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星草物語  作者: 東陣正則
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義眼


     義眼


 花火も終わり、町の広場では、噴き上がる蒸気を背景にして退屈な祝辞が続いていた。それを皆、楽しげな表情で聞いている。夜の祝賀会と夏送りの祭りの準備が進むなか、町の大通りでは気の早い連中が楽器を奏で、その賑やかな音が祝典の続く広場にも、町の高石垣の外にも零れている。

 そんな喜びに包まれた町を眼下に、レイは炭坑脇を通る坂道を下っていた。目は足元の砕石を追いつつ、気がつけば頭の中はシーラと交わした話に戻っている。

 シーラの小屋を後にする際、レイは尋ねた。ウィルタの名前についてである。

「あのウィルタという名前は、誰がつけたのですか」

 レイが尋ねると、シーラは怪訝な表情を浮かべた。なぜ祖母であるレイが、そんなことを聞くのかという顔である。話をつき合わせるうちに、シーラがウィルタという名を、あの子の元々の名だと思い込んでいたことが分かった。抱きかかえていた幼児をハンがウィルタと呼んだ。だからシーラは何の疑いもなく、それが子供の名前だと思い、そう呼ぶことにした。

 シーラはしばし考えこむと、「元の名前を使うと、ハンの子供と分かってしまうから、預ける際に名前を変えたのでしょう」と、レイの疑問に答えた。

 レイもなるほどと頷く。

 だが理由はそれだけではないと、レイは思う。

 都では、三歳までの幼児には、本名に至るまでの仮の名として、幼名をつける習わしがある。その幼名には、あえて縁起の良くない物の名が用いられる。瓦礫とか牛糞とか竈の煤といった、人の名としては相応しくない名を与えるのだ。幼児が悪魔に命を持って行かれないよう、護符のように業とそういう酷い名をつける。

 この時代、幼児の死亡率は三割を超える。地域によっては、四割に達するところもある。幼児に仮の名をつけるのは、そのことを反映した習慣といってよい。三歳までの幼児は、まだ神の領域の住人で、無事に三年を生きて初めて人は人として生まれる。三歳の誕生日に命名式が行われ、初めて子供は人としての名を授かるのだ。

 そしてウィルタ……、

 今ここでウィルタと呼ばれている男子は、幼名、本名ともに、彼が生まれた時に、祖母であるレイが名付け親となって命名した。もちろん本名は親にだけ知らせて、三歳の命名式の日まで公表されることはない。ハンが失踪した当時、孫は幼名で呼ばれていたのだから、それが本名に変わってしまえば、本名から孫がハンの息子であるということが知れる恐れはない。しかし息子は孫に予定していた名前を与えなかった。私の命名した名を使わず、まったく別の名を付けた。それは……、

 頭の中の考えに気を取られ、また石につまずきそうになる。

 気がつくと坂のなかほど、炭鉱施設の前まで下っていた。

 建物の向こう側には、採炭の時に出る砕石が山のように積み上がり、湿地側に崩れ落ちている。坑口横の巻き上げ機も止まり、いつもは人影の見える事務所脇の寄り所にも人の気配はない。本日に限っては、炭鉱の連中も全員が開通式に出払って留守。町から届く賑やかなざわめきのなか、炭車の鉄の軌道が静かに日差しを反射しているだけだ。

 日産で炭車六台分の焚石を生産する、ささやかな炭鉱である。

 シンと静まり返った事務所の並びの前を通る。

 並んだ石造りの建物の端に、昔倉庫として使われていた古い建物がある。その中の一室が、町の診療所の分室として使われている。普段は閉めているが、炭鉱で事故が起きたり怪我人が出た場合には、そこに医師が詰める。

 レイは肩にかけた袋を手で押さえた。別れ際にウィルタの養母から渡された薬苔と、もう一つ、無理を言って分けてもらった、マリア熱用の丹薬が入っている。

 レイはそれを、町の診療所に持っていくつもりにしていたが、止すことにした。

 五年前までこの町で医者をやっていた男が、昨日突然町長の家に顔を見せた。町が寂れると、いち早く別の土地に逃げ出した医者が、蒸気が復活したとたんに姿を現す。そして昔のよりを戻そうとでもするかのように、開通式でごった返す町の臨時の診療医を引き受けた。そういう男と診療所で顔を合わせたくはなかった。

 そんなこすっからしい前任の医者を、町の住人は良く思っていない。それでも町に常勤の医者が戻って来るという話は、明るい話題として、今日の開通式に彩りを添えることになった。ただ常駐する医者が戻ってくれば、レイがこの町に通う必要はなくなる。

 レイ自身、蒸気の開通式には関心がなかったし、この歳になって人混みに揉まれたいとも思わなかった。それに町長への挨拶は、朝一番で済ませてある。一番の懸案であった孫のことは確認できた。明朝の隣町に戻る軽便鉄道の時間までは、自分にとって骨休めの時間。そして今のレイにとっての気分転換とは、伝統薬の研究だ。

 レイは医薬師である。

 単に医師と言わずに医薬師と呼ぶのは、治療のための薬を自分で調配合するからで、治療と施薬を同時に行う専門家を指して医薬師と呼ぶ。都などの医者の多いところでは、治療と施薬が分業化している場合もあるが、地方で医師といえば、医療と施薬の双方を担当するのが当たり前である。

 元々眼科の専門医であったレイは、製薬を主産業とするユルツ国で業績を上げるために、薬は薬でも、古代薬の研究部門に転進した。在任中、様々な古代の薬を復元、その中にはユルツ国の経済を支えることになった薬もある。功績が認められて、技術復興院で年に一度授かる賞も受賞し、重要なポストも与えられた。だがそれも息子の失態で失ってしまう。

 そのことはいいとして、こうやって地方の雇われ医者をやる中で、今は伝統薬の研究に生き甲斐を見出していた。

 在任当時、自分は人工の合成薬しか扱ってこなかった。ところが、世界にはまだまだ地域、民族によって、様々な未知の伝統薬が使われている。そのことに、この歳になってようやく気づいた。趣味と言ってしまえばそれまでだが、どこかでもう一度、自分の評価を覆すような発見も有り得るのではないか、そんな気概も手伝い、せっせと新しい薬を見つけてはその成分を調べていた。

 今一番の関心は、シクンの民が使っている、紫黴の一種から作ったマリア熱の薬である。マリア熱はこの世界で広く流布している刺し蠅が媒介するウイルス病で、現在、その治療薬は、複雑な過程を経て合成されるために、一般の人にとって、かなり高価な薬となっている。だがもし紫黴から同様の効果の物が取り出せるなら、それはこの大陸で暮らす全ての人にとって朗報となるだろう。

 レイは診療所の分室で、その試験をやろうと考えていた。大まかな成分の分析なら、手持ちの試薬を使って分室の機材でもできる。きっとそれをやっている間は、自分を憂鬱にしている様々な事を忘れられるだろう。息子が孫を、実の母親である自分ではなく、曠野の女に預けたことも。それに息子が孫に自分の命名した名前を付けなかったこともだ。

 気がつくと、レイは分室のある倉庫の前に立っていた。

 実験が出来る、その思いが自分の心を浮き立たせる。おそらくこういう気分は、畑違いの人には理解できないだろう。

 そう思いつつ、鍵を取り出したレイの前で、扉が内側から開いた。

 押されるようにして、レイが後ろに倒れる。

 ドアから出てきた長身の男は、外に人がいるとは思っていなかったのだろう、手を差し伸べようとするも、慌てたせいで今度は小脇に抱えた包みを下に落とした。

 金属音の混じった鈍い音が石段の上で鳴る。

 その音に気を取られ、今度は差し伸べかけていた手をレイから足元の包みに……、

 間髪を入れず、レイが罵声を浴びせかけた。

「ちょっとあなた、一度差し出した手を引っ込めるとは、どういう了見よ」

「あっ、申し訳ありません、大丈夫ですか」

 言うほどに詫びる様子もなく、上背のある黒炭肌の男は、やり直しとばかりに長い腕を老女に差し伸べた。憮然としたレイは、黒々とした手の甲と、淡い肌色の手の平という表裏のはっきりした男の手を、叩くように払い除けた。そして自力で起き上がると、再度文句を投げつけてやろうと男を睨みつけ、「あなたは」と意外そうな声をだした。

 男は男で、驚いたようにレイを上から見下している。

 二人はしばし石像のように体の動きを止めると、互いの顔を見つめ合った。

 黒炭肌の男は、二週間前の落盤事故の際に、資材ケースの中から意識不明の同僚を抱いて出てきた男である。縮れて頭皮に張りついたような螺髪に、黒い瞳と分厚い唇、それに細長い手足と首。灰茶色の坑夫服の下に、古代語をデザインしたラビア紋様のセーターを覗かせている。昔ユルツ国で流行った柄で、いまレイが着ているセーターと同じものだ。

 レイが、この男と顔を合わすのは、先日の事故の時以来だ。

 あの時は以前どこかで見たことが、と思っただけで、救命処置をしているうちに、会ったことも忘れていた。ところが、いま明るい日の光の元で男の顔を見て、昔の記憶が蘇ってきた。この男、都にいた当時に何度か目にしたことのある人物で、名前は確かオバルと言った。

 その長身黒炭肌のオバルはレイの鞄を拾うと、「どうされたんですか先生、開通式にはお出にならなかったんですか」と、擦り寄るように話しかけてきた。

 腰の埃を払いながら、レイがオバルの腰を押し返した。

「それを言うなら、あなたこそどうしたの。きょうは特別休暇で、炭鉱の男たちは全員式典に出席中でしょう」

「あっ、いや、それは……」

 オバルが長い腕を折り曲げるようにして、頭の螺髪を掻いた。

 口ごもったオバルの腰を、レイが右手で勢いよく叩く。

「まあいいわ、それよりも時間はあるの。一度話がしたかったのよ。中に入りなさい。お茶でもご馳走するわ、シクンの美味しい苔茶が手に入ったの」

 待ち人に会った時のように顔をほころばせると、レイはオバルの腰を掴んで、扉の中に押し入れた。

 薄暗い倉庫の内には、錆ついた機械や、炭鉱の備品が無造作に積み上げられている。その物置状態の倉庫の一角が、板状の壁で仕切られ、診療所の分室として使われている。

 鍵を開けて、その分室に。

 外壁がくり貫かれ窓が填め込まれているために、思いのほか明るい。左側に机と診察台、右側にベッドがシーツを剥ぎ取られた状態で並んでいる。

 窓に歩み寄ったレイが、下方に広がるユカギルの町を眺めて言った。

「前任の医者ってのが、炭鉱に入るのを極端に嫌がる人だったらしいの。それで、事故の時には医者に少しでも近くにいて欲しいと願ってる炭鉱の連中が、町なかの診療所とは別に、ここに分室を作ったの。そしてことあらば医者をここに連行して、待機してもらってたというわけ」

 オバルが、さもありなんと、かぶりを振った。オバル自身、若い時から何度も炭坑に潜っている。危険な坑道での仕事に事故と怪我は付きもの。ガス中毒、落盤による圧搾、出水、炭坑は一秒を争う怪我や死と隣り合わせの世界だ。

「まあ、その腰の引けた医者の気持ちも、分からなくはないですが」

 相槌を打ちながら、オバルは脱いだ外套を椅子の背に引っかけた。

 机と診察台の間に、達磨型のストーブがある。レイはセーターの袖をまくるとストーブの前に屈み、防水マッチで乾いた苔に火をつけた。

 気をきかせてオバルが石炭箱の蓋を開ける。そのオバルにレイが注文を付けた。

「石炭はバケツの中ので間に合うから、水を汲んで。水差しはそこ」

 部屋の奥に小さな流しがある。金属製の水差しを手に、オバルが流しの蛇口を捻ると、赤い錆を含んだ水がチョロチョロと流れだす。

 ストーブの中の火を弄りながら、レイは流しの前に立つオバルに目を向けた。

 点滴の台よりも上に頭がある。そそり立つような後頭部が、より身長を高く見せている。が、なにより目立つのは手足の長さだ。雑多な民族の暮らすユルツ国でも、漆黒の肌と長身のマルド族は少数派で、特徴的な体型もあって印象に残りやすい。

 レイは素早く頭の中の名簿をさらった。

 この長身のマルド族の男、名前をオバルという。

 彼は、息子のハンと同様、十年前の惨事の生き残りだ。施設の中心、管制室の中にいて、ハンと共に助かった数少ない現場のスタッフでもある。ただ現場の人間といっても、彼は広報部の記録班の所属。惨事の際にたまたま管制室にいたために、ハンと共に九死に一生を得た。以上の事は、事故を伝えるニュースで知ったことだが……。

 しかしレイがオバルと面識を持ったのは、事故のせいではない。古代薬の研究に転身する前、レイは都の施療院の眼科に勤務していた。その施療院に、金属片で目を怪我した年配のマルド族の男が来院、レイが担当となった。その金属加工を仕事とする男、父親に付き添っていたのが、息子のオバルだった。

 横から見ると、オバルは長身でありながら、胸から上が前傾している。そのやや猫背気味のオバルに、レイが懐かしげに思い出を口にした。

「お父さんは元気、もう二十年以上も前になるかしら、あなたのお父さんを診たのは」

「いえ、父は三年前に亡くなりました、でも先生のおかげで、亡くなる直前まで仕事を続けることができて、幸せな最期だったと思います」

「そう、それは良かった」

 レイはストーブの前から立ち上がると、戸棚から茶器を取り出した。

「でも奇遇ね、こんな邦境の町で会うなんて。惨事の後、あなたがハンと一緒に助かったということを聞いて、本当に驚いたわ」

 水差しに水を受けながら、オバルも懐かしげに話を合わせる。

「ええ、炉心の崩壊直前に、管制室だけがロケットのように施設から離脱してしまうなど、誰も想像していなかったでしょう。でも不時着した時の衝撃で、ぼくは肋骨と足を折りました。まあ命拾いをしただけでも、神に感謝すべきことなんでしょうが」

「そりゃあ、そうよ、三千人も亡くなっているんだから、でもやっぱり奇遇」

 戦利品でも披露するように水差しを掲げるオバルに、レイが尋ねる。

「それであなた、どういう理由で、こんな邦境の町の炭鉱で働いているの」

 螺髪頭をひと撫で、苦笑いをしながらオバルがその訳を口にした。

「いえね、それが全くの偶然なんです。旅の最中に金を失くしまして。当座の旅費を作るために、この町の炭鉱で働くことにしたんです。そしたら早々に今回の落盤事故。まったく嫌になります」

 レイが乾いた笑い声をあげた。オバルが惨事以前にも、都で話題になった事故の当事者であったことを思い出したのだ。ある意味、この長身の男は都では有名人だ。なぜなら、惨事の元となった古代施設の第一発見者として知られていたからだ。

 オバルから受け取った水差しの水を薬缶に注ぎ入れると、レイはからかうような目でオバルに視線を合わせた。

「いいじゃない、生きているんだし、それに人助けをしたんだから」

「それはそうですが、でも事故が付いてまわる自分には、ほとほと嫌気が差しているんです。これで三度目ですからね」

 オバルは、おおげさに肩を竦めて見せると、この話題は止しましょうとばかりに、レイに同じ質問を投げ返した。

「先生の方こそ、どうしてこの町に。都を離れたというのは人づてに聞いていましたが」

「ああ、私ね……」

 直ぐには答えず、レイはオバルに椅子を勧め、自分もストーブの脇に椅子を寄せると、これまでのことを掻い摘んで話して聞かせた。失踪した息子のせいで都を追われるように離れ、息子を探して各地を放浪したあげく、食べていくために地方で雇われ医者をするようになった経緯をだ。事の発端である惨事当時の話をしていた時には憂うつそうな顔をしていたレイが、地方の町医者稼業の話となると、六十を過ぎた老女とは思えない若々しい表情を見せる。

 レイが声を弾ませた。

「都のあるユルツ国と違って、このユカギルも西隣のベリアフも、こじんまりとして何もない町だけど、住めば都でいいものね。ユカギルには、ここの町長に是が非にでもと頼まれて、半年ほど前から、週に一度、出張診療に来ているの」

 オバルが、納得したように膝を打った。

 惨事で多くの人が死んだ。生き残った人たちも、人生を無惨に断ち切られたり捻じ曲げられたりした。体に浴びた烈光の後遺症で苦しんでいる人もいるし、働き手を失って困窮している家庭、まったく実害が無くとも、事故を目の当たりにして、精神的なショックから心に変調を来した人もいる。

 オバル自身も、あの惨事で大きく人生が変わってしまった一人だ。

 ユルツ国の国土復興計画。その核となる事業が、氷の底から見つけ出された古代のエネルギー発生装置を復活させることだった。その装置を稼動させる臨界実験の際の事故である。国民の期待を一身に背負った事業だったために、都から離れた立地にも関わらず、多数の民間人が施設を見学に訪れていた。そのことが、結果として多くの被災者を生むことになった。当然、生き残ったスタッフや、計画を推進していた国の担当機関に対する風当たりは強い。

 惨事の後、国の諸機関では、事業に関わりのあった人物が職を解かれるケースが目立った。それはまだ良い。何の責任もない民間人でも、事故の際に烈光を浴びたというだけで、以後周囲の人たちから忌み嫌われるといった理不尽な差別も横行した。その双方をオバルは経験していた。

 オバルは、ファロス計画と呼ばれる国土復興計画の記録班に所属していた。記録班ゆえに、事故そのものに直接の責任はない。もし民間人が誰も亡くなっていなければ、爆心地から奇跡的に生還したのだから、英雄の扱いを受けただろう。ところが記録班は広報部の一部署であり、都の人々に臨界実験の見学を呼びかけたのは、その広報部になる。

 いやその事にも増して、事業の元となった古代施設の発見者として、オバルは喧伝されていた。全ての問題の発端はオバルにあるという目で、人々はオバルを非難し弾劾した。

 オバルもレイ同様、追われるように都を離れ、異国に職を求めた。父の葬儀で久しぶりに都に顔を出すが、刺すような視線は変わっていなかった。オバルの左腕にある傷は、投げつけられた鉄片でできたものだ。レイが、責任者の母というだけで、都中から冷たい目で見られたというのは、オバルにとって痛いほど良く分かることだった。

 オバルが含んだような声で尋ねた。

「先ほど先生は、失踪したハン博士を捜したとおっしゃいましたが、何か彼の行方を探る手掛かりになりそうな物は見つかりましたか」

 レイが、フンと鼻を鳴らした。

「何も、全くどこに雲隠れしたのやら、手掛かり一つ無し。母親に何も告げずに孫を連れて失踪。そのまま十年、何の便りも寄越さない。生きているのか死んでいるのか。あんな薄情な息子のことなんか、もう忘れたわ」

「そうですか……」

「生きているなら、一言文句を言ってやりたいけど。オバル、あなたは離脱した管制室で一緒に助かった仲なんでしょ。あの子から何か連絡でも無かったの」

 オバルが、なにも、とばかりに両手を拡げて見せた。

「そう」と、レイが投げやりに相槌を打つ。

 音信不通になっている息子に対する苛立ちを誤魔化すように、レイは音を立て始めた薬缶を取り上げた。そして薬缶が思いのほか軽いことに気づき、渋面を浮かべた。長くエネルギー事情の悪い土地で暮していたせいで、湯を沸かす時は必要最低限の水しか入れない癖が身に染みついていた。意識していないと、湯の少な過ぎることがままある。

 水を足した薬缶をストーブの上に戻しながら、レイがフーッと長い息を吐いた。

「この町は恵まれているわね。こうやって暖房にも湯を沸かすのにも、石炭が使えるんだもの。ユルツ国じゃとてもこうはいかない。噂で聞いているけど、都のエネルギー事情はかなり逼迫しているそうね」

「都を離れて久しいですが、人づてには聞いています」

 この時代、都と呼ぶにふさわしい都市には繁都名が付けられ、ユルツ連邦の連邦府があり、かつユルツ国の首府でもあるダリアファルは、隣接する貴霜山から名を取って霜都と呼ばれる。この霜都ダリアファルは、ユカギル同様、エネルギー源を地熱を汲み上げる熱井戸に依存している。ところが最盛期に十三基あった熱井戸も、すでに十一基が閉鎖し、残った二基も三割にまで蒸気が減少。現在、都の暖房は、配管に温水を流す方法が取られているが、冬場は家の中で水が凍りつかない程度の暖房がやっと言う貧窮ぶりである。

 電力は照明に限られ、煮炊きは、南部の台地から供給される質の悪い褐炭と、隣国や連邦内のほかの地域で買い付ける高価な外炭に頼らざるを得ない。その耐久生活もじり貧で、北の氷床が少しずつその勢力を拡げ、北から都を覆うように包み込み始めていた。

 このエネルギー事情の重苦しさに輪をかけているのが、都の経済事情、懐具合で、主な産業である製薬業が、ライバルの北の国に押されて振るわず、新しい代替産業の目処も立っていない。このまま事態が進んで、残りの井戸の熱が絶えれば、都は凍りつくしかないというのが現状だった。 

 オバルの説明する都やユルツ国の情勢は、大枠ではレイも掌握している。

 ユカギル、あるいはレイの任地のベリアフは、ユルツ連邦の東の端に位置しているとはいえ、軽便鉄道によって日を置かずして情報は伝わる。それでも、オバルの話す細部の事情から、都を覆う切迫感がさらに増していることが感じられた。

「いずれは氷の都ということね」と、レイが冷めた声で言った。

 二人がユルツ国について情報を交換しているうちに、薬缶が再び音をたて始めた。

 レイが鞄から小袋を取り出し、苔茶を二摘みほど急須に放り込む。薬苔とともに分けてもらった、シクンの発酵茶だ。

 苔という植物は、その成分のために発酵が難しく、良い味や薫りを醸し出すには熟練の技を要する。そのため一般に市販されている苔茶は、人工的な香りや味を添加したものがほとんど。その人工の香料もユルツ国の重要な商品なのだが、それをシクンの民は苔だけで馥郁たる発酵茶を作る。

 急須に湯を注ぎながら、レイが話題をユルツ国のことに戻した。前から話の出ている遷都の動向を尋ねたのだ。

 ユルツ国周辺の地下の熱床は、長期に渡って衰退の一途を辿っている。このまま残る二基の熱井戸の熱が枯渇してしまう前に、都の機能を南部の褐炭地帯に移すべきではないか。その遷都案が、三十年来繰り返し議論されているが、新たな熱床が見つかるのではという期待を捨て切れず、いつも検討議題として先送りにされてきた。それに現実問題、遷都を実行しようにも、国庫は底をついている。遷都したくとも、その体力が残っていないというのが実情だった。

 ユカギルのように住人が二千人程度の囲郷なら、小回りが効いて、打つ手はあるのかもしれない。それが、首府のダリアファルだけで十七万の人口を抱えるユルツ国では、遷都するのも、今の場所で生き延びるのも、事はそう簡単ではない。有り体にいえば八方塞がりの状況だった。

「だから……」と、オバルが話を止めた。

「だから何なの?」

 オバルは受け取ったカップをそのまま机に戻すと、固い表情でそのことを口にした。

「どうやら、ファロス計画の再開が、決定したようです」

 カップに手を添えたまま、レイが上目遣いにオバルを睨んだ。

 そのレイの顔、くっきりとした二重の目と、厚みを帯びた唇、さらにはがっしりとした鷲鼻までもが、顔の前方にぴたりと焦点を合わせるように並んでいる。

 老医薬師の強い視線を遮るように、オバルがカップを自身の前にかざした。

「確かに、あれだけの死者を出したうえに、施設も融けて無くなり、原因の解明もうやむやに終わった計画です。だから、誰もファロス計画がもう一度ユルツ国復興の手段として提案されるとは、思っていなかった。でも十年という時間と、ほかにユルツ国を救う手段が無いということが、事態を変えたのです。すでに三年前から予備調査の名目で、計画再開への布石は打たれてきました。あとは正式に国の事業として認可し、人と予算を注ぎ込んで計画を再開する。政府内部ではすでにその合意ができていて、近日中にもファロス計画再開の正式発表がなされるそうです」

 情報通っぽく語るオバルに、レイが射貫くような視線をぶつける。

「前の時でさえ計画に反対する人がいたし、事故の被害者だってたくさん残っている。簡単に再開とはいかないでしょう」

「いえ、そこまでユルツ国は追い詰められているということなのだと思います。最後まで反対の立場を取るのは、事故の直接の被害者だけではないかと、事情に詳しい都の友人たちは話しています。とにかくもう計画は再開されたも同然。すでに資材の調達も始まり、スタッフの人選も進められている模様です」

 オバルが自信を持った口ぶりで断言した。

「近いうちに、ハン博士に対しても探索命令が出されるでしょう」

「息子に?」

 意外そうに聞き返すレイに、オバルが声を強めた。

「ええ、あの古代科学の粋を尽くした炉の復興事業、ファロス計画の中心にいたハン博士は、計画の遂行には絶対に欠かせない人材です。だから計画の再開が正式に公表された段階で、ハン博士を探しに情報局のスタッフが各地に散るはず。いやおそらく、もうその捜索は始まっているでしょう。いずれ母親であるレイ先生にも、情報局の連中が接近してくると思います」

 真顔で話すオバルの最後の指摘を、レイは遠慮なく笑い飛ばした。

「ハハ、それはご苦労様としか言いようがないわね、私はあの子に関しては何も知らないの。情報局の連中には精々頑張ってもらって、隠れんぼをしているあの子を引きずり出してもらいたいわ。私も、ほっぺたを引っぱたいてやりたいから」

 琴線に触れられたようにレイが歯がみをする。その臆面もない苛立ちを見て、オバルは「いい香りですね、この苔茶は」と、話題を逸らせた。

 実は先ほどからオバルは、手元で湯気をたてている苔茶の香りが気になっていた。

 どこかで嗅いだ匂い……と話をしつつ記憶をまさぐり、ようやくある情景を思い当てた。ファロス計画の現場で、ハン博士がスタッフに苔茶を振舞っていた光景である。あの時に嗅いだ曠野特産の苔茶の香りだ。

「そうか、これはハン博士が皆に配った苔茶だ」

 重くなった場の空気を解すつもりで、オバルは大げさに驚いてみせた。

 ところがオバルの意に反し、レイは憮然とした表情を変えない。

 レイの脳裏に、孫の養母との会話が蘇っていた。

養母の女は、遭難したハンを曠野で助けたと言った。記憶を辿れば、それは二十年前に息子が長期の休暇を取った時のことだ。休暇から帰って来た時、息子はただ予定が長引いてとだけしか話さなかった。しかしあれ以降、息子は時々調査と称しては、家を留守にするようになった。おそらくそれは、シクンの仮住村を訪れていたのだ。

 ファロス計画で皆に振舞った苔茶も、その時に手に入れたものだろう。

 そういうことも含めて、惨事の後、全てを捨てて姿を晦ましたくなるほどに悩んでいても、母親の自分には何の相談もなかった。息子というものはそういうものだとも言えるが、おそらくは私のことを信用してなかったのだ。ずいぶん嫌われた母親もあったものだ。

 しかし、いまオバルが指摘した苔茶の件で、レイの中にある考えが浮かんだ。

 確かに、ハンは孫のいるシクンの仮住村にはいなかった。しかしそれは単に、あのミト・ソルガにいなかったというだけで、全てのシクンの仮住村にハンがいないということではない。子供を預けるほどシクンの暮らしに肩入れをしていたのなら、都を去って逃げ込む場として、曠野ほど適当な場所はない。町の暮らしと隔絶した世界なのだ。余程のことがない限り、そこにいることが町の人間に知れることはない。

 それに息子を預けたのとは別のミトで、曠野の住人の姿をして暮らしていれば、時たま息子のいるミトを訪れたとしても、息子は父親を別のミトの男性が顔を出しているとしか思わないだろう。何しろ失踪当時、孫は二歳半、父親の顔はほとんど記憶に残っていないはずだからだ。

 自分の思いつきに酔うようにレイの目が輝く。

 レイが確信をもった声を吐いた。

「息子は曠野で暮らしているのかも知れない、いやそうに違いない」

「ハン博士が、曠野にですか……」

 オバルが意外そうに目をしばたかせた。

「間違いない。それもきっと、ここのミト・ソルガとそれほど離れていないミトによ。なんたって子供は、そこの板碑谷のミトにいるんだから」

「え、今、なんと」

 オバルが咳き込むように聞き直した。

「板碑谷にあるシクンのミト。ハンの息子、私の孫は、薬苔作りをやっている中年の女に預けられていたの」

「まさか、しかしそれは本当にハンの子供なのですか……」

 有り得ないとばかりに疑わしげな視線を向けるオバルに、レイが自信満々に言い切った。

「生まれた孫を取り上げたのは私。医者の私しか知らない、ある事実が符号したのよ」

 つい先ほどの事、ミトを辞する直前に、ウィルタの養母が不思議そうな顔をして聞いてきた。ウィルタがお孫さんであると、なぜお分かりになったのですかと。

 見た目は、衣服も日灼けした顔つきも、曠野の子供にしか見えないウィルタである。二歳半の幼児の印象だけでは、絶対に今のウィルタが町の出身などと分からないはずだからだ。養母の疑問に対して、レイは種明かしでもするように「眼よ」と答えた。

 そう、鍵はウィルタの眼だ。

 半月ほど前、レイは板碑谷のミトで邪眼熱を発病した幼女を診察。その帰り、岩の割れ目の前で、付き従ってきた子供たちの診断をした。病気がうつっていないかどうかを確かめたのだが、その際に、ウィルタの眼球に印字らしきものを発見した。

 昔の記憶が蘇る。右眼を盲て生まれてきた孫に、義眼を埋め込んだ時のことを。

 その人工の眼は、古代の遺跡から凍結保存の状態で掘り出された眼で、本物そっくり、いや本物以上の性能を持つ義眼だった。精巧すぎて普通ならまず義眼と気づかないような眼。その古代の眼を、レイは部長職である自分の権限を利用して孫に移植した。今でもはっきりと覚えている。孫の眼窩に埋め込んだ義眼の白目の部分、そこに古代の数字と文字が、製造番号のように印字されていたことを。

 同じ義眼が存在することも、同じ年齢の子供に同様の義眼が埋め込まれていることも、あるはずがない。あのウィルタという少年は、間違いなく自分の孫だ。

「さっき、孫の養母に確かめてきたところなの。それで分かったのよ。ハンは都を失踪した後、すぐに孫をシクンの女に預けていた。もしかしたら、あなたも会ったことがあるんじゃない。ウィルタという名の子供は、シクンの子供としては特別に町への出入りも許されているみたいだから」

 オバルが「あっ」と声を上げた。ある少年の顔が浮かんだのだ。

 自分を宿に案内してくれた少年。派手な民族帽を被ったあの少年は、確か自分をシクンだと名乗った。

「ハンが子供を曠野の民に預けている……、そうか、子供を」

 腕組みをしてオバルが何度も頷く。

 そのオバルを見てレイが何気なしに問いかける。

「オバル、あなたもしかしてハンを捜しているの?」

 不意を突かれたのだろう、オバルが瞬間、ギョッとしたように顔を強張らせた。

 そして「それは……」と、言いよどむ。

 その時になってレイは気づいた。この黒炭肌の男オバルは、なぜこのハレの特別な日に炭鉱の建物などにいるのか。自分は孫の養母に会った直後で、頭の中は息子と孫のことで一杯になっていた。そのため、オバルが診療所のある倉庫から出てきたことを、特に疑問に思わなかった。しかし考えてみればおかしい、不自然だ。

 オバルは診療所の分室にばん創膏でも取りにきたのか。しかし建物の入口は別として、中の分室に鍵が掛けられていることは、炭鉱で働いている者なら誰でも知っている。それに救急の医薬品は、炭鉱の事務所にも置いてある。あとこの建物のなかで、何か特別な物があるとしたら、それは……、

 レイは、オバルの座る椅子の後ろに視線を走らせた。椅子の背に引っ掛けた外套の陰に、布でくるんだ四角い包みが置かれている。さっきオバルが出会い頭に落とした包みだ。

 落とした際に、鈍い金属音のような音が鳴った。

 あれは……、



第十一話「八角帽」・・・・第十四話「ファロス計画」・・・・

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