30 ワルサラ国へ ノイとアルトの危機
見知らぬ部屋だった。
目を覚ましたイヴンは、ぼんやりと天井の一点を見つめていた。
知らない部屋だったが、漂うこの雰囲気はよく知っていた。
間違いなくここはワルサラ城内。
もともと活気のないワルサラ城はいつも重たい空気で沈んでいたが、その雰囲気が以前よりも濃く感じられた。
眠っている間に連れ去られたのだろう、イヴンは身体を起こしベッドから出る。
みんなは無事だろうか。
いや、イェンがいれば心配はないはずだ。
イヴンは窓へと向かいカーテンを開けた。
射し込んできた陽の光に目をすがめ、手をかざして空を見上げる。
すでに太陽は空高く昇っていた。
窓の下、見下ろした先には王宮前庭。その中央に小さな噴水。水瓶を持った女神の像からは、申し訳ていどに水が流れ落ちている。
ああ、とイヴンは声をもらす。
何故、気がつかなかったのだろう。国王陛下に結婚のことを告げられたあの日、あの前庭で、執拗にイェンをこの国に置いていけと言った人物がいたではないか。
誰も知らない、国王陛下ですら知らなかった、パンプーヤの杖の存在のことも探ってきた。
引きとめたのは自分のことを気遣ってではなく、手に入れたかったのは、本当の目的はパンプーヤの杖とその杖を使いこなすイェン自身だったのだ。そして、パンプーヤの剣もイェンが隠し持っていることを義兄は気づいていた。
義兄はイェンの本当の実力を知っていた。
イヴンは落胆の色を浮かべた。
目的がそうだとしたら、幼い頃から可愛がってくれた義兄の優しさはどこまでが本物で、どこからが偽りなのか。
「お目覚めかな」
背後から声をかけられゆっくりと振り返る。
明るい陽射しも部屋の奥までは届かない。
薄暗く影の落ちた扉の前にたたずむヨアンの表情はここからはわからない。だが、ヨアンの心のうちははっきりと感じ取ることができた。
イヴンは目を伏せた。
義兄は力を欲している。それはつまり、義兄はこの国の王の座を狙っている。
そして……。
僕自身、心のどこかで義兄さんがこの国の王だったらいいのにと思っていたではないか。
「父は……」
いや、とイヴンは首を振る。
「国王陛下は?」
自分でも驚くくらい冷静な声だった。
「今は眠っておられますよ。ぐっすりとね。もしかしたら、永遠に目覚めることはないかもしれませんが」
いつの間に現れたのか、暗い部屋の隅から黒衣の魔道士が現れ、ヨアンに耳打ちをする。
ヨアンは満足げにうなずいた。
「どうやら、お迎えが来たようだよ、イヴン。さあ、おいで。あの生意気な魔道士が私の命令に従い、ひざまづく姿をおまえにも見せてやろう」
イェンを従えるなんて、そんな簡単なことじゃないよ、とイヴンは心の中で呟いた。
◇・◇・◇・◇
時刻は十一時三十分を少し回っていた。
イェンは人混みをすり抜け、ワルサラ城、城門前へと足早に向かっていた。強引にくっついてきた他の者も遅れまいと、必死になってイェンの後を追う。小さな街だ、正午の鐘など待つ間もなく、城へとたどり着くにはそう時間はかからなかった。
イェンは足を止めた。
城門前には黒衣の魔道士とヨアン。そして、魔道士に後ろ手を押さえられてイヴンが立っていた。さらに彼らの後方には、ざっと数えて二十人ほどのヨアンの私兵が武器をたずさえ控えている。イェンは緊張を解き、そっと笑った。
企んだ奴はヘムト陛下だのと疑っていたが、イヴンの無事が確認できれば、首謀者が誰だったかなど、そんなことはどうでもいいという笑いだった。
イヴンは申し訳なさそうな顔でこちらを見つめている。
「何? まだ寝間着? 今何時だと思ってんだよ。みっともねえな」
イヴンの格好は連れ去られた時のままだった。
「そういうイェンこそ何だよその格好。だらしがないじゃないか!」
イェンの姿も寝起きのままだった。
「だから言ったんですよ兄貴。身なりくらいは整えましょうぜって」
「何かすごく見せ場っぽいのに、これじゃかっこもつかないですよ」
「髪の毛も寝起きのまんまのぼさぼさで、ひどいことなってるっス」
「ズボン落ちたまま……」
頭がイェンの落ちかけたズボンをぐいっと引き上げ、ちびがはだけたシャツのボタンをとめ身なりを整える。でぶは髪を結ぶ紐をイェンに手渡した。
イェンは乱れた髪を手早くひとまとめに束ねると、さっと長い髪を後ろに払い。
「おまえ!」
と、威勢よく黒衣の魔道士に指を突きつける。
その手にはバケツがぶら下がっていた。
「……」
のっぽは無言でイェンの手からバケツを引き取る。
「何? この俺を時間指定で呼び出すとは、どういうつもりだ?」
何やらただ事ならぬ様子に気づき、道行く人たちが足を止めていく。その数が徐々に増していった。
「相変わらず、ふざけているのか、そうでないのか、つかみ所のない人だ。それとも、それも計算のうちかな?」
「何? あんた」
目を細め、ようやくヨアンの姿に目をとめるが、まるでお前の存在などどうでもいいといわんばかりに、すぐに視線を魔道士に戻した。
「イヴンを返してくれる?」
「ええ、もちろんお返ししますよ」
一瞬の沈黙に言外の含みをにじませる。
イェンはゆっくりと右手を上げた。
無言で虚空からパンプーヤの剣と杖をとり出すと、迷うことなく相手の足下に投げ放つ。
すぐさまイヴンの身体が自由となった。
魔道士は乱雑に投げられた剣と杖を拾い上げ、剣をヨアンへと手渡した。杖の豪華さにくらべ、剣はいたって普通の、どこにでもある剣だ。それでも、大魔道士の剣。秘めている力は計り知れないはず。
ヨアンはぎらぎらと目を輝かせ、これがパンプーヤの剣かと独り言つ。
「イェン!」
真っ直ぐこちらに駆け寄るイヴンの肩を強く抱く。口を引き結び、涙をこらえて見上げてくるその顔に何も言うな、とイェンは首を振る。
リプリーが側に寄ってきてイヴンの手を強く握りしめる。
ひと悶着あるかと思いきや、意外にもあっさりとイヴンが解放されたことに他のみなもほっと胸をなでおろした様子だ。
「行くぞ。昼飯でも食おうぜ」
イヴンの肩に手を回したまま、イェンは敵に背を向け歩き出す。
「待って、国王陛下が大変なんだ」
引きとめるイヴンの訴えにもイェンは聞く耳をもとうとはしない。冷静さを装ってはいるが、心の奥深くに押さえ込んでいる怒りの感情がひしりと伝わってくる。
立ち去ろうとするイェンの背に、ヨアンはさらに語気を強めて言う。
「まだですよ。もうひとつ欲しいものがある」
イェンは肩越しに振り返り、ヨアンを一瞥する。
イヴンを取り戻したのなら、他に自分を従わせる条件などない。
そう、何もないはず。
「この杖を使える者がいなければ、意味がない」
ヨアンのもうひとつの欲しいもの。
それはイェン自身。
「もちろん、おまえが素直に私に従うとは思ってはいないよ」
ヨアンはちらりと隣に立つ魔道士を見やる。
魔道士はずっとうつむいたまま。
「おまえの記憶と思考を操作し、私のためにその力を使い、動いてもらう術をほどこす」
「くだらねえな」
一言イェンは吐き捨て、再び背を向け歩き出す。
胸にじわりと広がっていく不安。
何をたくらんでいる?
何を仕掛けている?
俺を従わせる条件が他にあるのか?
相手の勝機はなんだ?
何故あの魔道士はずっとうつむいている……。
「詠唱か!」
イェンは勢いよく振り返った。
うつむいていた魔道士が、ヨアンに目配せしたのを見逃さなかった。同時に、遠くから〝灯〟の長である父が、血相を変えてこちらに向かって走ってくるのを目の端でとらえる。
「イェン! ノイとアルトが!」
「あれを見ても、強気でいられますか?」
叫ぶイェン父の声と重なり、ヨアンは〝灯〟の時計台を指さし、勝ち誇った顔で言った。
みなが時計台に視線を向ける。リプリーが悲鳴を上げ、エーファが怒りでこぶしを震わせた。四人組はあわわ、と頭をかかえ、イヴンは呆然と立ちつくす。
ヨアンが指さした時計台に、イェンの双子の弟、ノイとアルトが時計の十二を指す短針にロープで縛られ、さくらんぼのように吊されていた。
時刻は十一時五十五分。




