3.現在/魔術師への依頼
「………ふぅ、久しぶりの零芯町だ」
零芯駅のホームにて。ぐっと拳を空に振り上げる青年がひとり。身長は百八十を越えるだろう。がやがやと入り組む人々の中でも、頭ひとつ抜きん出ていた。ひとつ深呼吸。うん、懐かしい空気の味。帰って来たんだなあ、と実感する。それにしても、長身にサングラスは似合いすぎである。
バスで病院に行こうと思ったが、懐かしい町を見たくなったので、徒歩で移動すると決める。
五年間見なかっただけで、町は変貌していた。いや、基本的な道の入り組み自体は変わっていないが、新しい店や、建物があるだけで、それはまったく別次元のものだと錯覚してしまう。だが身体が覚えてくれていたのか、すんなりと足は目的地へと進んでいく。
あのコンビニ、潰れちまったのか。ああ、某さんの家、リフォームしてんじゃねえか。うっわ、あのスーパー潰れたんだ。マジで!? カトーさんとこの駄菓子屋、相変わらずだなあ。…なんて、故郷なのに気分は観光客だった。
人が混み合う商店街に突入。ここは全然変わっていない。五年前まで通い続けていたゲームセンターも、中身こそ変わっていたが、外見も場所も変わっていなかった。何となく、安堵感が胸を暖かくする。ここは、俺の知っている零芯町なのだと。…足は動く。自然と。こっちだぞと、先導する犬のように。
商店街から住宅街に変わる。だが、ここに彼の実家があるわけではない。零芯高等学校を挟んで向こう側に、彼の家はあるのだ。
だから必然的に、零芯高等学校の前を通ることになった。正門の前で、寂しく彼は、母校になるはずだった学校を見つめる。
「……ま、時は戻らないってね」
戻るはずが無い。戻れたとしたら、彼は、あのとき――
やめやめ、と頭から振り払い、再び歩き出す。が、隣にパトカーがなぜか停まった。
…? もしかして、知らずの内にヤバイことでもやったのか、俺? なんて勝手なことを考えていると、パトカーから美人が出てきた。こんな美人一生に見れるか見れねえかだぞと判断し、サングラスを外した。
黒から鮮やかに染まった風景。その中にいる美女。思わず見惚れてしまい、ほう、となる。
「……見つけたわよ」
心底疲れた顔で、お姉さんは話しかけてきた。ポカリでもいりますか、とバイト癖で声をかけそうになってしまった。
「…田神史明」
「……あんた、もしかして、桂玲子さん?」
ふたりが出会ったのは、やはり五年前のことだった。不良たちの和広の暴行は、警察にも連絡がいった。そのときに対応したのが、桂玲子だ。まだ刑事だった玲子は、同僚数名とともに病院へ。和広の手術の終わりを、今か今かと待っていた史明に、彼女は事情聴取を求めた。そんなこともあって、一応ふたりは顔見知りではある。
青年、田神史明は、腕を組んで頭にクエスチョンマークを浮かべてみる。
「見つけたってことは、俺を探してたってことかい? いやだなあ、玲子さんだったら、いつでも相手してあげ…」
「とりあえず、乗りなさい。乗れ」
指示と命令を両方したよこの人。
鋭い目に逆らうこともできず、助手席には先客が居たので、後部座席に腰を落ち着けた。それを見届けた玲子は、運転席に入る。
なんでこんな状況になったのかと考えつつ、尋ねてみる。
「なあ、玲子さん。なんで俺を探してたんだよ?」
「あなた、零芯町の連続殺人事件を知らないの?」
「連続…? ああ、はいはい。ニュースでやってましたね。俺、今まで長野のほうにいたから、犯人じゃないっすよ。たしかに五年前はヤンチャやっちゃいましたけど」
容疑者として疑われているのなら、それは誤解だといわなければならない。予想していなかったことなのか、玲子はうそ、と呟いた。
「いや、ホントーっすよ。あっちのほうで働いてたんだから。なんなら、あっちの職場のほうに連絡しましょうか? もう辞めましたけど」
証拠がないと証明していないというのであれば。携帯電話をポケットから取り出してみるも、ぶつぶつと玲子は俯いて独り言にふけっていた。誘拐未遂なことをされて、少し腹が立っていたが、思わず可愛いと思ってしまう。
と、日下、と助手席の男に玲子が呼びかける。男ははい、と素直に答えて、史明に何かを差し出した。写真だ、家が写っている。見覚えがある。そりゃそうだ、だって、自分の家だったのだから。
「ウチじゃないですか。うっわ、懐かしっ。屋根青から赤に変えたんだ。へぇ」
「…どうして、警察があなたにあなたの家の写真を見せたかわかる?」
「いいえ、全然。皆目検討もつきません。ウチの家族はみんな平和ゆんゆんっすけど」
ゆんゆんという表現に、玲子は頭を抱えかけた。それは平和ではなく電波の後につける反復語だ。
どうやら本当に五年間長野…はともかく、零芯町から離れていたようだ。はあ、と溜息をつく。何がなんだかわからない史明は、余計に頭のクエスチョンマークを増やす。
「そういやさっき、連続殺人事件が起きてるって言ってましたけど、ウチと関係してるんスか?」
「…あなたの弟君が、犯人かもしれないのよ」
「……!」
一気に蟲が身体を這い上がる。寒気がした。
田神史明の弟、田神良輔。五年前の、まだ十三歳のあどけない顔を思い出して、史明は額に手を当てた。
「…どういうことっすか、それ。俺がいなかった間に、あいつに何があったんですか」
「……順を追って説明するわね。あなたの三個下に、杉本健太郎っていう不良がいたのよ。何を思ったのか杉本は、突然野球部に入った」
「杉本……? あ、思い出した。鮫島の舎弟だった奴だ。…もしかして、良輔の奴、杉本にイジメられたのか? 俺が……」
鮫島を殴っちまったばっかりに――
「いいえ」
玲子はすぐに否定する。よくある敵討ちだのなんだの巻き込まれたわけではないようだ。ホッと息をつきそうになったが、まだ問題は解決していない。玲子が話したのは、あくまでも『史明が鮫島を殴ったから、弟に復讐した』という理由ではない、という意味だ。
「結論から言うと、いじめを受けたわ」
後ろから身を乗り出す青年をたしなめるように、冷静に玲子は語る。
「杉本健太郎があなたの弟をイジメの対象にした理由。…それはね、『青春を謳歌してる奴が憎たらしい』…らしいわよ」
「………は?」
あまりにも馬鹿すぎる答えに、史明は自分でも間抜けだなあと思う感嘆を洩らした。
腕を組みながら、玲子は何度も首を縦に振っている。
「その気持ち、すっごくわかるわ。でも事実。杉本健太郎という男は、何かに熱中している者に対して怒りを覚えた男、って証言にはあるのよ」
「ちょっと待てよ、玲子サン。その言い方だと……なんか、杉本が死んだように聞こえるのは…」
「実際死んでいるしね、彼」
「………は?」
まったく同じタイミングで、まったく同じ感嘆が口から出る。史明の様子に満足しているのか、玲子は説明をし始めた。
「鈍器のようなもので、顔を潰されて、誰なのかわからないくらいにグチャグチャにされていたわ。友人関係に頼んで、身体的特徴を見てもらって、特定できたんだけど。…話を戻すわよ。質問はその後にしてちょうだい。杉本健太郎は、先に言った通りあなたの弟をイジメた。当時、杉本は顔の利いた不良らしくてね、近所の愚連隊の仲間って噂もあったし。杉本の噂を知っている生徒たちは、恐れて、良輔君のイジメに参加したのよ。それで去年の五月ぐらいにイジメが発覚。外部に洩れたらまずいということで、学校側でもみ消し。野球部消滅、杉本健太郎は退学、さらに田神良輔は引き篭もり。とまあ、そんな感じだったのよ」
「…っ」
また自分は、大切なものを守れなかった。震える拳。生まれる冷気。
日下と呼ばれた刑事が、寒っ、と小さく言った。慌てて拳に込めていた力を解く。
「…それで、それと連続殺人事件と良輔が、どうやって繋がるんですか…?」
「……先月、身元不明の死体が、零芯川の橋の下で見つかったわ。杉本と同じく、顔をグチャグチャにされてね。先々週、工業地帯の廃工場の中でふたりめ。三日前、雑木林の中から三人目。一昨日、杉本健太郎が、ゴミ収集所にて発見された」
「なんで杉本だけ? 友人関係の身体的特徴って言われても」
「そこでボランティア活動で働いていたからね。ネームプレートが胸にあったってわけよ」
「あー、なるほどね」
あえて、それとウチの弟に関係があるのかとは訊かなかった。質問は最後まで聞いてからと言い聞かせる。
「…それで昨日、わたしたちは調査のために杉本健太郎がどんな人間だったかを、知人関係に訊いて把握。決定的な犯人の殺人動機を求めるために、この高校に訪れたわ。当時担任だった西沢竜二郎っていう男に話を聞いて、あなたの弟君の名前が出てきた」
そこで繋がるのか、と納得する。杉本健太郎がどんな人間だったかを聞いたら、イジメられた良輔の名前が出ることは間違いないだろう。杉本健太郎の人間性を教えるために、警察にだったら、イジメられた生徒のことについて喋るだろう。なぜなら、杉本が直接的にイジメたのは、良輔ひとりだけなのだから。
「ちょっと待った、玲子さん。それだけで良輔が疑われるのは、少々筋違いなんじゃない?」
杉本はイジメをしたことがなかった。だが、クラスメイトの女を寝取ることは何回もやっていた。犯罪行為もやっていたと予想できる。
即ち、杉本健太郎に対して殺意を抱いている人物は、良輔だけではない。
玲子は頷く。
「もちろん。彼を殺したいほど憎んでいる人は、彼に青春という彼女を奪われたのは、良輔君だけじゃない。良輔君を犯人と決め付けるための材料は、まだ揃っていない。…だけどね、良輔君の名前が出た以上、彼に事情聴取をしなければならないのは当然のことでしょう?」
「…まあ、そうだよ、なあ」
『犯人かもしれない』という疑惑が掛けられている以上、対応して、身の潔癖を証明しなければならないのだ。
それじゃあなんでといいかける前に、
「『それじゃあなんで俺に声をかけたのか』…でしょう?」
「…玲子さん、あんたエスパー? ポケットなモンスターの仲間入りでもしたんですか?」
「アホ」
アホといわれてしまった。少しシュンとなる。
「あなたの家ね、インターホン鳴らしても誰も出てこないのよ。それで仕方なく――」
「仕方なく、警部補お得意の刀のようなエルボーが…ごはっ!」
今目の前で、そのお得意の刀のようなエルボーが、調子に乗った刑事のこめかみに炸裂した。
途中までだったが、なんとなく予想は出来た。
「エルボーで窓硝子を割ったと。でもいいんスか、それって? 幾ら警察でも、不法侵入になるんじゃ?」
「そんな犯罪行為するわけないでしょ、わたしが。でもまあ、確かに警察やってなかったら、やってるかもしれないけどね」
警察じゃなかったら犯罪しまくりだという発言に気づかない玲子。今後の弱みにでもしておこうと、史明は頭のメモ用紙に書いた。
「…で、それと俺を捕まえた理由がつながらねえんだけど?」
「家宅捜査令状を出してもらいたいんだけど、あれはいろいろ手続きがあって、時間がかかるからね。それに、まだ犯人だとわかってもいない少年の家に、裁判所が出すわけないでしょう。それであなたを探していたわけ」
「なるほど」
史明は納得する。一応鍵を持っている。五年間離れていたとはいえ、田神家の長男である史明が、警察…というのはともかく、友人を家に招いたとかそういうことにしておけば、何ら問題はない。
冷静だが短気。短気だが冷静な玲子さんらしい判断といえるだろう。
「でも、俺がいつ帰ってくるか調べてなかったんでしょ? よくわかったっすねー。野生動物並みの危機感知能力でも持ってるんスか?」
「……あなたは、『あの人』を追っているんでしょう」
「………。流石玲子サン」
お互いの腹の虫を探り合うように、邪悪な笑みを洩らしていた。
「あなたと違って、『彼』は表で派手に動いていたからね。すぐにわかったわ。五年前のあなたの行動は不自然すぎたもの。学校を辞めた日に、長野に行くなんて」
「和広には内緒にしておいてくれよ、頼むから」
「ええ。それはあなたと彼に関すること。わたしが関係していることじゃない。…話を戻すわよ。ちゃんと家の鍵は持ってるわよね?」
「もっち。五年前から愛用の財布の中に」
財布の中に手を突っ込み、輪に小指を引っ掛けて見せる。鍵が変わっているかもしれないという油断もあったが、家の中に入るためならば、史明は窓を割るだろう。
「ああ、そうそう」
アクセルを踏みかけて、玲子は思い出す。助手席を指差して、
「あなたは一応、まだ行方不明者扱いだからね。事件が解決するまで、この日下の家を利用するといいわ」
「ええっ!?」
日下刑事は座席から飛び上がって驚いていた。あれ、打ち合わせではこんなことなかったのかな? なんて呑気に考えてみる。
「警部補、僕そんなこと聞いてないですよ!」
「だって、今思いついたんだもの。わたしのところでもいいけど、発情したら、幾らわたしでも、野球部員だった史明君を止めることはできないもの」
「あんたに発情したら俺も終わってンな。残念ながら、俺に熟女趣味は無い。やっぱ女の子つったら、二つぐらい年上のほうがいいで……」
「うるさい」
前から飛んでくる拳。特殊鉱石でできているんじゃないか、というほど硬く重い拳は、史明の顔面に直撃した。
つーんと頭を抜ける衝撃。鼻血は…出てない。どんだけ綺麗に決まったのか知りたい。
「一応言っておくけど、五年前の事件の写真とかで、あなたの顔は警官のほとんどが知っていると思いなさい。できるだけ日下と行動すること。いいわね?」
「へいへい。あーあ、漫画雑誌買うのにもこんなオッサンといなきゃならねえのかよ」
その年齢で漫画雑誌を買うなとは言わないところが玲子らしい。否、単に発言を無視しているだけのようだ。
「オッサン言うな。僕はまだ君より三つ上なんだぞ」
「嘘ぉ!? 子供が十人くらいいそうな顔してんのに!?」
「僕はまだ二十五だ! 結婚は二十八って決めてるんです」
「彼女は? いんの?」
「…一週間前に……その、めぼしい子は…」
「よっしゃ、ンじゃあ、匿わせてくれる礼に、俺が恋愛授業をしてあげよう」
「本当かい!? やっ…」
「黙れ野郎ども!」
だんだんと話がずれそうになるので、慌てて修正する。あの玲子さんが怒鳴った、となれば、ふたりは黙るしかない。だって、怖いし。よく世間では、「あまり怒らないに限って怒ったら怖い」というが、この人の場合は、「よく怒るしマジ怖い」である。
あともうちょっと調子に乗っていたら、いい笑顔でワルサーを撃ってくれたことだろう。よく青信号ではなく、黄色と赤の中間にしてくれたものだ。しばらく見ていない間に、丸くなったのかな、なんて思ってみる。人は年齢を重ねれば…といおうと思ったが、今が黄色だということを思い出して、口を塞いだ。
「……」
沈黙を、玲子の溜息が裂く。
「とりあえず、田神邸に行くわよ」
今度こそ、玲子がアクセルを踏む。
が、学校の正門から何者かが現れたのを見て、車は停止。今日は平日だから、別に誰かが出てきたとしてもおかしいことではないのだが。おかしいといったら、玲子がアクセルを放したということぐらいだろうか。また外に出てしまう。疑問に思って、男ふたりは顔を見合わせた。
さて、外に出た女は、門から登場した男に声をかけていた。
「西沢先生」
呼び止める。男はすぐに振り返ってくれた。
「おや、あなたは…。昨日の警察の…。こんにちは。どうですか、犯人は捕まりそうですか」
西沢竜二郎教諭は、胸ポケットから煙草を出そうとしていた。
今の時刻は昼休み。教師も一服したい時間だ。
「いえ。ですが手がかりはつかめそうです」
「それは良かった。町の平和のためにも、お願いしますよ」
「……あの、先生。あなたは、田神少年が引き篭もってから、会ったことはありませんか?」
「いえ、ないですが。…もしかして、わたしが、田神に何か吹き込んだとか思っているんですか」
「可能性として、そう思っただけです」
決して否定はしない。プロレスにしても捜査にしても、真っ向勝負が玲子の信条だ。
と、彼は玲子から視線を外した。車の中身を覗くように、薄くなった目。玲子がそれを見落とすはずもなく。おそらく、もう彼は何も言わない。そう判断した。白であれ黒であれ、ここは一度退散しておく。
「……情報ありがとうございます。それでは、わたしは勤務に戻りますので」
短く切って、玲子はスズキ・エスクードに戻った。
「あの人、あのときの先生ですよね。何かあったんですか?」
日下が気ままに尋ねてくる。
「…ちょっとね。気になった、それだけよ」
確証が持てない。
今度こそアクセルを踏み切って、スズキ・エスクードは前進した。
田神史明は、じっと、遠くなっていく西沢竜二郎の姿を睨みつけていた。…あの男は、ずっと、自分を見つめていた。玲子から視線を外したとき、窓越しに自分を見つめていたのだ。窓はマジックミラーのようになっていて、中から外は覗けるが、外から中は見れない仕様になっている。近づけばある程度は見ることができる。だが、あの教師と車は、三メートルほどの距離があった。光の角度的にも、車の中を見ることは出来ない。だというのに、史明と西沢の視線は、ぶつかり合っていた。
偶然ではない。何せ、あの男からコチラの視線に合わせて来たのだから。
「史明君?」
ミラー越しに玲子が声をかける。疑問符のついた問いには、答えを返さなくては。
なんでもねえよ、と。不貞腐れたように口にした。
車で十五分。自転車で二十五分。田神の家はそういうところにある。普通の一軒の家。しかし庭の雑草は、子供の背丈ほど生えていた。この家で十八年間過ごしたことを思うと、感傷が生まれる。
…静か過ぎた。弟と母ふたりだけだというのに、人が生活しているという音がしない。
緊張しつつ、鍵穴に鍵を差し込み、捻る。カチャリ、と素直に音を立ててくれた。軋んだ音を立てて、外側に広がる一枚の扉を開く。玄関を開けてすぐ見える階段が、迎えてくれた。懐かしい臭いが鼻を刺して、ぼうっとしかけた。同時に、ありえない臭いも鼻を貫通して頭を通る。炭素の臭いだ。火事現場で燻り続ける、アレ。
史明と玲子は視線を合わせた。ふたりの思考はほぼ同じにある。
この場所は異常だ、と。
「…なんつーか……玲子サン、ヤバくね?」
「ヤバイっていう表現はやめて。もう少し賢い喋り方を学びなさい」
極めて落ち着いて会話しているが、声は震えている。同じ恐怖を、三人は抱いていた。それは攻められる恐ろしさではない。これから光の届かない暗闇の空間に足を踏み出そうとしているという、予測できない恐ろしさだ。
(大丈夫、ここは俺の家だ)
高鳴る心臓を押さえつけて、史明は靴を脱ぎ、床に足を置いた。ふたりにしばらく待っていてくれというサインを出して。
まずは母親を探そう。もしかしたら眠りこけているだけかもしれないし。この嫌な臭いの正体だって、魚を焼きすぎた臭いかもしれない。ほら、可能性だけだったら幾らでもあるんだ。だから。
彼は信じたかった。望んでいたのかもしれない。
リビング横の廊下をゆっくりと歩く。廊下は上下と左右が反転したL字になっていて、曲がり角を抜ければ、父の書斎だった部屋、その向こう側に母の寝室がある。曲がり角まで、あともう少し。
どくんっ。
(大丈夫。大丈夫、母さんは生きている。生きて、俺を怒ってくれる)
何度も心の中で唱える。
暗い廊下。きぃ、と頼りない床。目眩がするほど遠いと感じてしまうほど暗い。閉所恐怖症ではないが、ここに数時間滞在したら狂ってしまうのではないかと思ってしまった。それぐらい、魔に満ちた臭いがした。
正面には壁がある。右には、途中から消失した壁がある。曲がり角なのだから、それは当然のことといえた。
ゴクリ。息を呑む。足は、震えながらもしっかりと、境界線のような曲がり角を越えて――
「……母さん!!」
叫ぶ。返答は無い。買い物か旅行にでも行っているんじゃないだろうか。もう一度足を繰り出す。右足、左足、右足、左足、右あ……コツン。
進もうとした右足が、何かに当たった。
壁に手を伸ばして、コントロールパネルを探す。プラスチック製の感触を発見して、パチリとスイッチを押した。
廊下が明るくなる。そして史明は、それを一生後悔する。
「……!」
炭素の臭いは、それだった。人型の、炭素。もう何日放置されているかはわからない。今にも風化しそうだった。誰かわからなかった。だが史明は、一瞬で知ってしまった。
この人は、母さんだと。
失踪した父が、三か月分の給料で買ったという結婚指輪が、眩しく残っていた。
様子を察した玲子と日下は、急いで史明のもとへ駆け寄る。史明は両膝をついて、震えていた。日下は人間だった炭素の塊を見て、顔をしかめる。
「…ひ、ひどい。…どうして、こんなこと…」
「……ありえない」
玲子が呟く。寒いのか、唇を青くしながら。
「…人型の炭素? 炎で焙ったとしても、それは不可能…。それ以前に、こんな家屋で、人を発火させた? だとしたら、火事になってる可能性が……」
考えをまとめようと視線を彷徨わせたとき、それは目に入った。
壁にある、植物の根のような焦げ跡と亀裂。亀裂ならまだしも、焦げ跡があるのは異常だろう。
「警部補、どうしますか」
日下が不安げに尋ねる。
「…署に連絡するのはまだよ。…史明君、良輔君は…」
「そうだっ、良輔!」
廊下を引き返し、廊下を駆け上がる。二階のつくりはいたってシンプル。上がり終わると二又の廊下があり、左に行けばトイレ、右に行けば、良輔と五年前まで自分が使っていた部屋がある。
乱暴にドアを開ける。
…誰も居なかった。良輔の部屋は無残なものになっていた。
砕け散った本棚、埃だらけの机、穴の開いた壁、宝物だといっていた、プロ野球選手のサイン入りボールは、史明の虚しさを、転がって語っていた。そして床に散乱した、四本のバット。
一本を手にとってみる。強烈な鉄の臭いが、鼻を通して頭に貫通した。乱暴に払い、呼吸を整える。
「…俺が留守の間に…何があったっていうんだよ…」
生き物じゃないものは、何も語らない。
「史明君、良輔君は…いないようね」
走ってきた玲子が、部屋の様子を見て溜息をつく。まったく頭が痛い。
と、床に転がっているバットを見て、口に手を添えて考え込んだ。
念のため、史明は自分の部屋を確認してみたが、弟の姿はなかった。どこに行ったのかと普段使わない頭をフルスロットする。スリーセブンは出なかった。
「…玲子さん、バットなんて見てどうしたんスか?」
落ち着きを取り戻そうという声だった。ええ、と玲子は頷く。
「考えすぎかもしれないけれど。…このバットの数、連続殺人事件の被害者と同じ数だけあるのよ。それで引っかかってるんだけど…」
「玲子さん、あんた、どうしても良輔を犯人にしてえみてえだな」
敵意を持って邪険な目で玲子を睨みつける。弟に目星をつけている相手となれば、牙を研ぐのも当然だろう。
「そんな目で見ないで。僅かな可能性でも考慮しないと、事件なんて解決できないのよ。…日下、署のほうに電話を入れて。それから、どうしてわたしたちがここにいるのか、口裏を合わせるわよ」
「了解です。田神君、電話借りてもいいかな」
「…いいっすけど…」
まだ、顔は渋っていた。
良輔の部屋を徘徊する。…と、机の上に、四つ折の紙があった。玲子と日下に気づかれないように、さりげなくポケットの中に突っ込む。
「玲子サン、これからどーするんスか?」
「一応わたしは警部補だからね。?杉本健太郎にイジメられていたという田神良輔を訪ねに来たが、インターホンを鳴らしても誰も出てこないので帰ろうとしたら、丁度いいタイミングで、一人旅から帰って来た田神史明と遭遇。彼に事情聴取を行うが、五年間旅に出ていたのでわからないとのこと。彼の鍵を使用して家に入って田神良輔に会おうとしたが、そこには変死体だけがあり、田神良輔の姿はなかった。?…ということにしておこうかしら」
よくもまあ短時間でそんな言い訳を考えたものだ。人は土壇場のとき、何かしらの言い訳を何個も思いつくが、彼女はいつもそんな調子なのか。
これには史明も頷いておいた。
「でも、警察も馬鹿じゃない。変死体なんて…どう言い訳すれば」
「あなたもわたしも今発見したばかりなんだから、言い訳なんて作らなくていいわ。…連続殺人事件と、何か関連がありそうね…」
ぐっ。玲子は拳を作って、骨が軋むまで握り締めていた。
◆ ◆ ◆
―― 田神史明、桂玲子のふたりが合流してから四日後。
はいどうも、なんかお久しぶりな感じがする喜多村巴です。久瀬が怖いので、夏休みが終わるまでここに入り浸るのみいいかなあ、なんて思ってしまいました。…兄さんがすっごい心配です。
そういうわけで、今わたしと兄さんは一緒に買い物をしている。久瀬と兄さんを、わたしがいる限り二人きりにさせてたまるもんですか。行くときに、久瀬は、「納豆とチーズと食パンを買って来い」とか言ってた。何をするつもりかは知らないけど、兄さんが世話になっているんで買っておく。後でレシート、あのすかした顔に叩きつけてやる。
…納豆とチーズと食パンで何をするつもりなんだろうか? 納豆を毎日欠かさず食べることは健康的で良いとは思う。だけどわたしは、あいつが納豆を食べてるところを見たことがない。あったとしても、宅配ピザとかだけだ(もちろん出るのは兄さん)。
商店街を通りぬいている最中、一台の車がものすごいスピードで、道路を駆け抜けていた。危ないなあ、とか思いながら眺める。と、兄さんがどこか一点に集中していることに気がついた。
兄さんが注目しているのは、電気屋だった。ニュースが流れている。
「兄さん、そんなに気になるなら、近づいてみる?」
「……ああ」
肯定を言葉にした。わたしは軽く驚く。何事にも関心がない、何事にも感情を持たない兄さんが、今肯定した。いつもなら、無言のまま進んでいくというのに。
ちょっぴり、嬉しかった。
ふたりで電気屋の前にあるテレビを眺める。いつの間にか…手をつないでいた。小さい頃のように。
…あのときの兄さんはもういない。わかっていたけれど、望みは捨て切れなかった。
テレビはニュースを流している。それを観て、わたしは驚いた。
『零芯町の田神さんの家で、田神××さんが、変死体で発見され……』
「…田神って…。もしかして、兄さん」
「…ああ。見覚えがある。アレは…」
懐かしんでいる。兄さんが、あの家を懐かしんでいた。目を細めて。きっと、思い出しているんだろう、兄さんは。田神先輩と遊んだあの家を。…感情をなくした兄さんには、過去の自分と感情を共有することすらできない。楽しかったということは覚えているのに、思い出して、それに賛美することはできない。
今の論点はそこではない。田神××さんといえば、田神先輩のお母さんのことだ。変死体…っていうことは、弟さんはどうしたんだろう?
『現在、警察は重要参考人として、次男の田神良輔さんの行方を…』
「………そういえば、…史明は、帰って来たのか…?」
わき目も振らずに、兄さんはテレビ画面に食いついていた。わたしは戸惑いながらも、首を左右に一回ずつ振る。
「…ううん。一回も。少なくとも、わたしは見てない」
そう、「わたしは」この五年間、田神先輩の姿を見たことはない。友達や部活のときの先輩が、三年前ぐらいに、「田神史明を見た」と、ふたり、三人ほど言っていた。このことは別に、兄さんにも教えなくてもいいかなと思って、黙っている。
ん? でも今、テレビでは弟さんのほうだけ呼んでいたような? 弟さんは零芯高校に通ってるって聞いたけど…。先輩のほうは、五年前からずっと姿を消しているんだから、むしろこっちのほうを探したほうがいいんじゃないかな。なにやってるんだ、警察。
…史明さんは、何のためにこの町を後にしたんだろう…。
「そうか」
短く淡白に言って、トアル事務所への道を、兄さんは歩み始めた。
兄さん…。その背中は、かつての親友を思い出していたためか、少し、小さく見えた。本当に、田神史明という男は、親友と呼んでいた存在を放って、どこへ行ってしまったのか。あの手紙には、どういう思いが込められていたのか。
急いで兄さんの後を追う。
トアル事務所に戻ってみると、仏頂面な久瀬孝之がお出迎えしてくれた。
「遅いぞ、奴隷ども」
「はいはい、あんたはいつでもそういうよね」
相手になんてしてらんない。
仕方ないからここに置いておくかといわんばかりの小型冷蔵庫に、納豆、チーズ、その他諸々を詰め込む。
「あいや、チーズを二個、納豆を一個だけ出しておいてくれ」
テーブルに置いた食パンをもう開けてやがる。いろいろ言われるのが面倒なんで、言われたとおりのものを、久瀬に手渡す。久瀬は仏頂面を裏返して上機嫌に鼻歌を奏でながら、食パンにチーズを載せ…
待て。いや待て。確かに食パンにチーズを載せるのはよしとする。しかしなんだ。なんで納豆に備え付けのタレと辛子と醤油をかき混ぜて、そのチーズにさらに載せようとする?
「ちょっ、あんた…」
「巴、放っておけ」
兄さんは兄さんでわたしを止めるし。
納豆をかけた上に、またその上にチーズを載せて、電子レンジに突っ込む。手馴れた動作でチン。納豆の臭いが、むわっと事務所内を占拠する。
「はっはっはっ、これが噂のダブルチーズナトゥパンか。なるほど、嫌味なほどの納豆の臭いがたまらんな」
何が愉快なのか、納豆の臭いをすっと嗅いでは悦に浸っている。なんだ、あいつ。人間に興味の無い素振りを見せていると思ったら、実は食物に対して恋愛感情を持つのか? …なんて冗談はやめておいて。
本気で臭う。鼻と口を一緒に抑える。
「久瀬、早くそれ食べちゃいなさいよ。臭いが…」
「むっ、納豆の臭いを嗅いで、不快感を催すとは子供だな、喜多村巴」
「…度ってもんがあるでしょ」
薬も過ぎれば毒になる。どんな良いものでも、摂り過ぎると真逆の結果を生み出してしまうということ。そうやって試行錯誤しながら人間は…って、そんな先生みたいなことを語ってる場合じゃないって。
わたしの態度が目に付いたのか、兄さんは、無言のまま窓を開けてくれた。
奇妙なトーストにかじりつく久瀬。ちゃんと座りなさい。
「おい奴隷、窓を閉めろ、寒いではないか」
「…巴がその臭いを嫌がってる。巴は客人だろう。今はそっちを優先するべきだ」
不意に、わたしは思い出してしまった。十二歳の頃だったか。小さな子たちの世話で疲れてたわたしを励ましてくれた兄さんを。その頃の笑顔はないけれど、気遣いは同じものに感じられた。
「まったく、これだから…。妹同盟にでも入っているがいい、奴隷」
文句を言いながらも食べている。あんなものを食べれるなんて。わたしはご飯に納豆をかけることはあるが、トーストに納豆をかけることはない。どこかのグルメレポーターだったら、和と洋の国際結婚やーやらなんやらで、久瀬を褒め称えるに違いない。口先だけで。
…認めたくは無いが、久瀬の納豆の臭いのせいでお腹が減ってきた。うーん、やっぱり、あの臭いは食欲を引き立てる。
「兄さん、何か食べる?」
わたしと久瀬だけでは申し訳ない。
「適当なカップラーメンでいい。お湯だけ沸かしておいてくれ」
「うん、わかった。でも、それだけじゃダメだからね、健康に気をつけないと」
「ああ。…わかってる」
ふっ、と、兄さんが笑った、そんな気がした。
沸いたお湯を、兄さんが持ってきたカップラーメンの中に入れて三分。テーブルについて、三人で食事を摂る。早めに食べていた久瀬は、先に食べ終わってしまったが。久しぶりに兄さんと顔を合わせて食べている気がする。
「どうした、巴。俺の顔に何かついているか」
無意識にじっと見入っていたらしい。
「…違うよ。なんか」
子供の頃に戻った感じだね、とはいえなかった。
「いいなあ、って」
「………?」
困ったような顔をしている兄さん。感情がない分、きっとその器には注ぎやすい。
ピンポーン。不意にインターホンが鳴った。わたしと兄さんは食事中。唯一暇な久瀬は出る気がないのか、テレビを観てニヤリとしている。はあ、結局わたしが出ないといけないのね、と思う前に、兄さんが立ち上がった。
金属の扉を開けて、客を招きいれた。
「…どちらさまで…。……あんたか」
どうやらお客人は顔見知りらしい。
「ごめんなさいね、和広君。ちょっと、またあなたたちの手を借りないといけないみたいなのよ」
聞き覚えのある声だった。えーと、待て、どこで聞いたことあるんだっけ? と思ったら、兄さんはその人物を思っていたよりもすぐに中へ入れた。
…美人だった。どこぞの企業の社長の秘書なんか勤めてそうなその服装。眼鏡をかけさせたくなる知的な鋭い目。わたしが会釈をすると、あちらも会釈をしてくれた。
「…兄さん、あの人、誰?」
こそこそと訊いてみる。
「…桂玲子さん。和良沙署の警部補だそうだ。………久瀬の元恋人らしい」
「ええっ!?」
あの久瀬と恋人関係になれる女の人がいたとは! 明日というか、ふたりが恋人になってからの翌日に、ビッグバンのひとつやふたつぐらい起こらなかったんだろうか。ん? っていうか、桂玲子さんて…。
「確か、兄さんが…」
「ああ。俺が飛び降りたときに、担当をしていた人でもある」
なんという因果。なんという螺旋。…確かにソレ関係で、兄さんとこの桂さん? が知り合いなのはよくわかった。でもそれ以上の関係には発展しないだろうし、したらわたしとしてもかなり複雑だ。
どこかで聞き覚えがあるなあと思っていたら、アレだ。兄さんが依頼をこなしたときに、いつもわたしに電話をかけてきた女の人だったんだ。直接の面識はこれが初めてだ。
と、桂さんは、勇敢にもドサド鬼畜眼鏡に話しかけていた。
「久瀬、協力してもらうことができたわ。付き合って」
うっわー、桂さんの声、兄さんと話してるときよりすっごい冷たい。北極か南極の風を袋に入れて保管して、そのまま顔にぶっ掛けてる感じ。…いや、実際にはありえないけど。風をそのまま持ってこれる技術があったら、可能かなあ、なんて思っだけで…はい。
さて、我らを取り巻くサドとサドの話し合いを聴くことにしましょう。
…なんていうか、ふたりが睨み合っているのを見ると、鷲と鷹の縄張り争いを、望遠鏡で遠くから観察をしている気分に陥るような。
「…ほぉ。また魔術がらみの事件か?」
「それはまだわかっていないわ。ただ、ちょっと知り合いがね、そんなことを零したもんだから、あなたに確認を取って欲しいだけのことよ」
「…まあそれだけならよいが…。本当に魔術が絡んでいたらどうするつもりだ? またわたしに協力を請うのか? そうだな…次は、零芯町を裸で百週してもらおうか。その後に、貴様の目の前でわたしがポカリを飲み干し、且つ貴様が着たくて着たくて仕方ない服をカッターでバラバラにしてやろう。そして貴様の泣きそうな顔を踏みつけながら、わたしは天高く笑うのだ。ああ、想像するだけでも血液が下半身に集中しかねん」
ぶるぶると奮えて悦に浸る久瀬。思いっきりわたしは引いた。気持ち悪い。こんな奴と同じ空気吸いたくない。窓が開きっぱなしで本当に良かった。
…と思ったけど、実は久瀬としても、こういう面倒なことに関わりたくないんじゃなかろうか? それでこんな無茶な注文をしているのでは…
カッコイイお姉さんは、凛と髪を揺らして、
「いいわよ」
と、自ら地獄に足を踏み入れてしまった。
「ふむ、では行くとするか」
残念ながらわたしの思惑はハズレ。久瀬はやけに乗り気だった。
え、何この展開? 久瀬が立ち上がると同時に、兄さんはなにやら分厚い真っ白な外套を羽織っちゃうし。
「…巴、お前はどうする?」
兄さんが訊いてきた。ここに残るか、一緒に行くか、実家に帰るかを選択肢しろっていうことだろうか。
…確かに、ここから先は、久瀬と桂警部補、それから兄さんだけしか知らない領域だ。おそらく、こんな仕事を何度かしていたんだろう。じゃなかったら、兄さんがあんなにすぐに準備をするとは思えない。
兄さんの仕事。
そのフレーズだけが頭に過ぎる。だから、わたしは、
「わたしもついていく」
と言ってしまった。
初めて見ることになる、兄さんの仕事。…? 警察が依頼してくるってことは、なにか物騒なことなのかな?
桂警部補の私物だというスズキ・エスクードに乗り込む。助手席には兄さん、運転席には当然ながら桂警部補、その後ろにわたしと久瀬。
「…日下さんはいないんですか」
兄さんが尋ねる。日下さん? また別にいるんだろうか。
「彼はちょっと、別件で動いてもらってるわ。ああ、もちろん今回の事件のことだけど。とりあえず、話しておきましょうか。わたしが今受け持っているのは、今起きている連続殺人事件よ。知っているでしょう? ニュースで何度も流れているし」
「それと…魔術に何か関係が?」
「それは見てからのお楽しみってことでお願いしておくわ。先月、三週間前、先週、九日前、そして四日前。合計五つの死体が見つかったんだけど…」
「ちょっと待ってくれ。四日前? 九日前までのことならわかるが、また見つかったのか?」
「観ていないの? 田神家で見つかった変死体。アレも連続殺人事件の被害者よ。話を続けても構わないかしら。マスコミのほうには公表していないけど、実は、被害者全員の身元が発覚したわ。とりあえず、名前を挙げていくわね。
まずひとりめ。零芯川の橋の下で死んでいた青年…彼は遠野太助。零芯町の隣の成東町、さらに隣の笹川町の寿司屋で板前になるための修行中だった。彼が殺害されてから五日経って、和良沙署のほうに捜索願が届いたわ。昨日やっと身元が発覚したの。まだ身内には知らせていないわ。年齢は二十一。
ふたりめ、山崎明彦。廃工場内で発見された青年よ。工業地帯の製鉄工場でアルバイトをしていたようね。年齢は十九。
三人目、山下友則。フリーターよ。発見された場所は雑木林。近所の住宅街に家があって、帰りの途中に襲われたと見るのが通常ね。年齢は二十。
四人目、杉本健太郎。ボランティア青年団所属、収入は主にアルバイト。青年団はボランティアとしてゴミ処理場で働いているの。彼はそのゴミ処理場で発見されたわ。これがまた絵を描いたような屑男でね。殺されても仕方ない男というか。他の人たちは普通に生活を送っていた人たちなんだけど、こいつだけは特別よ。
五人目、田神順子。パートに出ていた主婦。この人だけ、死に方が特別よ」
「…死に方が、特別? …俺からすれば、被害者全員特別な死に方なんだけどな」
兄さんの言い分は正しい。人を殺すだけなら、ナイフや包丁で、心臓や首を貫けばいいだけの話だ。なのに、犯人は、鈍器を使った。鈍器を使う分にはまずいい。問題はその使用方法。顔面が判別不能になるまで殴り続けるなんて、正気の沙汰じゃない。
「…田神順子は、焦げすぎたステーキ状態になっていたのよ」
は? わたしはよくわからなかった。
「………なるほど。確かにそれは特別だ」
なんか納得している兄さん。横の久瀬もそうだった。
「ちょっ…。焦げすぎたステーキって、どういうことですか」
なんか悔しいので、クールな美人に喰いかかる。
「言葉通りの意味よ。炎で焙られたように、筋肉の表面が炭素になっていたの。司法解剖でなんとか中身を見ることはできたけど、それでも中は凄まじかったらしいわ」
「それと殺人事件の関連がどこにある?」
「まあ聞きなさいって。五人目の田神順子以外の被害者には、共通することがある。とっくに気づいていると思うけど、年齢。平均年齢ハタチなんて若すぎる。まあ、それは置いといて。…共通点。それは、都立零芯高等学校の卒業生ってことよ」
…! 目が点になってしまった。零芯高等学校といえば、わたしの母校でもある。兄さんも五年前まで通っていた学校だ。
「それじゃあ、犯人は被害者に対して恨みを持っている?」
「そういうこと。鍵は、最初に身元が判明したのが、四人目の被害者である杉本健太郎。彼の友人や、卒業した学校に事情聴取しに行ってね。ひとり、彼にイジメられた子がいたってわかったのよ。それが田神良輔。田神家の次男。彼が犯人じゃないかと思って、わたしは田神の家に訪ねに行ったわ。そしたら、廊下で田神順子の遺体を発見。二階の田神良輔の部屋に入ると、かなり荒らされていて、そのうえ、五本バットがあったわ。偶然かもしれないけれど、バット一本を一人だと見立てると、被害者の数が揃う」
「…なるほど、だんだんと読めてきたぞ」
黙って聞いていた久瀬がついに口を挟む。
「貴様は今、『バット一本を一人だと見立てると、被害者の数が揃う』と言ったな。それで、最後の容疑者の母親だけの死に方だけが、まったく違う。表面の筋肉は炭素と化していたといったな? それで貴様は、魔術と結びつけたのだな」
「悔しいけど、正解よ。他にも不審な点があるし、魔術に関してはサッパリなわたしじゃ無理でも、あなただったらわかるでしょう? 餅は餅屋。魔術は魔術師ってね」
本当はあなたに頼むのは嫌なんだけど、と桂警部補は付け足した。
「……もしも貴様の推測通りだとするのなら、その田神良輔とやらは魔術師だということになるぞ?」
「だから、そういう意見も聞きたくてあなたを訪ねたんじゃないの」
「…杉本健太郎と田神良輔の関係はわかった。で、他の三人は?」
長い話に疲れたのか、それともただ訊きたかったのか、兄さんが少し荒々しく尋ねた。
「まだ調査中よ。ただ、接点があるとしたら…かなり不確かだけど。田神良輔の兄、田神史明に年齢が近いっていうことじゃないかしら」
「……史明と」
何か納得のいったらしい兄さんは、顎を撫でた。
妹分だからわかるけど、弟というのは兄に憧れるものであり、兄を憎むものである。同じ親から生まれたのに、生まれた年月が違うというだけで能力差が別であり、親からは、兄が使っていたお下がりを渡される。こういうときには、ふたつのタイプがある。
金銭的にしょうがないと諦めるかタイプか、
どうして兄貴には金を出して、俺には金を出してくれないんだろう、と嫉妬に燃えるタイプだ。俗にこれをコンプレックスと称する。
…だったら、兄に対するコンプレックスゆえに兄を殺すのはわかる。かといって、兄の年齢に近い人間を殺害するという神経はどうもいただけない。…って、まだ田神良輔が犯人と決まったわけじゃないんだっけ。
そんなこんなで事件の推測をみんなでしているうちに、田神家についていた。
既に何人かの刑事や鑑識が導入されているようだった。KEEP ON と書かれた黄色いテープは、一般人の侵入を拒む。色で危険のレベルを察知する人間を牽制するには、丁度いい色なんだろう。
お邪魔しますと上がりこんで、桂警部補に案内されたのは、上下左右反対のL字の廊下。曲がり角に行くと、人型の白線が置かれていた。ここに例の変死体があったということを示している。
「これを見て」
すっ、と真っ白い手袋を着用した警部補は、壁を指差した。
壁には亀裂があった。ただの亀裂じゃない。雷が横に突き刺さったような、植物の根のような穴。それも焦げ後がついている。久瀬はそれに、手を当てた。
「そういえば奴隷、貴様、田神史明とは知己の間柄だったそうじゃないか。容疑者はその弟。弟は何歳になる? それと、会ったことはあるか」
亀裂をなぞりながら兄さんに尋ねる久瀬。
「俺と史明は同年代だから…四つ年下。十八だ。そうだな…中二か中三ぐらいか…一緒に野球をしたことがある」
「十八、か。…弟はどのような人間だった?」
「どのような人間かといわれてもな…。一度しか遊んだことがないうえに、もう何年も前の話だ。兄弟揃って野球が好き、としか覚えていない」
それはわたしも知っている。兄さんが、野球から帰って来たときに、夕食前の報告会で嬉々として語っていた。あんなふうになる兄さんが、田神先輩と遊べることができる兄さんが羨ましくて、少し妬いていたっけ。
それが何の情報になるのか、久瀬は落ちかけていた眼鏡を指で押す。
「もしも、弟が魔術師だとしたら…ほかに魔術師がいるな」
「…!」
久瀬の口からとんでも発言。魔術師ってそんなにウロチョロしてていいもんなのかな。あ、そっか、よくわかんないけど、化学者に分類されるんだっけ。
そう考えると、自然と受け入れられてしまうのが不思議だ。
「久瀬、それはどういうこと?」
鋭い眼光の美人警部補。
「貴様にも以前話しただろう。魔術師になるためには、百万分の一の才能と、膨大な努力が必要だと。仮に五歳から魔術を習うとして、完全に習得するためには十八から二十になる。だが奴隷の話を聞くに、田神の家は代々魔術師の家系でもないし、弟はその努力の素振りすら見せていない。なぜか。魔術師になるためだったら、野球なんてものは要らない。趣味としては持っていてもおかしくないと思うが、魔術師を目指すということは、それまでの自分を捨てるということに繋がる。一生をかけて魔術師になろうとする者もいるがな。言っておこうか。魔術を行使するだけなら、約十五年。さらにその上の技術を学ぶにはまた十五年かかる。故に、突然人間が魔術を使えるようになる、なんてことは絶対にありえない。正攻法ならば《・・・・・・》な」
その言い方では、別に努力なんてしなくても、魔術という力は手に入るというように感じる。
「裏技その一。幽子体物質に触れる」
幽子体物質というのは、俗に言う「魂」を形成している主な物質。人間なら誰しも持っている。人間が死んだとき、体重が僅か軽くなる。それはこの幽子体物質が身体から乖離したからとされている。もちろん幽子体物質は単なる物質。それだけで人の意思があるとは到底思えない。だが中では綿密な化学反応が常に行われていて、それが意思と呼ばれるものになる。化学反応の際に生まれる微弱な電流が、人の形を映し出し、時折心霊現象なんてものを呼び出す。付け足すと、幽子体物質そのものはかなり密度が薄いもの。肉眼はおろか、電子顕微鏡でも発見することはまず不可能。
幽子体物質で起こる化学反応。生まれる電流。このふたつが混合したもの、それが魔力。だから幽子体物質に触れたとき、人間は魔力を得ることが出来る。
ここで注意すべきは、そんなことをしたら、どんな人間だって魔力を持ってしまうということ。魔力を得るために必要な幽子体物質は、肉眼で確認できるほど高密度なものでなければならない。
高密度の幽子体物質は、幽子鉱石とも云われる。その名も「ファントムメタル」。魂(幽子)を凝縮したもの。これを生成できるのは、魔術師のみ。魔術師は、己の命(魂)と魔力を削ることで、ファントムメタルを生み出すことが出来る。また、幽子鉱石には三つのランクがある。それは今関係ないことなので略す。
魔力をあまり持たない(魔術師ではない)人間が高密度の幽子鉱石「ファントムメタル」に触れると、魔力を吸収することが出来る。魔術に必要な魔力を得ることが出来る。これが通常の人間が魔術師になるための第一歩。
例えるのであれば、小学校一年生の算数。とある魔術師は、Aという魔術を使いたい。だが、Aという魔術の必要魔力量は100。とある魔術師が自分で持っている魔力は40。そこでとある魔術師は、ファントムメタルで、自身の魔力量を増やすことにする。
40+60(ファントムメタルからの供給量)=100
これで魔術師はA魔術を使えることに成功。増えた魔力は消えることは無い。魔力は体力と同じものなので、時間経過で回復する。
これで魔術が使えるようになった。だが、終わりではない。
その次はコントロール、その次は応用、といったように、一人前の魔術師になるためには緻密な努力が必要なのだ。
「魔術を使用した場合、そこに使い古しの魔力が滞ることがあってな、これを、魔術師は『残り香』と呼んでいる。一時的に周囲の人間の魔力量を上げることができる。…その残り香が、この亀裂から感じられるが…。ふむ、筋肉の表面を炭素と化すぐらい、コントロールは未熟だということがわかった。犯人が田神良輔かは知らないが、この事件に魔術師が関与していることは間違いない」
残り香ってのが未だここら辺を滞っているっていうことは、よほどの魔力を使ったということなのか。
この瞬間から、連続殺人事件は、ただの殺人事件ではなくなった。
「やれやれ、低俗な輩と関わり合う魔術師はロクな奴はいないのだが…。む? これは自虐か?」
なんてひとりで言ってる。うん、あんたはロクな奴じゃないよ。自覚できたあたり、まあマシなほうなんじゃないかな。だからさっきの桂警部補に言ったことは取り消しなさい。
「はっはっは、天才というのは辛いな。ロクではないから常人には理解されぬ。なんとも孤高よ、ロンリーウルフよ。はっはっはっはっ」
自虐は一転して自画自賛になった。あー、もうどうでもいいや。あいつの独り言を聞いているだけでも腹の虫がざわめく。すごいぞー、かっこいいぞー、とか言ってる。
誰が? さあ。
さて、ひとりで笑っている変態の腹にボディブロウでも決めておいて。
「で、次は? 裏技その一っていうことは、その二もあるってことだよね」
聞きたくないけど、ここまできたからには最後まで聞いてやろう。
「かはっ、こほっ、くっ、貴様はジャングルで豹に両親を食い殺された後にゴリラに拾われて雄々しく成長した野生児か。…話の途中だったな」
こほん、と咳をひとつ。
「もうひとつ…それは強制覚醒だ」
「強制、覚醒」
思わず復唱してしまった。一般的な意味を持つふたつの単語が重なりあっているんだから、復唱もしてしまうだろう。もっと専門的な言葉が出てくるかと思っていたのに。
久瀬はこほんとひとつ咳払いをして、
「うむ。これは魔術のひとつでな。条件は、先天属性が『星』。後天属性が星の派生属性である『覚』でならなければならない。魔力にもツボというものがあってな、そこに覚属性の『強制覚醒』という魔術を与えることで、魔術を使えるだけの魔力を手に入れることが出来る。魔術を使えることができるから魔術師だから、厳密にはまだ魔術師ではないが。だがしかし、この強制覚醒の魔術を使うことが出来るのは、世界を見渡してもふたりだけだ。田神良輔が魔術を使えるようになったと推測しても、強制覚醒を使える魔術師が関わっているとは考えにくい」
確かに。数学的に見ても、確率が低すぎて、ないことはないが、あるとは言いがたい。けど、ここに確かな可能性が出揃った。
やはり餅は餅屋だ。
結論はこうだ。仮に田神良輔が犯人だとして。
田神良輔に協力している魔術師がいて、その魔術師が作った幽子体物質に触れることで、田神良輔は魔術を使える分の魔力を得ることが出来た。ただ属性を放出するだけの技術を学んだ(久瀬曰く、魔力属性放出は、魔術とはいえないが、基礎の技術として二週間程度で習得可能らしい)。魔術師はなぜか田神良輔に協力的。理由は見つからないが、どういう人物が魔術師なのか知れば、それも自然にわかることだろう。
「じゃあ、こういうことにしましょうか」
話を聞き終わった桂警部補に、皆は注目する。
「久瀬とわたしのふたりで、魔術師を捕まえるわ。和広君は全力で田神良輔の行方を追うわ。日下と、もうひとり協力者がいてね、彼らにはわたしから連絡しておくから」
「そういうことだ。気張れよ奴隷」
ぽんと和広の肩に手を置いて、さっさと去ろうとする久瀬。ああ、と頷く兄さん。
「ちょっ、久瀬。あんたは手伝わないの?」
「当たり前だろう。奴隷はご主人様のために一生懸命働くのだ。ご主人様が奴隷と一緒になっては、主従関係の意味が無いだろう」
いや、確かにそうだけど。生粋の魔術師はあんたしかいないんだから。
「何、安心しろ。わたしのほうでも調べておいてやる。行き詰ったら、事務所に戻ってくるがいい」
また高笑いを上げて帰っていく魔術師。驚いちゃってるよ、仕事に来てる人たち。
あいつがああ言った以上、借金を背負わされている兄さんは逃げようが無い。仕方ない、わたしは兄さんを手伝って――
「巴、お前は家に帰れ」
戦力外通告を言い渡された。
「兄さん、どうして? 流石に兄さんでも、零芯町全体を探し回るなんてできないでしょう?」
「……相手は魔術師なんだ。俺は今まで、桂さんが持ってきた魔術師が関わっている事件を、久瀬と解決してきた。だからわかる。魔術師は危険だ。特に人を傷つける魔術師はな。…桂さん、巴を頼みます」
「わかったわ。彼女の家まで送ればいいのね?」
「はい。お願いします」
くるりと踵返して、兄さんも去ろうとする。わたしは追いかけようと足を前に踏み出す。が、誰かに手を奪われた。後ろに振り返ると、手首を、桂警部補に握られていた。
振り払って、警部補を睨みつける。
「わたしは……!」
「お兄さんのお手伝いをしたい気持ちはわかるわ。でも、それじゃあ、魔術師が和広君の存在に気づいたとき、あなたはどうなると思う?」
「……え…」
予想もしなかったところからの質問。斜線を描いて、わたしの心に入り込む桂警部補のナイフ。
「和広君の言う通り、人を傷つける魔術師は危険なのよ。スズメバチの巣を、何の装備もなしで駆除しようとしているのよ、あなたは。わかる? 素人は帰って、後はプロに任せなさいってこと。特にあなたの場合は、素人以前の問題なんだから」
「………っ」
唇を噛み締める。
…兄さんは、わたしを心配してくれていたんだ。あの感情を失くしているはずの兄さんが。
「…送るわ。和広君との約束だし」
「……」
震えていたのかもしれない。
兄さんの役に立てなくて。
――兄さんに対して、何の贖罪もできなくて。
◆ ◆ ◆
和良沙市は、零芯町から駅を二個通って行ける地方都市である。零芯町より住宅街は少ないが、デパート、スーパー、本屋、ブティック、その他諸々、必要最低限のものから、必要ではない趣味用のものまで揃っている。夜十時過ぎには愚連隊のバイクが走り回り、独自の倫理観を持っている高校生たちの群れが、わらわらと移動する姿も見られる。黒髪が珍しく思えるような光景。高い丘から市街を見下ろせば、星の海が見えるだろう。
午後九時半。和良沙市で一番大きなデパート、『アンセム』。九時閉店だが、駐車場には容易に侵入することができる。不良まがいの高校生たちがそこに集まるのは、自然な流れといえるだろう。彼らには目的がない。ただ集まって、酒を飲み、弱い立場の人間を踏み潰したいだけだ。
今日は先輩が来ているらしく、皆、いつになく神妙な顔つきをしていた。
五年前まで、学校で荒れていた先輩だ。噂だけだが、逆らうだけで、今の生活を破壊するほどの暴力を振るってくるらしい。暴力だけではない。精神的なジワジワと攻める方法まで知っている。穏便な生活とギリギリのスリルを楽しんできた不良まがいにとって、その先輩は、悪魔に思えただろう。
悪魔の名は、鮫島樹。今、アンセムの駐車場で、バイクを乗り回している輩だ。
数十分経って、鮫島は駐車場の真ん中に皆を呼び寄せる。
「全員いんのか?」
ひとりに訊く。そいつは、収集をした少年だった。数を確認していないが、頷いてしまった。怖い、と身体全体が悲鳴を上げている。
「そうか。…何ブルってんだよ」
胸をどつかれる。本人は軽い気持ちでやったのだろうが、やられたほうはたまったもんじゃない。肺に近い場所を強く押されて、呼吸困難気味だ。
鮫島はニンマリとしながら歩を進める。
不良のひとりが、噛んでいたガムを、唇を尖らせて吐いた。ガムは落ちる。狙いはしなかったのだが、鮫島の下に。鮫島が踏み込んだ足は、ガムに落とされる。
「……てめえ…」
ガムを吐いた少年を睨みつける。少年は、蛇に睨まれた蛙になっていた。
ちょっとこっち来い、と胸倉を掴んで、アスファルトに叩きつける。やめてくれ、とは言えず、少年の腹に鮫島は乗った。
「せ、せんぱ…、すみま…」
「うっせーよ、てめえ。何、人様の靴にガムつけてんだ…」
振り上げられる、拳。
「よぉ!」
顔面に強烈な衝撃。仰向けで抑えられ、しかも背中には硬いアスファルト。打撃+衝撃+仰け反ったときの後頭部への衝撃。それを何度も鮫島は続ける。何発目だろうか、ついに、バキッという、枝でも折ったような音が響いた。
殴られ続けた少年は、だらんとして気絶した。鼻は血を流し、ありえない方向に曲がっている。頬は腫れ上がり、時が経てば青い痣になることは明白だった。
「けっ、弱いったらねえ」
少年から立ち上がり、石でも蹴るように脇腹を蹴った。その後、靴の裏で少年の頬をなじることで、ガムを取る。
不良たちは恐れをなした。
「…なにジロジロ見てんだ。ほら、全員乗れ」
全員バイクを所持しているはずなので、指示を出す。と、とんとん、と肩を軽く叩かれた。
まさか自分に対して直接肩を叩く相手がいようとは。少々驚きながら振り返り、
「あぁ? 誰……」
「久しぶりだな、鮫島」
今度こそ本当の驚愕を味わった。
ここにいる者のほとんどは、将来を悲観することなく髪を染めている連中ばかりだと思っていた。だというのに、ひとりだけ黒髪がいた。しかもその黒髪は、鮫島が本気で恐怖を抱く、ふたつの存在の内ひとつだった。
田神史明が学校から居なくなった後、鮫島は鳴海和広に直接的にも間接的にも関わり合うことはなくなっていた。だが、鳴海和広の自分に対する憎悪だけは、視線とともに感じていた。いつしか、鳴海和広に恐怖を感じる自分がいて、情けなくも感じていた。
だから、あの頃の記憶が消えるわけがないのは当然のことだった。
「鳴海……かずひろ……!」
頼りない小鹿よろしく、彼の足は震えていた。
ありえないはずの再会が、今ここで果たされたからだ。
「お、お前…自殺で……昏睡…」
「…二年前、起きたばかりだ。何、気にするな、お前にされたことは過去のものだ。…そんなことは、どうでもいい」
「ひっ…」
和広の感情のない目。過去の視線が頭を過ぎって、短く高い悲鳴を上げた。
「訊きたいことがあるんだが…」
「…なっ、なんだよ。答えてやるから…さっさとここを去れよ」
「ああ。史明の弟…田神良輔について、何か知らないか?」
鮫島樹と田神良輔が直接関わり合っているとは思っていない。だが、こうして夜遅くまで徘徊している鮫島なら、行方不明の良輔のことについて知っているかもしれない、と踏んだだけだ。
真っ白な頭で鮫島は必死に思考を巡らせる。
…田神良輔。
名前だけは聞いたことがある。後輩の杉本のせいで人生を台無しにされた奴だとかは。
だがそれだけだ。鮫島は首を横に振る。
「…そうか」
諦めるような溜息をつく鳴海。鮫島は、はやく帰ってくれと願うのみ。
返す足を見て、やった、と心底喜ぶ。が、またつま先はこちらを向いた。近づいてきて、耳元に口を近づけ、
「警察に連絡しておいたからな」
耳元でぼそっと呟いた後、和広はその場を去っていった。
遠くのほうから、赤い光とサイレンの音が聞こえてくる。逃げ惑う少年たち。ぶんぶんと唸って遠くなっていくバイク。交代するように近づくパトカー。鮫島と倒れた少年だけが、そこにいた。
鮫島が知らないとなると…後はどこへ行けばいいのか。夜の街は無駄に明るい。月明かりだけでも道標に充分なるというのに。無関心な目で、ふらふらと鳴海和広の徘徊は続く。田神良輔のクラスメイト(田神良輔は行方不明扱いだが、学校には在籍していることになっている)によると、彼はわざわざ電車を利用してまで、バッティングセンターに通っていたという。不確か且つ信憑性のない情報だが、今はすがることにする。
アンセムから歩いて十五分の場所に、それはあった。入ってみると、廊下を挟んで向こう側に、一から十までの数字がプレートに書かれていた。その下に白い扉があり、入るとすぐ右にバットと、金を入れる機械がある。五球二百円らしい。インフォメーションによると、一から三が百キロ、四と五が百二十キロ、六から八が百三十キロ、八から十が百四十五キロとなっているらしい。開いている部屋は、三、五、六、七。ほかの部屋からは、軽快な金属音が響いていた。
部屋に入って向こう側はゴルフ場のようになっていた(例よりはかなり小さいが)。緑色の網に囲まれていて、上のほうに六つほど、ぽつんと、「ホームラン」と書かれた的がぶら下がっていた。なんでも当たれば、駄菓子を幾らか贈呈してくれるらしい。
廊下の左を真っ直ぐ進むと、休憩所のようなものが設けられていた。赤い自動販売機が三台ほど並んでいる。パチンコを真似たスロットゲームも何台か配置されていた。木の脚が高い円卓に、長方形の椅子に、何人か座っている。漏れている話を聞く限り、球当てにも飽きたので、これからどこへ行こうかと相談中のようだった。
休憩所を左に曲がり、「管理人室」と書かれた扉をノックする。
すると、中から、六十代と見える男が現れた。
「何かあったんか」
珍しそうに和広を観察しながら、男は言った。ここは管理人室、何か不備がなければ用は無い場所だ。
「いえ、少しお尋ねしたいことがあるんですが」
男の物言いは高圧的なものだった。だからここは下手に出たほうがいいだろうと判断する。
「田神良輔という少年について、何かご存知ではありませんか」
「田神…? ああ、あのボンか」
一度しかめたが、管理人は思い当たったようだった。
「あのボンがどうかしたんか」
訊いて来た。ということは、ニュースを観ていないということになる。
「俺は、彼の兄と友人関係で、最近行方不明になったって聞いたから、探しているんですが。何か心あたりはありませんか」
「心当たり…。…そうだなあ、あのボンが関係あるかは知らんが。新しく球場できたろ」
「…ああ、あれですね」
和広も思い出した。球場といえば、最近できた、和良沙球場しかない。球場といってもそんなに広くはない。小学生から中学生たち、またはリトルリーグのチームのために作られたものだろう。事情については詳しくない。公園とほぼ同じような施設なので、一般の人も利用することが出来る。
「なんか深夜、二時か三時か。それぐらいの時間に、いっつも球ぁ打つときの音が聞こえて、近所の犬とかが騒いでいるらしいぞ。近所迷惑だっていきりたった旦那が怒鳴り込もう球場いったけど、誰もいなかったんやと」
「…その旦那が球場についたのは、いつぐらいですか」
「そこら辺までは思い出せん。二日前からだからな、多分今日もあると思う」
バッティングセンターを後にして、向かうのは和良沙球場。流石に先のものよりは広いグラウンド。高い照明、しかし静かな闇に沈むように、ここは黙っていた。張り巡らされている緑色の目の細かい網。公園と同じようなものなので一応侵入は可能。だが、今入るわけにはいかない。ここでバッティングをしている人物がいたとしても、それが田神良輔とは限らない。しかし可能性は零ではない。
腕時計で現在の時刻を確認。午後十時四十分。音が鳴るのは午前二時か三時頃。かなり時間が余っている。
かといって、ここで待つわけにはいかない。田神良輔は、鳴海和広の顔を知っている。二年前に昏睡状態から目覚めたことも、おそらく知っているだろう。そんな人物がこんな時間帯にここを見張っている、となれば、不審に思うに違いない。
和広には感情が無い。だからこうして、自分を主観ではなく客観的に常に見ることが出来る。…自分に価値が無いと思っている人間ほど、主となっている自分が演じているのを、客として観ることが許される。
世界という名の舞台で、透明になって踊っている道化師。それが、鳴海和広だと、和広は思っている。きっと、脚本と監督は久瀬孝之が書いているのだろう。そうでなかったら、今回の事件を入れて、…もう三回か。魔術師と関わることはなかった。久瀬に起こされたあの日から、きっと…和広という人間に価値はなくなった。
自分の力で目覚めぬ者に生きる価値は無い。そう、思っているから。ならばせめて、自分を救ってくれた人間には、惜しみない協力を。
鳴海和広は気づかない。これこそが、自分に残された最大の主観であり、感情だということを。主観を見失っているという主観に捉われているから、彼は思い込んでしまうのだ。
人間というのは所詮思い込みに捉われている生物だ。鳴海天照が自分のことを無価値だという主観に捉われているのなら、大勢の人間は、自分が自分だということに溺れているということになる。だがその思い込みが、何度も世界を動かし、人々に感動を与えていたのも事実だ。―― ひとりの人間が、何人も殺せるように。
田神良輔も、思い込みに捉われているのかもしれない。
では、何の? 何を目の膜に覆っているのか。
田神良輔ではないから、鳴海和広にわかるはずがない。わかろうとする必要もない。
和広は球場を背に去る。午前二時から三時辺りになるまで、近くに潜伏しようと決め込んだ。二十四時間体制の喫茶店か、インターネットカフェかあるだろう、と思いながら。
地方都市の道路を歩く。田舎と都会の入り混じった街は、過ごしやすいといえば過ごしやすいのかもしれない。
チャリ…
後ろから聞こえる、確実に自分の後を尾行している足音。振り返るわけにもいかず、車の入り乱れる道路に備えられている歩道を黙々と進む。
どこか、人気の無い場所を…探しているのだろうか、後ろの人物は。だが忘れてはならない。先を行くのは和広だ。尾行するものは、先行くものの轍を踏むことしか出来ない。このまま人気の無い場所へ誘導するか、それとも、一度事務所に戻って久瀬に報告するか…。…いや、もしも…もしも、まだ田神良輔があのバッティングセンターに通っていて、管理人から、お前のことを探しているという男がいると聞いていたとしたら…。
くどいようだが、どんな物事も可能性はゼロではない。ゼロではない以上、一から百に内包されている以上、どんなことでも起きてしまう。人間が壁を通り抜ける可能性だってゼロではないといわれている時代だ。
念のために、コートの内ポケットの中身を手触りで確認する。金属質のものが入っている。何かがあったとしても、これさえあれば。
「なぁ、センパイ」
背後から掛けられる声。和広には、慕ってくれるような後輩はいない。いたとしたら、それは…ただひとりだけだ。
「……田神良輔か」
友、田神史明の弟、良輔。これしか思いつかない。
見えないが、きっと頷いたのだろう、一拍置いてから、
「そうっすよ」
肯定を唱えた。
不思議な雰囲気。心の隙間に冷たい風でも吹いているようだ。すぐそばの車道では、通るべきものが、一秒の間に何度もすれ違っている。止まっているのは、和広と、田神良輔だけ。
「久しぶりっすね。何年ぶりですかね」
「…さあな。俺の記憶の限りでは、中二ぐらいから、お前の姿を見たことがないが…」
「やっぱり。俺もそうッスよ。あんたと兄貴は、ずっとつるんでるんですから。そういえば、最近兄貴の姿も見えませんけど、どうしました? 金魚の糞みてえにくっついてたのに」
「どっちが金魚で、どっちが糞なんだ?」
「そりゃもちろん、兄貴が前者であんたが後者だ。あんたは兄貴がいなけりゃどうにもならねえ奴だったから」
それは認めよう。史明がいなければ、鳴海和広はこの世に存在していないということを。
「…俺はね、今、この世で要らねえ奴を排除してるんですよ、感謝してください。あ、言っておきますけど、もちろんその中にあんたも含まれているんで」
「…それは、今起きている連続殺人事件のことを言っていると、取っていいのか?」
「頭が悪い人ですね、そうっすけど」
「頭が悪いのはお前だろう。自ら犯人だと言っているようなものだ。何を思ってそんなことをしているかは訊かないが、警察に事件解決の協力を依頼された立場なんでな、ここでお前を捕まえて、引き渡すこともできる」
「おー、怖い怖い。安心してくださいよ。後ひとり、後ひとり殺さないと、あんたはこの世で要らないものだと思えないから。アイツさえ殺せば、あんたを殺す権利を得ることができる。野球みたいなもんですよ。ホームランを打てないと四番の席に座ることは出来ない、でしょう?」
笑っている。見えないが、笑っている。世間話でもするように、昔話でも語るように笑っている。
「なるほど。お前自身に罪の意識がないということはわかった。今までの殺人動機も、ゴミを捨てるのとほぼ同じぐらいの思考レベルだということもな。だがお前はこの世のためといっている。…お前の言う『この世』とは、お前の『視界』のことだろう?」
今の田神良輔は、田神良輔にとって必要のないもの排除する機械のようなものらしい。天動説でも読んでいる気分だ。何事も、自分を中心として世界が巡っているように考えている。
「いえいえ、あんな糞ども、この世にいたって何のためにもならないでしょう。それどころか、人に迷惑を掛ける。だからその前に、俺が捨てておいてやったんスよ」
「杉本健太郎のことか。奴に対する殺人動機は何となくわかるが、他の連中は、どういう経緯で、この世で要らないと思った。それから、そうだと思うのなら、自分が正しいと思っているのなら、なぜ失踪しているんだ」
この少年が直接的に手を下そうと考えると思い当たるのは、今のところ杉本健太郎だけだ。他の人間は、特に何も無い。田神良輔という世界に干渉をしたとは考えられない…それがひとつめの質問。
ふたつめの質問は極シンプル。彼は自分の行ったことに罪悪感を覚えていない。そこから摩擦として生まれる疑問をぶつける。
一体、何が彼をこうまでも変えた?
「前者は企業秘密ってことでお願いしますよ。後者は…どうやら、世間(外の世界)では俺が犯罪者扱いされてるみたいなんでね。俺は捕まるわけにはいかない。俺は世界の代行者だ。要らない奴を消して何が悪い」
「…思い込みもそこまでいくと、ただの妄想だな。妄想するのは好きにしろ。だが、それは自分(内側)にだけ留めておけ。巻き込まれる周囲を考えろ」
「妄想なんかじゃない。俺は、夢みたいな力を…手に入れたんだ」
「…夢みたいな、力?」
もしや……魔術のことか?
一般人、魔術のことをサッパリしらない人にとっては、確かに魔術は夢のような技術だろう。
「見せてやるよ…これが世界の代行者の力だよ、センパイ………!」
バチバチバチッ… 後ろから、線香花火に近い音を耳に感じる。内ポケットに手を突っ込みながら、和広は左足を軸にして振り返った。
そこには、少年がいた。面影が記憶と一致する。鼻のつくりが、兄である史明にソックリなのだ。
彼が手に持っているのは、長柄のもの。柄は細く、長くなればなるほど比例して太くなっている。バットだ。金属製らしいそれは、青白い光を放っている。
知っている。アレは、アレは、――魔術使用時の光だ。
「…お前……」
「これが…代行者の力です」
バットの切っ先を車道へ。車道には、幾つもの車が並行に走り続けている。
何の属性かは知らないが、魔力を放つということは、惨事が起きるということだ。それだけはさせるわけにはいかない。…と、巴に云われている。懐から得物を出そうとするが、それより早く、良輔は、溜め込んでいた魔力を撃った。
青く白い、一本の基となった起源からいくつもの同じような閃光が派生している。…雷。バットの切っ先から落ちたそれは、通りすがった車に突き刺さる。雷は自動車全体の回に伝道し、エンジンを巡り、ガソリンにつく。
結果。
ドォーン………! 爆発が起きた。
あまりの爆風に、和広は目を瞑る。道路の真ん中で起きた爆発は、さらなる犠牲を生み出す。立っている火の柱に、スピードを制御できず突っ込んでいく自動車。度重なる爆発。幾つも立つ火柱。五分程度経って、やっと火に飛び込む虫はいなくなった。
野次馬たちがぞろぞろと現場を覗きに来る。救急車だ、消防車だ、とか聞こえる。
それよりも和広は、目の前の少年を睨むことに専念することにした。
…ここで、逃がすわけには行かない。
「へぇ、驚かないんですね、先輩」
「…とある事情で、感情というものを失くしたらしいからな。…だが、やるべきことは知っているつもりだ。お前を…確保する」
ついに取り出す、和広のエモノ。
黒と銀の入り混じったそれは、月明かりを受けて鈍色を纏っていた。鳴海和広のエモノ、久瀬孝之が魔術師たちと対抗するために作った、ファントムメタルで作られた自動式拳銃――デザート・イーグル。
才能無き魔術師は、ファントムメタルで作られた錬金増幅装置(形状は何でもいい)を中継点としないと、魔術はおろか、魔力を発現することすらできない。
鳴海和広に魔術師としての才能はなかった。だが桂玲子が持って来る仕事には、ほとんど魔術師が関わっている。魔術師と戦うことになる。せめて、魔力を撃つぐらいのことをしないと、魔術師たちと渡り合うことは出来ない。そのために作られた兵器だ。
このデザート・イーグルは、一般の市場で出回っている普通のものとは違う。材質が全てファントムメタルなのだ。作りは同じでも材質さえ違えば、魔力を使うことが出来る。
「そんな物騒なものを…」
「俺も持ちたくはないがな、お前のような奴等と対等に戦うには、これしかないんだ」
「…ダメだよ、センパイ」
銃口を向けられているというのに、少年はくたびれたように手を挙げる。
「ここじゃ人目が多い。世界の代行者っていうのは、もっと影で動かないと」
「……関係ないな。俺は警察の要請で動いているんだ。俺がどこで、どのような手段で犯罪者を捕まえようと、誰も文句は言えない」
「ちぇっ、さすがセンパイ。けど、おいそれといってあんたの掌に乗る気はないよ。じゃあね、センパイ。今回はあんたの勝ちってことにしておいてあげるよ。あいつを殺したら、また相手してあげるからさ」
ダッ。少年は踵返して走った。
「待てっ!」
だんだんっ! 弾の代わりに魔力の弾が銃口から発射する。少年はすぐに野次馬の群れに融けた。人を隠すなら人の中という奴だ。
撃ち出された魔力は、アスファルトに直撃した。群衆の中に紛れた以上、探し出すのは困難。舌打ちして、和広は拳銃を内ポケットに戻した。
「…あいつって…誰のことだ…?」
赤い光とサイレン。太いホースから放出される水。湧き上がる悲鳴と、泣き声。
わらわらと動く世界の中で、和広だけが止まっていた。
…これでわかった。田神良輔は、連続殺人事件の犯人だ。凶器として使われた鈍器のようなものというのは、バットだろう。顔まで潰す理由は知らないが、殺人は殺人だ。本人が自供したのだから間違いないだろう。
後の問題は、誰が彼に魔力、魔術の存在を教えたかだ。
普通の生き方では、このふたつの存在を知ることは出来ない。知ったとしても、昼間に久瀬が言っていた通り、ふたつの裏技のうちどちらかを選択しなければならない。
久瀬の推測どおり、やはりこれには魔術師が絡んでいると見て間違いないだろう。
今日の内にわかったこと。
田神良輔が殺人事件の犯人。
田神良輔には、確実に魔術師が干渉している。
鳴海和広は狙われている。
そして―― あともうひとり、犠牲者が出る。
◆ ◆ ◆
時は少し遡り、二日前。
日下弘文が居を構える集合住宅、雨宮マンション。零芯町のふたつ隣にある、零芯町と雰囲気はそれほど変わらぬ町
「ンだよ日下さん、AVひとつも持ってねえじゃん。あれか? その歳でフノウか?」
日下が趣味で集めた、棚に並んでいるDVDを眺めながら、田神史明は呟いた。
ぶっ、と缶コーヒーを吐き出す日下弘文二十五歳。
「きっ、君は真昼間からなんてことを…! っていうか観るつもりか!」
「当たり前だろ? AVに昼も夜も関係ねえだろ」
さも当然のように語る史明。AVといえば、高校生の頃にドキドキしながら友達の家で泊まりながら見たことがある日下。ふたりの歳の差はたった三つだが、時代の流れを感じさせる発言である。
映像を観るだけなら昼も夜も関係ないので、史明の言うことには一理あるといえば一理ある。
「まっ、ネットで手に入れたサンプル動画だけで満足してるんだから、フルなんてあったらそれだけで昇天しそうだよな、あんた。中学生かっつーの」
「僕のパソコンの中身覗いたのか!? ああああもういやだああああ」
「ふっ、こういうときのために履歴は欠かさず消さないといけないんだぜ。大丈夫だって、玲子サンには言わねえよ。美人秘書ものが多かったなんて…」
「それ以上言うなあ!」
人には誰しも知られたくない趣味というものがある。
ひと段落落ち着いて。
「そういえば、史明君は、五年間何をしていたんだい?」
五年前、史明は行方不明になった。そのことだけを日下は知っている。カップラーメンをすすりながら、史明は、
「にゃぎゃにょにふぃってた」
と答えた。
「い、いや、口の中のものを処理してからでいいから」
「ンクッ。…長野に行ってた。その後ドイツ。移動先でバイトしながら食いつないでたんだ。文句あっか」
「なんでそう高圧的な物言いなのさ。でもなんでまた長野…それもドイツなんかに行ったんだい?」
「長野には探してる奴がいてさ、見つけたんだけど、逃げられちまって。で、いろいろあってドイツに行くことにしたんだ」
「ハショりすぎでしょ、いろいろあってって…」
なんとまあ便利な言葉なのだろう、?いろいろあって?。その一言だけで全ての物事を収束できる。面倒くさがり屋のための言葉といっても過言ではない。
「だって、面倒というか、あまり人には教えたくないというか、シークレットなブーツを履いてる奴の気持ちがわかったというか、まあそんな感じだって」
「…どんな感じですか?」
少なくとも日下は経験したことがないようだ。
「まっ、事件が解決したら、気まぐれに話してやってもいいぜ。長ったらしくて、三日かからねえと終わらない、悪夢みてえな話だけどな」
友人と酒を交わしているような会話。腑に落ちない顔で、日下は缶コーヒーを口にした。
少しの沈黙。今までの会話で得た疲れを癒すような緩やかな時間。それは五分で幕を閉じる。
「史明君、今日はどうするんだい。今日も…」
「今日は深夜に動く。十二時ぐらいにここを出るから、よろしく」
「わかった」
一昔前のテレビゲームに勤しむ史明。なんでこんなに奔放なんだと、日下は呆れた。
和良沙市へ行くには、大体電車で二十分程度。だが午前一時から動くと宣言した史明は、歩いて目的地へ移動しようとしていた。徒歩では一時間以上かかるが、今はこうしていたかった。今の季節の夜の雰囲気をただ、味わいたかっただけかもしれないが。
和良沙市にある、小さなバッティングセンターを目指す。よくあそこで、兄弟で競い合っていたっけか。
垂れている緑色の網を握り締めながら、もう閉まっている擬似球場を見つめる。
ここの管理人には、よく世話になった。大人になったら酒を飲み交わそう、なんて約束もしていた気がする。
「…こんなに小さかったのか、ここ。ん? 俺が大きくなったのか? …どっちもでいっか」
簡単に切り捨てて、良輔が訪れそうな場所を歩く。
深夜まで開いているゲームセンター。こんな時間まで空いているゲームセンターは、決まって不良のたまり場だ。何度かかつあげされかかったが、顔面を容赦なく殴ることで回避に成功。回避というか撃退だろうというツッコみは心の中だけに留めてほしい。
よく友達と通っていたというインターネットカフェ、コンビニ、喫茶店…どこへ行っても弟の姿は見つからない。
何をやってんだかと思いつつも、自然と足は動く。
最終的に史明が辿り着いた場所は、
「…新しく出来た、球場か」
小さな球場だった。それでも、草野球程度ならできるものだろう。自分が不在だった五年間の間に、こんなものができているとは驚きだ。公園のように気軽に入れる施設らしく、史明は散歩気分で侵入した。
入り口付近にあるコントロールパネルを操作して、照明を点ける。横に道を進むと、大地が見えた。
グラウンドの空気を胸いっぱいに吸う。やはり、この空気はいい。ほどよい緊張感が、神経に張り付く感覚。やっぱ、野球っていいなあ、と思った。できることなら、また昔のメンバーで集まって、ふざけ合いながらもやってみたいものだ。
マウンドに登る。自分のポジションは、確かファーストだったなとか思い出しながら。だがあの頃、子供同士でやる草野球に、特定のポジションなんてものは関係なかった。みんな、やりたいことをやっていた。だからこうして、投手をやったこともあった。
置きっぱなしになっている球とバット。懐かしくなって、ふたつを持ってバッターボックスに立つ。左手にボール、右手にバット。ボールを柔らかく真上に投げる。その隙に、両手でバットのグリップを持ち替える。ボールは、予想通り、曲がりもせずに落ちてくる。タイミングは、完全に合致した。
バットは、見事な閃を描く。
カキーンッ!
軽快な金属音。見事なアーチを描いたボールは、球場を囲んでいる網に阻まれて落ちた。
「…やっぱ、いいよなあ」
改めて実感する。
五年前に置いた青春は、もう戻ってこない。だからこそ、あのときの時間の大切さが、あのときの未来になってようやくわかる。
「……後悔してるのか、兄貴」
不意に声をかけられる。バットの頭を地面につけて、
「ああ」
と肯定した。
ふたりの間に、再会の言葉というものは存在しなかった。少年はマウンドに立っている。史明はバッターボックスに立っている。それだけで充分。少年が足を高く上げて、振りかぶり、球を投げる。
ど真ん中――!
鋭い目でどこに球が入るのかを読み取り、再びバットを振るう。
また、空を抜ける音が届いた。
アーチを描きながら後ろへ飛んで行くボールを見送った後、少年は兄につま先を向けた。
「…五年間、何やってたんだよ兄貴」
「さぁな。お前に言ってもわけわかめなことだらけだと思うぞ。…で、お前は、人殺しなんぞして何が楽しかったんだ」
「人殺しじゃないよ、兄貴。俺はただ、不必要なものを捨ててただけだ。兄貴だって、使った後の紙くずは捨てるだろう?」
「………あのなあ、お前、神様にでもなったつもりか? 残念だけど、そんなこと考えてる時点でお前は人間だ。神なんて不確かで空想的なものを目指そうとするのは、人間だけだからな。不必要なものを捨てるってんだったら、この世界に生きてる全てを殺さなきゃならねえんだぞ?」
「違うよ。俺にとって要らないものと、世界にとって要らないもの、共通したものを壊してただけだ」
…狂っている、と史明は思った。理屈ではなく、心でそう感じた。
人間には道徳という強迫観念にも似たものがある。殺人、窃盗、等など。世間一般でいわれるそれは、やってはならないことだと、小さい頃には誰もが習う。理屈で考えるのが苦手な史明は、やってはならないと感じることは決してやってこなかった。もしもそれを破ったら、――破ったとしても、「正常」といわれる状態であるのなら――それは、狂っているといってもおかしくはない。
この少年は、良輔は、何人も殺してきた。だというのに、さも当然のように殺してきた人たちを要らないものと吐き捨てた。
例え救えない連中だったとしても、人を殺したということに、犯してはならないことを犯したことに対して罪悪感を覚えない人間を許せるほど、史明は器用な人間ではない。
「要らないから壊した、だと…? お前…。良輔、お前何を考えてるんだよ?」
「言った通りのことだよ。何度も言わせるなよ兄貴。俺は要らないものを排除する、世界の代行者だ。俺は選ばれたんだよ、ははっ…はははっ…! やっと、やっと、『俺』を手に入れることができたんだ!」
「…良輔……」
変わり果てた弟の姿を見るのは、これほどまでに辛かったとは。
凶器の笑みを浮かべる良輔。動けない史明。
「俺がこんなふうになった一因は、兄貴にもあるんだぜ。兄貴が、俺が壊れる前に兄貴が帰って来さえすれば、もしかしたら、俺は元に戻れたかもしれない…。だけどなあ、もう遅いんだよ、兄貴。俺たちは元の兄弟に…いや、最初から仲のいい兄弟なんかじゃなかったさ、俺たちは。いっつもいっつもヘラヘラしてる兄貴に、寄って集るハエども。
吐き気がしたね。でも、兄貴は人気だったから、俺も人気者になりたかったから、…兄貴のコピーになることにしたんだ。兄貴の色は…そうだな、青っていったところか。兄貴の器には、いつも澄んだ青い液体が揺れてたんだ。それを真似て、俺は、群青(青に近い)色を俺の器に注ぐことにした。
そしたら、どうなったと思う? みんな、俺の取り巻きになった。俺は兄貴の前でも兄貴の真似をしてた。だから、仲のいい兄弟を演じることが出来たんだ。…兄貴がいなくなるまでな。兄貴がいなくなった後、俺は誰を真似ればいいのかわからなくなった。とりあえず兄貴の振りはしてたけど、そこから先が作れない。もうわかっただろ? 俺は、『俺』っていう固体を失ってたんだ。
そんなときかな、杉本健太郎が野球部に入ってきたのは。兄貴を演じてた俺が気に入らなかったんだろうな、すぐに他の部員も巻き込んで俺をイジメ倒し始めたんだよ。それもそうだよな、杉本の背中にはあの鮫島春人がいる。みんな黙ってるけどそれを知ってる。…そして、兄貴はその鮫島を病院送りにした。杉本にとって、俺はサンドバックだったんだよ。みんなに好かれるはずの兄貴の役を降ろされて、俺は絶望した。野球部も潰れたし、学校は事件をもみ消すし、救いなんてないと思った。次は誰の演技をしようかと考えて、家に引き篭もって本を読んでたんだ。そしたら、あの人が来たんだよ。家に。
その人はドア越しに言ってくれたんだ。一字一句間違えずに覚えてる。『お前には夢がある。あの程度のことで夢を忘れてしまうのか』…ってね。
確かに俺は兄貴の役を演じていたただの人形だよ。だけど、そんなニセモノの俺でも、たったひとつだけホンモノがあった。『プロ野球選手になりたい』って夢だ。そこまでいって、あの人は部屋に乗り込んで、俺に力をくれた。額に手をつけて、何か光を俺の頭の中にくれたんだ。なんていうかな…スッとした気分だったね。
『これでその力は、お前だけのものとなった。お前は選ばれた、お前を舞台から引き摺り下ろした奴を排除しろ』。俺は決めたんだ。世界から不必要なものを排除するってことに。世界(舞台)の外から、不必要なものを取り除く。なら俺は舞台が用意した掃除屋。世界の代行者。俺だけの、代行者だけに許された力が、この力なんだよ、兄貴」
青白い光が、バットに灯る。闇に浮かぶ星に映って、一瞬見惚れてしまった。
「…っ」
「俺は後ふたり、代行者として殺さなきゃならない奴等がいる。順番を決めてるんだよ。…先はお前だっ、兄貴!」
バットを真一文字に振るう。青白い閃光は、バットから乖離し、三つの線となって史明に襲い掛かる。
――― やれやれ。
光に照らされた史明の口が、そう動いた。
閃光は兄に到達した瞬間、散った。当たったのではなく、散ったのだ。今までにない光景を目にして、田神良輔は思わず後ずさる。同時に、蒸し暑かった空気が、冷凍庫の中に入ったかのように寒くなった。
肌寒い。良輔は困惑する。
なぜ、なぜ、兄の手に、氷が手袋のように覆っている…?
「兄貴…もしかして、兄貴も代行…」
「馬鹿野郎、そんなゲームの主人公みたいな奴なわけねえだろ、俺が」
…だって、俺はあいつを救えなかったから。あいつの痛みの億分の一も分かり合おうとすらしなかったから。
「教えてやるよ、良輔。兄貴から野球以外のことを教えてもらうんだ、鼓膜破れるぐれえ耳かっぽじっとけ」
冷気を生んでいるのは、肌寒さを産んでいるのは、確実に目の前にいる田神史明である。
「てめえが代行者とか、選ばれた力だのなんだの妄想してんのは、人間が生み出した力…魔術だ。誰でも努力すれば得ることの出来る力なんだよ。お前はちょっとした裏技使って得意気になってるだけだ」
歯には歯を、目には目を、魔術には魔術を。田神史明が振るう魔力属性、それは、大気の水分を凍らすことができる、氷。氷は水がなければ何も出来ない属性だが、これだけ蒸し暑いのだ。空気中に充分な水分はある。幾らでも良輔が放つ雷を散らせてみせよう。
氷の手甲を纏った史明は踏み出す。良輔はこっちに来るなと怒鳴り、雷を撃つ。雷の軌跡は、突き出した氷の手甲が消す。
掌を広げ、良輔の足元を氷漬けにする。
「!?」
動けなくなった良輔。今なら顎を狙え…!
パキンッ、バットで氷を叩き壊した。これは予想外。足に急ブレーキをかけて、立ち止まる。
「くそっ…」
状況を見て判断したのか、弟は背を向けて走り出す。
逃がすわけにはいかない。再び凍りつかせようと掌を広げて照準を定める。が、突然、魔力の弾が三つほど足元に突き刺さって、それは中断させられた。
「誰だ!」
舌打ちして周囲を見渡す。……誰もいない。
再び静寂に戻った。良輔の後を追おうとしたが、いない。
「……逃がしたか」
魔力を解除する。手に纏っていた氷に亀裂が走り、ばらばらと砕けて落ちた。
「…しかし…良輔にアドバイスをくれてやったのは誰だ? …まあ、今日のところはいいか。……でも、ここ、いいグラウンドだな。少し、深夜の散歩ついでに、バッティングでもしてこっかな」
―― これが、バッティングセンターの管理人の言っていた噂の正体である。 ――
それから三日ほど、田神史明は弟に会えるかもしれないという可能性を信じて、何度も球をバットで飛ばす。流石に、近所の犬が吠え始めた頃にはやめたが。