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5.鳴海和広/田神史明

 

 

「『今日、田神良輔を捕まえる。手錠とパトカー、それから念のために発砲許可の申請をしておいてくれ』…だ、そうだ」

 零芯駅前の喫茶店、「ミネルヴァ」にて、久瀬が、和広に頼まれた言伝を、一字一句間違えずに語った。玲子はアイスティーをストローで掻き混ぜながら、「そう」、とだけ詰まらなさそうに答える。コーヒーを飲もうとしたが、その玲子の反応が珍しくて、思わず置いてしまった。

 喫茶店の喫煙席の隅に、ふたりは席を取っていた。喫煙するというわけではないが、あまり公の場で話すことができない話なので、こういうことになっている。

「どうした、地に縛られたような顔をして」

『浮かない顔をして』といいたいのだろうか。浮かないからといって地面に拘束されている、なんてことはありえないだろうに。というか物理的な浮かないとはまったく別のことなのに。

 久瀬からすれば、玲子が浮かない顔をするのは気になるだろう。事件解決、犯人逮捕の協力を依頼してきたのはあちらからなのに、それを喜ぶ素振りを見せない。

「ちょっと、ね」

 ストローを咥えてアイスティーを吸う。不満そうな顔で。よほどの不満が溢れていたのか、久瀬は納得したような顔で頷いた。

「…魔術師がらみの事件になると、必ず我々が解決してしまうから、遅れを感じているのだな。何、気にするな。魔術師が起こした事件は魔術師がカタをつけねばならない。……猫が発情しすぎて逆立ちしているようなものだと考えろ」

「つまり、思考停止しろってこと?」

 わけのわからないことに遭遇したとき、人は「そういうものなんだ」と無理に納得するか、「なぜこうなるんだ」と探究心に従うか、頭が真っ白になるかの三つだ。リズム的には、真っ白になった後に他のふたつのどちらかの反応をする、といったところか。久瀬がいうには、「そういうものなんだ」と思考停止するのは魔術師になる資格はないらしい。

「そうだ」

 目の前の魔術師は、人間としてあってはならぬことを了承し、切った。

 あまりの即答ぶりに、玲子は軽い混乱をきたす。

「魔術師ではない人間(きさまら)は日々をコタツに足を入れた状態で過ごせばいい。真理の追究、探求をするのは、錬金術師(われわれ)の役目だ。人間は誰しも役割を与えられている。与えているものが何なのかは知らんがな。盲目な信者どもに云わせれば、『神』になるんだろうが。錬金術師は神を否定して存在を許される。いや、錬金術師だけではない、原初となる化学者は、生物の?素?を求める者は、生物の果てを求める者は、神の存在を認めてはならないのだ。認めたら、それこそ?思考停止?。

 貴様が言っている思考停止とわたしのいう思考停止は違う。民衆はただ、己に課せられた役目を果たせばいいだけだ。魔術師という役目を背負いながら生きているわたしから言わせてもらうならば…な。だがときどき、己の分際も(わきま)えずに出しゃばる連中がいる。多くはそれを?犯罪者?と称す。

 人間は?自分?という?固体?が一生分に背負うものしか耐えられないようになっている。犯罪者というのは、…主に、人の人生に過剰干渉したものを犯罪者と称するのなら…?自分以外?の固体の重みを、代わりに背負っている者を指す。わかるか、桂玲子。例えば、AがBを殺したとしよう。すると、AはBが背負うことになるはずだった荷物を背負わねばならんのだ。自分以外の誰かの荷物を背負うこと、それが?罪を償う?ということ。十しか入らぬ器に、無理矢理二十を突っ込んでいるようなものだがな」

 喋り疲れたのか、温くなったコーヒーを飲む。優雅、という二文字が、今の彼には合うことだろう。腹の中さえ黒くなければ。

 この男が概念や化学的なことを話すのならともかく、まさか哲学的なことまで話すとは思っていなかった。玲子は軽く面食らっていた。恋人であったときも、こんなことを話すことはまずなかった。

「……」

「なんだ、わたしの顔に何かついているのか」

「…ごめんなさい、そういうわけじゃなくて」

 珍しくて。そんなことを言う久瀬孝之が。

 哲学でも、魔術でも化学でも、いろんなことを知りすぎたゆえにひん曲がった性格なんだろうか、と一瞬考えてしまった。

「…貴様が何を考えているかは知らぬが…まあいい。後はわたしの奴隷と、貴様の協力者だという男に任せておけ」

「…いつも思ってるんだけど、久瀬、あなたは正真正銘の魔術師でしょう?言っていたわよね。魔術師のしたことは魔術師がカタをつけるって。あなたが直接出ないのはどうして?」

 事件解決の依頼をするたびに、動くのはいつも鳴海和広だった。久瀬は上から和広と警察にアドバイスを与え、ずっと見下ろしている。下のものが足掻いている様子を楽しんでいるように。ほくそ笑んでいるのだ。

 久瀬は、ふっと笑う。

「さあ、なぜだろうな」

 誤魔化した。いつもは冷ややかな声で、毛虫が身体をよじ登る感触を思い出させるぐらいの発言をさらりとする奴が。小鳥を愛でるように、細い目で、さらっさらな前髪を振った。性格はともかく、顔は美男子のほうだと玲子は思っている。

 不覚にも見惚れてしまった。こういうときの顔は反則だと思う。柔らかく笑む姿は、彼のミステリアスな雰囲気を一層濃くする。

「和広君と喜多村さんがかわいそうだわ」

 …話すこともないので、目の前の諸悪に振り回されているふたりの名を出してみる。だが久瀬は無視。のほほんとコーヒーを飲み干し、おかわりを注文しているところだった。もう何杯目だろうか。十から先は覚えていない。

 大した話題の根もなくなったので、ここから去っても良いのだが、玲子は、ふっと思い出した。前から聞こうと思っていたわけではないのだが、少し気にかけていたことだ。今ここですっきりさせたほうがいいだろうと思い、踏み切る。

「久瀬、以前言っていた?強制覚醒?って魔術のことだけど」

 魔術師ではない人間を魔術師に目覚めさせる魔術。世界にふたりしか術者は存在しない。

 玲子は知っている。自分の知り合いで、突然魔術師に覚醒した人間を。

「強制覚醒を使える魔術師はふたりしかいないって言っていたわよね。もしかして、…そのうちのひとりって、あなたのことなんじゃないの?」

 ウェイターが新しく淹れて来たコーヒーを受け取り、久瀬はやはり大量の砂糖を入れて飲む。その後に、

「なぜそう思った?」

 と追求してきた。否定はしないということは、そうだということ…なのかもしれない。この男が言うことを深く読んではならない。疑問に思ったことをすぐに口にしなければ、答えてはくれないだろう。

「鳴海和広よ。彼は三年前、病院に訪れたあなたが額に触れることで目覚めた」

 久瀬孝之に鳴海和広を紹介したのは、桂玲子だ。医者から聞かされた話を聞いて、別におかしくはないだろうと思った。久瀬は魔術師だ。自分たちには全く未知な力を使用する。よって、どんなことをしたとしても驚く必要はない。

 玲子は続ける。

「強制覚醒っていうのは、魔術師として目覚めさせるだけじゃなくて、その対象の意識をも呼び起こす魔術なんじゃないか…。そう、思っただけよ」

「ほぉ。流石は敏腕警部補殿。なかなかどうして、鷹に食われた兎気分だな」

 褒めた。ということは、

「察しの通り、わたしは強制覚醒を使える、たったふたりの内ひとりの魔術師だ」

 疑問がひとつ解消。胸の中の雲がひとつ消えた。

強制覚醒(ソレ)関連で、あまり外を動きたくないのかしら?」

「いや、それとこれとは話が別だ。貴様が気にしたところで、何も動くことはない。そういう意味では貴様には感謝しているぞ。鳴海和広を紹介してくれたことをな」

 …二年前。久方ぶりに再会した元恋人のふたり。ふたりがやはり邂逅したのは、魔術関連の事件があったときだった。桂玲子が渋々、知り合いの魔術師ということで、久瀬孝之に協力を依頼したのだ。

 事件を解決した後の男のほうの第一声。

 ?おい桂玲子。報酬として、意識不明、又は昏睡状態の人間を教えてくれ?

 と言い出したのだった。それで玲子は、二年前の自分の担当だった鳴海和広のことを教えた。…その翌日か。鳴海和広が目覚めたという報告を受けたのは。

 特に何も思わなかったのは、久瀬が魔術師だということだったからか。変人が変なこと、奇蹟的なことを起こしてもだからどうしたと思っていたからか。過去の出来事はその一瞬一瞬にいかないと真相を見抜くことは出来ない。

「今は後悔しているけどね」

 これは本心だ。鳴海和広の回復を願っていたのは、桂玲子だけではない。喜多村巴、三年前に、この町に戻ってきた田神史明、…孤児院にいる子供たち。彼らには申し訳ないと謝らないといけない。久瀬なんていう核爆弾に、和広を貼り付けたのだから。謝って済む問題ではないが。

「強制覚醒っていうのは、昏睡状態の人間を起こすこともできるの?」

「…結論からいうとできる」

 その結果が鳴海和広なのだから、本来は言わずもがな。

 結論からいうと、と前置きするところから、過程で何かがあるのだろう。

「昏睡状態というのは、冬眠とほぼ同じだ。冬眠と違うところは、いつ目覚めるかわからないといったところか。…故に、?覚醒する?という心構えができていない状態だ。脳が無防備な状態といったほうがいいか。金属探知機なしで、平和ボケで頭が腐りきった日本人が、カンボジアの荒野をウロウロしているところを想像しろ。

 人間は弱いようで実は強い生き物なのだ。一応生態系の頂点に立つ存在だからな。知能が発達しているだけで頂点にいるという考えには、賛同しかねないが。獅子のような野生動物的な獰猛さも時折秘めている。

 以前にも言ったが、魔術というのは百万分の一の才能と努力の積み重ねがなければ、完全に学ぶことはできない。強制覚醒というのは、その才能と努力を省略して魔術を得ることの出来る魔術だ。だからあのとき、わたしは裏技と称した。死に物狂いで魔術師を目指す者にとって、強制覚醒というのは邪道中の邪道。

 …そういえば、覚醒剤という愚か者が好みそうなものがあったな。強制覚醒はアレと同じようなものだと考えるがいい」

「…それはつまり、努力と才能を省略して魔術を得る代わりに、失うものがあるということ? それは?」

「む、魔術のことに関しては知らない振る舞いをしたいといっていたのに、今日は随分と突っかかるな。知りたいというのなら教えてやっても良いが。強制覚醒は覚醒剤と同じようなものだと考えろといったな。だがリスクは、通常の人間ならば将来的なリスクであって、現在進行形のリスクではない。寿命は二十年ほど縮まるが、魔術を得たという錘と比べると、釣り合うものではない。…先に言った通り、精神が無防備になっている状態、つまり昏睡状態で強制覚醒を行った場合、未来的なリスクではなく、現在進行形のリスクが訪れる。

 鳴海和広の場合…感情の欠落。感情と意識は副産物に過ぎん。人間は微弱な電気で動いている。感情、意識、全て化学反応に於ける副産物。化学反応で紡ぎ出されるのは幽子…魂だ。故に、魂(精神)>本能 > 意識 > 感情と、頭の中では護るべき優先順位が決まっている。もうわかっただろう。昏睡状態は、魂以外の三つが?生きるために最低限必要なもの?の中に入っていないとして、休眠状態になっている状態のことを云うのだ。自然回復だったら、鳴海和広は五年前の少年のまま目覚めただろう。いつ死ぬかわからぬ状態だったが。

 …そして二年前、強制覚醒によって、魂、本能、意識、感情の四つの内ひとつがなくなった。…一番生きるうえで要らないと、脳が判断したもの。?感情?だ。故に鳴海和広には感情がない。感情の代わりに魔術についての知識を埋め込まれた。喜多村巴は、感情が眠っただけだと勘違いして本を読ませているが、それは不可能だ。もう消滅したものは還って来ない。死者に鞭を打っているようなもの」

 魔術を得るために寿命を約二十年削り、目覚めるために青年は感情を失くした。いつ目覚めるか、いつ死ぬか不明確な状態だった青年は、目覚めさせてくれた男に感謝するしかなかった。そして男は多額の借金を青年の背中に乗せた。青年はその借金を返すために、トアル事務所で働き続ける…。

 働くといっても、桂玲子が、魔術師が関わっていると判断した事件の解決の協力をしているだけだが。久瀬孝之は借金を返そうと奮闘している和広を見下ろし、笑んでいる。

 まったく、よく出来たメビウスの輪だ。だが和広が借金を返し終わったとき、輪を描く線に穴が開くが。その日はいつになるのか。

「…感情を失ったっていうことは、これから先、?人間?として生きているのか…」

「生物学的なヒトとしては生きていけるだろうが、道徳、社会的な人間としては生きていけんだろうな」

 そんな人間を、奴隷呼ばわりする久瀬。正しいのかもしれない。人間らしく生きることが出来る人間など――

 そこで、玲子はある、ありえないと今まで思っていたことを思いついてしまった。

「……久瀬、あなた、もしかして。それで、和広君に…負い目を感じているの?」

「そんなはずないだろう」

 即答。今までにないくらいに、光の速度で答えた。

「…さて、そろそろわたしは事務所に戻らせてもらう。ここに金を置いておくぞ」

 伝票を一瞥し、自分の注文したものの合計金額をキッチリ置いて、席を立つ。

 去っていく背中を、玲子はじっと見つめる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 時は七時間ほど前に戻る。

 

 鳴海和広は、田神家へと足を踏み入れていた。もちろん、警察(というか玲子)から許可をもらってだ。家宅捜査という名目だが、ほとんど人間はいない。それもそうだろう。今は早朝五時。球場に球を打つ音の正体を確認しに行ったのだが、誰もいないし、照明すらついていなかった。和良沙市から歩いて零芯町まで戻り、事務所で久瀬に言伝を頼み、田神の家に訪問したというわけだ。

 いつ崩れるかもわからないほど頼りない階段を昇る。良輔の部屋に入る。わかっていたことだが、誰もいない。シンと不気味なぐらいに静かな部屋。転がっていたバットは全て回収されている。

 田神良輔がなぜ殺人者になったのか、知ろうと思ったことはないし、知る必要もない。良輔が自らを世界の代行者と名乗るのなら、自分はきっと、久瀬孝之という魔術師の代行者だろう。知るのは久瀬ひとりだけで充分。代行者は、魔術師に代わって執行すればいい。

 代行する中で、何度も何度も命を燃やした。命をすり減らしてきた。けど、人を殺すなんてことはできなかった。デザート・イーグルを死にかけの敵に向けたときの、敵の表情が、胸にこびり付いて。

 無言の圧力がそこにあった。

 生きたい、やめてくれ、あいつ等が悪いんだ、わたしはただ仕返しを…、生きたい、生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい――

 死に物狂いで叫ぼうとしていた相手もいた。

 和広は言いたかった。お前に殺された人たちも、お前と同じような感情を抱いたんだと。お前たちもそれ相応の罰を受けろと。でも、言えなかった。自分には感情がないから。感情がないから、魔術師に殺された人たちの気持ちなんてわかるはずがなかった。最早人間ではない自分に、罰を受けろだの、罪を償えだの、そんなことを言う資格はない。…それでも、魔術師たちを倒してきた。…殺さずに。最後の一線だけは、怖くて踏み越えられない。

 怖い? 何を今更。感情を失くしたはずなのに、なんで?怖い?っていうのがわかるんだ?

 久瀬は罪を犯した魔術師を殺せといった。

 和広は罪を犯した魔術師と戦い、勝利し、警察に引き渡していた。…魔術師としての力を完全に破壊したうえで。

 人を殺すのが怖い。それは当然な感情。だが感情を失くした人間にとっては、異常な化学反応。感情より護ることを優先された魂が、本能が、精神が、感情があった頃の記憶たちが、『殺すな』と怒鳴った。

 もしも殺してしまったら、それは親父と同じ道を辿ることになるのだから。

 記憶が人を殺してはならないと唱える。殺したら親父と同類だと記憶が、子供の頃に誓った決意が訴える。だから和広は、久瀬に殺せといわれても殺しはしなかった。殺してしまったら、過去の自分を、巴を、史明を、院長先生を、あのときに助けてくれた警官を裏切ることになるから。それだけは、ハッキリ、『嫌』といえることができた。

 矛盾だらけの人間。代行者と呼ぶにはあまりにも穢れすぎた人間。?鳴海和広?という情報をツギハギに貼り付けた人間。それが、今の鳴海和広。

「…代行者か」

 随分と、中学二年生が好みそうな響きだ。

 そんな代行者は、人を排除するとき、ただ殺すだけなのならともかく、人の顔がわからなくなるぐらいに殴り続けるらしい。どう見てもそれは私怨としか思えない。

 田神良輔は己の罪に気づいている。故に、世界の代行者という称号を着ることで、正当化を図ろうとしている。罪人だろうと屑だろうと、人殺しは人殺し。罪で一番重要なのは結果。過程、言い訳、それこそ要らないものだ。

 要らないものを武器として、自身の身を護る不要なものを排除する代行者。

「…お前も俺と同じ、矛盾だらけの人間か…」

 なぜか、唇の端が攣り上がる。同族を見つけたゆえの喜びか。

 …馴れ合いは好きではない。

「…」

 良輔のものであった机から、ボールペンと一切れのメモ用紙を取り出す。

 一分ぐらい時間を使って何かを書き、和広は代行者の部屋を後にした。

 

 

「ちっ、良輔の奴、完全に行方をくらましやがったな」

 史明は史明で弟を追っていたのだが、結局行方はつかめず。深夜の球場で何度もボールを打って待っているのだが、誘いにやって来ないので、今日からは普通の捜索にしようと切り替えていた。

 午後一時のこと。

 五年ぶりの我が家に侵入。珍しく警察は来ていない。なんでだろうと思いながらも、ラッキーだと思った。

 二階に上がり、自室へ入る。埃の臭いが蔓延している。掃除でもしようかなと思ったが、やめておいた。今の自分に、この部屋の所有権は認められない。弟も母親も救えなかった男が、今更大きな顔をして、この部屋は俺の部屋だ、なんて言うことは出来ない。

 ふと、壁にある、昔憧れていた野球選手のポスターに目をやる。良輔に、このポスターかっこいいからくれ、とよくせがまれたものだったか。

「…あんときとは全然違うよなあ、やっぱ」

 変わらないと思っていたものは、時の流れとともに変わる。この野球選手だって、とっくに引退して、中継の解説役をしている。野球選手になりたいだなんて思っていた自分も、今や犯罪者ギリギリの生活をしている。

 人生とはわからぬものだ。気楽に、大声で史明は言うだろうが。

 良輔の部屋へ入る。変わっていない。変わっているとしたら、バットがないということだけだ。

 ほかに変わったところはないかと視線を巡らせていると、机の上にある白いものに気がついた。正方形のメモ用紙のようだ。何かが書かれている。

 もしや、と思った。良輔が一度帰ってきて、自分に対してメッセージを残しているのでは……

 

『午前二時、和良沙球場で待っている。

 鳴海和広』

 

「………か、和広!?」

 そこに書かれていたのは親友の名。そんな馬鹿なと混乱する。

 三年前、史明は一回だけこの町に帰ってきていた。ある事情のために、あることを調べるために。その際に、和広がマンションから飛び降りて昏睡状態になったと聞いたことがある。病院に行こうとしたが近親以外の面会は謝絶。仕方なく長野にとんぼ返りをしたのだが。

「…和広……起きてたのか…」

 帰ってきて早々玲子には捕まるし、いつの間にか病院どころの騒ぎではなくなっていたしですっかり忘れていた。

「…けど、これは誰に宛てたメッセージなんだ? 俺とは考えにくいし…。もしかして、和広の奴、良輔の件に首を突っ込んでいるのか?」

 そうでなくては、良輔の部屋(こんなところ)にこんなメッセージを残すはずがない。

 午前二時。深夜の、一日が二時間を過ぎた時間帯。和良沙球場。あそこで良輔と決着をつけるつもりなんだろうか。

 だが、良輔には魔力がある。和広が魔術を習得していないと考えると、かなり危険度の高いものだ。和広を探そうにも、どこを探せばいいのかわからない。まさかこんな時間帯から和良沙球場にずっといるとは考えにくい。

 …なら、自分も行くしかない。和良沙球場に。

 五年前、救えなかった親友に借りを返すために。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 午前一時半。和良沙球場。新しく儲けられた公共施設は、これから起きることを予期してか、(シン)、と静かに震えていた。照明は、こんな時間に誰も来ていないという証を見せるように、照明の電源を切っていた。

 月明かりしか道標のない深夜。夏は夜でも暑い。カラッとした乾いた暑さではなく、じめじめとした湿った暑さがまた不快感を催す。

 一匹の猫が、あまりの暑さにやられて伏せている。夜行性の目は、不気味に光っていた。が、尾と毛を逆立てて、猫は一目散に逃げていった。今、自分の前を通り過ぎた人間が、あまりにも異常な気配を出していたから。猫は今までも、生きるためにいろんな人間を見てきた。時には餌を施され、時には餌を強奪し、時には指を噛んだ。性格の違いは十人十色だったが、本質的な『人間』という生き物という意味では、皆同じだった。今通ったものは、ヒトの形をした、別の生き物だった。

 例えるのならばハナカマキリ。擬態し、溶け込み、獲物を捕食する。

 ハナカマキリの場合、擬態するのは花だが、先の生き物は、人間に擬態して、人間を喰らうものだ。だから猫は逃げた。見たことのない生物だったから。本能的な危険感知能力が、ここから遠ざかれと訴えたから。

 ヒトに擬態した存在は、明かりのない球場を、区切っている緑の網の向こう側から見つめ、ニッと口を歪めた。

 

 

 史明は大きく足を動かして走っていた。午後十時あたりまで寝ようと思っていたのだが、いつの間にか午前一時になっていた。日下に断りもいれず車に乗り込み、急いで球場まで来たわけだが…。

 時刻は午前一時五十分。和広が良輔を待っているとしたら、到着していてもおかしくはない時間。だからこそ焦る。今の良輔は何をしでかすかわからない。和広に対して…

(待てよ…)

 ここに来て、冷静さが頭に戻った。和広は良輔の協力者なんじゃないか、という言葉が、一度頭にチラついた。が、すぐに首を振って払拭する。

 そんなことは、決してありえない。

「…大丈夫だ、俺。和広はそんなことしねえ、絶対に」

 ドンドンとドラムを叩く心臓に言い聞かせる。長い付き合いなんだ、それぐらいわかってやる。

 大きく深呼吸。こそこそと踏み入れる足は、虎に追われる兎のようだった。

 心音が、MDプレイヤーを大音量で耳に当てているぐらいうるさく聞こえた。または、それぐらい、小さな音が大きく聞こえるぐらいの静かな夜だっただけなのか。住宅街から外れた場所。午前二時という夜更けの時間のためか、車の通りも皆無といっていいほど。一昨日までここに潜入するとき、こんなに緊張しただろうか。

 コントロールパネルのある部屋には向かわず、真っ直ぐとグラウンドに足を下ろす。

 ああ、まったく沈黙(しずか)な夜だ。空気を構成している分子が動いている音さえ聞こえそうだ。微風が吹くたびに、左胸が跳ね上がる。

 時計を見る。午前一時五十五分。…後五分。

 和広の姿は…ない。

 フィールドを全て回る時間はない。プレイヤーズベンチに身体を預けることにしよう。茶色い土の感触をゆっくりと確かめながら、歩く。ベンチまで残り五メートルといったところだろうか。

 ザク、ザク、ザク。

 黙った空気に、足音という振動が木霊する。

 嫌な緊張感だ。冷たい空気が神経に張り付いたような、血管にまで染み渡ったような、そんな感覚。掌に嫌な汗までつき始める。

 残り二メートル。

 恐れる右足は、二十センチずつ前進している。つまり、後百八十センチ。百六十センチ、百四十センチ、百二十センチ。

 ついに、一メートル…

 と、ベンチの中から誰かが現れた。暗くてわからない、と思った瞬間、照明がついた。ベンチから現れたのは男だった。史明は目を丸くした。そこにいたのは、現れたのは――

「か、カズ…」

「…」

 名を呼ぼうとしたが、先をいえなかった。

 和広が神妙な顔つきで、自分を睨んでいる。右手に何かを――拳銃を握って、銃口をコチラに向けている。史明は愕然とした。

 和広の目は何も映っていない。灰色だけ。怨嗟の感情すら浮かんでいない。友の変わりように、まいってしまったのだ。せめて、憎しみだけでもぶつけてくれたら、楽になっただろう。和広を救えなかった自分が、それで浄化するような…

 と思ったが、違った。和広の瞳には、きちんと映っている。今まで銃を構えているだけで何もしていなかった和広の口が、動いた。静かに、声を出さず。

 

 ミ、ギ、ニ、ヨ、ケ、ロ。

 

「……!」

 瞬時に、頭がフル回転して和広の思惑を理解した。

 危険と判断した身体が右に動く。和広の持っている自動式拳銃から弾が飛び出す。今まで史明が立っていた場所を通りぬけた。カンッ、と軽い金属音。史明の背後には、誰もいないはずだった。だが、史明と正面を向いていた和広には見えていた。

 史明の後頭部を殴ろうと、バットを振り上げる田神良輔の姿が。

 銃弾は、史明の顔に牙を剥いていた。そう、丁度、振り上げたバットが当たるように角度を調整していたのだ。銃弾がバットに当たった反動で、良輔は腕を後ろに振り上げて仰け反っている。

 その間、一秒以下。

「…ンの……!」

 ふらふらとした足取りで、バットを構えなおす。青白い光が灯る。

 それより前に、和広の引き金にかけた指が動く。魔力の弾は、バットを弾く。反動で良輔が仰け反る。接近する和広。逃げる良輔。

 和広ひとりだけでは逃げ切られる、と思った史明が魔力を放とうと掌を広げる。が、当人が手で遮った。

「かずひ…」

「史明、話は後だ。あいつは俺に任せてくれ」

 返事を聞かずに走る。無論、良輔の後を追ってだ。

「和広ォ! 殺さないでくれよ! 後お前も死ぬなあ!」

 和広の背中へ怒鳴る。こんな深夜に、非常識だとは思うが、仕方ない状況だと割り切ったほうがいいだろう。呼ばれた青年は、こちらに振り返りもせず、親指を立てていた。…久しぶりに会ったからか、驚いたが、アレは和広だ。紛れもない、五年前の、あの少年だ。

「いいの? 和広君に任せて」

 後ろからの声。振り返ると、玲子が腕を組んでいた。

「あれ、玲子サン。どうしてこんなところに?」

「和広君に頼まれてね。良輔君みたいな思い込みの激しい、というか、もう思い込んでいる人間は、追い詰められたとき何をしでかすかわからないからね。和良沙市全体に、警察を複数人配置させてくれっていう要請があったのよ」

「で、でも大丈夫なんスか、警察で。良輔は一応魔術をバンバン使う奴ですよ」

「和広君から聞いたんだけど、あの子は『自分が世界の代行者だ』っていう思い込みがあるでしょう? 警察っていうのは、犯罪者…つまり、世界に悪をなす輩を取り締まる組織だ、って良輔君は考えているわけよ。で、良輔君は、不要なものを排除しているわけなんでしょ? だから…」

 

「こっちだ、いたぞ!」

 和良沙市内に逃げ込んだ良輔の前に、現れる三人の刑事。舌打ちして、別のルートに走りこむ。その後を和広が追う。魔力をバットに溜める。中断させるために銃を撃ち、バットを弾く、集中が途切れる。以下、繰り返し――

 

「?不要なものではない?警察を殺すわけにはいかないのよ」

 警察は世界の治安を護るものと思っている田神良輔。世界の平定のためには、?必要不可欠なもの?。

 故に、必然と田神良輔の標的は、自分を追い詰めようとする鳴海和広と、殺す予定であった田神史明のふたりだけになる。

「…玲子サン、もしかして、和広に俺のことを教えたのか?」

「よくわかったわね。どうして気づいたの?」

「あのメモだよ。良輔だって馬鹿じゃない。家宅捜査に警察が来てるってことぐらいわかってんだろ。だから無闇に家に入るはずがない。入るとしたら、事情を知っている俺か和広ぐらいだ」

 玲子から史明が帰ってきているということを聞いた和広は、玲子に頼んで今日(昨日)の家宅捜査を中断してもらった。早朝に侵入、良輔の机に宛名無しのメモを書いてその場を去る。そこにノコノコとやってくる史明。良輔の机に置かれてあるメモを読んで、和広が良輔を誘っていると判断する。和広曰く、良輔は、「史明を殺した後に自分を殺しに来る」と言っていた。逆に言えば、史明の後をついて回るということ。史明はメモに書かれていたとおりの時間にやって来る。それが和広の作戦。史明の後ろには、バットを構えた良輔がいる。

 そこまでわかって、史明は複雑な表情で後頭部を掻いた。

「俺を囮にしたってことかよ。ちぇっ、和広の奴、なんかキャラ変わってねえか?」

「それは後々に教えてあげるわ。それはそれとして、あなたは、あそこで今までの流れを見ていた男を捕まえてちょうだい」

 キッ。玲子が鋭い視線を送る。緑色の網の向こう側にいる、ひとりの男。合点承知と唸って、史明は走る。

 男は走る者を迎え入れるように、闇に紛れた。

 

 

 沈んだ町は、警察の手によって人の姿はなくなっていた。このアスファルトの道を行くのは、バットを持った少年と、銃を構えた青年と、その後を追う五人ほどの警官。警官らは、和広の指示で散り散りになって走っていた。もしも雷を良輔が放ったとき、死者を出さないための策だ。雷光は直進しかしない。

 後ろに振り返った良輔が、青白い一筋の閃光を投げつける。和広が手にあるデザート・イーグルに力を込める。空気が収束する。和広の後天属性、風。全ての生物は空気の中にいる。空気は己を浄化するために風を起こす。和広の風は、そんな頬を撫でてくれるような優しいものではない。

 魔力的な産物を全て吹きとばし、魔術師に痛みを伴うカマイタチを下す。

 収束した真空の塊が口から飛び出す。空を裂いて、風は飛ぶ。縦に刃のように変化して、雷を真っ二つに切り分けた。

 二又に分かれた雷は、和広と警官らを過ぎ、後ろでふたつの爆炎を上げた。

「良輔、お前にひとつだけ訊きたいことがある」

 速度を上げて、良輔の目の前に移動する和広。自分でもわからないほどの絶叫をして、バットを奮う。魔力も込めずに。ただの打撃は、ひょろりと避けられた。

「どうして、お前は自分の母だけその(まじゅつ)で殺した?」

「…!」

 まったく予想外の質問だった。良輔は足を止めてしまう。和広も足を止める。止まった彼らを見計らい、警官が動こうとするが、様子に気づいた青年の銃に牽制された。警官は、桂玲子に、「鳴海和広の指示に従うこと」という命令を受けている。彼らでは和広を止めようとすることはできない。

 良輔は質問されて、まともな思考もできないのに記憶を掘り返そうとしていた。

「…お……俺、は…」

「他の人間は、なぜかは知らんが顔を潰していたな。だというのに、母親だけはなぜか魔術を使用した。なんで使ったのか教えてもらおうか」

 天堂と地獄、どちらかの片道切符を売っている閻魔でも見ているのか、恐れを為して良輔は和広を見上げていた。

 ?魔力の暴走?であんなことになってしまった―― とはいえなかった。まだ心の中にある良識というものが、それを言い訳の材料に使うなと命令している。嘘をつくなと魂が拒否する。

 灰色の瞳が、鏡に見えた。自分の心が映し出される。

 母の顔も見えた。母は顔をくしゃくしゃに歪めて、流れそうになる涙に耐えていた。

 記憶がフラッシュバックする

 

 ?良輔、出てきなさい。?

 ………黙れ。俺の世界に干渉するな。

 

 ?良輔、学校に行って。お願いだから…?

 ………嫌だ。あそこは俺から全部を奪った。

 

 ?学校に行かなくてもいい。せめて、わたしだけには顔を見せて…?

 ………五月蝿い。なんでお前のご機嫌を取るために…!

 

 ?ああ、こんなときに史明がいてくれたら…?

 ………なんで、なんでそこで兄貴が出て来るんだよ…?

 

 ?…良輔! いい加減に出てきなさい!?

 ………もう()きたよ、その台詞。そっちもよく厭きないね。

 

 ?どうしてお兄ちゃんみたいにあなたはなれないの!??

 ………は? 何言ってんの、あんた?

 

 ?どうしてお兄ちゃんみたいにあなたはなれないの??

 あんたは最初に言ったじゃないか、俺に。?お兄ちゃんを見習いなさい?、と。

 でも俺は俺で。兄貴は兄貴だから。俺が兄貴になれるはずがない。それでもあんたの期待に応えたくて、欲しいものを手に入れたくて、兄貴の真似をしたら、こんなことになっていた。

 そうだ…そもそも、俺がこんなふうになったのはあんたのせいじゃないか。

 あんたは世界(おれ)に害を為す…! 不要なもの…! 俺の人生(せかい)をメチャクチャにした根本じゃないか………!

 

 例のバットを持って、階段を駆け下りる。丁度寝室に行こうとしていた母親。

 丁度いい。あんたには?力の実験台?になってもらう…! この神から授かったバットと力で、あんたの身体をバーベキューにしてやるよ………!

 

 力強く振り下ろされる、発光したバット。バットの頭から雷光が飛び出し、母を呑み込む。

 それは一瞬のことだったのか。

 それは無限の時間のことだったのか。

 最期の、雷に焼かれた母親の泣きそうな顔が、写真のように脳の中に残った。

 

 うわあああ―――!!

 絶叫し、和広を突っぱねて闇の市街へ紛れる。銃を構えず、和広は後ろにつく。五メートル程度の間隔を開ける。近づきすぎても遠すぎても、今の良輔は危険だ。五メートルならば、暗闇でもバットを奮う動作がわかる。

 転がるような足取り。灰色の瞳を変えずに、和広は見逃さない。周囲を確認する。現在、自分が立っている場所は、JR和良沙駅前の十字路のど真ん中。良輔が走ろうとしているのは、駅前の商店街。小型ビルが集中している。狙うのはここだ。

 ダンッ! 牽制するように引き金を引く。良輔の左の二の腕を掠った。痛む左腕を右手で押さえながら、良輔は闇に消えた。

 …予想通り。ここは小さいビルが集中している。ということは、ビルとビルの間に小さな通りがあるということ。いなくなったと錯覚させるには、闇夜、そして路地裏を利用するのが定番だろう。和広自身も、良輔のいる路地裏に乗り込む。

 狭い狭い路地裏。ぽつりぽつりと、雨が一粒、二粒落ちてくる。

 ぜぇ、ぜぇ、と息を切らしている良輔。確保しようとする警察を手で制して、和広は前進する。狭い路地裏。学校の廊下より小さい空間。空いている両端を塞いでしまえば、箱庭が完成するだろう。尤も、和広の後ろにある入り口は、警察が塞いでいるが。

 拳銃を下ろして、和広は良輔と二メートルほどの間隔を取る。

「…良輔、大人しく縄につけ」

「う…うるさいうるさい!」

 激しく首を振る。

 怒りの形相で、和広の後ろにいる警察を射抜く。

「おい、警察! どうしてこの男を捕まえない! こいつは、こいつは不要な奴なんだぞ!?」

「ああ、そうだな」

 警察ではなく、和広が答えた。一歩、前進。ひっ、と短い悲鳴を上げた良輔は、引け腰になって後退した。

「俺は不要な存在だ」

 また一歩。少年に近づく。

「必要とされる存在に嫉妬を抱く」

 目は灰色。顔は無情。口から出る言葉は虚無の怨嗟。

 穴の空いた器を誰が欲しようか。灰色だけの空を、誰が求めようか。人間らしい感情を失ったものを、誰が人間と呼ぼうか。それは最早人間ではなく、ただ、過ぎ行くときの流れを見つめている錆びた機械だろう。ならば、この身が朽ち果てるまで動き続けよう。

 持ち主が使うままに。

「お前は代行者なんかじゃない。狂った、魔術と出会ってしまった子供だ」

「…! ち、違う、俺は、…俺は、代行者だ!」

「それは?お前の世界?の話だろう。もう一度言うぞ。妄想を抱くのは勝手だが、周りにまで迷惑をかけないでくれ」

 撃鉄が落ちる。魔力の弾丸は、少年の膝を貫いた。

 和広がさっきから引き金を引いているそれは、前述どおりファントムメタル製のデザート・イーグル。持ち主の魔力が続く限り、弾切れになることはない。さらにいうのであれば、一発一発は微量の魔力の塊。しかし威力は、市場で出回っている通常のデザート・イーグルと変わらない。魔力の塊を発射しているだけなので、反動もない。自動式拳銃(オートマティック)の最高威力を誇るものが、無限の弾丸を持っていると考えても良い。対人、対魔術師との戦闘を考えると、この兵器は最強となる。

 穴の開いた足。流れる血。代行者は震える。

 良輔の世界ではなく、良輔の世界を内包した、和良沙市という小さな世界が許さないと訴えている。

「お前が引き篭もっていた理由がよくわかるな」

 良輔が引き篭もっていたのは、夢が奪われた、なんて綺麗な理由じゃない。

「…な、んだ、と…」

「己の世界しか認められず、己の妄想でしか生きることが出来ず、それだけならばまだしも、人を虐殺できる力を以って外の世界に干渉する。人を傷つけることでしか人と付き合うことが出来ず、人を殺すことでしか己の存在意義を認めることが出来ない。そしてその存在意義を、世界の代行者という妄言で正当化する。お前も杉本健太郎と同じ、正真正銘の屑だ」

 突き放す。お前は俺たちの住む世界にいてはならないと。お前こそ本当の不要物だということを思い知らせる。

「屑は屑らしく、隅っこに固まっていろ。バラバラにいられては、掃除するのも面倒だ」

 ゴミを見るような目で、屑を見下ろす。

 良輔は、目の端に涙を浮かべながら、恐れをなして和広を見上げていた。

 

 ――― 悪魔だ。こいつは、神の代行者…神そのものと相対するために生まれてきた必要悪。不要じゃない存在だ。

 それでも良輔は思い続けた。悪魔から必要ではないといわれても、

 ?鳴海和広は必要悪だから、手を出した自分にしっぺ返しが来た?

 と思い続けた。最早その思い込みは、自己暗示を超えた催眠術の域に入るだろう。

 

「……どうした、逃げないのか、良輔」

 今までにないくらい低い声だった。

「…え……」

 予想外の言葉に呆気に取られる。獅子が牛の前で眠っているような発言だ。他人には干渉しない、澄んだ灰色の台詞は、良輔の生存本能を掻き立てる。

 立ち上がって、背中にある縦の穴へ逃げる。路地裏の深くに入り込む。和広は銃を構えずに後を追う。下方を見つめると、ぽたぽた、と赤い丸がアスファルトについていた。膝を撃ったのはこのためだ。

 …だが、雨も振りそうだ。冷たい風が雲を押してやって来た。

 警官から懐中電灯を借りて、和広は血痕を辿った。

 もう良輔は和広に追い込まれている。魔術を使わないのがその例だ。

 田神良輔は、何かを演じなければ存在することができない…否、できないと思っている少年だった。人間の思い込みという名の妄想は、時にものすごい力を見せつける。兄である田神史明にはいっぱい友達がいて、弟である自分にはそれほどいない。それが彼のコンプレックスだった。ならば、兄の真似をすれば友達が集まるんじゃないだろうか、そう思った。結果、友達は増えた。兄の真似をしたことによって、彼は性格が変わった、お兄さんにそっくりだね、と言われ続けた。

 だが彼は、失敗したことに気づいていなかった。それは、ひとりの少女に恋することと、兄の真似事で始めた野球に本気で取り組んでしまったことだった。この瞬間から、彼は「田神史明を真似る人形」ではなく、「田神良輔」という固体になった。そのことに彼は気づけなかった。何せ、「田神史明を演じ切ることの出来る人形」だと脳の奥深くに刻んでいたのだから。

 ひとりの少女に恋すること、このことだけが、田神史明と田神良輔の差だった。その差は大きかった。深海と呼ばれるエリアと地上と呼ばれるエリアの距離よりも。

 彼はただ、兄が羨ましかっただけだったのかもしれない。田神史明という椅子に座りたかっただけなのかもしれない。しかしそれは無理な話。人は誰しもある席に座っていて、その席に書かれたとおりの物語しか歩むことが出来ない。良輔は、「田神史明の真似をする田神良輔」という席に座り続けなければならない。

 故に、田神史明失踪は、田神良輔の存在意義を抹消しかねない事態だった。今までの情報を元に田神史明の振る舞いをしていたが、所詮劣化複製(レプリカ)。固体が固体でなければ、完璧とはいえない。田神良輔は、自身を含めた固体をふたつ以上ないと安定しない。杉本健太郎が良輔をイジメに指定したのは、どう見ても演技としか思えない日常を送っていたからだ。ちなみに、田神良輔の異常性に気づいたのは、杉本健太郎と、あともうひとりしかしかいない。

 そのもうひとりの手によって、彼は与えられた。再び、何かの演技をすることを許された。世界の代行者という演技。

 …その世界というのは、良輔の主観以外他ならない。

 良輔が次に与えられたのは、『必死に田神良輔という固体を保とうとしている存在の演技』だった。史明を演じていたときよりも不安定なものだ。何せ、田神良輔という存在そのものすらも危ういのだ。

 だから彼は、彼自身を護る代行者となった。代行者とは役者のことだ。人間には表と裏の両面がある。良輔は表を護るために、狂った裏を演技した。固という完成されたものを持ったと勘違いした良輔は、世界(自分の主観)に危害を加える存在を破壊した。

 田神史明、鳴海和広のふたりを排除しようとする理由はたったひとつだ。それも、至って単純なもの。単純すぎて、誰もが抱いてしまうもの。

 原因は、彼が昔「自分」を持ってしまったもの。…喜多村巴の存在。喜多村巴は最初田神史明に恋し、今は鳴海和広に好意以上のものを抱いている。田神良輔が田神良輔という役を演じきるには、喜多村巴は必要不可欠のもの。彼女までもいなくなったら、彼は精神を崩壊する。簡単にいうのであれば、嫉妬だ。

 嫉妬に走る醜い自分を隠したくて、田神良輔は、世界の代行者などという大義名分で己の正当化を測っていたのだ。

 その仮面も、和広の口から出たナイフが破壊した。もうそこにいるのは、世界の代行者なんていう誇大の存在ではない。人を殺した少年だ。弱いゆえに他のものを信用できず、溺れ、人を殺した。

 今の良輔に頼れる人間などいない。全てが敵だ。自分自身さえも。だから逃げ出す。

 それも和広の計算の内だった。人は精神的に追い込まれたとき、すがれるものにすがる。人だとしても、一筋の藁だとしても。今の彼にとって、唯一味方だと、仲間だといえるもの。自分をバックアップしてくれたもの。

 そう、…久瀬孝之は言った。この事件には魔術師が関与しているかもしれない、と。その魔術師を見つけるためにも、和広は良輔を追う。

 良輔と魔術師、ふたりを捕まえ、再起不能にし、刑務所に入れる。それが彼らに唯一残された存在意義(つぐないかた)だ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 史明は運動能力には自信があった。野球部の頃に鍛えた身体、五年間という短くも長い期間に経験した全て。オリンピック選手とまではいかないが、スポーツ選手として飯を食って行けると自負する。

 だが、目の前を走る男には、どうしても追いつけなかった。

 なんというか、犬が自分の尻尾を追い掛け回している、そんな感じがする。というか、あれは人間なのだろうか? 文字通り滑るように移動している。と、ここで、史明は馬鹿な発想を閃く。

(低空ピーターパン……!)

 真摯な表情で馬鹿なこと考えるのが田神史明という人間である。

 そんな馬鹿なことを考えている青年に追われている男といえば、不気味に――夜でわからないが、おそらく笑っている――史明を迎えるように、両手を広げ、胸と腹をこちらに向けて、背中を正面にして走っている。

 和良沙市は地方都市だ。なので、少しでも走ると田んぼが目に付く。今、史明と男は、都市と盆地を繋ぐ橋を渡っているところだった。

「まち、やが、れ…!」

 どのくらい走ったのだろうか。もう息絶え絶え。

 速度を上げても追いつくことはできず、ためしに速度を落としてみたら、遠ざかることもない。逃げたいのか、誘おうとしているのか。あの走り方では後者だとすぐわかったが。そんな極端且つ変則的な動作を何度も行っていたために、体力は余計に消耗されていた。

 マントのように広がっているコートを見て、ああ、と史明は思った。あいつはピーターパンなんかじゃない、と。あれはあんな純真なものではない。蝙蝠から人間が想像して生まれたバケモノ、吸血鬼だ。

 紳士的なようで、残虐性を秘めている。史明を誘っているのは、魔力という血液よりも甘美なるものを求めてのことか。

 古来より月には、関連する神話、御伽噺、バケモノが存在する。狼男、かぐや姫、そして、吸血鬼。今宵はほぼ満ちている状態の十六夜。それでも吸血鬼が人間を狩るには充分すぎた。狩るというのであれば、後は人間と同じだ。誘い出し、罠にはめ、ゆっくりとその首筋に、発達しすぎた犬歯を突き立てる。

(いいぜ、ノってやろうじゃねえか、吸血鬼)

 攣り上がる片頬は、史明の昂揚を示していた。

 今ふたりが走っている足場はコンクリート。史明の魔力属性、氷には不利な状況といえる。凄腕の魔術師ならば、水のない場所でも水を見つけ出して凍らせることが出来るという。魔術を覚えてからそれほど日にちの経っていない史明にとって、それは至難の業だ。空気中の水分を凝固するという作業でさえ、神経が磨り減るというのに。

 史明が狙っているのは、足が土場になったとき。土は湿っているため、水分が豊富だ。地下水を叩き、凍らせ、氷柱と為して敵を貫く。

 ポツン。剥き出しにしている右腕の肌に、冷たい何かが当たる。

 雨だ。一本の雨が、史明の腕に当たった。空を見上げる。重量のありそうな雲が、風に動かされて移動している。夏なのに寒い風も吹き始めた。

 天の恵みとはこのことか。

 雨さえ降れば、氷属性の史明にとってかなり有利な状況が生まれる。

(…っしゃっ!)

 思わずガッツポーズ。ニヤリと笑う。

 橋のすぐ傍にある坂を下る。史明の記憶では、その坂を越えて真っ直ぐに行くと、アスレチックのある少し野生的な公園があったはずだ。もしや、吸血鬼はそこに誘おうとしているのか。むしろ有利になる。公共施設の門をくぐり、駐車場を抜け、吸血鬼は柵を乗り越える。

 史明も柵を飛び越えようとしたが。

「なっ!?」

 地面を踏もうとしたが、ぴちょり、という音に驚いて足を引っ込めた。柵の向こう側は池になっているようだ。暗くてよくわからないが、見えないぐらいに続いているらしい。池というより沼だ。

 …だが。沼ということは水があるということ。水があるということは分子が水分だということ。

 吸血鬼は沼の真ん中でひっそりと立ち、史明を待っている。

 手に魔力を込める。淡い青色の光に包まれた手首から先を、沼に突っ込む。

「…いけっ」

 ピシッ…ピシピシピシピシッ…!

 コップの中に氷をいれ、冷たいジュースを注いだときの音が響き渡る。史明の技術では、沼の全てを凍らすことは出来ない。足場さえ作ることができればいい。沼の半分ほどが氷と化していた。

 柵を乗り越え、氷の上に飛び込む。揺れることはなかった。ましてや、穴が開くことはなかった。これで充分に戦うことができる。

「…しつこいな、田神良輔のオリジナルよ」

 闇に紛れた吸血鬼は、芝居でもしているのか、両手を大きく仰いだ。

「誰が良輔のオリジナルだ。…あんた、球場で俺の妨害した奴だろ」

 この間の良輔との戦い。逃げる良輔を追おうとしたとき、足元に魔力の塊を何発か打ち込まれた。それで足止めを喰らったのだが…。

「ほぉ、よくわかったな」

 呆気なく丸をくれた。

「…あんた、案外簡単に丸くれるんだな。魔術師って、気難しいっていうか、変な奴等ばかりだと思ってたけど…」

「ふふっ。魔術を得てたった一年だというのに、ここまでの魔力制御をやってのけるのは素晴らしい。わたしは気に入った相手には出し惜しみはしないよ」

「良輔も気に入ってったってことか。けど、あいつは魔術師じゃねえ。ただのガキだったはずだ。しかも、自分を制御できなくて過去に振り回されてた奴だ。あんたが気に入る理由がわからねえんだけど」

「過去に振り回されていたからこそ、わたしは彼を気に入ったのだよ」

 自身の考えを披露するのが趣味なのか、声は上ずっていた。

 ああ、そうか。魔術師は、やはりどこか狂っているんだ。根本から違う生き物なんだ、こいつは。

 ?過去に振り回されていたからこそ、わたしは彼を気に入ったのだよ?

 魔術師の本質は化学者。化学者の本質はあらゆる探究。どこか壊れた人間を観察するのも、魔術師としての一環ということか。ふたつ以上の固体がなければ存在できない固体というのを気に入ったのだろう。気に入ったというより、観察対象にした、というほうが正しいだろうが、この男にとっては、同じようなものらしい。

 ハッ。こんな奴は、鼻で笑うに限る。

「相当性格歪んでるな、あんた。友達いねえだろ?」

「魔術師紛いのわたしにとって、友など生涯に一度、ひとりできれば奇蹟に近い現象だ。いや何、君と鳴海和広のように、無二の親友だと思える者がいたのだが、ある実験を境に行方を晦ましてしまってね。…果たして、それを友と呼べるのかはわからぬが…」

「魔術師紛い?」

 首を傾げる。

「そう、魔術師紛いだ。………君はこんな逸話を知っているかな…」

 

 数千年、いや、もしかしたら数万年、数十万年前にまで遡るのかもしれない。とにかく、具体的な年月が忘れられるほど前のお話。かつて、現代でいうスウェーデンのある辺りから西に行ったところに、その国はあった。

 魔女が興したと呼ばれる古代国家、エシュリオン。ただし魔女が王族になったわけではない。元々あった小さな国に、魔女が手助けをしたというだけの話だ。魔女を気に入った王は、自らの息子と魔女を結婚させたという。魔女の血を引く子供たちは、エシュリオンの城下町に散らばった。

 そうして数千年経った頃。古代国家にしては長い間、エシュリオンは保ち続けていた。

 外見からは、美しく、魔術を中心とし、繁栄した国に見えただろう。中身は、古代からかなりかけ離れ始めていた。

 優しい王族に生まれたといっても、決してその人物が王を務めることができる器、だということはない。

 ある代の王と王妃がそうだった。魔女の血族ではない人間たちを強制労働。宝石を手に入れるために鉱山という鉱山を掘らせていた。酷とも思える労働で、何人が犠牲になったのかわかったものではない。

 そこで魔術師たちは相談し、ある決意をした。

 王と王妃を殺そう、と。そうしなければ、国民全員が、いずれは自分たち魔術師にも手が伸びる。夜に王と王妃の寝室に侵入し、氷漬けにし、風の刃で砕いたという。こうして、強制労働はなくなったかに見えた。

 翌年、その王と王妃の息子、つまり新しい王が、父と母の意志を継いで鉱山発掘を続行することを発表。新しい王は用意周到で、自身の警護に、両親を殺した魔術師とは違う魔術師を配置した。元来、彼らは新王に拒絶されていた連中だった。だが、あることで忠誠心があるという証明を見せ付けた。

 幽子鉱石、ファントムメタルを、目の前で、自身の心臓に植え付けるという悪魔の所業だった。ファントムメタルは魂の欠片。心臓などという重要な機関に埋め込んだとき、人間の身体か精神が崩壊するかもわからない。そんなことをするぐらい、彼らは王族に忠誠を誓っていた。

 新王によって、?魔女狩り?の発表がされた。魔女の血族と、そうではない魔術師を対象にしたものであった。魔女の血族たちは逃げた。逃げたが、王に絶対の忠誠を持つ者たち―― 魔術師と区別するために、呪術師と呼ぶ――に、結局は殺された。中には、船で外の世界へ渡った魔女の血族もいるようだが、詳細不明。

 しかし盛者必衰。新王もまた、魔女の血族の魔術師によって殺されることになる。

 …これで魔女狩りは終わりになるかと思えた。

 そう、まだいるのだ。呪術師たちは。魔女狩りの血族は。この世界から魔女の血族を絶つために。海を渡り、奇蹟的に生き残ることができた魔女の血族を殺すために。

 それは遥かなる時の流れの現在にも受け継がれている。

 

「もうわかったかな。わたしは魔女の血族を絶つために存在している、呪術師の末裔だ。呪術師の存在意義はただひとつ。魔女の血族をひとりでも多く狩ること。今でも、生まれたばかりの赤子の心臓に、ファントムメタルを埋め込む忠誠の儀は行われている。刀鍛冶が、伝統技術を弟子に受け継がせるように」

「………」

 古代の話なんて聞かされても、史明にはピンと来ない。だがひとつだけわかることがある。こいつも、単なる殺人者だということだ。王への忠誠だとかなんとか、妄言を吐いて人を殺しているらしい。良輔とそんなに差はない。あるとしたら、初めから狂っていたか、途中から狂ったかだけだろう。

 というか、史明にとってそんなことはどうでもいい。所詮過去は過去。そんな本当にあったかもわからないことに執着するなんて、意味はない。私的な理由ではなく、古代の思想にただ共感しただけの考えを述べられても、わかれというほうが無理だ。それ以上に、魔女の血族だかなんだか知らないが、そんな幻想的な理由で人を殺すのは、人として許せることではない。

 立派な思想を誇って語っているが、結局は人殺し。

 ならば、その罪に相応しい罰で、償ってもらおうではないか。

「あんたの言うことは全部言い訳に聞こえる」

 人を闇に引きずり落とそうとする、呪詛が刻まれた腕にも見える。

「…回りくどい言い回しなんてしねえで、さっさと地獄に落ちろ」

 白い蒸気が霧のように、ふたりの間を漂う。

「そういえば、自己紹介がまだだったな」

「別にいいよ。俺はもう、あんたの正体がわかったし。よくもまあ、ウチの弟を誑かしてくれたもんだ。私怨もプラスさせてもらうぜ」

「何、これは儀礼のようなもの。自己紹介のときにわたしを攻撃してくれても構わん」

 右手を振り上げる。何か攻撃でもするのかと身構えるが、そんなことはなかった。ゆっくりと、左の腰に下ろされる右腕。前四十五度に折られる腰。つま先で立ち、後退する右足。紳士的な挨拶だった。

「わたしの名は西沢竜二郎。表の顔は、都立零芯高等学校の一教師。裏の顔は、この地区の魔の血を引く者どもを、死という奈落に叩き落す呪術師のひとりだ」

「俺は田神史明! 異性の好みのタイプは俺を好きになってくれる人ならなんでもオーケーだと思うけどそう公言してる奴に限って顔で選ぶよね! 嫌いなタイプは…てめえみてえに、裏で人を操って優越感に浸る糞野郎だ!」

 氷の上を走る。滑ることはない。史明の意思で作られたものだからだ。相手の魔力属性は不明。だが、日本にはこんな四文字熟語がある。?先手必勝?という、シンプルイズザベストの代名詞が。

 左足で急ブレーキをかけつつ、右足を突き出す。単調ゆえに避けられる。だがそれも狙いの一つ。

 西沢が避けた場所に魔力を注ぎこむ。氷の床から氷柱が出現し、標的を貫こうと迫る。

 淡い魔力が西沢の両腕を抱く。鋭いジャブが、素早く氷柱を打ち砕いた。魔力は、内部から肉体強化をすることができる。魔力に対抗するためには魔力といったところだろう。

 …それにしても。こんなにも術師らしい術師が、拳で氷を打ち砕くとは思わなかった。魔術師というものがどういうものかはわかっているので口には出さないが、もっと、精霊とかをバンバン操る先入観があるので、どこか複雑な違和感を持ってしまう。だがなるほど。黒幕と云うには確かな実力だ。

 あの拳の繰り出し方は、素人ではない。おそらく、何かしらの武道を学んでいるだろう。肉弾戦は不利。ならば…

 史明は西沢と距離を取って、手を下につける。魔力は魔力を活性化させる。史明の目の前から、氷柱が連なるように飛び出す。西沢もこれには驚いたのか、バックステップを二、三回行って、直線ではなく横に逸れる。だだだだ、と氷柱は、通り過ぎる。

 ピシッ。嫌な音。

「…」

 無言で西沢が足元を見下ろす。氷の向こう側から、三本の氷柱が。

 足場の氷を突き破り、氷柱は牙の如く呪術師に襲い掛かる。呪術師は、何がおかしいのか、フッと笑うと、足に魔力を込めた。先の光っている氷柱が西沢を囲う。避けられない。確実に攻撃は当たる。防ぐ手段は、氷柱を壊すほかない。

 ふわりと飛び上がって、回り蹴り。人間の動きなのかと見間違えるほどの素晴らしすぎる素早さ。魔力で強化された足は、攻撃のために生み出された氷柱を全て塵と化した。

 舌打ちをひとつ、闇夜に響かせる。風は冷たくなっているが、まだ雨は降ってこない。

 正直、勝てる気がしない。魔術を使って互角に渡り合っているように見えるが、こっちはそれでいっぱいいっぱいだ。魔力での肉体強化はそれほど高度な魔術ではないし、むしろ基礎中の基礎のもの。その基礎中の基礎で、敵は自分の攻撃を全て防いでいる。奴が本気を出したら、勝負にすらならないだろう。

 あまりにも、人間としてのポテンシャルが違いすぎた。…それもそのはず。

 西沢竜二郎は、魔女の血族を殺すために生まれ、そのための訓練や鍛錬を神経にまでしみこませていて、田神史明は、五年前まで普通の高校生として生活していた。精神も肉体も、根本的にツクリカタが違うのだ。猫が虎に挑むようなものだろう。

 人を殺すために作られた者と、平凡な青春を謳歌していた者。

 戦闘という競技於いて、どちらが勝つといわれたら、百パーセント前者に違いない。

 ついに、西沢が動く。強化された足による速度は、豹とまではいかないが、獅子の瞬間的な運動能力に酷似していた。

 殺すために鍛え上げられた拳が、思い切り突き出される。何とか軌道を見切って避けた。が、すぐにもう片方の拳と、右足が同時に史明の腹を捉えようとする。無意味だとわかっていても、氷の壁を生み出す。予想通り、拳撃と蹴撃は、氷壁を打ち破った。

 欠片が、星のように輝いて見える。なんて呑気なことは考えられない。

 精一杯に回避の手段を考える。人間、死ぬ気になればなんでもできるというのは本当だ。人間の身体は、死というものを本能的に感じ取った瞬間、ただでさえ短い寿命を使い、全体的な能力を強化するのだ。知能だろうと、運動能力だろうと、認識能力だろうと。

 史明の寿命が削られて、認識能力が上昇する。秒単位以下、即ちコマ送りのように、世界が視える。自分以外の全てがスローモーション。次に知能。どこへ、どのように動けば避けられるのか。最後に運動能力。知能で導き出した答えに従う、史明の肉体。かがんで前転する。史明の腹があった場所に、右足と拳が通過。前転した史明は、上げられている右足をかいくぐって、西沢の背面を取る。

 雨が降り始めた。一粒一粒が、確かにわかる。その雨を使って、史明は、拳に氷を纏わせる。

 そこで、秒単位以下の世界が終わりを告げる。

 振り返った西沢。威力をつけるために引っ込んだ右腕。

 だが今回は史明のほうが早い。西沢よりも先に、氷に覆われている拳を引っ込めていた。

 ふたりの戦いを喩えるのであれば、竜虎。どちらの牙が、爪が、先に相手の喉を突き破るか………!

 放たれる拳。大きすぎる衝撃。ふたりの拳は真正面からぶつかり合っていた。

「っ…ぁ……」

 氷を貫通し、衝撃は腕を震わす。ぴしっ、と嫌な音が聞こえた。また、腕を覆っていた氷に亀裂が生まれる。亀裂は亀裂を呼び、物質を砕く。

(骨に罅入った……!)

 ゆっくりと拳を解く。痺れと痛みが入り混じった感覚は、なかなか抜けてはくれない。

 堪える時間を、吸血鬼の呪術師は逃さない。刀のように鋭い蹴りが、うずくまる史明の腹を直撃する。

 バキッ。何かが砕けた音。しかしそれは、硬いものが砕けた音ではあるが、骨のような微細な繊維が密集したものが砕けた音ではない。

「…まさか……」

 西沢は足を下ろす。月明かりを頼りに、目を細める。

 史明の腹に、厚い氷がくっついていた。痛みに堪えながら、一瞬の判断で氷の防御膜を作り上げたのだ。

「…素晴らしい」

 呪術師は、感嘆の息を鼻から出した。目を丸と表現できるほど大きく開けて、史明を見つめている。

 貴重な動物、見たことのないものを見つけた知的好奇心に満ちた輝きではない。誰も踏み入ることのできない、美しい湖を眺めているような目であった。純粋に、何かに感心している。

 対象が自分であるということは、史明にはよくわかっていた。

「素晴らしいぞ、田神史明。コンマ一秒以下の速度で出された我が蹴撃を、それよりも早いスピードで氷を腹に纏い、最小限のダメージに留めた。火事場の馬鹿力という奴か。愉快、愉快だぞ、田神史明よ」

 笑っている。呪術師は、言葉通りの様子で笑っている。自重しようと、額を手で抑えながら、首を上げて、高らかに、雨の中で、…笑っている。一頻り笑いが終わった後、西沢竜二郎は、顔を下げて、

「………君を、徹底的に壊したくなった」

 ゾクリ。呪術師の口を裂けるほどの狂気の笑みが、史明の細胞ひとつひとつを凍りつかせる。

 呪術師は言った。『徹底的に壊したくなった』、と。

 勝てない。改めて自覚する。また距離が遠く感じる。星に手を伸ばしたときの虚無感が胸を包んでいる。生きた年月が、知識が、経験が、身体的能力全てが、あまりにも違いすぎた。

 悔しさに耐えようと拳を握ろうとするが、あまりの痛さに動くことすら拒絶する。

「どうやら、思った以上に深手のようだ…」

 様子を察したらしい。西沢は、邪悪な笑みから一転、悪戯を思いついた子供のものを浮かべている。

「どうせやるのなら、万全な状態で壊したいね…。そう、陶芸の職人が、長い年月をかけて作った作品を、目の前で修復不可能になるまで粉砕するように…。人はそれぞれが主観という独特の視界を持って生きている。『大切だ』『大切じゃない』『必要』『不要』。職人にとっての『大切だ』というものを、『大切じゃない』と思っているわたしが壊す。君は『傷つきたい』と思っているのに、わたしは『壊したい』と思っている。全から零に戻す瞬間を、全ての努力が水の泡になる瞬間を、わたしは見届けたい」

「………全から、零、かよ。それなら、逆にスッキリするだろ」

 弱い雨の中に、沈んでいくふたりの会話。

 痛みなど忘れて、史明は掌を力強く握り締めていた。

「和広は、自分を零にすることで、いろんなことから逃げようとした」

 でも、無理だった。有が突然、無になることなどできない。

 そして。

「西沢竜二郎。てめえは俺の弟の人生さえも無にした。あいつはあいつなりに努力してきた。あんたはそこに、魔術っていうまったく別物の力を与えて、それまでのあいつを、いとも簡単に否定しやがった。兄として、てめえを許すわけにはいかねえ」

 西沢竜二郎に対する怒りが、全身を滾らせる。雨に濡れて冷えているはずの身体が熱を持ち始める。

「許さなかったらどうするのだね? 君ではわたしに勝つことは出来ない。大人しく、わたしの実験台となって、壊れるのが運命だ」

 …悔しいが、この男の言う通りだ。今までの西沢竜二郎は、単に手を抜いていただけだ。理由はひとつしかない。ふたりの間にある崖はとてつもなく高い。西沢が、雲よりも高い場所にある崖っぷちに立っていて、這い上がろうとしている史明を見下ろしていた。今の史明では、雲に届くことすら叶わない。

 レベルが違う。今まで戦ってきた、倒してきた魔術師とは雲泥の差だ。

「…そうかもな。でもな、あんた、こんな諺知ってるか?」

 氷を作るには水が必要。有から無を生み出すことはできず、無を有にすることもできず。だから一件無から作ろうとしている氷も、実はどこからか調達してきた水を凝固しているだけの話である。有から有を生成することは魔術(化学)であり、無から有を生み出すことは魔法の域にある。それが、世間で同じだとされているふたつの違いだ。

 雨が降っている。雨とは水。雨もまた、地から天に循環される水を、天から地に落としているもの(無から有に換えているもの)。

 普段は雨が嫌いだが、今回は感謝しよう。

「…諺、だと?」

「…?数撃ちゃ当たる?。?窮鼠猫を噛む?ってぇ……」

 魔力を冷気に変換。自身の周囲に白い蒸気として沸き出す。

「貴様…。もしや」

 冷気は、一時的に気温を零度へと変える。冷気は上昇し、降り注ぐ雨と結合し…氷とする。尖った歪且つ小さな氷柱に雨は姿を変えた。

「ま、あんたも死にそうになると思うんだけど、勘弁してくれや。俺も自分の技で傷つくことになるんだからさ」

 無数に落下する氷柱から、避けられる術はない。

 それはまさに氷の雨。ただ違うのは、氷という塊ではなく針だということだろうか。氷は、術者とその敵に対して空襲する。

「ぐぬうう…!」

「…って……」

 突き刺さる氷柱に耐えるふたり。その中で、西沢は動いた。全身に魔力を塗っているのだ。これで防御力を上がる。やはり、猫は簡単に鼠には勝たせてくれないらしい。噛み付いた程度では、捕食する側と捕食される側の立場は逆転されない。

 そんなの、わかっている。猫が鼠を路地裏に追い詰めたときから。

 鼠は天敵を目の前にして、やっと理解するのだ。弱者は所詮弱者であること。強者には勝てぬということ。用意された椅子にしか座ることを許されないことを。それでもその理を砕きたくて、鼠は噛む。弱者が強者から?逃げる?という選択肢を得るために。

 ここは、逃げよう。心と本能が自然にそんなことを脳内電気に送り込む。

 即決すると、身体が流れるように動いてくれた。氷の地を駆けて、柵を飛び越える。ここだったら、氷の雨の影響を受けることはない。

 走る。足を動かす。あの悪魔から逃げるため――

 ドンッ。誰かとぶつかった。こんな時間にいるのかと思いながらも、反射的に口はすみませんと言いそうになって、言えなかった。

「良輔!?」

「兄……貴…!」

 ぶつかったのは、他ならない弟だったのだから。

「史明、伏せろ」

 良輔の背中側からの声。指示通りにすると、カンッ、と金属音。バットが回転しながら地面を這い、氷の床に落ちた。

 和広は良輔を追ってここに来たようだ。

 少々面食らっていると、拳の痛みが我に返させる。

「…どうした、史明」

 様子に感づいた和広が、デザート・イーグルを良輔に向けたまま尋ねた。物騒なものを御持ちだなと思いながら、片方の手で罅の入っている拳を包む。その様子で察したのか、庇うように和広は史明の前に出た。

 良輔は情けない足取りで氷の地に飛び込み、呪術師にすがりつく。

「せ、先生……、お、俺……」

 消え入りそうな、かすれた声だった。

「田神良輔…。…やれやれ、久瀬孝之が出張るまで待っている予定だったのだが…」

「またあんたか、西沢竜二郎」

 これからのことを思案する西沢に、和広は銃を突きつける。

「…知り合いか」

 後ろから、友の背中に尋ねる。小さく頷いた。それだけで、知り合い、なんて平和な言葉では言い表せない関係なんだとわかった。和広の西沢を見る目が、明らかに違う。感情を失った(と、史明は桂玲子から聞いた)はずの和広が、西沢に対して複雑な何かを抱いている。

 和広が目覚めてからの二年間。史明のいなかった五年間。いろいろなことがあったらしい。

「…どうして君は、わたしの邪魔をするのかね、鳴海和広。いや、その裏にいる久瀬孝之といったほうがいいか…。君は、奴の所有物だった。君に先のことをいうのは、見当違いもいいところ。すまなかったね」

「謝罪なんてどうでもいい。俺はあんたと良輔を捕まえるだけだ。動くなよ、一歩でも動いたら、殺す」

 銃身を西沢に合わせながら、和広はゆっくりと歩を進める。柵を飛び越えて、氷の上に立ち、滑ることなくスムーズに歩く。西沢は和広に臆することなく、薄い笑みを浮かべている。

 不意に、西沢が動いた。和広が躊躇わずに撃鉄を落とす。弾道を見切ったのか、すぐに屈みこんで避ける。屈んだままの状態で素早く動き、和広の目の前まで接近する。

 彗星の如く叩き込まれる拳。銃を盾代わりにすることで受け止める。ファントムメタルに、魔術的な衝撃ならともかく、物理的、肉体的な衝撃は通用しない。銃を持っていない左手で西沢の手首を掴み、肘に銃口を突きつけて引き金を引く。が、ものすごい力で左手を振り払い、和広の腹に蹴りをくれる。

 吹き飛ぶ和広。それでもデザート・イーグルのグリップを握り締めている。西沢は後五メートル先の位置にいるというのに、右足を繰り出す。瞬間、和広の足のつま先に、西沢の胸が直撃した。先読みしたのだ。西沢の身体能力であれば、一瞬で五メートルの距離を縮めることができると。カウンターの要領で足を突き出し、攻撃を停止させる。

 そしてそれは、敵の隙をつくる動作でもある。

 右手のデザート・イーグルが、銃口から螺旋を描く風を巻き起こす。西沢に逃場はない。これで終わりか…。史明は緊張を飲み込むために、喉を鳴らす。

 呪術師はやはり、笑みを絶やさず、カーテンでも閉めるような動作で、右腕を振るった。

 不思議な時間だった。今まであった物騒な音が全て、消えてしまったのだから。…和広の起こした風さえも。それは奇術師のように、手品師のように、呪術師は、「何かが起きそうな時間」を作り上げた。

「っ」

 和広が舌打ちする。これでやっと、「何かが起きそうな時間」は終わった。もう沈黙を守るもない。

「…な、何が……」

「ふっ、魔術師になったばかりである君たちには、少々わからないことだったかな」

 未だに拳銃を突きつけられながらも、背筋が凍る笑みを見せる呪術師。有利な状況のはずなのに、どうもはっきりと有利だと断言できないでいた。敵が人間であるならば、堂々と口に出すことはできたに違いない。だが目の前にいるこの男は、今回の事件の黒幕は、人間とはまったく別の生物のような気がした。

 本当に、ヒトのカタチをしたバケモノ、吸血鬼なんだろうか。

 吸血鬼の両手が発光する。純粋な光ではない。どこか歪で、どこか幻想的な光。淡い、白の強い桃色のような輝きだ。

「魔力属性にも個性というものが存在する。例えば後天属性。炎は燃え、氷は凍らせ、雷は感電し、風は巻き起こり、水は全てを押し流し、地は立っている場所を震わせる。先天属性…光は輝き、闇は辺りを暗くし、冥は対象を?死?に近づける。

 ……先天属性の中でも、特に異質な属性、それは、?星?。それがわたしの属性だ。星は全ての属性を拒絶する。反対属性である冥と、術者の後天属性以外の干渉を受け付けない。そう、人が、空に在る星に手を伸ばしても届かないように。扱いにくい属性だが、使いこなせれば、魔術師との戦闘で、これ以上役に立つ属性はない」

 ?反対属性である冥と、術者の後天属性以外の干渉を受け付けない?という事実は、史明にショックを与えた。史明は今のところ、後天属性である氷しか駆使することができないうえに、先天属性は無だ。倒すどころか、傷一つつけることすら出来ない可能性がある。そんな相手と戦っていたんだと考えると、心底肝が冷えた。

 吸血鬼が常に笑っていたのは、『いつ狩ってやろうか』、『いつまで遊んでやろうか』という強者が弱者を見下す心からきたものだった。なんという屈辱か。だがなんと口に出そうと、史明は、西沢との狭間にある壁を越えることはできない。

 片や生涯呪術師として魔術を学ぶもの。片や、呪術師の十分の一も魔術を学んでいないもの。相性的にはどうかと思うが、それも星属性の前には覆る。性格的、魔術的な相性さえも星属性の前では意味をなさない。加えて、あの動き。本当に化学者なのかと疑いたくなるぐらいの身体能力。絵に描いたような存在だ。

 空想だと思ってしまうぐらいの存在だから、人間ではないと思ってしまう。種として違うと思っているのに、ヒトの形をしている以上、やはりそれは人間。人間を越えた人間…世間一般でいう超人の類。人間の限界を超えているが人間である者。

 普通の人間では、決して届かない存在。

「…もう少し君たちと遊んでいたいんだが…。田神良輔が犯人だということがバレ、久瀬孝之も出てこないということであるならば仕方ない。次の手を打つことにしよう」

 銃に背を向けて、歩き出す。

 ふと、立ち止まって、

「どうした、鳴海和広。わたしを撃たないのか?」

 銃を突きつけて立っているだけの和広に問う。黙ったままの和広を想像したのか、喉を鳴らして呪術師は嗤う。

「撃たない、ではなく、撃てない、か。怖いのだろう、ヒトの形をしたものの命が失われるのが。感情を失くしたはずなのに、君はなぜそんなことに恐れを抱くのだろうな。兵器を手にしたものが、ヒトの命を奪うのは簡単なことだろう?

 万物にはすべからく存在意義がある。無機質なものも有機質なものも全て、存在意義という決められた椅子に座っているのだよ。拳銃は、?息をしているものを殺す?という席に座っている。ただそれだけの話。ならばその用途を全うするのに、何の不満がある? 確かにどのようにソレを使うのは、所有者である君が決定権を持っているが…君は、何のためにその銃を手に取った? 何のためにその銃を使おうと思った? 人を――違うな。秩序を乱す魔術師を殺すためだろう。

 二年前もそうだったな、君は。あのときも結局、人を殺すことに恐れを抱いて撃てずじまいだった。君は久瀬孝之のロボットだろう? 人形だろう? 奴はわたしを殺すと命令しているのではないのか」

「………じゃあその久瀬も、俺と同じように、用途を全うしていなかったらどうする?」

「……っ」

 初めて、吸血鬼が言葉を詰まらせた。

「俺も俺で久瀬に命令されているんだ。?西沢竜二郎をできるだけ生きて捕えろ。四肢があろうとなかろうと構わん。無理だと判断したら退け。貴様如きが、正攻法で奴に勝てるとは思えん。?ってな。最後の部分は、あんたの実力を評してのことだと思っているんだが…。実際その通りだし、深くは考えないようにしている」

 あくまでも銃身は逸らさない。捕まえられないとは諦めてはいない証拠。こう何度もあるチャンスなんてない。数回しかないからこそ好機(チャンス)という言葉があるのだ。和広の灰色の目に睨まれながら、吸血鬼は笑みを取り戻す。彼の足にすがりつく田神弟は、ぶるぶると兎のように丸くなって、和広を恐れていた。

 と、突然、狂ったように天高く笑い出した。

 

 ふははははははははっ………!

 

 小雨の中、かき消されそうな低い声は、次々と飛び立つ鳥を沸騰させるほど響いていた。

 何かがおかしい。だがこれは隙だと見て、和広は引き金を引いた。呪術師は笑いをやめて、風の弾丸を星の魔力で弾く。

「なるほど。なるほどなるほど。…この場は互いに退こうか、鳴海和広。取引だ。この出来損ないは君にくれてやろう。煮ても焼いても構わん。もうこの少年は、?わたしにとって不要なもの?になったからな」

「てめえ…!」

 蹲っていた史明が、激昂しながら立ち上がる。

「?わたしにとって不要なもの?だと? そんなことで、人を捨てるのかよ!?」

「この少年と同じ方法を取っただけだ。田神良輔は、自分にとって不要だというだけで、五人もの人間を殺めた。君たちは、人を殺したという結果でどちらが悪いのか決めるのだろう? わたしは力を与えるには与えたが、その後の責任までは取れん。君だってそうだろう? 教師に学を教わるには教わるが、それをどう活用するかは君たち次第だ」

「…史明、こいつとまともに話そうとするな。こいつは、まともじゃない」

 食いかかろうとする史明を止める。和広に諭されて、いつの間にか作っていた拳を解いた。逃げてくれるのなら逃げてくれたほうがいい。捕まえるなら捕まえたいが、今の西沢は、危険すぎる。今だけではなく、常に危険なものだが。

 良輔の服の裾を掴み、和広に投げ渡す。銃をコートの内にしまい、跳んできた少年を受け止める。少年はガタガタと歯を鳴らすほど激しく震えていた。唯一頼れるものに裏切られたその精神的外傷は、癒されるものではない。それでもこの少年は、償うために生きて死ななければならない。

 ではな、と短く告げて、雨の中、呪術師は闇に融けるように消えた。

 遠くからサイレンの音。ふたりは顔を見合わせて頷き合い、氷の地から足を上げて、アスファルトに着いた。

「っふー、疲れたぜ。…まさか和広、お前が起きてるなんて思ってなかったぜ」

 心機一転。今までのことを奮うように、史明がわざと声を上げる。

「俺が飛び降りたの、知っていたのか」

「ン、まあな。五年前、零芯町出て行って、一年ぐらい経って、帰って来たんだよ。それで、玲子さんって人に捕まってさ、お前のこと聞かされた。………なんで自殺なんてしたんだよって思ったんだけどさ、やっぱり、…辛かったんだよな。逃げたかったんだよな。ごめんな、和広。ずっとお前といた俺が、大事なときに…」

「…いいんだ、史明」

 深い謝罪をしようと思ったのだが、和広に止められた。

「今の俺は、何も感じることができない。…だから、お前に謝られても、どう対応すればいいのかわからないんだ」

「は? どういうことだよ?」

「…強制覚醒。先に西沢が言っていた久瀬孝之が完成した魔術、強制覚醒で、俺は目覚めた。その際に、俺は感情を失ってしまった。それだけの話だ」

 世間話でもするように、…いや、それ以下の話でもするように語った後、和広は迫り来る赤い光に向かって手を挙げる。やって来たのは二台のパトカーだ。桂警部補と日下刑事が先頭のパトカーから降りて、ふたりに近づく。

 雨は、止んでいた。

 しかし風が止まるはずがなく、目を覆いそうになる前髪を、玲子は手で抑えていた。

「お疲れ様ね、ふたりとも。日下」

「はい。和広君、その子を渡してもらえるかな」

 頷き、日下の指示のまま、和広は良輔をパトカーに運び込んだ。まだ逮捕状が出ていないため、確実な逮捕をすることはできない。だが重なる取調べで、きっと牢屋の中に入ることになるだろう。

 良輔を乗せたパトカーが、そのまま走り出す。その場に残ったのは、和広と史明、それから桂警部補と日下の四人だった。

「…ねえ、和広君。彼は一応魔術の力を手に入れたんでしょう? もしも牢に入れたとしても、それじゃあ…」

「…大丈夫です。あいつはバットを媒介として魔力を撃ち出していた。幽子鉱石を加工したものがなければ、魔術を使うことはできない。久瀬のように、錬金術師としての才能があった場合は、道具がなくても可能らしい」

「なるほどね。彼は魔術こそは扱えるけど、才能はなかったってことか。なんだか、矛盾しているわね。才能がないはずなのに、その力を行使できるなんて。…ああ、だから久瀬は裏技だって言ってたのか」

 この間言っていたことに合点がついたらしい。矛盾を覆すには、正に裏技を使うしかないからだ。が、納得できた自分が憎いのか、はたまた、久瀬孝之が憎いのか、ぼりぼりと力強く頭を掻く。

 その後、幽子鉱石のバットを回収。こういったものは、久瀬に預けることになっているため、和広が一時玲子から預かった。

 玲子の提案で、ふたりを各自の家まで送られることになった。運転席には日下、助手席には警部補、後部座席に和広と史明。

「……なあ、和広」

 流れる町並みを見ながら、史明が話しかけてくる。

「お前、今どこに住んでるんだ。流石にもう孤児院にはいられないだろ」

 警察側から用意された施設…とも考えたが、和広は特に精神的な異常は見られないし、そんなことをする必要もない。史明が疑問に思ったのも当然のこと。

「トアル事務所だ。二年前、俺に強制覚醒をした男がいてな。…そいつに命を救われたのと同じだろう。それの恩返しと、借金返済のために、事務所に寝泊りしながら働いている」

「どんな仕事してんるんだ」

「…こういった、魔術師関係の事件の解決の協力だ。今のところ、年に一、二回程度だ。…それがどうかしたのか」

 …久瀬孝之は魔術師。久瀬と西沢の間には、一言では片付けることの出来ない因縁があるらしい。和広はそのことに気づいているのか、いないのか。

 史明にとって、西沢というのは、弟の仇と同じようなものだ。復帰できたはずの弟の人生を、積み木でも崩すように、指一本で弾いただけで壊した。倒せるかもまだわからないが、もしも久瀬の元で、魔術師関連の事件を解決していけば…あの男に、あの薄ら寒い笑みに傷のひとつぐらいはつけられるかもしれない。

 ひとり、決心する。

「…和広、俺もその事務所で働かせてもらう」

「……史明?」

 怪訝な顔で、和広は史明の横顔を見る。

 決意を表した顔は、どこか格好良くて、昔の、どこでも中心的な存在になれる史明の姿を記憶から掘り起こした。

「いや、俺もしばらくは零芯に腰を落ち着かせようって思っててよ。しばらく、気持ちの整理がつかないと、…自分の家にも帰れそうにないからな。ま、そういうことだ」

「…久瀬の許可がないと、俺はどうも言えないけどな」

「大丈夫だろ。その久瀬って奴が許可しなくても、何か仕事が入ったら、最初に俺に言えよ。金はいらねえけど、協力はしてやれっからさ」

「…ああ、わかった。俺からも久瀬に言っておくよ」

 さんきゅー、と感謝を口にする。そのとき、和広の頬が、少し緩んでいることに気がついた。何か見落としていることがあるようなと思ったが、そんなこと、今はいいかと改める。

 自然と重くなる瞼。

 ゆっくりと、脳が何かに侵入されるのがわかる。史明は、重力に従って、瞼を閉じた。


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