入宮できる人も、特別の場合を除いては聖職者だけだからね」
船頭がテキストを袂に押し込み、代わりにキセルを取り出した。
雁首に刻んだ煙苔を詰めながら話す。
「だいたい聖職者なんて者は、生きているうちから死んだような連中でね。欲も何も一切合切を捨てて。まあここは、下々には縁のない場所ですよ」
「でも貢朝船には、人もたくさん乗っているんでしょう。なのにさっき湖宮に近づいた時、島の上には人影一つ見えなかったわ」
「聖職者たちが入宮するのは、島の向こう側の船着場。あっちが表玄関で、鳥居の回廊は裏口。貢朝船に乗船していた連中は、今頃座殿で瞑想にでも耽っていることでしょう。それに湖宮の僧官たちは、家族を合わせても全部で百人ほどというから、人の気配がしないのも道理ですな」
火打石の火花を器用に雁首で受け、スッスッと吸い口を吸い上げながら、煙苔に火を移す。按配よろしく船頭は大きく息を吸うと、フーッと体の中の疲れや眠気を煙にして吐き出した。
「まあ、自分も話だけで、船着場から先に入ったことはないんですがね」
眠いのだろう、紫煙をくゆらせる間にも、あくびを一つ。
「でも、本当に人の気配が全然しない」
「気配がないんじゃなくて、気配を感じさせない暮らしっていうのかな。そりゃあ質素な修業の毎日らしいですよ。生まれて死ぬまで」
煙の具合が気に入らないのか、船頭がキセルを椅子の縁に打ちつけた。
「一年中霧に包まれた磨り鉢の底で、朝起きて夜寝るまでひたすら祈り続けるなんて、そんな生活、自分は真っ平御免。いくら奉納される貢朝品で食うには困らないといったって、これじゃあ監獄も同然。金も飯も女も何もなくても、外の世界で家族と一緒に自由に暮らしたいですな」
投げやりにそう言うと、船頭はキセルを腰袋に戻して大きなあくびを連発した。
「お嬢さん、自分は一眠りします。先生が戻ってきたら起こして下さい」
知っている事はみんな話したから、もういいだろうとばかりに、船頭は強引に話を終わらせると、目を閉じてしまった。すぐに、いびきをかき始める。
話し相手が眠ってしまい、仕方なく春香は待合所のガラス戸の向こうに目を向けた。船頭と話をしているうちにも、さらに霧が深まったように見える。先程までぼんやりと輪郭の見えていた階段上の詰め所も白一色だ。それに霧が音を吸い取ってしまうのか本当に静か。春香はため息をついた。一年中霧に包まれた場所で祈り続ける人生……。
いったい、何を祈っているのだろう。
講堂の一室、揺籃の間。
シャンが椅子に腰を下ろして程なく、姉の夫のジュール公師が、長い僧衣の裾を床の上に這わせてやってきた。
ゆったりとした貫頭衣の腰の部分を幅広の帯で締め、上から長衣のガウンを羽織っている。袖もゆったりと手を隠すほどに広がっているが、裏地が手首のところで締まるため、外の冷気は服の中に入り込まない。湖宮の聖職者は、みな同じ仕立ての灰白色の僧衣を着用しているが、階位によって帯の色と柄が異なるという。ただその細かな違いまでは、姉から聞いていなかった。シャンが姉から教えられたのは、義兄の公師という身分が、この湖宮の僧位の最高位の十一人を指すということである。
シャンよりも頭一つ上背のあるジュール公師が、均整の取れた顔に満面の笑みを浮かべて手を差し出してきた。やや赤みのある土漠色の肌に、真っ直ぐな茶髪。一文字なりの眉と、切れ長の灰茶色の眼、そして筋のいい鼻梁と、くっきりとした唇……、
人の顔というものは、本来左右のバランスがどこかで崩れているものだが、それが公師場合、一分の隙もなく対称を成している。気品ある顔といえるが、一歩違えば人間離れした冷ややかさにも受け取れる。
その宗教者というよりも、貴族のような顔立ちのジュールが、目と唇に溢れんばかりの笑みを浮かべている。いわゆる神話時代の彫像に見られる笑みで、聖職者に共通のいかなる状況の時にも、感情とは関係なく、判で押したように作ることのできる笑み。作り笑いとも異なる慈愛に満ちた、いや慈愛に満ちたように見せかけた笑み。自分の胸にナイフを突き立てる相手にも躊躇なく返されるであろう笑みが、シャンの目の前にあった。
シャンは、その笑みが好きではなかった。感情を押し隠すための笑みというものを、形は違えど、政治家の家に育ったシャンは、嫌というほど見てきたからだ。
シャンが初めてジュールの笑みに接したのは、もう十二年も前のことになる。
ユルツの技術復興院に、ジュールは特別研究生として来訪していた。湖宮の僧位を持つ人物が外の世界に出向くのも異例なら、宗教学以外のことを学ぶのもまた異例のこと。
しかしその留学中に、ジュールはシャンの姉を見初め、惨事のあと婚姻を結んでこの湖宮に帰還した。
留学中のジュールにはシャンも何度か会っている。僧とは思えないほど博識で、また少し足を悪くしていたこともあってか、同じ障害を持つ者に対して思いやりがあった。シャンよりも七つ歳上だが、あの頃は表情も豊かな好青年だったように思う。
それがこの湖宮に戻ってからは、人が変わったようになってしまったのよと、姉のヴァーリから聞かされた。
『聖職者は自分の妻に対しても、世界の全ての人に対するのと同様に接することが要求されるのだ』と、そう夫は弁解するのと、姉は寂しそうな表情で語った。
とにかく今、義兄の慈愛に満ちた顔が、まるで言葉で抱き締めようとするかのように、懐かしい笑みを浮かべて自分に話しかけてきた。
「やあやあ、遅くなって申し訳ない、昨日来訪した貢朝団を迎えての儀式の最中で、途中で退席することができなかったのだ」
ジュールは、両手をふわりと浮かせ。包み込むようにシャンの手を握り締めた。
「シャン殿、久しぶりだ、前にお会いしてから何年になるかな」
「ちょうど、六年になります」
手を握られたことで思わず姿勢を崩しながら、シャンも笑顔を作った。
押し売りでもするように笑顔を絶やすことなく、ジュールは椅子に腰を下ろすようシャンに勧めると、自分は立ったまま話を続けた。
「近くに住んでいる割には、なかなか会う機会がないものだ。それはそうと元気そうでなにより、窮民街での医療奉仕の活動はいかがかな」
シャンは軽く肩を上下させると、
「砂の城を築くようなもの。時に徒労感に襲われますが、まあなんとかやっております」
そう答えると、シャンは一呼吸置き「ところで、姉は」と尋ねた。
ジュールがその問いを呑み込むように大きく頷いた。
「うむ、あいつは、先年体調を崩してな、というか実は流産をして、そのあと少し心を病んだのだ。で、今は気分転換を兼ねて、沸砂平原の南にある聖地の分所に、療養がてら滞在しておる。心の傷には違う空気を吸うのが一番と言うでな。近いうちに、南回りの貢朝船に同乗して帰ってくるのではないかと思っておる」
ざっと経緯を説明すると「あいつから何も聞いていなかったのか」と、ジュールは意外そうな目でシャンを見た。
姉が今ここにいないという予想外の展開に、シャンは戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに気を取り直して話を続けた。
「そうですか。何度か手紙を出したのですが、返事が返ってこなかったので、どうしたのかと思っていました。今度、文をしたためますので宜しくお渡し下さい」
「うむ、それがいいだろう」
ジュールは、僧官らしく天に誓うように手の平をもたげると、
「しかし何分にもここの時間の流れは、ゆったりとしたもの。手紙が行って返ってくるまでに半年くらいはすぐに経ってしまう。外の人間からすれば、なんとも悠長に見えるかもしれんが、まあ気長に待っていてくれ」
やや言い訳っぽく話すジュールに、シャンは「兄上殿、姉がいれば姉を通じてお願いしようと思っていたのですが」と改まって、例の薬の件を切り出した。
姉の問題はさておき、シャンは今日ここを訪問した本来の目的を口にした。今の政情を考えるに、近いうちに塁京の二都間で紛争が起きる可能性が高く、それに備えるためにも、湖宮に余分な医薬品があれば、ぜひそれを分けていただきたい。できれば無償で、と。
表に出すのも恥ずかしいことですがと前置きした上で、シャンは診療所の財政事情を説明して理解を求めた。
シャンの話に耳を傾けていたジュールは、考える素ぶりもなく即答した。
湖宮は自分の手で何かを生産することのない場所であり、世界各地からの奉納品で支えられている。また教義どおりの清貧な暮らしのため、食料や燃料の備蓄は無きに等しい。聖職者の質実たる暮らしでは、病気に罹る者もほとんどいないのだが、薬だけはそれが必要とされた時の事を考えて、一定量以上の物が保管されている。それが毎年、新しい奉納薬の納入とともに処分される。もしその捨てる薬を誰かが有効に使ってくれるのであれば、それはまことに有り難いことで、譲渡されたことを内密にしてもらえるなら都合はつくだろうと。
「ちょうど貢朝船が着いたところで、この後、不要な薬を処分するはずだ」
今すぐにでも薬が準備できそうな口ぶりで、ジュールが話を進める。
目を丸くしているシャンに、「なに、これでも最高位の公師の一人だからな、それなりの権限はある。あとで係の者を寄こすから、薬の品目や量などを相談してみてくれ」と、ジュールが自信に満ちた顔で頷いた。
安堵の表情を浮かべたシャンに、ジュールは満足そうな笑みを浮かべると、
「貢朝の儀式を途中で抜け出してきたので、そろそろ戻らなければならない」
残念そうに言って、ジュールは腰に吊るした懐中時計を取り上げた。
慌てて腰を浮かしたシャンが、忙しいなか時間を割いてくれた事に礼を述べる。そして最後、立ち去ろうと背を向けた義兄に、思いついたように疑問を投げかけた。
「ところで兄上、つかぬ事をお伺いしますが、昨日、万越群島を根城にしている裏商人の一味が、貢朝船を奪って湖宮に押しかけようとしていたという噂を耳にしました。何か近辺に変わったことはありませんでしたか」
踵を返そうとした足を止め、ジュールが怪訝な顔で振り返った。
「ここに押しかける、それはまた面妖だな。裏商人たちは何を考えておるのだろう、礼拝でもするつもりだったのかな。到着した貢朝船の僧官たちも、特に変わった話などはしていなかったが」
首を捻るジュールを見て、「そうですか」と、シャンはあっさり話を引き取った。
「それならいいのです。おそらく噂は噂で、海賊もどきの裏商人たちは、根城を引き払って海の方にでも拠点を移したのでしょう。この地が騒乱に巻き込まれるのは時間の問題のようですから」
シャンは疑問を口にした言い訳でもするかのように、話を持ち出した。
「実は私は、診療所の資金捻出のために裏商人たちの主治医をやっておりまして、彼らが姿を晦ませたとすると、診療代を踏み倒されたことになると思いまして」
それを聞いたジュールが相好を崩して笑い声を上げた。今までの笑みとは違う、少し甲高い笑い声が耳を突く。
「ハハ、海賊というものは機を見て敏な所があるという。うべ悲しむべきことだが、争いが起きるかもしれないと聞いて、いち早く彼の地を立ち去ったのであろう。ともかく、万が一、海賊どもがここに迷いこんで来たら、診療代を忘れておるぞと伝言して進ぜよう」
「よろしくお願いします、その際には、渡した薬をちゃんと飲むようにとお伝え下さい。裏の稼業をしている者たちと言えど、私の患者ですので」
「分かった」
頷きながら、ジュールがまた甲高い笑い声を上げる。
薬の件に関して直ぐに係の者を寄こすから、しばしここで待つようにと言い残し、ジュールは来た時と同様、長い裾を引きずりながら回廊を去っていった。
ジュールの足音が部屋から遠ざかっていくのを耳にしながら、シャンは呟いた。
「海賊の件は何もなかった……か」
次話「奥の院」




