33 幻術の罠
「陛下、どうかおさがりください」
レギナルトと呼ばれた黒衣の魔道士は、ヨアンを陛下と呼んで背にかばい、一歩足を前に踏み出した。
詠唱なしで、イェンがいくつもの術を放つことができるのは相手も知っているはず。それでも戦いを挑んでくるということは、何かしらの策を用意しているに違いない。
先に攻撃を仕掛けてきたのはレギナルトだった。
『風よ──』
見えない風の刃がイェンめがけて襲いかかる。だが、そのどれもがイェンの前であとかたもなく勢いを弱め散らされてしまった。
杖の環にほどこされた緑色の宝石がちりん、とかすかに鳴ったのを耳にする。
詠唱の短い小手先の術をぶつける作戦か。
数にまかせて攻撃をするにしても、お粗末すぎる。ただ、うっとうしいだけで威力はない。イェン自身の持つ魔力によってすべてかき消されてしまう。
「もうちっとましな……っ……」
突然、右腕に鋭い痛みを感じてイェンは眉根を寄せた。痛みの部位に手をあてると、ぬるりとした感触。
無数の小さな風の刃に隠れひそみ、イェンを襲った鎌風。
いつの間に詠唱を?
どういうことだ?
「兄き! いきなり絶体絶命!」
「何で攻撃仕返さないですか!」
「とっとと、やっつけるっス!」
「このままでは……」
「貴様! どういうつもりだ!」
さらに、放たれるエーファの怒声。
どういうつもりだと、放った相手は敵である黒衣の魔道士ではなくイェンにだ。
「何故、戦わない!」
そんなエーファをなだめるように、リプリーはいいえ、と緩く首を振る。
「無理よ……魔術で人を傷つけてはいけない。〝灯〟の掟だわ。イェンさんは攻撃をしかけることはできない。相手を傷つけることができない」
詠唱なしで術を放つことができるイェンの方が有利であるようでいて、実はそうではなかった。〝灯〟に身を置くイェンにとって、この状況は実は不利でしかない。
「ううん……掟に関係なく、イェンは絶対に人を傷つけるようなことはしない。でも、どうするのイェン……」
イヴンの最後の言葉は呟くような声だった。
「だが! これではやられる一方ではないか!」
もどかしげにエーファはぎりっと奥歯を噛みしめた。
さらに黒衣の魔道士の杖から鋭い風の刃が放たれる。
再び緑の宝石が音を震わせる。
イェンは杖を盾に繰り出される相手の攻撃を防ぐ。
へえ、とイェンはおかしげに笑った。
あらかじめ発動直前の術を杖に仕込んでいたというわけか。
ならば詠唱は省略できる。
発想としては悪くはない。
だが、仕込んだ術が切れてしまえば、そこでお終いだ。
「あなたも攻撃を仕掛けたらどうです?」
「何? そんなに俺にやられたい? でも、やだね。忘れたか? 争い事は嫌いだって前に言っただろ」
「甘いのですね」
やれやれというようにレギナルトは小さく息をつく。
「いいのですか? そんな余裕も言っていられなくなりますよ」
さらに次の攻撃が放たれた。
今度は炎の攻撃。
またしても、杖を飾る宝石がちりんと鳴る。
イェンは石に視線を向けた。
赤い宝石が淡い光を揺らめかせ明滅している。
この石、術の属性に反応しているのか。
地を舐めるように這う炎がぐるりとイェンを囲む。杖を大きく振り、取り囲む炎を一瞬にして、あとかたもなく消し去る。
何なんだ?
不可解な相手の行動に胸をざわつかせる。あるいは、苛立ち。
ずいぶんとつまらない術を仕掛けてくる。
今度は何をたくらんでやがる?
杖に仕込んだ術の仕組みも解いた。
もうつけいる隙は与え、ない……はず……。
不意に視界が揺らぎ、足をよろめかせる。
暑い……息苦しくて、めまいがする。
まるで真夏の暑さだ。
炎の術をくらったせいだろうか。
こめかみから頬、そしてあごへと伝い流れ落ちる汗をイェンは手の甲で拭った。汗に濡れたシャツが肌に張りつき不快だ。
手をかざし片目をすがめて空を仰ぐと、焼けつく太陽の陽射しが容赦なく照りつける。 もう一度視線を落とすと、強烈な炎天の下、さらされた大地は灼けてひび割れ、そこから立ち昇る気が、ゆらゆらと空気を歪ませた。
草ひとつはえていない乾いた大地。
水……。
喉の渇きを覚える。
確か広場の隅に井戸があったはず。
ねっとりとまとわりつく重たい空気をかきわけるようにして、井戸へと向かった。
足が重く、うまく前に運ぶことができない。
夢の中で何者かに追われ、懸命に走って逃げているのに足が思うように進まない。そんな感覚であった。
やっとの思いで井戸にたどり着く。
落ちていた水桶を井戸の中に放り込むと、耳についたのは、かんと底に突きあたる桶の音。まさかと思い身を乗り出して井戸の中をのぞき込み、愕然とその場に膝をつく。
水はすっかり干上がっていた。
イェンはごくりと喉を鳴らす。暑さでからからに乾いた喉。そして、あらためて街を大きく見渡し目を疑った。
いたる所に人が倒れていた。
焼けつく太陽に身をさらし、体力を奪われ力尽きていったたくさんの人々。
何故みんな倒れている。
雨は降らなかったのか?
イェンは、ずきりと痛むこめかみを指先で押さえた。
奇妙な既視感にとらわれる。
以前にも、この光景を目にしたことがなかったか?
だが、何かがおかしい。
何かが……。
けれど、その違和感の正体がわからない。
ふいに両腕に重みを感じて視線を落とす。
腕の中にはいつの間にか幼い少年の姿があった。
痩せこけた身体と頬。落ちくぼんだ目。かさかさに乾いた唇からもれる呼吸は浅く、いつこと切れてもおかしくない状態だった。
「イヴン!」
少年の名を呼び、イェンは小さな体を強く揺さぶる。
ゆっくりとイヴンのまぶたが震えながら持ち上がる。
「イェン、生きてた……よかった……」
「生きてるに決まってんだろが!」
弱々しい笑みを浮かべ、イヴンは手にしていた水筒を差し出してきた。
「イェンにあげる……のんで……」
震えるその手から、ひったくるように水筒を受け取り、すぐにイヴンの口許に持っていく。しかし、水筒の中身は空であった。
一滴の水も落ちてはこなかった。
くそっ!
強い陽射しに肌を焼かれることもためらわず、着ていたシャツを脱ぎイヴンの身体を包み込む。腕に抱えたまま、水を求めて家々を回る。
「頼む! 水をわけてくれ。こいつが、イヴンが死にそうなんだ!」
しんとした室内に、イェンの声だけが響く。
誰もいねえのかよ!
舌打ちを鳴らし、イェンは表に飛び出す。
回れる家はすべて回った。
どの家も無人で、どの家の水瓶も空っぽだった。
胸をつく不安にかられ、イヴンをくるんでいたシャツをゆっくりとめくる。ぱたりと、イヴンの片腕が力なく垂れ落ちる。
「イ……っ」
喉にはりついた悲鳴は声にはならず、イェンはその場に膝をつく。
イヴンの息は途絶えていた。
「おい、起きろ! 目をあけろ!」
何度呼びかけても、乱暴に強く頬を叩いても、それっきりイヴンが目を開けることはなかった。
うそだろ……。
背中を丸め腕の中の小さな亡骸を強く抱きしめ、身を震わせる。
まだこんなに温かいのに。
「何でだよ……ずっと、俺の側にいてくれるって、俺のこと守ってくれるって生意気なこと言ってたじゃないか! おい! 目をあけてくれ!」
呟く声が徐々に大きくなり、最後は声を振り絞り叫んだ。
涙がこぼれ落ちていく。
「絶対におまえを死なせねえ!」
ついとイェンはまなじりを決する。
その瞳の奥にちらりと揺れるのは危険な光。
イヴンを取り戻すただひとつの方法がある。
魂を呼び戻すのだ。
たとえ、禁忌に触れても〝灯〟の掟を破ったとしても、その術が術者に何かしらの影響を与えるとしても、そんなことはいっさいかまわないと思った。
失敗に恐れることも、不安に脅えることもない。
ただイヴンを救いたいと強く願う思いが、イェンの心を激しく突き動かす。
目を堅く閉じ、禁術の縁を踏む。
だが──
詠唱の言葉がでなかった。
焦る気持ちを押さえつけ、再び精神を集中する。けれど、何度試みても頭の中は真っ白だった。
詠唱の断片さえ思い浮かばない。
何故? と、イェンは両手を地面につく。
「大切なやつなんだ。失いたくないんだ!」
力いっぱい地面をこぶしで叩き、空に向かって声を張り上げる。
ちりん。
それはガラスとガラスがぶつかり合うような繊細な音だった。手の甲で涙を拭い、音の正体を突き止めるため、イェンは視線を巡らした。
何故だかわからない。だが、この音に救いの希望があると信じて耳を研ぎ澄ますイェンの背後に黒い影がさす。
振り返ったイェンは目を疑った。そこにいたのは、黒一色の装束をまとい、フードからのぞくその顔は骸骨。手には大鎌が握られていた。
腰が抜けたまま後ずさる。
これが禁忌に触れた罰。
俺はここで殺されるというのか。
「だけど、まだここで……」
死ぬわけにはいかない。
強い決意を胸に立ち上がる。
再び、耳に届くかすかな音。
いつの間にか幼いイヴンの姿は消え、かわりに杖を握りしめていた。持ち支えることさえやっとの巨大な杖だった。杖の環にほどこされた紫色の石が淡い光を放ち、静かな音をたてる。
杖が持ち主に危機を知らせている。
紫の石。
咄嗟にイェンは目の前の死神を見上げた。
──幻術か!
『ここは幻夢の狭間
迷い彷徨いし者よ』
──早く目を覚ませ! 早く!
『捕らわれるな
惑わされるな』
──これはただの幻だ。
頭上で大鎌をかまえる幻術の死神の恐怖に耐え、淡々と詠唱を綴る。勢いよく杖を前に突き出し、鎌を振り上げている死神ごと、見えない何かを突き破る。
回りの景色が、まるでガラスの破片が砕け落ちていくように崩れていった。




