7 野犬襲撃!
乾燥した肉と野菜を塩で味つけして煮込んだスープ、そしてパン。会話もはずみ、楽しい食事の一時を過ごすことができた。
側では、酒がないとそっぽを向いてふて寝をしているイェンの姿。
「イヴンとイェンさんに会えてほんとよかった。こんなに楽しい旅ができて嬉しい」
「リプリーさんとエーファさんはずっと二人で旅をしていたの?」
「さんはいらない。リプリーって呼んで」
小首を傾げてリプリーは愛らしくにこっと微笑む。
「え、じゃ、じゃあ……リプリー」
名前を呼んだ瞬間、イヴンは照れくさそうに目を伏せた。
リプリーはくすりと笑い語り始めた。
自分は占いをしながら各地を回っていること。
旅の途中でエーファと知り合い、意気投合してそのまま一緒に旅をしていること。
「ねっ、私、手相占いが得意なのよ。イヴンのことみてあげる」
え? とイヴンは驚いた声を上げる。
「ほら、手を出して」
言われるまま、差し出したイヴンの手のひらを、リプリーがとる。イヴンは表情を堅くした。頬が少しばかり赤い。
「すごいわ! イヴンってば強運の持ち主よ、大出世すること間違いなし」
「そうなの?」
「ほんとよ。ほら見て、ここの線がね……」
和やかな雰囲気で語り合う二人の姿に、エーファは目元を和らげ笑みを浮かべた。が、その穏やかな表情が突如強張った。
咄嗟に、側に置いてあった剣に手を伸ばす。
「かなりの数だ」
「だから言ったろ?」
寝転がったまま、イェンはぼそりと呟く。
「え? 何? イェン、何が起きたの?」
「看板に書いてあったろ」
「野犬? でも、僕には何も聞こえない……」
言いかけた直後、少し離れた草むらががさりと音をたてた。
獣の息づかいと、草むらの合間からのぞくいくつかの光る眼。
数はわからない。だが、そうとうな野犬の群であることは確かだ。
「俺は知らないからな」
「ふん! 誰も貴様に期待などしていない」
エーファは素早く立ち上がり、剣を握り構える。
「僕もお手伝いします」
イヴンも剣を手に、エーファの横に立つ。
「頼もしいな。だが剣の心得はあるのか?」
言外に足手まといになるくらいなら、身を守る方に徹して欲しいという口振りだった。しかし、イヴンは気を悪くした風もなく、にこりとエーファを見上げ笑った。
「エーファさん一人に戦わせるわけにはいきません」
「そうか。だが無理はするな」
エーファもそれ以上は何も言わなかった。
イヴンは笑ってうなずいた。
相変わらず、イェンはふて寝のままだ。
◇
「数が多すぎる!」
鞘におさめたままの剣を振り回し、エーファは襲いくる野犬を叩きつけては払いのける。辺りには、エーファの一撃で気を失った野犬が何十匹と転がっている。それでもいくら振り払っても、野犬の数はいっこうに減る気配はない。
たき火を挟んだ反対側では、イヴンもやはり鞘におさめたままの剣を必死に振っている。しかし、イヴンの腕力では野犬に痛恨の一撃を与えることはできない。
リプリーもたき火の枝を振り回して応戦していた。その効果あってか、野犬たちは遠巻きに吠えているだけで、側に近寄ってこようとはしない。
頼もしい仲間たちに守られ安心しているのか。
イェンはやはり横になったまま動く気配はない。
「どういう神経をしているのだ。せめて、野犬よけの結界でも張れ! へっぽこでも、いちおう、魔道士だろ!」
「そんな難しいことやったことないし」
「なら、戦え!」
「俺、剣、握ったことない」
「この役立たずめが! もういい! 聞いた私が愚かだった。リプリー大丈夫か?」
リプリーをかえりみるエーファに一瞬の隙が生じた。背後から野犬が鋭い牙と爪を剥いて跳躍してくる。
「エーファさん!」
咄嗟にエーファをかばって飛び込んだイヴンの右腕に、野犬の鋭利な爪が刻まれた。
地面の上にもつれ、倒れ込む二人。
舌打ちひとつ、さすがのイェンも起き上がらざるを得ないようだ。
リプリーは声を上げ、イヴンの元へ駆け寄ろうとする。
「リプリー! イェンの側から離れちゃだめだ!」
「俺の側から動くな」
イヴンの元に駆け寄ろうとするリプリーをイヴンが声を発して制止するのと、イェンがリプリーの腕をつかんで引き止めたのは同時だった。
「僕は、大丈夫。かすっただけだから」
右腕を押さえ、イヴンは片目を細めながら笑って言う。
唇をきつく噛み、リプリーは決意した目でイェンを見上げた。
「イェンさん。私を守ってください! 詠唱を唱える間だけでいいから」
イェンは眉を器用に片方だけ上げた。
リプリーは両手を空にかかげ、大きく息を吸い込んだ。
『風の精霊よ。私の喚び声に答えて!』
召喚術を唱え始めたリプリーに、何故かイェンは痛ましい表情で首を横に振る。
「お願い、答えて……」
リプリーの必死の願いもむなしく、風が悪戯に足下を通り過ぎていくだけであった。
『風の精霊よ!』
再度試みるが、結果は同じ。
精霊を喚び寄せるまでにはいたらなかった。
落胆してぺたりと地面に座り込み、かたわらに立つイェンを見上げた。
「風の精霊が……私の喚び声に答えてくれない。昨夜、呪文の詠唱を中断して喚び出してしまったの。きっと、機嫌を損ねてしまったんだわ」
イェンは口の端を上げ、皮肉めいた笑いを浮かべた。
「ふーん、術者の声に答えようともしない役立たずな精霊は必要ないんじゃねえ? 契約破棄だ。で、他に契約している精霊は?」
リプリーはうつむき、力なく首を横に振る。
「だったら、今ここではっきりと示してやれ。精霊に振り回されてるようじゃ、精霊魔道士として失格だな。いや、資格なし」
手厳しいイェンの言いぶりに、リプリーは勢いよく立ち上がる。
両脇にたらした手を強く握りしめ、唇を固く引き結んで背の高いイェンを上目遣いで見上げる。
泣くか、怒るかどちらかと、イェンは辟易とした面持ちでリプリーを見下ろした。
が──
「私、もう一度やってみる」
ためららいを断ち切ったリプリーの表情は、先ほどとは違う厳しい顔つきであった。
イェンに背を向け、足を一歩踏み出す。
腕を組みイェンはふっと笑う。
なかなか根性もあるようだ。もしも、怒り出したら優しくなだめ、泣き出したら頭をなでて、なぐさめてあげるつもりだった。
ただそれだけ。
イェンは相手を勇気づけ、奮い立たせる言葉をその背に投げる。
「ひとつ助言。魔術は詠唱によって生じるものじゃない。唱える者の揺るぎない意志の強さと願いが、術を具現化する。精霊召喚術も同じだろ?」
唱える者の揺るぎない意志の強さと願い。
リプリーは口の中で繰り返し、さらに表情を引き締め姿勢を正した。
暗がりを照らすのは、わずかに木々の合間から射し込む青い月明かりと、赤く揺れるたき火の炎。
まるで幻想的な空間に立つリプリーは、どこか神秘的で独特な雰囲気をまとっていた。
ゆらりと両手をかかげる。
夜の肌寒さはむしろ意識を明瞭とさせる。
研ぎ澄まされていく感覚。
『我が名の元に契約を結びし風の精霊よ
我が喚び声に今すぐ答えなさい』
響き渡る凛とした声。直後、緩やかな風がリプリーの足下から渦巻き状に流れ、枯れ葉が旋回して虚空へと舞い上がる。
『束縛のない自由な羽で空と大地を……』
口調の整った力強い詠唱。しかし、詠唱は途中で中断された。
リプリーのまなじりがすっと細められた。
迷いのない決意と確固とした自信にあふれる表情。
「時間が惜しいわ。詠唱は省略。風の精霊よ、私たちを妨げるものすべてを取り除きなさい!」
リプリーの両手から凄まじい風が放たれた。
その風に流されまいと足を踏ん張っている。
同じ過ちは繰り返さない。
風はエーファとイヴンを避け、野犬の群を直撃する。
風の精霊に捕らえられた無数の野犬が一カ所に集められ、そこから竜巻が生じて、その姿を遙か彼方へと吹き飛ばしてしまった。
やった、と達成感に頬を紅潮させるリプリーの足がよろめく。
倒れかけそうになった華奢な身体をイェンは背後から両手で支えて抱きとめた。大きな術の代償は精神と肉体に負担をかける。
イェンに抱きかかえられたまま肩を上下させて息をはずませ、リプリーはイヴンの姿を探す。
「ありがとう、リプリー、僕は大丈夫。すごい召喚術だったよ」
大丈夫だ、と笑っているが、どうみても大丈夫そうには見えない。右腕を押さえているイヴンの指の隙間から、血がにじみ衣服に染みている。
「早く手当を! リプリー動けるなら薬草を」
エーファはマントを外して地面に引き、そこに強引にイヴンを寝かせつけた。
ふと、エーファの視線がイェンとぶつかる。
イェンはしまった、と慌てて目をそらすがどうやら遅かったようだ。
「おまえ、治癒とか回復術は使えないのか! いや、できないとは言わせないぞ」
「あの……僕、本当に大丈夫ですから……」
「本人もそう言ってるし、たいした怪我じゃないんだから、そのうち……」
「傷跡が残ったらどうするのだ!」
「男の子なんだから、そのくらいどうってこと……っ」
イェンの言葉が途中で途切れた。
エーファの親指が剣の鍔にかかり指の節一つ分、剣が持ち上がったからだ。
「待って! イェンは回復系の魔術は……」
言いかけたイヴンの口をイェンは手でふさぎ、その場にあぐらをかいて座り込む。
「早くしないか!」
急きたてるエーファの声に、イェンは苛立たしげに髪をかきむしる。
「ちょっと待て、今思い出してみるからよ」
「何だと! 貴様は考えなければ術が使えんのかっ! 回復術は初歩中の初歩であろう!」
「これだから何も知らねえ奴は困んだよな、勘違いしてるみてえだけど、治癒も回復も高等魔術の部類に入んだよ。そもそも傷ついた肉体を……」
「ごたくはいいっ!」
ちっ、と舌打ちをして、イェンは再び腕を組んで考え込む。その表情が、苦痛にゆがんでいるように見えるのは気のせいか。
側ではエーファが殺気だった気を発し、剣先を地面にとんとん、と何度も叩きつけ急き立てる。
「と、とりあえずやってみるか。っていうか、やらなきゃ、殺されるな……」
手のひらをかかげたイェンの手が、イヴンに強く握りしめられる。何か言いたげに、目顔で首を振るイヴンに、イェンは背後に立つエーファを軽く振り返り、だってしょうがないだろう、と肩をすくめる。
イヴンの傷口に手をかざし、その手に意識を集中させるようにまぶたを閉じる。イェンの眉間に深いしわが寄った。徐々に手のひらから淡い光が発光する。
「貴様っ! やればできるではないか! 出し惜しみをするな」
エーファは目を輝かせた。が、イェンとイヴンを見守ること数分。次第にその顔に不審なものが滲んでいく。
「イヴンの様態が悪くなっていくように見えるのは、私の気のせいか?」
訝しげに問うエーファの口調は冷ややかだった。先ほどまで、そこそこ元気だったイヴンの様子があきらかにおかしいのだ。ひたいに汗を浮かべ苦しそうに息を吐いている。
「あ!」
イェンは素っ頓狂な声を上げやべえ、と頭をかく。
「俺ってば、反対にこいつの生気吸いとっちゃってたよ」
術、間違えたみたい、と妙に血色のよい顔でイェンは、はははと笑う。
エーファは握りしめたこぶしを小刻みに震わせた。
「何か旅の疲れが一気にとれたって感じ?」
爽快な口調のイェンの首を両手でわしづかみにし、エーファは力任せにしめ上げた。リンゴを素手で握りつぶすエーファの握力だ。どれだけ苦しいか想像するのも恐ろしい。
虚空をかきむしるイェンの口から、潰れた悲鳴がもれる。
「貴様が元気になってどうするのだ! 貴様の生命力を残さず全部イヴンに戻せ!」
「エーファさん……僕は、大丈夫ですから」
あまりの騒々しさに意識を取り戻したイヴンは、口許に無理矢理笑みを浮かべて身を起こす。
どうやら、ゆっくり休ませてもくれないようだ。
「げほっげほっ、俺は、俺は……リンゴじゃない……」
エーファはイェンを放り出し、起き上がろうとするイヴンの身体を支える。
「苦しくはないか?」
その時、リプリーが鍋を手にやってきた。中身は何やら怪しげな葉っぱと、どろりとした液体が煮え立ち泡を立てている。
「モエモエ草よ。万能薬なの。イヴン、ちょっと上着を脱いで腕を出して」
言われるまま上着を脱いだイヴンの胸元に、ワルサラ国の王族である証の紋章が刻まれたペンダントが揺れた。
慌てて隠そうとするが、リプリーはとくに気にとめる様子もない。
それもそうであろう。
一般の者が王族の紋章を見たところでそれが何を意味するものか、わかるはずもない。
とろとろに煮えた草を鍋から取り出し、それをよく冷ましてから汁をしぼる。そのモエモエ草をイヴンの傷口にのせ、手際よく包帯で巻いた。さらに、モエモエ草の煮汁をカップにうつしてイヴンに差し出す。モエモエ草の煮汁は解熱効果もあるのだ。
イヴンは濃い緑色のどろりとした液体をしばし見つめ、一気に飲みほした。
よほど苦かったのか顔をゆがめる。
「イヴン、エーファをかばってくれてありがとう」
イヴンのかたわらにちょこんと座り、リプリーは深く頭を下げた。
「そんな、僕の方こそ、かえって心配をかけさせてしまって……ごめんなさい」
「すまない。私がいたらぬせいで」
やにわに、エーファはイヴンの怪我をしていない方の手をきつく握りしめた。
「この恩は絶対に忘れない。イヴンに何かあった時は、必ず手助けすると誓おう。そして責任をもって、イヴンをヴルカーンベルクまで連れて行くと約束する!」
おおげさです、と首を振るイヴンと、感激して目頭を押さえるリプリー。
その横では、エーファに首を絞められ失神寸前のイェンの姿があった。