序
二千年後に目覚めた少女の旅の記録
序
塵ひとつない蒼穹の下、無数の氷河が山脈の裾野に向かって流れ出ていた。目に見えないゆったりとした流れではあるが、氷の河も確実に時を刻みつつ流れる。今、人の生よりも遙かに長い時の壁を越えて流れ出た一本の氷河の上に、赤く錆ついた鉄の塊が見えていた。古代の船である。
傾いだまま氷からはみ出すように埋もれた船。その船首甲板に固定された、子供の背丈ほどの砲塔の台座で、何かが動いた。
少年が二人、ボロ布から頭を突き出し、対岸の岩壁を見つめている。
対照的な帽子、黒髪褐土肌の少年は、リング状の毛飾りのついた編み帽を、茶髪土漠肌の少年は、地味な革の防寒帽を被っている。
年少らしき黒髪の少年がボロ布の下に体を沈める横で、茶髪の少年は視線を外すことなく岩壁の一点に目を凝らす。占術用の数珠をカチリカチリと手の中で珠送りする音と共に、石黄色のマフラーから食み出た柔らな茶髪が微風に揺らぐ。
冷えた重い大気が、氷河の上を重力風となって流れているのだ。
ボロ布の下で、黒髪の少年が、あくびの出そうな声を漏らした。
「ねえタタン。大昔の地球が暖ったかだった頃にさ、毛長牛の何百倍もある、でっかい生き物が海の中にいたっていうんだけど、本当かな」
岩壁を見据えたまま、茶髪のタタンが答える。
「ウィルタも、古文書の写真を見ただろう」
「うん、でも昔は、写真そっくりの絵が機械で作れたんだろう。とても信じられないんだよな、そんなに大っきい生き物がいたなんて」
「何億年も前には、地面の上にだって、その程度の大きさの生き物はゴロゴロいたってさ。嘘か本当かはともかく、この船に据え付けてあるでかい砲塔を使うってことは、十キロもある銛でなきゃ捕まらない生き物が、海の中にいたってことだろ。それにその生き物は、今でも東のシフォン洋に生き残ってるらしいぜ」
タタンが、外套から引き出した手を、砲塔に固定した板ばねに伸ばした。
扇を広げるように固定された板バネは、両端がワイヤで結ばれ、中央に細長い鉄の矢が据えられている。手作りの鉄弓だが、ワイヤは目一杯引き絞られ、掛け金を外せば、いつでも鉄の矢を発射できる状態にある。
「世界中から生き物がごっそりいなくなっちゃったのに、よくそんなに大っきい生き物が生き残れたよね」
「海と陸じゃ、異変の時の状態が違っていたということだろうな」
眠気を紛らすように送る牛骨賽のカチリカチリという珠音が、苛つくように乱れる。座って待つことに焦れていたのは、年下の友人だけではない。岩壁を見張るために、もうかれこれ五日もここに足を運んでいるのだ。
今日もだめか、そう思ってタタンが岩壁から目を逸らした時、「あれは」と、ボロ布の中からウィルタが細い腕を突き出した。
タタンが顔を上げ、ウィルタも毛布を跳ね退ける。
錆ついた船から距離にして七十メートルほど、垂直にそそり立つ岩壁のちょうど中ほどで、岩が青白い光を放っていた。岩の表面が光るのではなく、電球を仕込んだ紙袋のように、岩の内部を透過して光が漏れている。ただ予想していたよりも、位置が右寄りだ。
慌ててタタンが砲塔のハンドルを回し、照準を合わせ直す。
その間にも光は不規則な明滅を繰り返しながら、急速に輝きを増していく。
「アヴィルジーンが出る!」
タタンが叫ぶよりも一瞬早く、岩肌は風船のように弾け、幾重にも重なった光の渦が岩の中から弾き出された。明滅する光の渦は、岩壁に寄り添いながら宙を漂う。
「金鎚を!」と手を出すタタンの横で、ウィルタは光に魅入られたように動かない。
とっさにタタンはウィルタの手から金鎚を奪い取ると、ワイヤを固定した掛け金に、それを打ち下ろした。張り詰めた鉄線が空を裂き、光の渦に向かって鉄の矢が糸を引く。
軌跡が一条の線となって渦の中心を射貫き……、と二人にはそう見えた。
ところが、この地でアヴィルジーンと呼ばれる光の渦は、自らの肉体を貫き、後方の岩壁に当たって落ちていく細い鉄の矢など気にする風もなく、光の渦を左右に膨らませながら上昇を始めた。
やがて光の渦は岩壁の上端を過ぎ、さらに上へ……。
天上の蒼穹に吸い込まれるように上昇していくアヴィルジーンの遙か先には、白く輝く太陽が見えていた。
もしこの瞬間、太陽と地球を結ぶ直線上を月が過ぎるなら、黒いシルエットに隠れた太陽の両脇から、左右に大きく広がった光の帯を目にすることができたろう。
はるか昔、人類の文明がまだ揺籃の時期にあった頃、日食の際、太陽の側面を光彩陸離と縁取るコロナの輝きを、人は鳥の翼と見なした。そして翼を持った太陽を、有翼日輪として玉座の背板に刻んだ。時は下り今、古代の記憶も潰えた文明の亡骸の上に暮らす人々は、太陽と同じ光の翼を持つ不可思議な光の渦を、霊的なものと見なし、大地の祖霊アヴィルジーンと呼んで信仰の対象にしていた。
むろん、人々のそんな想いを光の渦が知る由もない。
上昇を続けるアヴィルジーンの眼下に、氷の平原と乾燥した砂漠の狭間で生を紡ぐ人の暮らしが見えていた。やがてそれも大地の起伏に没し、眼前に自らが幼年時代を過ごした惑星の輪郭が、円い地平線となって広がる。
対流圏から成層圏へ。電離層を過ぎるあたりから、むき出しの粒子が猛烈な速さで周囲を突き抜け始める。太陽フレアーによって加速したプラズマ粒子が、時速百万キロを超える速さで、この星系から宇宙に向かって飛び出しているのだ。
ぶつかり始めた微細な粒子に、自らの巣立ちの時が近いことを感じたアヴィルジーンは、閉じ込められていた翼を一気に広げた。原子数個分の厚みの薄い皮膜が、月に影を落とすように遠大な傘を成す。そしてゆっくりと向きを反転、円形の翼を太陽に向けた。
刹那、皮膜は太陽からの粒子風をはらんで大きく膨らみ、反動でアヴィルジーンは惑星の重力圏から離脱した。太陽風に乗ったのだ。
ただひたすら星系の外、外宇宙の大洋を目指して飛び続けるアヴィルジーンにとって、後方の小さなしみとなった青い惑星のことも、その惑星の表面で、這いつくばるようにして生きていくしかない人類のことも、何もかもが遠い過去の記憶となっていた。
いま、アヴィルジーンを支配しているのは、恒星間生命体としての本能だけである。
より遠い未知の宇宙へ辿り着くこと。
その本能に従い、アヴィルジーンは宇宙の彼方に飛び去った。光り輝く翼の後ろに、資源収奪の果てに疲弊し氷に閉ざされた、冬の惑星を残して……。
昨日12月26日に、なんかと完結を見ました。ヤレヤレです。
で、なのですが。掲載開始時に、「あらすじ」の欄にテーマだけを書いてお茶を濁していたので、後付ですが、簡単に話の筋をさらっておきます。もちろん、この先、何の先入観もなく話を読み進めたいという方は、この「後書き」はすっ飛ばして、そのまま第二部分の「氷河」に進んでください。
ま、あらすじと言っても、簡単な概略と構成の説明だけなんですが。
物語の舞台は、大洋とも呼べる内海ドゥルーを内に湛えたグラミオド大陸。その内海北縁の氷河で春香が目覚め、ウィルタと共に、この時代唯一の繁栄の地である、大陸中東部のドバス低地にたどり着くまでが、物語の前半。第73部分の「外輪船」が前半部のラストになります。
この前半部は、旅のさなかに垣間見る寒冷化した社会の様相と、そこで暮らす人々との出会いという、地道な旅のエピソードの積み重ねです。紀行誌のようなもので、ドラマらしいドラマもない部分が多く、加えて伏線や謎が提示されても種明かしは後半になってからという、もどかしさ。正直、読み継ぐのが辛いかもしれません。ポイントとなるのは、主人公の二人が、宏大な晶砂の砂漠を越える際に巻き込まれた、火炎樹の種の争奪戦になるでしょうか。
黙々と徒歩で歩き続けるような前半の展開から、後半は徐々にスピードアップ。
展開を加速させる要因は、主に二つ。一つは、豊かなドバス低地の国々が、その繁栄を維持したいがゆえに互いに反目の度を強めていること。それを助長するのが大量に押し寄せる大陸南部からの難民。一触即発の空気が立ち込めるなか、導火線の役を果たすのが、先に主人公たちが砂漠で関わりを持った火炎樹の種。様々な人や組織が絡み合って、事態はどんどん混迷の度を深めていきます。
そして要因の二つ目。ドバスの地に暗雲たなびくなか、主人公たちが旅立ったドゥルー海北縁の地、盟主国のユルツでも、国の命運を左右するプロジェクト、質量転換炉と呼ばれるエネルギー発生装置の復活事業、ファロス計画が佳境を迎えようとしていた。むろん悲劇を予感させる方向に。
このドバス低地の混乱とユルツ国のファロス計画を結びつける役を担うのが、主人公の二人なのですが、やがてドバスの地に血で血を洗う騒乱が発生。時を同じくして、北方でもファロス計画が暴走を始め、破滅的な危機が大陸全土を覆っていく。
あとは、ひたすら生き延びるためのサバイバル。
カタストロフの状況を具体的に述べるのは、ミステリの犯人を先にお知らせするようなもの。最後の最後は漂流物の展開になりますというところで、結末は伏せさせてください。
いずれにせよ、長~いお話。原稿用紙六千枚の分量があります。活字世代向けかな、やっぱ。
今年も残すところ数日、どうぞ良い年をお迎えください。 東陣正則
追伸
えーと、これも書いておこう。この作品、仕上げはパソコンで行いましたが、九割方お世話になったのはワープロ。文豪ミニに始まり、書院、一番役に立ってくれたのはダーウィンのCX8000かな。ワープロからパソコンへの過渡期の作品なのであります。
結構苦労させられました。なかでも話の枠組みを作るうえで悩んだのが、社会の有り様を決定づける科学技術の展開が速すぎて、未来の予想が立ちがたいということ。近未来のお話を書く上で、これはしんどい。迷った末に、すべての出発点となる主人公の出生年は、当時話題になり始めていた、人工知能が人の知性を超えるとされる2045年、その一歩手前としました。なんせその後の世界など、想像のしようがないので。
この、構想を練った時から、はや二十年。石油ピークという言葉がもてはやされた時代は後ろに過ぎ去り、今や代替エネルギーの技術が進んで、ポスト石油が語られるご時世。車の自動走行にゲノム編集、手近の雑誌をめくると、中国が量子暗号の送受信に成功したとの記事も。人が営々と積み重ねてきたものを、AIがオセロの駒のように引っくり返す勢いです。いやはや。
この加速度的な時代の変化に即して、お話の軌道修正も試みたのですが、なんせ分量多すぎで。結局、当初の構想のままにギブアップ。いま読み返すと、時代に追い抜かれたり、的外れになった部分もゴロゴロといった塩梅です。
そんなこんなの仕上がりでして、これは勝手なお願いですが、星草物語というお話は、今この時点ではなく、西暦二千年の新しい世紀の幕開け時に枝分かれした、無数のパラレルワールドの一つ、として読んでいただけたらと思います。
最後、これまた言い訳ですが、当方はサイエンスに関しては門外漢。科学っぽい記述はあくまで雰囲気を高めるため、つまりは演出で、祭りのお囃子のようなもの。どうぞ知識のある方、専門家の方、目くじらをお立てにならないよう、目をつむってお読みください。ん、できない、そんなこと。
まあ、あくまでファンタジーですから。 2018年、1月末日