予兆
予兆
十二月十五日、その日は朝から粉雪が舞っていた。
塁京二都周辺に暮らす人々の間では、未明に聞こえた地鳴りのような音が姦しく話題に取り上げられていた。診療所のあるベコス地区もそれは同じである。
想像を膨らませて話を交わすうちに、バドゥーナ国が裏商人の留守を突いて鉄床島を襲撃、支払った金品を取り戻した上で島を爆破したらしいという話が、どこからともなく伝わってきた。寝込みを襲われ、逃走するために、裏商人が自ら島を爆破したらしいの、島がもぬけの殻だったために、その腹いせにバドゥーナの警邏隊が島を爆破したらしいの、様々な噂が飛び交う。
真相はどうか……、
人々が一時、避難民流入の問題を忘れて噂話に興じている最中、午後になってバドゥーナ国の公式発表の内容が伝わってきた。
それによると、バドゥーナ国は、鉄床島に巣喰う裏商人グループの一つ、ビアボア商会が貢朝船を強奪し、それに乗り込んで湖宮を襲撃する計画を立てていることを察知した。裏商人、否、海賊たちの目的は、湖宮の地下に秘匿されている財宝を奪うことだという。
その不敬な企みを阻止すべく、バドゥーナ国は直ちに水上警邏隊を包湖に派遣、同時に鉄床島へも隊の一部を差し向けた。突然のバドゥーナ国の来襲に、鉄床島に残っていたビアボア商会の残党は、アジトの鉄床島を爆破して霧の中を逃走した。
一方、水上警邏隊の本体は、霧に阻まれながらも未明に包湖に到着。ところが貢朝船は何事もなかったように霧の晴れてきた包湖東岸のゾル湾で、オールベ河を遡上する準備を始めていた。バドゥーナ国の水上警邏隊は、念のために貢朝船をラリン湖手前の臨検門まで見送った後、夕刻に盤都に帰還する予定である、と。
狐にばかされたとはこのことで、貢朝船に同乗していた僧官は、昨夜は海賊どころか近寄ってきた船影一つなかったと証言している。事実、今朝、包湖に船を出した漁師たちも、特に変わった物やそれらしい痕跡など見ていないと話している。
市井の人たちからすれば、霧の夜の珍事で済ますことのできる話だが、バドゥーナ国の警邏隊と情報局の専門家たちにとっては、首を捻りたくなる出来事だった。なぜなら、警邏隊と情報局は、鉄床島で身柄を拘束した留守役の男から、ビアボアの一味が周到な準備の上、貢朝船の襲撃に出掛けたという証言を得ているからだ。実際、鉄床島近くの水路に張り込んでいた密偵は、古代船のジークと、曳航される鷲目船を目撃している。ところが足取りはそこでぱったりと途絶える。
ビアボアの一味が、忽然とこの世界から姿を隠してしまった。
ドバス低地に暮す多くの人々、特にモア教の信者たちは、天に唾する不逞の輩が、その怒りに触れて神隠しにあったのではと考えた。が実のところ、人々にとっての関心事は、裏商人たちが姿を消したということよりも、バドゥーナ国が裏商人の根城から多量の武器弾薬を押収して持ち去ったらしいということにある。
当初、バドゥーナ国は、鉄床島に収蔵されていた武器弾薬は、一味の残党が逃走する際に島ごと爆破してしまったと発表した。しかしそれが事実に反することは、鉄床島から盤都に引き上げてきた水上警邏隊とは別に、荷船の一団が別の水路を通って都に帰還していたことからも明らか。荷船が何を積んでいたかは言うまでもないだろう。
帰還した荷船の数からして、相当量の武器弾薬が鉄床島から運び出されたものと考えられる。なお、これにはおまけがある。運ばれた武器弾薬のほとんどが、ゴーダム国に売り渡されるはずの物だったというのだ。
一方、ゴーダム国は、バドゥーナ国の発表を全く信用していなかった。
裏商人たちの湖宮襲撃計画などというは全くのでっちあげ。バドゥーナ国は最初から裏商人のビアボア商会を殲滅し、母種の取引で支払った代価を取り戻し、一味の根城に収蔵されている武器弾薬を奪うことを狙っていたのだと、非難した。
またバドゥーナ国の発表には盛り込まれていないが、ゴーダム国はもう一つ別の情報を掴んでいた。それが、バドゥーナ国の警邏隊が、鉄床島に閉じこめられていたある人物を救い出したということだ。
バドゥーナ国とゴーダム国は、専門の密偵、さらには民間人も巻き込んで、日々互いの動向を監視している。塁壁内の有線通信や、他国との衛星通信も、ほとんどは傍受盗聴され、暗号も即座に解読される。
深夜の三時、鉄床島が爆破されたすぐ後に、バドゥーナ国とユルツ国の間で交わされた通信が、ゴーダム国の情報局によって傍受されていた。通信はすぐに解読され、バドゥーナ国が身柄を確保した人物が、ユルツ国が行方を追っていたハン博士であることが知れる。
問題は、そのハン博士に関する応答に続いて、『依頼の物』を発送するという暗号文が続いたことだ。通信では、『依頼の物』の具体的な内容には触れられていなかった。しかしゴーダム国の情報部は、それを、以前からバドゥーナ国がユルツ国に要請していた古代兵器に違いないと断定した。
依頼物を示す暗号名が、『万能ナイフ』となっていたからである。
午後一時、バドゥーナ国に有翼日輪のマークを付けた双発機が到着。ユルツ国警邏隊航空局の機で、その双発機は、担架に乗せられた人物を積み込むと、直ちに離陸した。
その際、厳重な警備のなか、機に運び込まれようとする担架の人物が狙撃された。担架の人物はハン博士で、狙撃したのはゴーダム国の手の者であろう。ハン博士がユルツ国の兵器譲渡を決定づける重要なカードになっていると見ていたゴーダム国が、それを阻止すべく、ハン博士を亡き者にしようとしたのだ。
幸いにも銃弾は外れ、ハン博士は無事機中の人となった。
ただゴーダム国は把握していなかったが、ハン博士の身柄確保の前の段階、バドゥーナ国が母種を入手した段階で、すでにユルツ国は古代兵器の譲渡を決定していた。
経緯はどうあれ、古代兵器はバドゥーナ国に搬送されることになった。
だがそれをゴーダム国が手をこまねいて見ているはずもない。
塁壁の内側に暮らす両繁都の市民、郡部や地方の囲郷の住人、農園の移民労働者、川岸のヨシ小屋で身を寄せ合って暮らす窮民街の人々、そして塁京周辺に溢れる避難民の人たち、ドバス低地に生きる全ての人々に、今回の鉄床島爆破の件が伝わった訳ではない。それでも、塁京二都と呼ばれるバドゥーナ国とゴーダム国、その二国の間で行われている熾烈な駆け引きと、弾ける火花の隙間から零れ落ちてくる情報の断片から、二つの国の間の緊張が急速に高まっていることを、誰もがひしひしと感じていた。
この鉄床島が爆破された日の朝、
シャンの診療所はいつになく混み合っていた。一つには、今日は南部系の人たちの八年に一度の大祭の日で、牧人系の施療院の大半が休診、本来ならそちらに回るはずの患者がシャンの診療所に足を運んだということがある。加えて今日は、シャンの診療所が午後から休診とあって、近辺の患者たちも朝から詰めかけていた。
往々にして、こういう時に限って、シャンの所では手に負えない重症の患者や、外科的な治療を必要とする患者が運び込まれてくる。普段なら、そういう患者には、近所の設備の整った牧人系の施療院を紹介するのだが、今日に限ってはそれもできない。塁壁の内側、貧民向けに設立された都の救済施療院まで転送しなければならなかった。
この時運び込まれてきたのは、樹液の盗掘穴で麻苔を吸っていた男だ。天井から落ちてきた石が頭を直撃したという。脳挫傷である。
都の救急隊が窮民街の患者の搬送に応じることはなく、手数でも連れて行かなければならない。おまけに、救済施療院に入院させるには、身元引受人として、診療代の支払い能力のある人間が帯同していく必要がある。
仕方なくシャンは他の患者たちを待たせ、意識不明の男に付き添って都の救済施療院へ急いだ。そして一件落着で帰ってきたところに、今度は腹部に痛みを訴える妊婦が担ぎこまれた。妊娠九か月のその婦人は、数日前から腹痛と微熱が続いていた。いつも宿便が酷く、痛みもよくあることで気に留めていなかったが、今朝方から急に痛みが酷くなったという。右上腹部を押さえると、弾けるように顔を歪める。通常、虫垂炎の痛みは、腹部右下で起きるが、妊娠中で胎児に押されて内臓の位置が変化しているようだ。直ちに手術を行うことに。
原則としてシャンは、軽度の怪我の処置などの場合を除いて、外科的な手術を管轄外として引き受けない。しかし祭礼の日は別で、万一のことを考え、一階奥の手術室は何時でも使える状態に整えてある。すぐに妊婦の執刀に当たるが、手術の最中に陣痛が始まる。陣痛の開始から分娩まで、十五分というスピード出産だった。
虫垂炎の痛みから解放された術後の妊婦は、宿便に較べれば、赤ん坊をひねり出すのなんて造作もないことよと言って、あっけらかんとしていた。聞けば、死産も含めて出産を七度経験しているという。シャンは、婦人と新生児の手当てをブリンプッティ婦人に任せ、待たせている一般の患者の対応に二階の診察室に戻った。
アヌィが、「生まれた赤ん坊の幼名は、絶対にモーチョが、いい」と、真剣な顔で春香に同意を求めた。
この日、診療所の診察が午前中だけなのは、今日が月に一度の、寄生虫の駆除剤配布の衛生講話の日だからである。窮民街の住人はまず間違いなく百パーセント腹のなかに寄生虫を飼っている。栄養状態の良くない窮民街の住人にとって、寄生虫は大きな問題で、寄生される虫の種類によっては、まぶたの裏が真っ白になるほどの貧血や、便が垂れ流しになることもある。寄生虫といえども、窮民街では生死に関わる問題なのだ。
その寄生虫の複合駆除剤の無料配布と抱き合わせで、シャンは感染症を防ぐための衛生概念の講習会を行う予定にしていた。ところが午後を過ぎても、午前中の患者が並んで待っている。この様子では、予定の衛生講話は後日に持ち越すしかない。
ようやく患者を診終わったのが、午後四時。ブリンプッティ婦人は、別の窮民街で産気づいた妊婦が出たとかで、一息つく間もなく往診のカバンを手に、診療所を駆け出していった。その餅太りの体をゆすって診療所の階段を降りて行くブリンプッティ婦人と入れ替わりに、階段の下から瀕死の男がシャンの診療所に運び込まれてきた。
男は二十代半ば、体のいたるところに細かい裂傷がある。
左腕と右足は骨折、左目は、えぐれたまま塞がり、肋骨も何本か折れている。その異様さは、耳と鼻が削げ落ち、右足の甲に長さ二十センチもある釘が打ち込まれていることだ。手の甲に残った傷は、足と同様、釘が打ちつけられた跡だろう。半昏睡状態で、肌に触れると冷たい。体温が三十度を切っている。
今朝、泡湖の東岸で、カニ漁のカゴ揚げに向かった漁師が、吹き寄せられたヨシの間に、意識不明で倒れている彼を見つけた。漁師は、見つけた青年を噂になっているビアボア商会の一件と結びつけることはしなかったが、それでも三色に染め分けたような髪の青年が、何らかの禍に巻き込まれたのだろうとは考えたようだ。体の状態からして、漁師小屋に連れて帰っても助からないと思い、シャンの診療所に運んできたのだ。一見して、生きているのが不思議なくらいの状態だった。
シャンは、漁師の男に後で話を聞かせてくれと言って紙幣を一枚握らせ、マフポップに男の相手を頼むと、自分は急いで診察室に戻った。
アヌィが、匣電に繋いだ保温用の電熱毛布で青年の体を包み込むその横で。春香が顔を強ばらせて「この人」と指さした。
「分かっている、ビアボアの所で会った青年だ、新入りと呼ばれていた……」
青年のまぶたを開き、目を覗き込んだシャンの顔が険しい。瞳孔が散大しかかっている。首筋に当てた指にも、脈は触れるか触れないかの状態だ。手足は重度の凍症で、皮膚は紫色を通り越して土気色に変わっている。
青年の口がかすかに動いた。
慌ててシャンが青年に呼びかける。
「私の声が聞こえるか、どうした、何があった」
血の気の失せた青年の唇から、うわ言のように声がもれた。
「ひかり、ひか、り、が……」
「どうした、光がどうしたんだ」
呼びかけざま、シャンが青年の口に耳を寄せると、青年が血で塞がった右目を僅かに開いた。そして「ここは」と擦れた声を発した。
シャンが声高に話しかける。
「聞こえるか、ここはベコス地区にある民間の診療所だ。何があった」
「そうか、ベコス地区……、あの……、診療所の、先生……か……」
状況が掴めたことに安心したのか、青年はゆっくりと目を閉じた。目を開けている気力もないようだ。血の気の失せた唇を振るわせ、「ビア、ボアは……」と聞く。
「ビアボアは行方不明、鉄床島はバドゥーナ国の水上警邏隊が爆破、壊滅させた」
「壊、滅……そう……か……」
口元に笑みを浮かべた青年に、シャンが急くように尋ねる。
「どうした、何が起きた、ビアボアの一味はどうなった」
しかし青年は「全ては……、ひかり……」と、言いかけたまま声を途切らせた。
時の止まったような数秒が過ぎる。シャンが青年の閉じたまぶたを押し開け、首を振ると、その様子を見てアヌィが電熱毛布の電源を落とした。
ベコ連の年寄りや、診察を終えて下の集会所で世間話に興じていた連中までが、何事かと待合室の外に集まっていた。シャンが覗くと、漁師とマフポップの姿がない。
シャンがマグの所在を聞くと、年寄りたちが一斉にドアの外に顔を向けた。
ちょうどそこに、年寄りたちの間を割るようにして、マフポップが待合室に戻ってきた。
シャンと目が合うと、マフポップが決まり悪そうに頭をかいた。
「すみません、あの漁師、もう自分の用は済んだからと……」
漁師の男は、あの後、シャンから渡された紙幣をマフポップに返して、診療所を出て行った。青年の状態からして、やはり尋常の事ではないと考え、関わりになるのを恐れたようだ。仕方なくマフポップは、見送りがてら船まで漁師の男に付き添ったのだが……。
マフポップが一旦話を止め、戸口に目を向けた。年寄りたちの視線が気になったのだ。
シャンは、マグに診察室に入るよう促すと、戸口にたむろしているベコ連の年寄りたちに向かって、パンパンと手を叩いた。
「さあさあ、診療所は集会所じゃない。あまり足繁く来ていると、そのうち棺桶の方から挨拶に来るぞ。急患以外は帰った帰った」
年寄りたちは不服そうな顔を見せたが、文句も言わず診療所の前の階段を下りていった。
扉に休診の札をかけシャンが診察室に戻る。
すぐにマフポップが話し始めた。
船着場に向かう漁師の男に、窮民街の連中が、しつこく昨夜の包湖周辺の様子を尋ねる。
最初は口ごもっていた漁師の男も、何度も聞かれるうちに「漁師仲間で、夜中の二時頃に、霧がボーッと光るのを見たやつがいて」と、重い口を開いた。が、すぐに「乳霧の張った夜でも、霧の薄い場所なら、頭の上に星や月が見えるこた、あるで。まあ、西方で空を賑わせる、地霊様の光でも見たんじゃねえか」と、言葉を濁して黙り込んでしまった。何かを伏せたような口ぶりだった。
桟橋に戻るまで、漁師の男は、自身が運んできた青年のことには触れず、最近都で売れるようになった、脱皮したての柔らかいカニの話を、並んで歩く男たちと続けた。
マフポップは、漁師にまとわりついて離れない窮民街の野次馬に気押され、漁師の男とは言葉を交わさなかった。しかし男が船に乗り込む際、思いついて外套のポケットに押し込んであった飴を袋ごと彼に進呈した。衛生講話の際に子連れのおかみさんたちに配る飴で、マフポップとしては、重症の患者をわざわざ診療所まで運んでくれた、お礼のつもりだった。
「こりゃあ、いいお土産で」
漁師は喜んでそれを受け取ると、桟橋にいる野次馬たちの目を避けるように、ボロ布の塊をマフポップに差し出した。
「それが、これなんですが」と、マフポップが油染みの付いたボロ布を懐から取り出す。
丸めたボロ布の中に、赤ん坊の手ほどの大きさの、金属とも石ともつかない白っぽい塊が押し込んであった。漁師の男が言うには、青年を見つけた近くの水面に浮かんでいた物で、釣りの浮きに使えないかと思って拾い上げたものだという。
シャンがそれを手に取る。表面がブツブツと泡立った、浮き石のようなものだ。端の方に少しだけ模様らしきものが残っている。
「あの兄さんの持ち物かもしれねえで、返してやってくだせえ」
漁師の男は、そう言ってボロ布ごと石をマフポップに渡すと、晴れ晴れとした顔に戻って、馬頭船のもやい綱を解いた。
手にした浮き石に目を落としながら、シャンは首をひねった。
石の表面に残っている渦巻き模様らしきもの、それをどこかで目にしたような気がしたのだ。それにこの泡のような質感も……。
浮き石を見つめるシャンを前にして、マフポップは眦から力を抜いた。漁師を引き止めることはできなかったが、青年に縁のあるかもしれない石を託されたことで、最低限の務めを果たすことができたと思ったのだ。そのほっとしたマフポップの目に、ベッドの上に掛けられた白い布と、そこからはみ出た土気色の足が目に留まる。
足の甲には、まだ釘が打ち込まれたままだ。
思わず目を背けたマフポップの後ろ、準備室から、清拭用の布を手にした春香とアヌィが出てきた。汚れた遺体を清めるのだ。
アヌィが無造作に遺体の上の布を払う。鼻を削がれ、目をえぐられた遺体である。分かってはいたが、思わず春香は布を取り落としてしまった。
そんな腰の引けた春香を尻目に、「すごーい、爪が全部剥れてる」と、アヌィがはしゃぎながら青年の黒ずんだ指を自分の指先でなぞる。
まるでまな板の上の魚でも扱うようなアヌィのあっけらかんとした態度に、春香は体全体でため息をついた。とにかく気持ちを奮い立たせて、青年の汚れた腕に布を当てる。
この遺体を拭き始めたアヌィと春香の後ろで、マフポップは額に手を当て、椅子に座りこんでいた。無残な遺体を目にしたショックで、頭痛が湧いてきたのだ。
「検査室に下がっていなさい」
気づいたシャンがマフポップの背中を押す。
言われて席を外すマフポップに、「男のくせ、意気地ない」と、アヌィが罵声を浴びせる。
「まあ、そう言うな、世の中には色々な体質の者がいる」
やんわりアヌィをたしなめると、シャンは検屍の用意を始めた。医師のシャンとしては、遺体の状態を記録しておかなければならない。それに損傷の激しい遺体や汚れた遺体は、埋葬する前に、できる限り整えるのが礼儀だ。
解剖までは行わないが、遺体の損傷部位をメモしながら、シャンは考えていた。
この湿地帯に発生する濃霧のように、見えないことが多すぎる。それに何かが思い出せそうで思い出せない、それが気になっていた。
春香とアヌィに手伝ってもらい、シャンは青年の遺体を埋葬用に整えた。
運び込まれた時は、泥と、ちぎれたヨシの葉に塗れていたので分からなかったが、体の至るところに、痣と打撲の跡が刻まれていた。拷問に遭ったとしか思えない。
アヌィは平気な顔をしていたが、足の甲に打ち込まれた釘を抜く時、春香は涙が出て止まらなくなった。
塩気を吸ってゴワゴワに絡みあった青年の髪を、ていねいに櫛ですく。春香は染めた髪だと思っていたが、自分の手で整えてみて分かった。自毛なのだ。この三色の髪にも何か意味があったのだろうか。もし青年が生きていれば聞いてみたかった。
春香は、青年の髪を鉄床島の中で見かけたように、真ん中できっちりと分けて揃えた。
拭き清めた遺体に洗い晒しのシャツを着せ、診療所の裏の倉庫に運んで安置する。関係者が訪ねてきたときのためだ。
その後、足の指の動脈を切った男の子の手当てをしているうちに、夕刻の五時をまわる。シャンは衛生指導の講話会は無理でも、駆虫剤の配布だけでもと考えていたが、どうやらそれも無理のようだ。何人かいる寄生虫による衰弱の酷い患者には、明日にでもマグに薬を届けさせることにしよう。そう考え、頭の中で明日以降の予定を組み直しているところに、今度は腎肥病の老婆が連れ込まれた。病状が進行して腎不全一歩手前の状態で、黒炭肌の顔が、チモチの芋のようにゴツゴツとむくんでいる。続いて急性の麻苔中毒で意識が朦朧とした青年に、傷が化膿して手首がパンパンに膨れ上がった少女……。
全ての患者が引けて、遅い昼食を口にした時には、夜の八時を回っていた。
療養棟から朝生まれた赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
赤ん坊の家族の差し入れだという、餅の中に小銭の入った紅白の宝餅を、アヌィが熱い苔茶と一緒に出してくれる。その蒸かしたスポンジ状の宝餅を手に、シャンがあっと声を上げた。そして白衣のポケットから、あの浮き石を取り出し、もう一度ゆっくりと眺める。
思い出したのだ。
それはユルツ国の惨事の現場を訪れた時のことだ。
惨事から半年が経っていたが、爆心地には、まだ一面に融けた石や金属の塊が転がっていた。綺麗な球形の石があった。一瞬の高温と高圧で物質が蒸発し凝縮されてできた金属球だと、専門家から説明を受けた。爆心地からやや離れたところには、金属石が発泡してスポンジ状になった物も、投げ捨てた砂利のように転がっていた。
いまシャンの目の前にある楕円形の浮き石と、表面が泡立ってスポンジ状になった、あの時の金属石がそっくりなのだ。それにこの浮き石の表面に見え隠れしている渦巻きの紋様、部分しか残っていないが、思い起こせば、これはビアボア一味の大番頭と呼ばれる男が手にしていた杖、骨杖の先に填め込まれていた蛇紋様の陶器の飾りと同じだ。
何か言いようのない胸騒ぎがシャンの胸のなかに湧き上がってきた。
シャンは待合室の隣、検査室にいるはずのマフポップを呼んだ。
返事がないので扉を開けて中を覗くと、マフポップは頭にヘッドフォンを付けたまま、机の上の機械をいじっていた。音波を使った造影機。都の総合施療院から廃棄予定の壊れた機械を譲り受けたものだ。いずれ自分の診療所で本格的に婦人科の診察を始める際に必要となる機械で、修理はマフポップに任せてある。
耳にヘッドフォンを当てたまま、マフポップは一心に機械の構造を図面に写し取っていた。ヘッドフォンから漏れているのは、耳障りな兇音だ。
シャンはヘッドフォンの縁を軽く指先で弾くと、「聞こえる状態か」と、マフポップに聞いた。慌ててヘッドフォンを外したマフポップに、シャンが告げた。
「マグ、明日は臨時の休診日にさせてもらう。もしどうしてもという患者が来たら、悪いが夕方の五時までには戻るから、それに合わせてもう一度来てもらうか、待ってもらうように伝えてくれ。それから機扇船を手配してほしい。明日、湖宮に行く。出発は朝一番だ。代金はレントゲンの機材購入用に積み立てていたものを使う」
マフポップは用件の意味に思い当たったのだろう、「湖宮ということは、姉のヴァーリさんですか」と問い直した。シャンの姉が湖宮の公師に嫁いでいるのを思い出したのだ。
「うむ、ちょっと思う事があってな。こういう時、相談に乗ってもらえるのは、湖宮の姉くらいなのだ。それに今の情勢を考えると、予備の医薬品を調達しておきたい。考えたくはないが、二都の対立が嵩じて争いが起きれば、手持ちの薬では足りなくなる。少しでも余分を調達しておかねばな」
「分かりました、すぐに手配してきます。先方への連絡はどうなさいますか」
シャンが額に手を当てると、思案げに首を振った。
「もう八時を回っている。訪問の依頼状を早船に託している暇はない。明日、私が行って直接面会を請う。それで問題はないはずだ。これでも私は湖宮の関係者の身内だ。それよりも予備の発動機を整備しておいてくれ、情勢次第で、一つでは足りなくなる」
シャンの診療所では、風車を回して匣電を充電、照明と医療機器用の電力を確保している。五十個ほどあるカバン型の匣電を常に充電した状態にしておくのは、マフポップの仕事だった。しかし非常時となれば、匣電の電力だけでは足りなくなる怖れがある。それに一基しかない風車が故障してしまえば、電力の補充が利かなくなることも……。
こういう時のために兼々樹油用の発電機と、容量のある泡壺の入手をと考えていたが、医薬品の手配に予算を取られて後回しになっていた。
マフポップは外套を掴むと、船の手配に診療所の外へと駆け出していった。
マフポップと入れ代わりに、春香とアヌィが防水のシートを抱えて入ってきた。
二人が診察台のシートを取り替えるのを、シャンは椅子に座ってぼんやりと眺めていた。
シャンの姉は、湖宮の公師に嫁いでいる。公師とは聖地の最高位の僧官を指す。その公師の妻という姉の立場なら、多少の医薬品は都合できるだろう。実際六年前に、若干の医薬品を手配してもらったことがある。バドゥーナ国やゴーダム国が、この情勢下で窮民街の診療所に薬を回してくれるはずがない。いま頼れるとすれば湖宮の姉だけだ。
それにシャンとしては、ビアボアたちのことが頭に引っかかっていた。
湖宮に行けば、入宮したばかりの貢朝船も滞留しているだろうし、この胸騒ぎを静める何かが掴めるのではないか、そう思ったのだ。
しかし、本当に何が起きたというのだろう。
自室に戻ったシャンの目が、机の上の浮き石に向く。
自分は予感などというものを信じないたちだが、今回だけは違う。ビアボアが湖宮襲撃などというばかげた計画を諦め、そのまま河口の港町にでも行っているなら良い。しかし、おそらくそれはないだろう。いかに情報伝達の遅いこの世界でも、噂は意外と迅速に伝わるものだ。昨日以降、ビアボア一味で姿を見せた人間は、傷だらけで亡くなった、あのまだら髪の青年、一人だ。
何かが起きた、三十名近いビアボアの一味が姿を消す何かが……。
人がその痕跡も残さずに消える、その寒々しさをシャンは知っている。
あの十年前の惨事がそうだった。爆発時の高熱で、半径二キロ内にいた人間は、一瞬にして蒸発、骨も残らなかった。それがけが人よりも亡くなった人の多さに現れている。人が肉体も心も、その存在そのものが消し去られてしまう。残されたのは、ドロドロに融けた大地の表面だけだ。遺族は涙を流す対象すら見つけることができなかった。それは死というよりも、虚無の世界だ。
爆心地から少し離れた場所では、爆裂の圧力で人体が岩の隙間に押し込まれ、爆発後、岩の表面から脂が滲み出ていたという。岩のひび割れに沿った汚れから脂がじわじわと滲むように浮き出てくる。その話を聞いただけで、シャンは吐き気を覚え、怒りを感じ、最後、言いようのない悲しみが湧き上がってきた。
惨事から半年後、ようやく一般の人が惨事の跡地を訪問することが許され、自分も亡くなった友人の弔問に爆心地を訪れた。三名の友人がここで働き、消えた。しかし爆心地に頭を垂れた自分を支配していたのは、薄ら寒いささくれ立った感情だけだった。ただひたすら震えが止まらなかった、それだけを覚えている。人がその存在を消される、紙に書いた文章を消すように。それは断じてあってはならないことだ。
「先生」と、扉の向こうから呼ぶ声で、シャンは考え込んでいた頭を上げた。
扉の隙間から、春香が湯気の立つコップを持って顔を覗かせていた。
心配そうな目が自分を見ている。
シャンは、パンと自分の頬を平手で打った。そして交互に腕を回すと、自分を叱咤した。
こんなことではいけない、診療所では自分が主人なのだ。その主人がこんな顔をしていては。むりやり笑顔を作ったシャンが、気を取り直すように「失敗したな」と、春香に声をかけた。
「何がですか」
「あれだよあれ、ビアボアの船を貰い損ねた。爆発で灰になっただろうからな」
「あーっ!」と、春香が頭を押えた。そうだった、完全に忘れていた。
がっくり肩を落とすと、春香は「仕方ない、あぶく銭は身に付かないっていうから」と言って、悔しさを紛らすようにシーツのしわをキュッと押し広げた。
「何それ、あぶく銭、って?」
扉の後ろにいたアヌィが、目をパチクリさせながら小首を傾げる。春香は、あぶく銭ではなく、昨日の診察の際にビアボアと交わした約束のことを、アヌィに説明した。
するとそれを聞いていたシャンが、今度は本当に悔しそうに拳で机を叩いた。
「本当に失敗だ、主治医としての半年分の俸給を貰い損ねてしまった」
唸るように言って髪を掻き乱す。
その派手な身ぶりの先生に、アヌィが無邪気な声で答える。
「ビアボアさん、また、出てくる、そんな気が、するけど」
「そうあってくれれば嬉しいが……」
そう呟くと、シャンは天井を見上げ「まあビアボアのことだから、どこか別の世界に行ったとして、それが天国でないことだけは確かだろう」
シャンの堅い笑い声が、診察室の剥げ跡の残る壁に反響した。
時間はやや前後する。この日の正午を境に、烽火杭の避難民が、かなりの規模でバドゥーナ国のラビス郡に侵入を始めた。一部はラビス郡から隣接するロワ郡にも、なだれ込んでいる。膨大な水域と塁堤を抱えているため、土竜弾の埋設が間に合わなかったのだ。鉄床島襲撃のためにバドゥーナ国周縁部の水路の警備が手薄になったのと、地雷埋設の遅れの隙を突かれたといってもいい。急遽、周辺郡部の警邏隊と予備役にも動員をかけて、ラビス郡に流れ込んでくる避難民を押し返そうとしているが、湧き出すように水路を渡る避難民に、もうどうにも手がつけられない状態になっているらしい。
その避難民流入の動きは、隣国のゴーダム国の郡部にも及んでいた。
烽火杭の避難民キャンプだけではない、今、八十万の避難民を擁するドバス低地最大のキャンプ、螢火杭の関が破れようとしていた。
すでに、バドゥーナ国が、何か強力な古代の兵器をユルツ国から買い取ったという話も、人々の口に上がっている。人々は憂慮していた。その古代の兵器がバドゥーナ国に届けられる前に、ゴーダム国が何らかの軍事行動を起こすのではないかと……。
人が集まれば誰もがその話題を口にし、いつゴーダム国が行動を起こすだろうと、その時期を噂しあった。そして、皆がよってたかって想像力たくましく導き出した答えは、それだけの強力な兵器なら、搬送にもかなり手間が掛かるに違いない。おそらく一度に運べないだろうから、分解して飛行機で分けて運ぶとして、数日は掛かるのではないか。それにゴーダム国も事態がここまで急に進展するとは考えていなかっただろうから、具体的に行動を起こすとしても、やはりある程度の時間が必要となるはずだと。
結論は、三日後が危ないというところに落ち着いた。
全くの素人の推測に過ぎないが、当たらずとも遠からずではないかと、多くの人がこの予想を支持した。
全くのいい加減な憶測である。
この大陸では久しく国と国がぶつかるような大きな戦火は起きていない。誰もが実感もなく、人事のように事態の推移を眺めていた。
争いは富の分配をめぐって起きる。
一見すると、戦争は、宗教や民族や文化の違いというベールをまとって始まることが多い。だがそのベールの下には、常に争うべき富が見え隠れしている。ある時は、それは作物を生み出す大地であり、またある時は水であり、ある時は地下の鉱物資源であり、家畜であり、奴隷であり、財宝であったりする。人は自らの暮らしを豊かにするものを手にするために、命を賭ける。ただそれをあからさまに口にするのを憚る時、神や国の名前を叫び、教義の違い、思想の違い、文化の違いを錦の御旗のように振りかざす。満都なき後の千数百年の間、国家間の争いはほとんど起きていない。その理由は、一重に争うべき富が無かったということに尽きる。争いを生み出し支える余剰が無かったのだ。
日々の暮らしに汲々とするしかない世界では、個人や小集団の間での争いはあっても、国家の争いにまで対立が発展しない。いや、その国家でさえが成立し難いほどに資源が乏しかった。
奪うべき相手の財産よりも、その財産を奪うに費やす自身の財産が大きい時、誰がわざわざ労多くして益少ないことをやろうとするか。石炭一個を得るために石炭二個が必要なのが、餅一個を奪うために餅が二個必要なのが、資源やエネルギーの枯渇した世界だった。奪うべき相手の富も、自分と似たりよったりの貧しい富でしかない。その富とて富とは、とうてい形容し難い物でしかないのだ。
空腹では喧嘩もできない。みな腹を減らし過ぎ、争いをする気力も湧かない時代が続いていた。満都なき後、まさに貧者の平等に支えられた平和が続いていた。
貧乏な長屋暮らし、水呑み百姓の暮らし、どちらを向いても、貧乏人が肩を寄せあって命を繋いでいくような生活が当たり前だった。
砂漠のなかにポツンと離れたオアシスが二つあるとする。お互いぎりぎりの水と食料で生き延びているような暮らしである。相手のオアシスを配下に置こうとしても、出向いていくために持参する水と食料もばかにならない。それにたとえ配下に置いたところで、さして自分の生活が豊かになるわけでもない。配下にくみして甘い汁を吸うということは、その裏で、常に相手を脅し、組み伏し、管理し続けなければならないということだ。
支配される側はあまり意識しないが、支配するという行為は、想像以上に財力と労力と精神力を必要とする。だのに、その組み伏した相手から奪えるものといえば、口先を潤す程度のものでしかない。一歩違えば、相手を組み伏す労力のために自らが痩せ細るだろう。寒冷化し資源の枯渇した人口もまばらな世界というのは、そういう世界だった。
争うことは、少ないエネルギーと食料を浪費するだけの愚かな行為であり、生き延びるためには、ひたすら、かつかつの貧窮生活に耐え続けるしかない。それがほんの三十年前までこの世界を支配していた、当たり前の考えだった。
それが、耐水性の火炎樹の発見に伴うドバス低地の開発で様相が一変。新たな富が誕生したのだ。
広大な湿地が火炎樹の農園として開発された結果、膨大な量の樹液が採取され、両の手から零れ落ちるほどの油と食料を生み出し始めた。新たな富の出現だった。膨大な物資と商品が生み出され、それによって国と国の間、地域と地域の間に、持てる者と持たざる者が誕生。物資は水が高きから低きに流れるように大陸中に広がる。そして今まで耐久生活を余儀なくされていた人々の暮らしと、その意識を変え始めた。
持たざる国も、持てる国の富によってその恩恵を被るようになってくる。
このグラミオド大陸全体が、ドバス低地の開発によって暮らしが底上げされ、そのことによって争うことの体力が生まれたのだ。
余剰が争いを生む。
その典型が今ドバス低地で始まろうとしていた。
ドバス低地の趨勢は確実に争乱へと傾きつつあった。
避難民が大量に流入を始めた塁京周辺部は騒然とした状態に包まれ始めていたが、塁京の内側、塁京二都のあるクルドス分水路周辺は、まだ静穏のうちにあって、一般の人たちの間にも、まだそれほどの危機感は生まれていなかった。
いつの時代も、社会の動向を把握できるのは、集められた情報の頂点に立って全体を俯瞰できる立場の者、国の中枢にいる者たちで、社会の底辺にいる者は、戦渦の足音が近づいていても、それを知らずに日々の暮らしに気を揉んでいるものである。
シャンの診療所のあるベコス地区では、二都の対立や避難民の流入といった事とは別の問題が、声を潜めて囁かれていた。
それに気づいたのは、機扇船の手配から帰ってきたマフポップだった。
ベコス地区の集会所は、この周辺の情報の交差点である。次から次へと人が顔を出して情報を持ち込み、また持ち込まれた情報を受け取って散っていく。皆に変人扱いされているマフポップも、このひと月、二日に一度は集会所に顔を出すようになっていた。ベコ連の幹事役を努めるジトパカと雑談を交わすためである。もっとも、マフポップの方から声をかけるのではなく、マフポップが集会所の前を通ると、「茶を飲んで行け!」と、ジトパカに呼び止められるのだ。最初は戸惑っていたマフポップも、今ではその声が掛かるのを楽しみにするようになった。
年寄りたちが世間話に興じる集会所の前を、マフポップが多少の期待を込めてゆっくりと歩く。ところが、いつもならマフポップの姿を認めるや、「この兇音バカ!」と、からかいの言葉を飛ばす若手の年寄りたちが、話を止めて、窺うようにこちらの様子を盗み見ている。奥にいるジトパカ翁は、気がつかない振りをしているのか、横を向いたままだ。
どう反応していいか迷ったが、マフポップは歩調を崩さず、無言で集会所の前を通りすぎた。自分から翁たちに声をかける勇気はなかった。とにかく何事もなかったように診療所の階段を上がる。
無視、自分が都の塁壁の内側で暮らしていた時には、当たり前のことだった。
それが窮民街のシャンの診療所で暮らすようになってからは、馬鹿にされたり野次を投げ付けられることはあっても、冷え冷えとした視線で拒絶されることはなくなった。
なのに……、
無視をするのなら、最初から声などかけて欲しくない。なまじ声をかけられ、心待ちにするようになった分、余計に寒々しく感じる。そして思う。やはり自分のことを理解してくれるのは、先生を除けば、自分と同じ境遇の者しかいないのだと。
マフポップは怒りにも似た腹立たしさを胸に、風車小屋二階の自分の部屋に駆け上がった。そして匣電にスイッチを入れ、電鍵通信のキーを叩き始めた。
三カ月前のこと、マフポップは、シャン先生から長杭に住む自分と同じ体質の青年を紹介され、電鍵通信を交わすようになった。電信音での会話だが、マフポップは生まれて初めて腹蔵なく自分を曝すことのできる知己を得た。やがて友が友を呼び、今では通信仲間が四人に増えて、暇さえあれば部屋にこもって電鍵通信に耽るようになった。
未だ顔も知らない友人たちだが、それでも今の自分にとっては大事な心の支えで、その友人たちと通信を交わしている時が一番心安らぐ時間だった。
とにかく今は電鍵仲間と話を交わし、ささくれ立ちそうな気持ちを振り払いたかった。
そう思って電鍵を叩き始めた時、誰かが風車小屋の扉を開けた。
先生……と思って、階下に下りると、そこにジトパカ翁が立っていた。
「話がある」と言って、翁が複雑な表情で風車小屋に体を滑り込ませてきた。
夜の十時、アヌィと春香が診療所一階の自室に引けたのを確認した上で、マフポップはシャン先生の部屋の扉を叩いた。マフポップが夜間にシャンの部屋を訪れることはない。
シャンはマフポップの重苦しい顔を見て、すぐに相談事があると見て取ったのだろう、座るよう椅子を勧めた。
マフポップが、ジトパカ翁から告げられたことをシャンに伝える。
それは、自分のことではなく春香に関わる問題だった。
こういうことである。
今日の午後、牧人系の施療師がベコス地区の読経所を訪れ、地区のおかみさんたちに衛生問題の講話を行った。その際、いま門京の烽火杭とバドゥーナ国で流行の兆しを見せている古代病、つまり燭甲熱の話題を取り上げた。
マフポップの話に耳を傾けながら、シャンは、すぐにその施療師が、おかみさんたちに何を言わんとしたかを察した。
燭甲熱、感染すると一週間ほどの潜伏期間を置いて発病、高熱が三日ほど続いて死に至る、マリア熱と並んで人から恐れられる、この時代の二大疾病の一つである。燭甲熱は発熱の仕方に大きな特徴がある。頭部が高熱を発するのに対して、逆に首から下は冷たいほどに体温が低下、人の命が頭に火をつけて燃え尽きていくような発熱の仕方をする。まるでロウソクが燃えるようにだ。そのことと筋肉が固く強ばることから、この熱病は燭甲熱と名づけられた。
問題は、マリア熱の感染者が、ほぼ百パーセントの割合で発病するのに対して、燭甲熱は感染しても発病しない場合があるということ。その場合は、感染して体の中に菌を持ったままの、いわゆる健康保菌者となる。
そもそも、なぜこの燭甲熱が別名で古代病と呼ばれるのか。
燭甲熱が最初にこの大陸で発生したのは、満都中期のことである。グラミオド大陸中西部のとある都で、一人の古代人が冷凍睡眠から蘇生した。直後、その都は謎の伝染病によって壊滅的な被害を受ける。数年後、生き残った人たちによって、未知の伝染病の正体と発生の経緯が明らかにされる。都を滅ぼした病原体は、蘇生した古代人の体内にいた。冷凍睡眠は、人体と同時に病原菌をも生き永らえさせていたのだ。
古代人を感染源として拡がったことから、その伝染病は古代病と呼ばれるようになった。都を再建した生き残りの人々は、そのことを教訓に、冷凍睡眠の古代人を蘇生させる際に、入念な保菌検査を行うようになった。それと併せて、万一未知の伝染病が流布した時のことを考え、伝染病の研究を強力に推し進めた。それが結果として、再建した都の経済を支えることになる製薬業の育成に繋がっていく。
つまり、その古代病で壊滅し再建された都というのが、シャンの故郷、現在のユルツ連邦の邦主国ユルツである。
留意すべきは、古代人すべてが古代病の保菌者ではないということだ。
今では、冷凍睡眠の古代人には、無菌タイプの者と、そうでない者の二種があるということが分かっている。ほとんどの古代人は、無菌処理を施された上で冷凍睡眠の棺に納められている。ところがごく希に、保菌体のまま冷凍処理された者がいる。そのことを知らずに解凍すると、その人間は病原菌をまき散らす悪魔となってしまう。
八百年前のユルツ古国で起きた燭甲熱、古代病の流行は、そのことがまだ知られていなかったために起きた悲劇だった。
この燭甲熱と古代人の関係で厄介な点は、古代人は古代病の菌が体内に入っても発病しないということ。古代人は先天的に免疫を有している。それはつまり、古代人は燭甲熱の菌に感染すると、菌をまき散らす健康保菌者、菌の運び屋になってしまうということだ。
夕刻、ベコス地区で燭甲熱、古代病の話をした牧人の施療師は、感染の危険性があるので、古代人のいるシャンの診療所には行かない方がいいと忠告した。
衛生指導の講話に名を借りた、シャンの診療所に対する嫌がらせである。
シャンは、ダーナから春香が古代人であるということを知らされた。
自分の診療所に運び込まれた少女が古代人であると教えられた時、シャン自身真っ先に心配したのは、燭甲熱のことである。しかし経緯を聞くと、少女の蘇生には、ハン博士の母親、つまりレイ医師が関わり、彼女が無菌タイプの古代人であることを確認済みだという。それに春香がここに来て、あるていど言葉を喋れるようになってから聞いた話では、長杭の総合領事館で検疫を受け、その時はシロ、燭甲熱の感染は認められないという診断が下りている。検査の直後に、バドゥーナ国の盤都バンダルバドゥンに連行されたということなので、シャンは感染の心配なしと判断した。盤都は燭甲熱に関しては、非感染地区だからだ。
それがつい数日前のこと、盤都の塁壁の内側でも燭甲熱の患者が発生。門京の烽火杭では二週間前から、長杭でも一週間前から、毎日十人単位の発病者が出ている。
潜伏期間を考えれば、春香が長杭や盤都に滞在した際に感染者もそこにいた計算になる。燭甲熱を媒介するのは移動性の高い冬虻で、春香が長杭と盤都を経由してここに来た以上、途中で菌を拾って、健康保菌者になっている可能性は捨て切れない。そしてその保菌者であるかのどうかの検査は、残念ながらシャンの診療所ではできない。都の総合施療センターでなければだ。
しかし検査して春香が保菌者だと判明したら、その時は……。
それにたとえ春香が保菌者でなかったとしても、心配が無くなるわけではない。対岸のバドゥーナの都で燭甲熱の患者が出ている以上、そこで感染者を刺した冬虻がベコス地区に飛来して春香を刺し、春香が健康保菌者になる可能性は残る。
問題を解決するためには、燭甲熱の菌を殺す薬を飲み続けるしかない。
だがその薬はこの診療所には無く、都の薬事局で入手しようとすると、高額の料金を請求される。頭の痛い問題だった。
話を伝えてくれたマフポップを前にして、シャンの目が曇った。
次話「湖宮」