37 刻のはざま
柔らかい風がさっと頬をなでていく。
気持ちのいい穏やかな風。
その風にのって、甘い花の香りが鼻腔をくすぐった。
薄く目を開けた真上、満開に花を咲かせている桜の木が目に飛び込み、木々の隙間から明るい日射しがそそいで、眩しさに片目をすがめる。穏やかな風にのって、薄紅色の花びらがひらひらと舞い落ちてくるのをぼんやりと視線で追う。
ここは?
ああ……〝灯〟のいつもの裏庭か。
横になっているうちに、眠り込んでしまったか。
まあ、いつものことだ。
それにしても、気持ちがいいな。おまけに、静かだ。いつもなら〝灯〟の敷地内に入り込んできた子どもや家族連れの声が聞こえてくるのに、今日はまったく何も聞こえない。
もう少しだけ眠っていたい。
どうせ、することもねえしな。
目を閉じかけてイェンは、ふと満開の桜に訝しむ。
今、桜の季節だったか?
違う。
「お師匠様?」
そっと、呼びかけてくるその声にイェンは視線を傾けた。
すぐ側でこちらを見下ろすようにしてのぞき込むツェツイの顔があった。
「俺……」
ツェツイの膝を枕にして眠っていたのだ。
「いつの間にかおまえの膝の上で寝ちまったみたいだな」
だけど、何でこいつの膝枕で俺は寝てんだ? そもそも、こいつは遠いディナガウスにいるはず。
「悪い。足しびれちまったろ? 今すぐに」
起き上がろうと身動ぎかけたイェンをとどめるように、ツェツイの手が肩口に添えられた。
「大丈夫ですよ、お師匠様。もう少しだけ眠っていてください。起こしてさしあげますから」
「ああ……」
本当に悪いな。
もう少しだけ、このままでいさせてくれ。もう少しだけ……。
ツェツイの膝の柔らかさに心地よさを感じながら、イェンはゆっくりと片手を持ち上げツェツイの頬に触れた。
どうしましたか? というようにツェツイは首を傾げる。
「何でだろう。おまえが泣いているような気がしたから」
「泣いてないですよ」
「俺の気のせいか?」
「はい。気のせいです」
頬に触れていたイェンの手が、ツェツイの耳のわきに飾られている髪留めに伸びる。それは桜の花をかたどった髪留め。三年前〝灯〟所属試験の合格祝いにと、イェンが贈ったものであった。
「その髪留め、まだつけてんのか? さすがにもう子どもっぽいだろ?」
そうだったな。
おまえと出会ってから三年も経つんだな。
そういえば、ちょっと会わない間にまた少し大人っぽくなったような気がする。
「そうですか? とても気に入っているんですよ。初めてお師匠様からいただいたものだから。あたしにとって、大切なものです」
「もっと、今のおまえに似合うやつを贈ってやりてえな。おまえの喜ぶ顔が見たい。今度いっしょに選びに行く、か……」
不意に腕の力が抜けた。持ち上げることができずに落ちかけた手を、咄嗟にツェツイが両手で握りしめてきた。そして、握った手をツェツイは自分の頬へと持っていく。
ツェツイの柔らかい頬の感触と温もりが伝わってくる。
「贈りものなんていただかなくても、こうしてお師匠様に会えてあたしは嬉しいし、側にいることができて、とても幸せです。お師匠様がいてくれるだけであたしはじゅうぶんです」
首を傾げて静かに微笑むツェツイの表情に、胸の奥がとくりと鳴った。
「そのわりには、なんでそんな青ざめた顔して……」
ぱさりと肩に落ちたツェツイのふわふわの髪をかきあげてやりながら、イェンはふと眉根をよせた。
青ざめた、顔?
「おまえ……っ!」
咄嗟に起き上がろうとしたイェンの口から短い悲鳴がもれた。
胸に手をあて顔をゆがめる。おそるおそる、手のひらをみつめると真っ赤な血。
差し込むような胸の痛みによって自分の身に何が起きたのを思い出す。
これは、レギナルトの攻撃で受けた傷だ。
「だめです! まだ動かないでください。動いちゃだめです!」
「どうして、おまえがここに……」
「パンプーヤ様に呼ばれました。お師匠様に何があったのかも、すべて教えていただきました」
あのくそじじいよけいなことを喋りやがって、と言いたかったが、傷の痛みのせいで悪態をつく余裕もなかった。
「お師匠様、お願い動かないで。もう少しだけ我慢してください」
「おまえ何を……待て、ここは」
そこでイェンはようやくここが通常の空間ではないことに気づく。
〝灯〟の裏庭に似ているが、そうではない。
人の気配がないのもあたりまえだ。
ここは、刻の狭間。
だが、刻の狭間は何もない所。無が広がり、静が支配するだけの無機質な空間。迷い込んだ者によっては、異空間であるここは闇であったり、灰色であったり、真っ白であったりと様々だ。だがしかし、どうだろうか。辺りには色とりどりの花が咲き、どこまでも広がる上空は鮮やかな青。おまけに、眩しいくらい明るい日射しまで降りそそぎ、そよぐ風は心地良い。
「殺風景な空間では寂しいから、お師匠様が目覚めたとき、少しでも気持ちが和らぐようにと思って〝灯〟の裏庭を再現してみました」
〝灯〟の裏庭は、ツェツイと初めて出会った場所でもある。
「まさか、おまえ」
「はい。刻をさかのぼってお師匠様の傷を元に戻しています」
回復魔術がイェンに効果がないというのなら、怪我を負う前の元の状態まで刻を戻してしまえばいい。けれど、刻を戻す術は禁術。
「ここなら、刻を戻す術を使ってもばれません。元の空間にも何の影響もないはずです」
「おまえ、いつの間にそんな術を覚えた……」
「覚えたのではありません。三年前、あたしがディナガウスへと旅立つ前日、お師匠様から回復系の術を引き継いだときに、たぶん、一緒に……もちろん、この術を使ったのは今日が初めてです。パンプーヤ様はあたしが刻を操る術を使えることに気づいていて、それで、そのために、あたしをここに、お師匠様の元に呼び寄せたのだと思います」
これがじじいが言っていた奥の手だというわけか。
重ね重ね、余計なことをしてくれたとイェンは心の中で吐き捨てる。
「だめだツェツイ。術を解け。今すぐにだ!」
「もう少しです。もう少しなんです!」
「ツェツイ! 俺のいうことがきけないのか」
しかし、ツェツイは頑なに否と首を振るばかりであった。
「師弟の縁をきるなんて言わないでください。この術は使ってはいけないとお師匠様は言わなかったです!」
「そんなへりくつを。そうじゃない! いいか、聞け。刻を扱う術が何故禁術だと言われているか……流れる刻を操るからという理由だけじゃない。そんなことも知らないわけじゃないだろ!」




