04
その日、目覚めは最悪だった。怠い体を起き上がらせ、ベッドの上に放り投げていたスマホを手に取って時間を確認する。表示された時間を見て、優は思わず「うわっ」と不機嫌な寝ぼけ声が出てしまった。鳴ったところで起きれないのだが、形だけ設定しているアラームよりも早く目が覚めてしまったようだ。スマホをまた放り、膝を立て顔を埋める。自然と深いため息が出た。
考えれば考えるほど、優の気持ちは重苦しいものとなり、深い穴に落ちていくようだった。心の中に黒ずんだ重い液体のような淀みが溜まっていく。どんな顔をして秋に会えばいいのか、そもそも顔を見ることができるのか。考えたところで、答えは出てこない。そのうちピピピッと電子音が耳に届いた。ろくに耳にしないアラームの音は、今の優にとっては不快なものでしかなった。
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早起きは三文の徳とは、朝早く起きると良いことがあるということという意味である。しかし目の前に広がる光景に、優はドアノブを掴んだままの手にぎゅっと力を込めてしまった。徳など、朝起きてからから優は得てなどいなかった。
「おはよう、優ちゃん」
目の前の少女は、優の顔を見てから、いつもと同じ優しい笑みを浮かべた。
「お、はよう」
自分が思ったより、掠れた声がでた。
秋と優の通学路は同じである。しかし、一緒に帰ることはあっても、一緒に登校することは滅多になかった。それなのに、どうして今日に限って、秋は家の前で待っていたのだろうか。優の心の黒ずんだ重い液体は、どんどん心に溜まり、溢れかえってしまいそうだった。
「今日は随分早起きなんだね。よく寝れたの?」
「……うん、まあ」
よく寝れたなんて嘘、全然寝れなかった。並んで通学路を歩いても、優は秋の顔をまともに見ることはできなかったし、ちゃんと会話をしようとも思えなかった。どうにかして、二人きりというこの状態から逃れようと、優は考えていた。こちらに顔を向けようともせず、足早に歩く優の姿を見て、秋は顔を曇らせた。
「私は、眠れなかったよ。全然」
優の歩く速さが、少しだけ遅くなった。
「ねえ、優ちゃん」
「秋」
何か言いかけた秋の言葉を、無理やり遮る。これ以上話を聞きたくなかったし、まともに聞く気もなかった。これ以上秋といても、私はきっと彼女を傷つけることしかできないと優は考えていた。だからこそ、一刻も早く秋と距離を取りたかったのだ。
「ごめん、今日は、一緒にいたくない」
その言葉は秋にナイフのように突き刺さる。そんなこと優にもわかっていた。今日初めて優が見た秋の顔は、ひどく感傷的になって泣き出しそうな顔だった。自分が秋にそんな顔をさせているのだと理解していても、優は振り返りもせず学校に向かって走り出した。私が悪いんじゃない、私の所為なんかじゃない、こうなったのも全部、全部秋が悪い。秋がするべきことだったのは、朝私を迎えに来ることじゃない、普段通りに学校に行って、昨日のことは全部嘘、行き過ぎた冗談だったと笑って言うことだったのだ。そうしたら私もそうだったのかと納得して、変わらず秋と一緒に笑うことができたのだ。全部秋が悪い、秋が、秋の所為で、秋が私を好きだと、わかるようなことをしなければ、……!
本当はそうじゃない。
きっかけはもたらしたのは自分であること、向き合うこともせずに逃げ出しているのは自分であること、秋は悪くないこと。
それでも秋が悪いとしなければ、優は息苦しさで潰れ、淀みで溺れてしまいそうだった。
「おわっ、ど、どうした優ー?なんか、死にそうな顔してるよ」
「……柚希」
「珍しく優がいるなってビックリしたけど、気分悪いなら休めばいいのに。大丈夫?」
学校に着き、下駄箱の前で、優は友人の一人である柚希に出会った。柚希は息を切らしながら、沈んだ顔をしてうつむいている優を見て何事かと驚いていた。
「平気。大丈夫だから」
「ほんとにぃ?……無理しないでよね」
「うん、ありがと」
心配してくれている柚希にお礼を言う。柚希の表情は今だ優のことを気にかけている様子であったが、そう言えばさーと話題を切り替えて優に話しかける。柚希のその行為のおかげで優は、ほっと救われた気分になった。
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秋が重い足取りで教室に入ったとき、優は数人の友人達に囲まれて笑っていた。優の表情は明るく、安堵の色が浮かんでいた。朝、秋が見た表情とは全く違う。その光景は、もう優は秋にあんな風に笑いかけてくれないのだと、秋に訴えているようだった。
優ちゃん
誰にも聞こえない、誰にも届かない、秋は小さく優の名前を呼んだ。じっと優を見つめても、優は秋には気づかず他の友人達と談笑するばかりだ。こんなことなら、と秋は一時の感情に身を任せてしまった自分を強く恨んだ。もう二度と、優と笑いあうことすら許されなくなった今の現状に、悲しくてやるせない思いが心にのしかかってくる。
優ちゃん
もう一度、名前を呼んだ。こんなすれ違ったまま、何もできないだろうか。今朝だって、話し合いたくて優の家まで行ってしまった。どうにか話を聞いてほしくて、優なら聞いてくれるだろうと、優に縋り付いてしまった。それがよくなかった。秋の行為は余計に優を苦しませるだけの結果になってしまった。優はきっと、秋にチャンスをくれない。
後悔しても、もう遅い。後悔すればするほど、優との距離は遠くなるばかりである。気丈にも涙は見せなかったが、秋は灯りの消えたような寂しさを感じていた。
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秋にとって優は、物語に出てくる王子様そのものだった。
秋がピンチになれば颯爽と駆け付けて、悪者を退治してくれる。秋のことを心配してくれる。秋のことを守ってくれる。秋のことを笑顔にしてくれる。秋の隣に、ずっといてくれる。秋は優と出会わなければ、今の自分はいなかったとさえ言えるほど、優と出会えたことに感謝していた。
出会った頃は確かに友達と思っていた。優のことを、友達として大好きだった。それがいつ優のことを恋愛対象として見るようになったのか、秋は、ハッキリと覚えていた。
理由は単純なものだ。小学校五年生の時、秋と優は大喧嘩をした。何が原因でどちらのほうが悪かったかなどは忘れてしまったが、二人とも意固地になって自分からは謝ろうとはしなかった。ギクシャクとした関係が続いたある日、秋のもとに一通の手紙が届いた。家の郵便受けに投函されていたそれは宛名が書いておらず、誰かが直接入れたものだとわかった。そしてその誰かが、中身を見ずとも秋にはわかっていた。手紙の中身は下手くそな字でごめんねと書かれていたのを覚えている。
翌日、秋はその手紙を手にして優に謝った。優も手紙の内容と同じ言葉を口に出して、二人してこみ上げてくる感情を抑えきれずに泣き出した。ひとしきりわんわんと泣いた後で、優が秋の手を取り言った。
「ごめん、ごめんね秋。ほんとはもっと早く謝りたかったの。でも勇気がなかった、でもこのままじゃ嫌だとも思った、秋ともう一生仲良くできなくなるほうが嫌だった」
「……うん、私も、優ちゃんと仲直りしたかった」
どうして仲直りするの、もっと早くできなかったんだろう。そんなことを二人で後悔し、また仲良くしよう約束だよと指切りをした。これで優とまた友達になれると思うと、自然と秋の表情は綻んでいた。そんな秋を見て、優は思わず口角が上がった。
「やっぱり、秋の笑顔とっても可愛い」
「え?」
「私、秋の笑顔、大好きなんだ。ねえ秋、私これから先、秋のこと泣かせないね。いつも笑顔でいさせてあげる。だから、秋」
あの時の優のキラキラと光る笑みと、弾む声で発せられた言葉を秋は忘れない。
「ずっと私と一緒にいてね」
些細な約束ごとだった。優にとっては言葉通り、秋とずっと一緒にいたかっただけにすぎない。しかし秋は違った。気弱な性格の所為で男子からいじめられていた。数少ない友人達も、秋がいじめられていても助けてはくれなかった。秋を助けてくれたのは優だけだった。秋にとって、優がすべてだった。そんな優にずっと一緒にいてくれと頼まれている、優を意識するのには十分な理由であった。
その時からだ、優を見るたびに恋しいと思う気持ちが心の奥に潜むようになった。優が自分以外の人と仲睦まじい様子を見せていると、例え相手が同姓であろうと激しい嫉妬を覚えた。優が自分の側で笑ってくれているだけで、愛しさで胸がいっぱいになり、胸の高鳴りを感じていた。
秋は確かに、優のことが好きだった。
だからこそ、優の「男だったら秋のことを絶対好きになっていた」という言葉が許せなかった。秋が好きなのは優であって、男になった優ではない。優が男の子になったところで、秋の問題は何も解決しないのだ。
秋が好きになったのは、男の子にだって臆することなく秋を助けてくれて、ずっと側にいてくれる、女の子の優なのだ。