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2.五年前/事件の根本

 2.五年前/事件の根元

 

 

 

 一九八五年の十二月。

 両親曰く、雪に祝福されながら、俺は産声をあげたという。生まれたときのことなんて覚えていないが、このことを聞いて、俺は冬が大好きになった。和広という名前には、「この子がいるだけで平和が広がりますように」という、母の願いが込められているらしい。

 俺は名前の由来を聞いた幼稚園の頃。自分の名前に誇りを持って、泣いている子、喧嘩している子、困っている子、みんな助けた。みんな口々に、ありがとう、と言った。保母さんは、「和広君のおかげで、今日も幼稚園は平和ね」って言ってくれた。また俺の誇りが一つ増えた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 小学校に入学してから、周りの子供たちはみんな「意志」というものを持ち始める。大人に頼らず、何かをしたいという願望を強く持ち始める。同時に、弱者を踏み躙りたくなる、上の者となって、下の者を見たいという、欲望にも似たものを抱き始める。

 だがそれをどうやって解消するのか知らない子供たちは、とりあえず大人の言うことを聞いておくのだ。このときの人間性で、将来が決まってしまうのだと、俺は後に悟ることになった。

 小学校一年の秋と冬の狭間。十月の半ば頃。両親の罵り合う声に、俺は目を覚ました。

 気になってリビングに行くと、母はテーブルに突っ伏して泣き、父は拳を握り締めたまま呆然と立っていた。今までに見たことのない父の形相に、俺は胸が苦しくなった。あの顔は、二十を過ぎた今でも精神的外傷(トラウマ)として湧き上がる。

 翌日は休日。いつもより四時間ほど長く眠った後に起きて、母がいなくて父がいることに気が付いた。いつもなら、仕事に行っている時間のはずなのに。

「おとうさん、どうしておしごといかないの?」

 眠たげな目を擦りながら尋ねた。父は、新聞で顔を隠し、

「…お父さんはね、仕事を辞めさせられちゃったんだ」

 辞めさせられた、という意味はわかったけど、仕事を辞めたという意味がよくわかなかった。当時の考えでは、家庭のお父さんというものは、必ず何かしらの職についているものだと思っていたからだ。それが、自分が小学校を行くのと同様、必須事項なんだと思っていた。結局、父はこの日、一日中家にいた。

 母は夜に帰って来た。午後六時半。どうしてこんな時間に帰って来たのと尋ねると、少しね、と苦笑いを浮かべていた。

 …後に、父が会社でヘマをやらかし、リストラされたのだと知った。それは、三年後、小学四年生になってからである。

 四年生になれば、大人の言うことを聞かない時期、反抗期となる。だが俺にはそれに該当するものがなかった。また、これぐらいの年齢になれば、少しぐらいは大人の事情、又はそれに準ずるもの気づいてしまう。

 母は、パートに出ていた。近所のスーパーに、毎日働きに出ている。

 きっかけは、友達と商店街に遊びに行ったとき、喉が渇いたから飲み物を買おう、と誘ったことだ。丁度目の前にスーパーがあって、入ると、品出しに勤しんでいるおばさんがいた。どこかで見たことがあるなと、最初はそれだけだった。…歩き方が母そっくりではなかったら、俺はどうなっていただろう。呆然として、その後姿をじっと見つめていた。友達は、「お前、ああいうおばさんが好みなのか。趣味わるー」とか、軽口を叩いていた。

 どうして母が働きに出ていて、父が家にいるのか。もうわけがわからなくて、俺は友達を置いて家に急いだ。寝転がりながらテレビを眺めている父に、俺は怒鳴ってやった。

「どうして母さんが働いてるんだよ。父さん、仕事どうしたんだ」

 父は面倒くさそうに、俺の顔を見て、

「何だお前、気づいてなかったのか」

 酒臭い。三年前まで、母好みに綺麗になっていたリビングには、いつの間にか、親父の酒瓶とビールの缶が幾つも置かれていた。中のものは、床を濡らしている。いつも母さんが雑巾で拭いている。

 …こいつは、最低な父親に成り下がっていた。

「俺はな、お前が小一のときに、クビにされたんだよ」

「じゃ、じゃあ、新しい仕事見つければいいだろ」

「うっせーな。もう俺は働きたくねえんだよ。何もしなくても、お前たちが世話してくれるからな」

 頭が真っ白になった。

 ふざけんな―――ッッ! 俺は怒鳴りながら親父の上体に圧し掛かった。拳を振り上げて、落とす。振り上げて、落とす。親父の顔を、何度も殴った。クビにされた衝撃で、父はこんなにも変わり果ててしまった。

 そのことが悔しくて、情けなくて、俺は泣きながら父を殴っていた。

 あんなに大きく見えた父が、漫画の世界とかの「小悪党」に見えた。それが嫌だった。嫌で嫌で、現実を壊すために、幻想を拳に込めていた。まるで、現実を幻想に変化させるように。

 だが。子供では大人の力に勝てなかった。

 酒の力で本気の状態になっている父の力は、子供の俺をいとも簡単に殴り飛ばした。壁に背中を打ち付けて、俺は呻く。そこに、親父が足を振り下ろす。

「てめえ、みてえな、ガキが、生意気な、こと、言うんじゃ、ねえ!」

 後ろは壁。追い詰められている状態。逃げることは出来ない。立場は逆転していた。いや、逆転すらしていなかったかもしれない。やはり父は大きかった。

 それからのことはよく覚えていない。失神状態から目覚めた俺が見た光景は、やはり、酒の始末をしている母と、ごろりと横になっている父の姿だった。

 

 俺は、この家に平和を広げるはずの存在なのに。

 父は、大きかったはずなのに。

 いつの間に歯車がひとつ欠けたのだろう。

 

 …離婚をするのに時間はかからなかった。俺は父の説得にも耳を貸さず、母についていくことを決めた。慰謝料はなし。とにかく、母は親父の顔を見たくなかったようだ。

 零芯と呼ばれる町に引越してから、俺の日々に光が射し込んだ。毎日友達の家に遊びに行くし、学校での勉強の成績は良いほうだし、…母が仕事に出かけるのを見送ると、少々胸が痛んだが。

 それでも母親が仕事に出ているなんて家庭は、特別でもなんでもない。

 問題は、父親がいるかいないか。もちろん後者である俺の家。親父は俺が生まれる前に死んじゃったんだって。思い出なんてなにひとつないぜ、と不幸自慢をする同級生。いいなあ、と思った。あんな父親だったら、俺は思い出すら作りたくない。小学三年生までの父との楽しい記憶を全て犬にでも食わしてやりたい。

 …記憶を消去してくれと願った。

 小学六年生の頃。…一九九七年。ついに起きてしまった。

 

 

 嫌な予感はあったのかもしれない。

 こうなるかもしれないという予兆を感じていたのかもしれない。

 だが、そうなるなと願っているだけで、

 考えることさえも拒絶していた。

 

 

 突然家に上がりこんできた元父親が、サバイバルナイフで母の首を切り裂いた。

 頚動脈に刻まれた傷口は、ニキビでも潰したように、ビュッ、と短い悲鳴を上げて、鮮血の噴水を巻き起こす。血は親父の全身を濡らして、床に弾けた雫は俺の足と目に付着した。

 俺の世界が赤く染まる。波紋のように、中心から広がっていった。

 ただひとりの訪問者によって。

 血肉をもらった、父親の手によって。

 

 俺は走った。いつもは鍵を素直に開けてくれない自転車も、主人の状況を察してか、カチャンと呆気なく従ってくれた。相手は徒歩。こっちは自転車。速度ではこちらのほうが有利だということは明白。親父が百メートルを八秒で走り抜けることの出来る、オリンピック選手もビックリな速さでなかったら。もちろんこれは仮定の話だ。

 適当に走り回って、神の助けだと思い込んでしまう建物を見つけた。交番だ。

 自転車ごと突っ込んで、叱りつけようとする警官に状況を説明する。本来なら子供のいたずらだとか思う警官も、俺の様子にただごとじゃないと察した。俺を交番の奥に隠し、同僚たちに呼びかけて町中を探索。もう大丈夫だよ、という言葉に俺は安堵した。

 …同時に、警官の喉仏から、銀色の刃が飛び出した。

 血は俺に返る。警官は目を見開いたまま倒れた。その背後で、親父が、俺を見下ろしていた。

「…あ……」

 アカが、蘇る。

 赤は危険を報せる色だ。野生動物の中には、毒々しい赤を以って、仲間たちに危険を報せるという。例えば、口内を剥いて肉を露出させたり、とか。人間にも?赤は危険だ?という野生的な認識が残っている。例えば信号機。赤は危険だという意識を利用して、対極にある青を安全な色に選ぶのは、ある意味で人間の知恵の賜物だ。

 今、視界にある赤は、信号なんて可愛いものじゃない。

 恐怖で足が竦む。動けという命令に従ってくれない。

 血走った目。垂れている涎。右目に「首を」、左目に「裂く」と書かれていた。

「や、やめろお!」

 …誰かの声。俺と親父のものではない。ほぼ同じタイミングで。

 バンッ!―― 映画でしか聞いたことの無い、音。気がつけば、親父の額には穴が開いていた。そこから血が垂れて、俺の服に付着する。前のめりになって、親父は倒れる。持っていたナイフは、乾いた音を立てて、交番の床に回った。

 目を凝らすと、煙を吐いているリボルバーの拳銃を手にした警官が立っていた。

 銃口から煙が。警官は、ぺたりと尻餅をついてしまった。手が震えている。目から涙が零れようとしている。それも当然か。初めて人を…否、人の形をした生物から命を奪ったのだ。

 倒れている親父と座り込んだ警官を前に、俺は複雑な感情を抱いていた。

 父を殺したことに対して怒りたいのか、助けてくれたことに感謝したいのか。結局何も言えず、俺と警官は、他の警官が来るまで、何も喋ることはできなかった。

 まるで、喉に栓でもつめていたかのように…

 

 ◆◆ ◆

 

 鳴海和広の両親は、駆け落ち婚であった。そのため、親族のほとんどとも連絡が取れず、彼の引き取り手はなかった。人格形成のためにある大切な時期を、そうそう棄てさせることはできない。…というのは人間の倫理観の問題であり、実際、教育機関は面目のことを優先に考えていた。

 一応連絡の取れる親族には話を通してみたが、全て「嫌です」、「迷惑です」、「あいつ等とは縁を切っているので」、「彼らの話をしないでください」といった、断りの返答だけがあった。かといって放置しておくわけにもいかず。

 鳴海和広は、隣の成東町にある孤児院、『希望の家』に預けられることになった。

 

 

 一九九七年。

 杉浦巴十歳。彼女はまだ引き取り手が見つかっていなかったため、旧姓でこの章は語る。

 彼女が十歳のときより、少し前に遡ろう。

 彼女は七歳の頃、借金の返済目的のために親に売られた。その後、近くの教会に引き取られたが、神父のストレス解消のためのサンドバックとなってしまう。だが、丁度礼拝に来た信者に現場を発見され、彼女は保護され、神父は逮捕された。

 杉浦巴は、最寄且つ彼女が通っている小学校に近い孤児院に預けられることになった。

「院長の高杉です」

 孤児院の院長室で、巴は高杉と対面した。

「この孤児院はね、巴ちゃんと同じような子たちが住居をともにしています。高校生…っていってもわからないか。十八歳以上になったときには、お仕事に就いてもらいます。厄介払いみたいな言い方で、ごめんなさいね」

 申し訳なさそうな高杉の表情。後十年も先のことを今謝られても困る。

 それから中を案内された。みんなと眠りをともにする部屋、食事をするところ、玄関、お手洗い、小さな子供たちとの接し方。心に深い傷を負っている子供たちとの触れ合い方。その頃の最年長は十六歳だった。

 巴が孤児院に入ってから半年後。暦では十になる月が数えられていた。同時に、秋を迎えるように、ひとりの少年が希望の家に入居することになる。

 その日、巴は、小学校の野球部の試合を眺めていた。

 なぜかといわれれば、…好きな人が、野球部に所属しているからとしか答えようがなかった。しかし学校の校庭では、サッカーや陸上など、他の部活に迷惑がかかるため、野球部は近くの広い公園を借りて練習を行っていた。

 二個上の先輩に憧れていた。どうしてそうなっているのかはわからない。

 学校の最上階…四階から、その公園をずっと見下ろしていた。部活が終わるまで、というわけにはいかず、戸締り担当の先生がやってくるまで。

 孤児院に帰ると、小さな子たちが、院長室の部屋の前でそわそわしていた。何か不安めいているような、わくわくしているような、そんな感じ。

 ずっと観察していても面白そうだったが、埒が明かないと踏み切った。

「ただいま、みんな。どうかしたの」

 様子の違う子供たちに尋ねてみる。

 一人が振り返り、

「今日、新しい人が入ってくるんだって」

 と教えてくれた。それでどんな人なのか見たいっていう、野次馬根性から来たというわけか。巴も気になるには気になるのだが、後の食事の席で紹介されるだろう、と思い、自室に引き篭もった。宿題のためだ。

 一時間くらい経って、ご飯だよー、という声が廊下から聞こえた。

 思考を切り替えて、宿題と一時の別れを惜しみながら、リビングへと歩いていく。…やはり、知らない少年が…自分よりも確実に年上の少年が、院長の隣の席に座っていた。俯いている彼の背後に、暗いカーテンが見えた。

「皆さん、今日から、また家族が増えます」

 皆の人数を確認し、いただきますという前に、院長が声を上げた。釣られた様に、少年も立つ。

「さ、自己紹介して」

「……はい。…鳴海和広です。十二歳…小学六年生。迷惑はできるだけかけません。よろしくお願いします」

 それが、巴と和広の出会いだった。

 最初は馴染めなかったようだが、和広はだんだんと孤児院の生活というものに慣れていった。辛い体験をした、と院長から聞いていたが、そんなことを微塵も感じさせぬ明るい性格だった。自然に、和広より若い先輩たちは、「兄」と呼び、親しくなっていった。

 巴と和広は同じ小学校だった。

「え、お兄ちゃん、田神先輩と同じクラスなの?」

 田神先輩とは、あの野球部の巴の憧れの先輩のことだ。日課である、夕食のときの学校での様子を話しているとき、和広の口から「田神君」という名前が出たので、食事を終えた後に尋ねてみた。

 兄は少し困った笑顔を見せながら、

「うん、そうだけど。巴ちゃん、田神君を知ってるの?」

 と逆に切り返された。

 顔に血液が集まるのが、なぜだかわかった。

「う、うん。ちょ、ちょっとね」

 友達が噂をしてたから、ちょっと気になったんだ―― そう、言っておいた。ふうん、と納得していた兄の顔は、理解できていないようだった。

 田神君と和広が知り合い、ということは、大きなプラスになる。

 いつの間にか、可愛らしい便箋が目の前にあって、いつの間にか、右手に鉛筆を握っていた。恋文(ラブレター)を書こう。そう思ったのだ。完成した文を、和広に渡して…田神先輩に渡してもらう。…すっごく恥ずかしいことだけど、せめて、好きだということだけを伝えておきたい。

 どんな文にしようかな、と。考える。

 そんなの、決まっているけれど。

 書こう。自分の気持ちを。素直に、相手に、田神先輩の心に届くように。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 案内された孤児院は、小さな幼稚園を連想させた。

 一般の家庭より広い庭。小さなジャングルジム、どこにでもあるようなブランコと滑り台、馬飛び代わりに地面に埋められているタイヤ、みんなで一生懸命育てました、といわんばかりに咲き誇っている花壇、みんなが競い合う鉄棒、駆けっこのためのグラウンド。…どこか、美しく見えた。

 赤の世界に比べると、どんなものも美しく見える。

 自分の頭がおかしいのだと、鳴海和広はよくわかっていた。美しく見えるものに対して、妬みを持つ自身が、憎かった。

 私服の警官に連れられて、清潔すぎる廊下を踏みしめる。自分よりも五歳くらい年下の子たちが、興味本位なのか、ドアの隙間から目をこちらに向けていた。だが和広は、手を振ってやるくらいの気力すら湧かなかった。

 命を救ってくれた警官は、その場で同僚たちに確保された。理由は、拳銃所持の無許可と、発砲無許可の両方らしい。こんな平和ボケした国では、拳銃というのは「持つ」というだけで、脅しのようなもの。発砲する気なんて、初めからない。発砲するためには、警視庁に連絡して、状況を説明してから所持と発砲、両方の許可を得なければならない。もちろん、下りない場合もある。所持の許可だけでも特例中の特例、と聞いた。

 一秒一秒が緊迫の現場にとって、なんとも呑気なことなんだろうか。しかしあの警官が呑気にも電話や無線で、現状を説明していたら…鳴海和広という人間は今、この廊下を歩いてはいない。

 結局、和広の中に残ったのは、肉親を殺したという恨みではなく、命を救ってくれたという感謝の念のみだった。その後、あの警官がどのようになったかは知らないが。

 目的地に着いていたようだった。和広君、と呼ばれて我に返る。

 院長室と表札を確認し、中に入る。…想像していたものとは違っていた。

 校長室のように、どこか堅苦しい世界が待っているのだと思っていたら、なんてことはない。自分の部屋を思い出した。机、椅子、箪笥、クローゼット…。一般的な家具ばかり。自室とは違うのは、真ん中にあるふたつのソファと、その狭間にある透明な、脚の短いテーブルだろうか。

 向こう側のソファに座っている初老の女性が、どうぞ、と反対側のソファを勧める。従って、警官と和広は、女性と向かい合って座った。

「早速ですみませんが、彼が、電話でお話した鳴海和広君です」

「お話は聞いています、院長の高杉淳子です。まあ、あなたが和広君?」

 顔を覗き込みながら尋ねる。背中から身体を引いて、肯定を唱えた。

「それじゃあ、早速ですけど、孤児院について説明します。今、ここには十人の孤児たちが生活をともにしています。十六歳がひとり、十歳がひとり、七歳が三人、五歳が五人。孤児院にいるとき、和広君には、七歳以下の子たちのお世話をしてもらいますが、それでもよろしいですか」

「……はい。そこら辺は、別に…」

 これから長らく世話になるのだ。それぐらいのことをしないと、恩なんて返せない。いや、したとしても、返すことなんてできないだろう。

「それから規則ですが」

 断りを入れてから、

「午後六時には絶対に家に帰って来ること。ああ、学校の部活や、高校生になってからのバイトとかがあれば話は別です。携帯電話の所持は、十七歳以上にならなければ認めません。夕食の時間には絶対にリビングに集まること。そのときに、その日、学校であったことなどを話してもらいます」

「…それだけ、ですか」

「はい、それだけです」

 もう少し厳しいところなのかと思っていたが、なんてことはない、今までの生活と同じだ。ただ違うのは、小さな子たちがいるというだけで。今まで友達との遊びに使っていた時間を、子供たちの世話に回せばいいだけのこと。

 午後六時に帰って来いというのは少々不満が残るが、仕方ないと割り切った。

 その後、いろんな説明と、孤児院にいる子たちのエピソードなどを聞き、今まで世話になった警官に別れを告げて、高杉は、和広を部屋に案内した。

 和広は、十六歳の少年と生活をともにするらしい。

 こんこん、と高杉がノックした後、はーい、というよく響いた声が届いた。

 高杉がドアノブに手を掛けて開く。

「英二君、勉強中のところごめんね」

「いえ、構いませんよー。……誰っすか、そいつ」

「今日からこの部屋に入ることになった、鳴海和広君よ」

 院長が目で、挨拶して、と指示する。四十五度に腰を折って、

「お世話になります、鳴海和広です」

 と言った。

 今まで勉強中だったらしい英二は、シャーペンを置き、椅子から立ち上がってこちらにやって来た。和広の頭をわしゃわしゃと撫でながら、

「おお、よろしくな。俺は新藤英二。ま、今この院内で最年長だ。何かあったら、俺に頼れよ」

「あ、は、はい」

「英二君は面倒見がよくて、みんなに頼られるお兄さんだからね」

 ニッコリと、紹介してくれた。

 後日、家にある荷物やら何やらは孤児院に届くらしい。高杉が出て行くのを見送ると、英二がふたつあるうちのひとつのベッドに腰掛ける。

「和広っつったっけ? 何歳だ?」

「今年で十二です。冬生まれですから」

「あー、敬語なんていいよ。これから家族になるんだし。ていっても、無理だと思うけどさ。あ、お前格ゲーとかできる?」

「まあ、友達と何回かやったことありますけど」

「んじゃ、やろうぜ。男って奴は、言葉で馴れ合うよりも、共通の特技で競い合ったほうが、深く馴れ合うことができる種族だからよ」

 といって、備え付けのテレビにコードを刺していく英二。和広もそれを手伝う。ゲーム機は、CDソフトを入れるタイプのものだった。

 周辺機器の取り付けを完了し、ソフトを入れて電源オン。幸い、和広もプレイしたことがあるゲームだった。まさかこんなところで、最初に体験することがゲームだなんて。…将来の笑い話候補のひとつだ。

 空っぽの器に、蜜が垂れた。

 

 結局、何十分ゲームに熱中しただろうか。ご飯だよー、という声に気づくまで、もしかしたら、ずっとやっていたかもしれない。それぐらい、英二との対戦は楽しかった。食堂に行く途中、キャラクターの特性、使い方、効率のコンボの決め方など、熱の冷めないふたりは教え合う。すっかり仲の良い兄弟といった感じだ。席が別なので、一時別れる。

 食堂に着いたとき、高杉は安堵の笑みを洩らした。

 小さな子たちがぞろぞろと入ってくる。みんな笑顔だった。

 ……この子たちは、光っている。赤の世界を見たことが無い子たちばかりなんだろうか、と不意に思ってしまった。きっと、この中で赤に染まった視界になったことがあるのは自分だけで、この子たちは、こういってはなんだが、『普通』の理由で預けられた…否、捨てられたんじゃないだろうか。

 虐待、育児放棄、借金、親が殺害される。―― 行き場を失くした子供たちが孤児院に預けられる理由といえば、和広にとってはこれぐらいだった。自分のように、実の父親が母親を殺して現状に至るのは、あまりない、と思う。『親が殺される』という意味では普通の域に入ると思うが。

 何となく、親近感が湧かなかった。

 最後に、十歳ぐらいの女の子が席についてから、高杉が立ち上がった。

「皆さん、今日から、また家族が増えますよ」

 嬉しそうな高杉の声。

「さ、自己紹介して」

 耳元で囁いた。遅れながら、はい、と返事をして、立ち上がる。

 みなの視線が降りかかるのがわかった。緊張を和らげるように、気づかれないように小さな深呼吸。

「…鳴海和広です。十二歳…小学六年生。迷惑はできるだけかけません。よろしくお願いします」

 とりあえずな自己紹介を終えた後、拍手が巻き起こる。こういうことに慣れていない和広は、思わず顔を赤らめた。

 夕食を終えて、各々の自己紹介が始まった。英二はもう家族感覚なのでそんなことはしない。

「杉浦巴です」

 女の子だった。十歳ぐらいか。

「よろしくお願いしますね」

 はにかんだ笑顔が、可愛かった。

 十二歳鳴海和広。可愛い女の子に心を揺れ動かされるお年頃。恋という奴ではないが、確かにときめきという奴は胸に過ぎった。

 翌日からの新しい小学校での生活も、上手くいっているといえば上手くいっていた。

 人見知りする気性でも、慣れてしまえばどうということはない。

「おっはよー」

 上ずりながら、もう慣れた教室に入る。

「おーす、カズ」

 同級生――田神史明が一番に反応する。史明には四歳年下の弟がいて、兄弟そろって野球部に所属しているらしい。

「フミ、今日、どこで野球する?」

「なんだよ、もうその話か。今日は部活ねえから、公園使えるぜ」

 ランドセルを自分の机に置いた後、史明の席に近づく。周りには、ほかの友人がいた。史明は、クラスのリーダー的存在だった。

「今日も野球するのか、フミ、カズ。お前ら、ホンットーに野球好きだよな」

 少しぐらいサッカーでもやろうぜー、と文句が上がった。

 自分でもなぜか野球が好きなのかよくわからない。でもまあ、好きなものは好きなんだ。この一言だけに集約される。しかし、いつも野球ばかりなのもアレなので、今回は譲ることにした。

 放課後。やはりサッカーをして孤児院に戻ると、膨れている巴を見かけた。

「どうしたの、巴ちゃん」

「……遊ぶ約束、どうして守ってくれなかったの?」

「…あ」

 そういえば今日、朝学校に一緒に行くとき(同じ学校に通っているので、通学路も一緒)、約束をしていたんだっけか。学校についた途端、みんなと野球だ、サッカーだと盛り上がってすっかり忘れていた。

 言い訳も考えたが、ここは素直に謝っておく。

「…もう、絶対に破っちゃだめだからね」

「………はい」

 低腰になって、自室に戻る。英二の姿は見当たらなかった。今日はバイトだとか言っていた。英二はバイトで稼いだお金の七割を、高杉院長に渡している。直接ではない。直接渡したら、人の良い高杉院長のことだ。きっと、受け取れないわ、と言って返すだろう。だから、「長足おじさん」名義で、寄付金として銀行に振り込んでいるらしい。

 今日も英二と遊ぼうと思っていたのだが、いないために時間を持てましてしまう。が、小さな子たちが、巴と一緒になって、遊ぼう、とやって来たので、相手をしてやる。

 この頃からだろうか。巴が、和広を「兄」と呼び始めたのは。

「うぃーっす、たっだいまー」

 夕食を終えた午後九時半になって、やっと英二が帰って来た。

 巴と遊んでいる和広を見て、ニヤニヤと口を歪ませる。

「なんだよ、カズ坊。お前、いつの間に巴を口説いたんだ?」

「く、口説いたって…! そんなはずないだろ!」

 ムキになって反論するが、兄貴分は、はっはっは、と笑ってくしゃくしゃに頭を撫でた

 壁に架かっている時計を見て、

「おい、お前ら、そろそろ十時になっちゃうぞ。今日はこれで終わりだ」

「はーい。カズ兄、また遊んでねー」

「…お兄ちゃん、また明日ね」

 小さな子たちが出て行ったのを見送ると、最後に巴がそんなこと言って、和広と英二の部屋を後にした。

「なんだ、最後の巴のお兄ちゃんて。アレか、妹プレイか?」

「ぷ、プレイって…」

 やはりお年頃な少年。学校の帰り道、史明たちと道端に落ちているアダルトな雑誌を、興奮しながら読んでしまう。そのため、そういう類のことは知識だけで知っていた。思わず想像してしまい、顔を真っ赤に染める。

 おやすみ、と乱暴に怒鳴って、和広はベッドに飛び込んだ。

 翌日になって、巴から一通の手紙を渡された。田神先輩に渡してね、という言葉とともに。ああ、そうか、これはラブレターという奴かと納得した。中身が気になったが、流石に妹の思いを踏み躙る行為はできなかった。ポケットに入れて、朝にでも渡してやろう、と考える。それにしても、いつの間に史明のことを好きになったんだろう。気になるといえば気になるが、人の心の移り変わりを気にするなんて、風にどこへ行くんですかと尋ねているようなものだ。一秒一秒で何が起こるかわからないのだから。

 教室に入って、やはり駄弁っている史明に、妹からだよ、と言って手紙を渡す。おー、と周りのクラスメイトが囃し立てた。

「ちょっ、カズ、お前に妹なんていたのかよ」

「うん…? 妹とはちょっと違うかな。その、……孤児院で、ね」

「…あ、悪い。…で、その子の名前は?」

「書いてあると思うけど…。杉浦巴っていうんだ。四年生だよ」

 一応教えておく。ふーん、と興味なさげだが、少々顔を赤らめている。いつ読むんだー、と野次馬根性丸出しの友人らが取り囲む。てめえらの前じゃ読まねえよ! と、史明は怒鳴り込んだ。

 昼休み、いつもなら外でボール遊びに勤しむのだが、史明はトイレに行く、と言って、来ることは無かった。きっと、手紙を読むためだろう。

 後は、繰り返し。ちょっとした諍いや喧嘩もあったけれど、確かに鳴海和広は、充実した生活を楽しもうとしていた。日常から非日常。そして、また日常。母親を殺された夢は、当初こそ見ていたが、霧が晴れるようにそれはなくなっていった。

 

 ――― 赤ノ世界モ、忘レカケテイタ ―――

 

 少年の心に残った、深紅の世界。

 少年は忘れようとしていた。友と過ごす、色鮮やかな世界を見つめることで。

 だけど、それは突然やってくる。

 

 二千年。中学三年生の秋。高校を卒業した英二は、就職先の近くのアパートに引越していった。零芯町ではない、まったく別のところだ。自然と、英二と過ごした部屋は、和広の一人部屋となった。

 ガランとした部屋は、少し寂し……くはなかった。隣の部屋から、何か年下の子たちが喧嘩をしている音が聞こえる。またか、と呆れながらも、仲裁のために自室を後にした。

 …もう、巴は居ない。喜多村という若夫婦に引き取られた。夫婦の間には子供ができず、落ち込んでいたところに、担当医がアドバイスを出したらしい。それで、ここに来て、しっかりとしている巴を引き取った。ただ、それだけのよくあることだ。和広が学校に残って受験勉強をしている間に起きたこと。引き取ると夫婦が言ってから三日後に、巴は孤児院からいなくなった。今でも、ときどき遊びに来るときがある。学校も同じだから、会うときがたまにある。通学路が違うだけだ。

 そういえば、とふと思い出した。三年前のことだ。史明との仲はどうなったんだろうか。自分が干渉したのは、手紙を渡したあのときだけだ。史明とは今も同じクラスだ。明日訊いてみよう。

 喧嘩している九歳どもを沈めると、和広は、零芯高等学校へ行くために勉強を再開した。

 …やはり、静かな夜。聞こえるのは、ノートを走るシャーペンと、時折ワークブックを捲る音だけ。もうひとついうのであれば、自分の呼吸の音だけだろうか。

「…ダメだな」

 ふう、と溜息をつく。額に手を当てて、前髪をまくった。

 どうも、余裕がない。

(…英二の奴……。ゲーム機とかほとんど持ってったからな…。…まあ、英二が買った奴だから文句は言えないんだけど…。室内で暇も潰せない…)

 かといって、本を読むキライでもない。というか、アレはダメだ。三秒で眠れる自信がある。何か休憩ついでに時間を潰せるものもないだろうか。

 …ない。英二と駄弁って、巴をからかって作られてきた時間は、今は無い。

 英二は自分がここに入ってきたとき、家族と言っていた。だけど何れは別れなければならない。そのことは覚悟していたはずだ。

 少し、躁鬱になる。

 自分もいつか、ここを出る日があるんだろうか。

「………あ」

 机の上に手を置いた瞬間、痛みが走った。コンパスの露出していた針が、指に突き刺さったらしい。消毒と絆創膏を取りに立ち上がる。もう一度指の傷を確認する。

 赤。血液が、だらだらと、指を伝って掌を流れる。痕跡は、ナメクジの這った跡を連想させた。

「………」

 深紅、カーマイン、薔薇色、暗い朱。これら全てに共通すること。それは、「赤」いこと。薔薇というのはもしかしたら、棘があることを自ら主張しているのかもしれない。

 だって、花弁は、危険を示す(赤い)色なのだから。

 よく詩とかで、血を花に喩えるわけが、わかったような気がする。

「…何を考えてるんだ、俺は」

 柄じゃない。こんなことを考えるのは。俺なんかじゃ、絶対にない。俺の中にあるまったく別の生物のせいだろうと結論付け、傷を治すためにリビングへ。

 消毒をした後に絆創膏を貼ってオシマイ。唾でもつけておけば治るとは思っているものの、筆記具を握るたびに痛いのは勘弁だ。臭いものには蓋をしろ。傷口は覆っておけ、というわけだ。

「ね、カズにーちゃん」

 下から声。首を下げると、そこには七歳程度の男の子。

「ん、どーした?」

「エージにーちゃんと、トモエねーちゃんはどこ行っちゃったの?」

「…英二はともかく、巴はときどき遊びに来てくれるだろう?」

「どうして家にいないの?」

「………」

「ね、どうして?」

 首を傾げながら尋ねる七歳児。急に (和広は事情を知っているからともかく)、いつも生活をともにしている人がいなくなれば、戸惑うし、寂しいだろう。その気持ちは、充分にわかる。わかるからこそ、答えが見つからない。

 今まで身近に居た人たちがいなくなる。

 寂しさが伝染したのか、脳が重くなった。

「カズにーちゃん?」

「……ゴメン、ちょっと気持ち悪いんだ。トイレに行ってくる」

「うん」

 素直に言うことを聞いてくれた。

 …情けなかった。あんな質問に答えられない自分が。情けなくて、情けなくて、トイレの中で声を殺して泣いていた。英二と巴との思い出を思い返して。情けなるほど、彼は泣いていた。

 小さな子のふとした疑問が、傷口に塩を塗った。別にどうということはないと思いつつも、…彼の心は、寂しさでいっぱいだった。やっと今、自分の気持ちを整理できたんだと思う。本当に別れを覚悟していたなら、本当に別れを耐えることができていたのなら、あの質問に答えることができたからだ。

 十五歳になって、初めて泣いた。

「………」

 やっと落ち着いて、ふぅと溜息。

「………もう、大丈夫だ」

 寂しげに呟いて、トイレを後にする。頭に溜まっていた涙は全部流れた。補充が利くまで、きっと泣くことはない。

 どこか、清々しい気持ちだった。

 その日の勉強は、とてもよく進んだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

「ゴメン」

 時はまた戻って、一九九七年。

 手紙に記したように、放課後、田神史明は、体育館裏に来た。君が杉浦さんだよね、と訊かれて、頷く。そしたら、頭を下げられた。

「……え…」

「………あの、本当に、ゴメン。俺さ、…なんていうか、今は部活のことだけで精一杯っていうか…。言いにくいんだけど、年下は、その、タイプじゃないんだ」

「……」

「い、いや、そんな悲しそうな顔…するなっていうほうが、無理か。…俺はさ、なんていうか、ひとつのことに集中してたら、他のことに頭が回らねえ奴なんだ。だからきっと、俺なんかと付き合ったら、君は、一生後悔すると思う。…ぶっちゃけていえば、俺、そういうの、面倒って思ってるからさ。あ、将来的には…わからないけど」

「……あ、ありがとう、ございました」

 涙が出そうになる。顔を顰めて必死に耐える。緊張のために握っていた拳が震えていた。

「…うん。…ゴメンな」

「…そ、それじゃあ」

 ふたりは別れる。黄昏を背に。

 

 初恋は、失敗だった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 繰り返す日常。繰り返す日々。繰り返しとは法則。繰り返しとは螺旋。

 その繰り返しの中には、多くの矛盾がある。「矛盾がある」というそのものこそが螺旋だが。だが時に、螺旋は大きな矛盾を生み出す。

 二〇〇三年。鳴海和広、十七歳の春。

 高校受験に見事成功し、零芯高等学校の生徒となった。一年、二年と過ごし、今年から大学受験のための年に入る。…普通の生徒ならば。和広は孤児院。孤児院の規則に、「十八歳以上になったら必ず就職すること」というものがある。再び史明とは同じクラスになり、妹分の巴も今年入学。

 結局、中学の頃とあまり生活が変わりそうになかった。

 …そう、あのときまでは。

 三年生の教室は、一階と二階にある。理系が二階、一階が文系だ。和広は理系に進んだため、文系の生徒よりも一階余計に歩かなければならない。

 新しいクラスメイトというものにも、クラスの雰囲気というものにも慣れていた。

 ただ、少し気になるな、と思うところがある。それは、クラスに誰もひとりものがいないということだ。一年にも二年にも、そんな生徒がひとりはいた。それはそれで嫌な光景ではあるのだが、クラスという枠組みの中では、絶対にひとりぐらいは逸れ者がいるはずなのだ。なのに、いない。だがまあ、そんなことは不謹慎かと苦笑いしながら、教室の入り口である扉を開く。

 空気が、固まった。

 頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。なぜか、先に来ていたクラスメイトたちは、自分に注目していた。

 不審に思いながらも、自分の席に鞄を置――こうとしたとき、和広も固まった。

 赤。アカ。紅。

 机は、赤く染まっていた。正しくは染まっていたわけではない。文字が書かれていたのだ。油性マジックかスプレーのようなもので、乱暴に。

『人殺しの息子』 ―――と。

 

 ヨミガエル。

 赤ノ世界ガ、ヨミガエル。

 血走ッタ、父ノ形相ガ、頭ヲ支配スル。

 

 心臓が大きくなった。嫌な汗が、毛穴という毛穴から湧き出る。

 胃も汗を掻いているようで、気持ち悪かった。

 

「…あっ……」

 目眩、立ちくらみ、貧血。三つの症状が身体を支配して、足から力が抜けた。ひょろひょろとした足は、自然と和広を床に導く。床に手をついて転倒した。

 手と膝が地に着いていて、四つん這いの格好だった。

 身体が冷めているのに熱い。心臓の高鳴りがいつもの三倍は早く感じる。

 胃から這い上がる生暖かい何か。ヤバイと思って右手を床から放して口を抑えるも、間に合わなかった。

「おえっ―――……!」

 吐いた。胃の中のものを、朝、飲み込んだ消化し掛けたものを、教室の真ん中で、彼は嘔吐した。

 きゃあああ! という甲高い悲鳴。いつもはのんびりしている担任も、悲鳴を聞いて教室に飛び込んできた。おい、どうした鳴海! という野太い声。

 

 …ああ、来るのが遅いよ、先生。

 

 …みんなに俺が、人殺しの息子だって、知られちゃったじゃないか…。

 

 高橋は和広を解放する。その瞬間に、和広の机に書かれているものに気づいた。

 その後、怒り狂った目で顔を上げて、

「誰だ! 鳴海の机にこんなことを書いた奴は!」

 お前か、お前かと、目に見えるもの全てが和広にとっての敵に見えるようだった。

 声は聞こえるが、視界はハッキリしない。ペンかスプレーの赤に塗りつぶされたのか、和広の視界は赤に染まりきっていた。胃の中のものを吐いたのかも知れない。

 ダメだ、すごく、眠い。

 さっきまでしっかりと開いていたはずの目は、ゆっくりと落ちた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

「………」

 目を覚ますと、純白という二文字が頭に浮かんだ。それぐらい、病室は神聖なものだった。

「…病室?」

 どうしてそんなことを思ったのかはわからない。上体を上げると、自分が寝台の上に横たわっていることに気づく。カーテンが締め切られていることから、おそらく夜だと結論付けた。問題は、自分の格好。どう見ても、入院患者の服にしか見えない。

 頭が痛い。気持ちが悪い。喉が渇く。

 寝台の横には、何か長い棒があり、その上に透明な液体の入った透明なビニル袋が飾ってあった。右腕の手首より少し上の部分に、半透明の管が刺し込んである。管を辿ると、透明な液体の入ったビニル袋に到達した。

 点滴だとすぐにわかった。

「……どうしてこんなとこにいるんだ、俺」

 声が震えているのがわかった。

 何があったのだろうと思い返す。

 いつも通りに朝食を食べて、いつも通りに孤児院のみんなに送られながら学校へ行って、いつも通りに……。…そこから先は、なぜか赤しか残っていなかった。一面の赤、赤、赤。血の色のような、赤。

 気持ちが悪い。思い出せないことがこんなに気持ち悪いことだとは思わなかった。

「……くっ…そ…」

 何もしていないのに、息が上がる。

 身体中の力が何かに吸い取られたようだった。

「お、気が付いたようだな」

 病室の扉が開く。奥にはやはり、清潔すぎる廊下の姿が見えた。入ってきたのは、医者と高橋教諭と高杉院長だった。事故にでもあったのだろうか? ではなかったら、高橋と高杉のふたりが同時にいる説明がつかない。

「鳴海、痛いところはないか。腹の具合は?」

 心配そうに高橋が懸命に声を掛けてきた。

「い、いえ。痛くはないですけど、ちょっと、気持ち悪いというか、身体に力が入らないというか…。先生、俺、どうしたんですか。学校の下駄箱で、上履きと靴を取り替えた後の記憶がないんですけど」

「……先生、これは」

 先生は医者に尋ねる。

「おそらく、精神的なショックで、意識を失う直前の記憶を失ったようですな」

 白衣を纏った男は、高橋を真っ直ぐ見て答えた。

 

 高橋教諭は、渋柿でも食ってしまったような表情で、和広に経緯を説明した。

 確かに和広は、いつも通り登校してきた。教室に入って、鞄を机の上に置こうとしたときに、あるものを見てしまったらしい。精神的外傷(トラウマ)に、それは深く塗りこまれた毒。瘡蓋(かさぶた)が剥がれ落ちてしまった。

 赤い油性スプレーで、「人殺しの息子」と書かれていたという。

 

「…鳴海、俺は、お前の過去のことはよくわからない。…教えてくれ。辛いことになるんだったら……」

 どうしてこんなことになったのか話してくれ、と。言いたかったのか。その前に。

「…いえ、話します。…四年間、誰にも、警察と院長先生以外、誰にも話していません」

 

 孤児院に預けられることになった経緯を話す。両親が離婚したこと。その後、何のためか、父親がサバイバルナイフを持って、母を殺したこと。何とか逃げて、交番まで急いだが、父が追いかけてきたこと。その父も、警察が発砲して絶命したこと。それから、血を、赤いものを見ると頭がイカれてしまうこと。

 赤いものを見ること自体は、頭痛が出る程度ですぐに慣れた。今回もその程度で終わるはずだったのだが、「人殺しの息子」という言葉が、父親の死に間際の顔を連想させた。トラウマはトラウマを呼ぶ。結果、過去のことを抉られた和広は、嘔吐し、意識不明の状態に陥った。

「…鳴海……」

「……すみません、こんなことで倒れちゃって。俺、…弱くて、すみません」

 崩れ落ちそうになる肩。誰かが支えてくれた。

 ふと左を見ると、頼もしい、いつもは暑苦しく感じる高橋教諭の真剣な眼差しがあった。

「…頑張ったな。ひとりで、そんな辛いもん抱えて。…話してくれて、ありがとうな、鳴海」

 笑顔で、言ってくれた。

「………あ…」

 いろんなものが決壊した。脳を縛り付けていた赤い鎖が、見る見る解けていく。

 自然と、涙が零れていた。今まで自分を追い詰めていた何かが、誰かの手によって消滅した。灰色の世界に、やっと光が射し込んだ。

 少年は今一度泣いた。五年前の自分と、父と、母を想って――

「………ありがとうごうざいます、先生」

「…先生、鳴海は、どのくらい入院すれば…?」

「身体の様子を見た感じでは、虚脱状態にあると思われます。三日から五日、入院してくだされば…」

「そうですか。…鳴海、クラスの奴等は、お前が人殺しの息子だからって理由で、差別なんかはしないさ。お前には、田神もいるんだし、妹分の喜多村もいるんだぞ。わかるな。…それじゃあ、俺は家にカミさん待たせてるんでな、ここは帰らせてもらうぞ」

「…はい。本当に、ありがとうございました」

「おお」

 それだけ。それだけ告げて、高橋教諭は、病院を後にした。

 良い先生ね。高杉院長が柔らかい笑みで和広を見つめる。はい、と頷いた。

 

 ――― 四日後。和広は、暇潰しがてらに病院のロビーの椅子に座って、新聞を読んでいた。その端に、目を張ることが書かれていた。

 

『都立零芯高等学校に勤務する、男性教諭死亡。

 男性教諭(以下、高橋教諭)は、二日前の×月××日、居酒屋で酒を飲んでいた。目撃者によると、その居酒屋で、常連客同士の喧嘩が始まったようだ。高橋教諭は喧嘩を仲裁するために割って出たが、逆上した常連客のひとりが、ビール瓶で頭を強く殴りつけたとのこと。頭から血を流して倒れた高橋教諭は、脳内出血と出血多量で、病院に着く間の救急車の中で、息を引き取った』

 

 目の前が真っ暗になるということを、和広は初めて体験した。

 

 …嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

 嘘だ………………―――っっ!!

 

「こんなの、嘘だ…!」

 小さく怒鳴りながら、新聞を破り捨てる。破片は全て、空気の中で舞い踊り、落ちた。

 射し込んだ光はまた、閉じてしまった。

 誰を憎めばいいのか、誰を信じればいいのか、誰を求めればいいのか。いろんなことが重なりすぎて、和広の心は罅割れていた。やっと信じられるものを手に入れたと思っていたのに。結局、全部砂となって、指の隙間を落ちていく。

 冷たい風が、和広の心の中で吹いた。

 

 アノ人ナラ、器ニ赤クナイモノヲ、注イデクレルト思ッタノニ…。

 

 

 それから一週間。三日から五日で退院できるはずが、十日近くも経って、やっと和広は学校に復帰した。史明たちと顔を合わせれば、いつもの自分に戻れる。そう、信じて。

 だが、それは最悪の結末のスタートラインを切ったこととほぼ同じことだった。

 

 ふらふらとした足取りで、下駄箱を開ける。上履きを取り出そう手を突っ込むと、何かが腕をはいずりあがってきた。気持ちが悪くて、すぐに腕を振り払う。びたん、と小さな音を立てて、床にそれは叩きつけられた。

 …油ぎった黒光りする身体、頭に生えている触角、細かく毛の生えた六本の足。

「……っっ」

 外へ走り去っていくゴキブリを睨む。和広の心臓が、波打っていた。

 …大丈夫。別にこれぐらいなんてことはない。運悪く下駄箱にゴキブリが入っていただけじゃないか。自分に言い聞かせて上履きを落とす。足を踏み入れようとしたが、思わずその足を引いた。

 上履きの中に、何十匹もの蟲が這いずり回っていた。

「…! なっ…んだ…これ…」

 ゴキブリだけではない。いかにも毒を持っていそうな蜘蛛。鋭い牙を見せ付けるムカデ。気持ちの悪い足を盛んに動かしているゲジゲジ。全てが、蠢いている。

 これじゃあ上履きは使えない。できるだけ蟲がつかないように指先で抓んで持ち、校庭の端に投げ捨てる。上履きが無いと言って、事務室でスリッパを借り、教室へ急ぐ。

 なんでこんな、退院してから初日で、笑えない冗談が始まるんだ。

 教室に入る。注がれる視線。痛いけど、我慢できる、はず。席につこうとして黒板が視界に入れたとき、また、教室の真ん中で吐きそうになった。赤いチョークで、大きく、

 

『このクラスは人殺しの息子に占拠されました』

 

 と、書かれていた。チョークの赤は、別に血の色に似ているわけではないので、和広は吐きそうになっただけでそれ以上のことはなかった。悔しさに拳を握り締めながら、自分の席へ移動しようとする。

 ……なかった。机が、椅子が。

「………え…?」

 席替えでも行ったのだろうか。だが、一ヶ月に一回行われる席替え。和広の記憶では、前回の席替えは二週間前。つまり、入院する三日前ほど前に行われたということになる。それ以前に、和広の席は廊下から三列目の四番目。教室の真ん中。だから、そこの席だけがないということは、ありえない。

 鞄を置いて、廊下へ突き進む。特別教室がある南棟へ行き、多目的室かどこかから、机と椅子を運んでくればいい。

 階段の上り下りを苦労しながら、机と椅子の一式を運び終える。と、今までなかったものがあった。かわりに、あったものがなくなっていた。鞄だ。

「………」

 唇が震える。運んできた机と椅子を廊下に置く。と、そこに、丁度副担任がやって来た。

「鳴海君、今日から学校復帰ね」

 笑顔で肩を叩いてくる。…俺の苦労なんて、知らないくせに。

「あら、その机と椅子はどうしたの?」

「……なんでもありません。多目的室に返してきます。少しホームルームに遅れるかもしれません」

 告げて、南棟に引き返す。多目的室に机を置き、教室に帰る。今回は、机と椅子の両方はちゃんと存在していた。遅れてすみませんと短く言って、席につく。まだ机の表面に、「人殺し」の消えた跡が残っていた。

 そんなことよりも、鞄だ。鞄の中には、財布や携帯電話といった貴重品がある。史明に言って、一緒に探してもらおう。

 朝のホームルームは、無情に過ぎていく。

「史明、少し、手伝ってくれないか」

 友人たちと駄弁っている史明に話しかける。

「どうした、和広」

「ちょっと、教室に鞄置いてたら、いつの間にか…無くなってて…。悪いけど、一緒に探してくれないか」

「わかった。みんな、和広の鞄知らないか?」

 振り返って今まで話していた友人らに声を掛ける。知らないなあ、という声がほとんどだった。そうか、と史明は言って、和広と並ぶ。

「行こうぜ、和広。なーに、二時間ぐらい授業サボっても、大丈夫だって」

「…ありがとう、史明」

 ああ、やっぱりこいつは親友だ。

 和広と史明は、学校中を探す。だがどこにも見つからない。学校外を探すのはどうだ、と史明が提案する。和広は首を横に振った。

 流石にこれ以上、史明に迷惑を掛けることはできない。

「ったく、犯人はお前にどんな恨みを持ってんだろう、なあ?」

 下駄箱の前で、そんなことを史明は零した。

 …俺に対する恨みなんて持っていない。もちろん、親父に対する恨みなんてものすら持っていないだろう。ただ、俺が、『人殺しの息子』だから。ただそれだけで、面白半分に、顔も知らない連中は嫌がらせをしているだけだ。

「…もういいよ、史明」

「ばっか、よくねーよ。今日は一日中、お前に付き合ってやるよ」

 

 だけど結局、鞄は見つからなかった。

 帰りのホームルームで、ひとりの女子が、和広にあるものを渡した。女子便所の中に放置されてあったらしい。

 鞄だった。

 中は荒らされていて、教科書なんかは、カッターでズタズタにされていた。財布の中の金も全て盗られていた。そろそろ巴の誕生日が近いから、買ってやろう、そう思って溜め込んでいた金だったのに。

 今年はプレゼントやれないか…。諦めて溜息をつくしかなかった。

 その翌日。本当の地獄はここから始まった。

 特に用もなく(史明は野球部がある)、気ままに帰ろうと、下駄箱を開けた。ひらり、と中から、外側に浮く風のせいで封筒が一枚、落ちた。なんで封筒が下駄箱の中にあったのか検討も着かず、「鳴海和広へ」と書かれていたので封を切って中身を取り出す。二枚ほど手応えがあった。

 一枚は、薄い紙。もう一枚は、それなりに厚くて硬い紙。前者は手紙。後者は写真だった。最初に目に付くのは、嫌でも写真。

 巴だった。いや、巴の写真ぐらい別にどうってことはない。若さゆえに道を外れた男子が、隠し撮りしてしまったものかもしれないし。友人にも、「巴ちゃんって可愛いよな」と、軽く零す輩もいたし、妹が好意をもたれることは良いことだと、兄心に複雑を抱きながら、今まで納得してきていた。

 ただ問題は、巴がどのようにして写っているか。

 頭が真っ白になった。写真の巴を見て。目が丸くなった。

 ――巴は裸だった。恥ずかしそうに俯いて、制服をはだけ、下着の無いスカートの中身を丸見えにしていた。おそらく場所は、体育館倉庫だろう。マットの上で、壁に寄りかかっている巴の姿。

 ミシッ。自分の握力で、自分の手の骨が軋んだ。

 何も考えられなかった。もうひとつ。手紙にはこう書かれていた。

『零芯工業地帯の××工場に来い』。

 …何も考えられなかった。怒っているのに怒りと感じられない。力任せに巴の写真を、手紙ごとクシャクシャに丸めて、校庭のどこかに投げ捨てた。自分自身を見失っていた。夢遊病患者の足取りで、和広は歩く。バスに乗って三十分。歩いて二十分の場所に、それはある。

 ××工場といえば、もう使われなくなっていて、お化け工場とか、変な噂の立っていた場所だ。一度も行ったことがない。お化け工場の他にひとつ、愚連隊の溜まり場とも言われていたからだ。

 だとしたら。こんなことをしたのは。巴をあんな目に遭わせたのは………!

 殴り合いになることは、最早目に見えていた。負けるのは当たり前だった。だが、逃げるわけにはいかない。妹ひとりも助けられないで、何が兄か。

 工業地帯を抜け、目的地につく。バイクやら車が何台か停まっていた。…逃げるわけにはいかない。怯みかけた足を叩きなおして、和広はついにその門をくぐった。

 薄暗い工場の中。埃っぽい臭い。口を抑えて耐える。

「…おっ、来た来た。オタクがな……なんて読むんだ、これ?」

「知らねーよ」

 予想通りのガラの悪い男たちが、和広の名前が書いてあるのか、紙を手回ししている。

「…巴は…」

「ん?」

「巴はどこだ」

「巴? ……ああ、あの写真の女の子ね。いや、アレは知らないよ。ただ、俺の後輩が、人殺しの息子が学校にいるから助けてくれって、これ使えば出てくるって、渡してきた奴だからさ。俺らってさ、零芯の自治体組織みたいなもんなのよ。ほら、カエルの子はカエルってね。悪の芽は摘もうって訳」

「………っ」

 舌打ちし、引き返す。ここに巴はいない。だったら、いつまでもここにいるわけにはいかない。

「おいおい、ちょっと待てよ」

 ひとりが先回りして、和広の進路を塞いだ。

 歯軋りをしながら、睨む。

「おー、怖い怖い」

 まったくそんな風に思っていないことは、明白だった。抜かして行こうとするが、男はしつこく和広の前に立つ。

「…どけ」

 自分でも、こんな低い声が出せるのかと、冷静な頭が驚いていた。

「ははっ、そんな声も出せるんだ。…ほんと……怖い…ねっ!」

 ベキッ。何かが壊れた音。腹だということに、和広は瞬時に気づいた。腹に重いものが体当たりしたのだ。腹を抑えながら、両膝を血に着いて倒れこむ。胃の中にあったものがひっくり返そうになったが、すぐに喉の奥に押し込める。

 どうして…なんで、こんなことになってるんだ……?

 前髪をつかまれ、首が強制的に上がる。

「……っっ」

 痛みに唇が歪む。

「そうそう、そういう顔ぐらいしようぜ。少しは可愛いから…よお!」

 心臓の右付近を思い切り蹴り飛ばされる。吹き飛んだ和広は、ケラケラと笑う他の男たちの前でその勢いを止めた。

 咳き込みながら立ち上がろうとする。が、背中を硬いもので叩きつけられた。冷たかった。鉄パイプだと気づくのに時間はかからない。あがった腹は、再び金属の床についた。

「かっ……」

 痛い。痛い。背中が痛い。背骨が痛い。身体のパーツの全部が痛い。

 飛び交う怒声。殴打と蹴りの襲撃。和広はされるがまま。

 背中に受けた痛みは、蓄積すればするほど内蔵に衝撃を与える。衝撃を与えられた内臓の機能はだんだんとおかしくなり、血液の循環も遅くなる。

 

 どうしてこんなことになったんだろう?

 誰が何のためにこんなことをしたんだろう?

 俺はこんなにも弱かったんだろうか?

 

 誰が悪くて、誰が味方で、誰が敵なのか。少年の心は色褪せていく。感情の色に染まっていた七色の心は、だんだんと灰色と化していく。

 だがそれは感情の死ではない。この過酷な痛みと環境に耐えるために、身体が防衛手段として何も考えないようにしているだけだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 和広が××工場に呼び出される前日。

 史明は史明で独自に、和広に対して嫌がらせの類をする生徒を探していた。クラスメイト、他のクラスの人間、教師、果ては事務室に勤務する人、校内を定期的に清掃しているおばさんなど、目撃者を探す。

 だが誰も、見ていない、知らない、わからないと口を揃えた。

 和広とは、もう何年間もの付き合いだ。身体の一部といってもいいぐらい、顔を合わせるのが当たり前のことになっていた。

 コンピュータ室の前を通りかかったときだ。なにやらガラの悪い生徒が、コンピュータ部の部員にこそこそと命令していた。実際には脅迫だろう。いつもなら止めに入っただろうが。それどころではない史明は、頭が回らなかった。

 その翌日も、同じように、何度も何度も同じ人に聞き返す。しかし返答は同じ。洗脳されているんじゃないかと疑ったほどだ。

 なら別の奴に訊けばいい、と部活を適当な言い訳で抜ける。と、視界の端に丸まったものが映った。なんだこれ、と興味本位で開いてみる。

 頭が真っ白になった。

 五年前、自分に告白してきた女の子が、俯きながら裸になっている写真ではないか。と、写真のほかにも丸まっていることに気づく。開く。封筒と手紙。封筒には、「鳴海和広へ」。手紙には、「零芯工業地帯の××工場に来い」と乱暴な文字で書かれていた。

 どうしてこんなものが、こんなところに転がっているんだ?

 冷静に考える。熱くなろうとする本能が、冷却機という理性が抑える。

「…そうか、和広の奴……」

 まんまと××工場へ行ったんだ。写真はよくあるアイコラという奴だ。雑誌の写真から切り抜き、それに巴の顔を貼り付けたものにすぎない。

「…待ってろよ、和広」

 ××工場といえば、使われなくなったために、愚連隊の溜まり場として有名だ。和広を呼び出した奴がどういうものなのかは知らない。だが、確実に、和広の机に「人殺しの息子」と書いた奴と同じだろう。

 写真と手紙を鞄の中に突っ込んで、和広の後を追うために、史明は走り出した。

 史明が着いたときには、もう祭りは終わった後だった。血痕だらけの鉄パイプが散乱している。うつ伏せになって倒れている和広を見て、思わず涙が出てきた。

「和広! おい、和広!」

 近づいて呼びかける。身体を揺する。反応はない。口に手を近づけると、呼吸をしていることがわかった。携帯電話で救急車に連絡を入れる。それから、近くの工場で働いている人たちに呼びかけて、何とか和広の応急処置だけは片付いた。

 救急車がやって来る。同じ救急隊員からされる質問にハッキリと答えながら、史明は和広とともに病院へ向かった。病院について、すぐに外に出て和広の孤児院に連絡する。二十分程度経って、巴と高杉院長がやって来た。

「田神先輩、兄さんは?」

 今にも泣き出しそうな顔で、巴が駆け寄ってくる。史明は苦々しく、

「…今、緊急治療室で手術をしてる…」

 と言った。三人がいるのは、緊急治療室の目の前。申し訳程度に設置された椅子に、頭を抱えながら座っていた。

 いらいらする。何も出来ない自分が。和広をこんな目に遭わせた連中が。

 憎くて憎くて、たまらない。

「…どうしてこんなこと……なったんだよ!」

 立ち上がり、目に入った観葉植物を蹴り飛ばす。土が溢れ返って、ただそれだけで終わった。自分が煮えくり返っても、どうにもならないことはわかっていた。

 嫌な沈黙が、その場を支配する。

「…史明君、巴ちゃん」

 高杉院長が、静かにふたりを呼ぶ。

「……なんですか」

「…これから話すことは、誰にも言わないで。…和広君が、わたしと警察の方、それから、亡くなった高橋先生にしか話していないことだから」

 

 …それは、和広の過去。

 平和の意を込めて付けられた和広という名。十歳の頃に離婚した父と母。母に引き取られて、辛い生活を乗り越える。その二年後。十二歳。突然、血走った目の父が家に乱入し、サバイバルナイフで母の首を裂く。そのときの血飛沫が原因で、和広の心には、血の色に近い赤が傷痕になった。その後、何とか交番へ逃げ込むが、父は追いかけていた。逃げられないと思ったとき、警察の撃った銃弾が、父の頭を貫いた。

 父に母を殺され、警察に父を殺された。

 駆け落ち婚だったふたり。頼れる宛もなく、和広を引き取ろうとする親戚筋もいなくて、孤児院に引き取られた。

 

「…たった、それだけのことかよ…」

 震えていた。震える手は、拳を作っていた。巴は鼻と口を抑えて、涙が零れないようにしている。初めて知った和広の過去。今まで悠々と過ごしてきた自分が、恥ずかしく思えた。

 和広は、史明が転入してきた理由を尋ねると、いつも、「親が事故で死んじゃった」と言っていた。

 ああ、そうか。和広にとって、あれは事故だった。

 父が、故意に母を殺すとは考えられなかったんだろう。サバイバルゲームでもしていて、間違えて首を裂いてしまった。そう考えていたんだろう。

 警官が、父を殺そうとは思っていなかったんだろう。威嚇のために発砲した。そう考えていたんだろう。

 けれど、気づいていた。警官はともかく、父が母を殺そうとして殺したことに。親子だから、言わずともわかってしまう。目を背けたかった。父が人を、それも母を殺したという事実に、背中を向けたかった。それで耐えていた五年間。

 そして、突然と、過去は未来に追いついた。

 封印しようとしていた「赤」が、再び蘇った。赤色のスプレーで、「人殺しの息子」。黒や青の「人殺しの息子」では反応しなかっただろう。

『赤』。和広のトラウマを開くには、充分な要素だった。いや、充分すぎた。それひとつだけで、事足りたのだから。

「……どこのどいつだよ。和広の過去を知るならともかく、トラウマを抉るような真似した奴は……!」

 思いつくのは学校の連中しかいない。しかし、皆、同じようにわからない、知らないと唱える。

「高橋先生が、和広君を…励ましてくださってたのに…」

「…喧嘩の仲裁をしようとして死亡、か。…クッソ、先生の大馬鹿野郎…! あんたは何勝手に死んでんだ。和広がこんなに苦しんでるっつーのに、何呑気に眠ってんだ……!」

 死人に怒鳴っても、何も返ってこない。来るのは虚無。

 それから一時間。史明と巴は、家に帰らされた。高杉は孤児院に泊まって行くという。史明は歩いて自宅へと帰って行った。

 翌日。放課後、史明はコンピュータ室で活動をしているコンピュータ部に訪れていた。

 一昨日のことを思い出したのだ。何かよからぬことを企てていた、ガラの悪い奴。脅されていた部員。

「一昨日、この部屋の前で、ガラの悪い奴に絡まれていた奴は誰だ?」

 単刀直入に切り出す。

 と、は、はい、と気の弱そうな眼鏡をかけた少年が手を挙げる。見つけた、と史明は、その少年が座っているパソコンまで足を運んだ。

「この写真に見覚えは無いか?」

 …推理にも満たない、予想にしか過ぎなかった。

 机の中から、クシャクシャになった巴のアイコラ写真を渡す。まずっ、と小さく呟いて、部員は小さくなった。

 その様子から確信する。だが少々おびえすぎだ。今の自分の雰囲気もあるが。

「…怒ったりしねえよ。ただ、教えてくれ。お前にこれを作れって言った奴は、誰だ?」

 喧嘩っ早い連中が、こんなものを作るとは到底思えない。記憶を頼りに来て良かった。なんであのとき、あいつの顔を見ていないのかが悔やみだが。

 ひょろっとした部員は、ぼそぼそと喋り始めた。

 …要約すると、「この子とこの写真を合成しなかったら、…どうなるかわかってんだろうな」ということらしい。いつの時代の不良なんだと思いつつ、名前を尋ねる。

「鮫島。鮫島樹くんだよ…」

「…鮫島」

 口にして、思い出す。G組の鮫島。いろいろと不祥事を起こして、何回も停学を喰らっている。確か、停学だけで留年が決定したとか。近くの愚連隊にも顔が利いているという噂もある。

 史明は思考を巡らせる。いつもは使ってない頭が、油でも射したのかクルクルとよく回転してくれる。

 鮫島は、和広に対して何か恨みでも持っているのか…?

「……ちっ。本人に訊いてみるしかねえか…」

 相手はガタイも腕っ節もいい不良。対して、こちらは日々のトレーニングを欠かさない野球部員。しかし喧嘩の経験はほとんどないため、おそらく負けるのは俺だろうと勝手に予想する。いや、喧嘩で片をつけようとは思っていないが。

 G組の教室の明かりがついているのを確認すると、史明はドアから中を覗いた。

 …いた。机の上にふんぞり返って、ケラケラと、仲間と談笑している。さぁ、行こうと足を踏み出す――

「いやー、それにしても傑作だったぜ」

 何がだ、と思いながら一歩。

「鳴海和広の奴」

 ピタリ。立ち止まる。

「長野に行った先輩の頼みでさぁ、あいつを懲らしめてくれ、だってよ」

 は? フラッシュする頭の中。

「あいつさ、マゾなんじゃね? ずっと袋にされてたし」

 ふざけんな。カッと、開く眼。

「やっぱ、シスコンは怖いねー。あんなん、コラ画像だって見りゃわかるっつーの。ははは、他の愚連隊の先輩はさ、生意気な目だったからついつい力が入っちゃったぜ、なんてお茶目なこと言ってたぜ」

 お茶目? アレのどこがお茶目なんだ?

 人を完膚なきまでに暴力を続けることが、お茶目なことなのか?

「はっはっは。いやー、俺、鳴海の奴、前からウゼエと思ってたからスッキリしたぜ。ありがとうな、鮫島」

「おう、もっと感謝しろ」

 バンッ――! 不良どもの会話が途切れる。

 史明は、抑えられなくなってきた。それで、近くにあった机に八つ当たりをしたのだ。だが、その程度で収まる怒りではない。…否、怒りなど遥かに越えた、憎悪。

 あいつのことを知らないくせに。あいつが今までいろんなことに耐えていたことを知らないくせに。あいつの一面だけを知って、そんな軽口を叩くなんて、絶対に許せない。

 殺す。殺す。目の前にいる男を、完膚なきまでに叩き潰す。

 考える余裕なんてなかった。史明は走り出していた。鮫島に食って掛かり、圧し掛かって、顔を何度も殴りつける。椅子で、机で。教室にあるものを全て武器とし、何度も何度も、高く振り上げた拳を、奮う。

「てめえに生きる価値なんてねえよ…! 死ね、死ね、今、ここで死ねええええ!!」

 自分でも何を叫んでいるのかわからない。アドレナリンは脳の中で大量分泌。酸素がフル回転して熱を生み出す。

 やめろ、と怒鳴って鮫島の仲間たちが史明の両腕を取り押さえる。流石の史明といえど、男ふたりに適うことはなく。鮫島が頭から血を流して気絶している。鮫島の仲間ふたりが、教室にある椅子を持って、史明の頭を殴りつける。

 こんな痛み。あいつに比べたら。あいつの今までのトラウマに比べたらこんなもん…!!

 ギロリ。殴られながらも、狼を思わせる眼光で牽制。

 ふらふらしながらも教室の真ん中に移動。

 片手で椅子の脚を掴み、投げつける。人間とは、こんな力を出せるものなのか。椅子のひとつが外れて、窓硝子を突き破って外に落ちた。外から、悲鳴が上がる。

 やべ、と顔を見合わせた連中は、鮫島を置いて逃げようとする。

「逃がすわけねえだろこのクソども!」

 例え和広に手を出していなくても、あんな胸糞悪くなる話に笑っていたのなら同罪だ。

 ドアを蹴り飛ばす。引き戸は呆気なく倒れて、曇り硝子は倒れた衝撃で割れた。

 大きな硝子の破片に手を伸ばす。チク。自分の掌に硬いものが突き刺さる感触。血が流れていた。

 でも、そんなの関係ない。あいつの痛みに比べれば、あいつの痛みに比べれば………! 今まで気づけてやれなかった、あいつの心の重みに比べればこんなもの…!

 腰が抜けたひとりの腑抜けた足に、手に取った凶器を突き刺す。

「いってええええええ――」

 絶叫。もうひとりはタジタジになっている。逃がさない。

 走る。追いかける。怒りに任せた史明の脚力は尋常じゃなかった。男の胸元掴んで、走った勢いを載せた頭突きを入れる。バキリッ、と、絶対に聞きたくない音が、耳に入った。最後のひとりも倒れる。鼻はありえない方向に曲がり、口からは黄ばんだ歯が、三本ほど落ちた。

 今まで熱かった身体が冷めていく。

「こら、何をやっている、田神!」

 怒鳴り声。やっと完全に熱が冷めた。田神史明は、惨状を見て、愕然とした。

(あれ…こんな…俺が、やったのか……?)

「何をやってんだお前は!」

 教師が殴ってくる。吹き飛んで、廊下に座り込んでしまった。背中が壁に当たる。ふと、自分の手を目前まで持って来る。…震えていた。なんでだろう。和広の仇はとったはずなのに、どうして、震えているんだろう。

「立て! 教育指導部まで連れてってやる!!」

 無情に響く教師の怒鳴り声。なんだなんだと、こんなにまだいたのかと思ったほどの数の野次馬な生徒。

 流れる血。砕け散った硝子。散乱した三年G組。

 こんな光景、あいつには見せられない。…俺は、なんてことをしてしまったんだろう…。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 翌日。

 田神史明は、零芯高等学校から去った。

 その後、彼の行方を知る者は誰もいない。

 そう、五年後の現在まで。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 鳴海和広は目覚めた。田神史明が消息を絶ってから一週間後に。どうしてまた病室にいるのかと考えていると、身体に痛みが走った。全身筋肉痛という奴だろうか。上体を起こすことすらままならない。

(…そうか。俺は、あの不良集団にやられて……)

 なんとも情けない。

 誰が救急車を呼んでくれたかは知らないが、感謝を告げたかった。

 こんこん、とドアが鳴る。はい、と答えると、巴が鞄を持ってやって来た。どうやら、見舞いに来てくれたらしい。

「兄さん!」

 目に涙を溜めて走ってくる。胸に寄りかかる巴を撫でた。

「…やっと、目が…」

「……ああ。…ごめんな、巴。お前を、守れなくて…」

「…? 何を言ってるの、兄さん。あ、そうだ、これ、田神先輩から」

 がさごそと巴は鞄の中を漁る。すぐに一枚の封筒を取り出した。和広は我慢できる程度の痛みに耐え、封筒を受け取る。封を切り、中身を揺らして出す。手紙だった。

 拡げて、巴に気づかれないように、目で読み取る。

 

『和広へ。

 巴ちゃんは無事だ。あの写真はアイコラっていって、合成写真みたいなもんだ。

 G組の鮫島が、コンピュータ部の奴を脅して作らせてたらしい。だから、巴ちゃんは何の被害も被ってない。安心しろ。

 後、鮫島の奴は俺が十二分に痛めつけておいた。ま、これでしばらく、お前に手を出すことはないだろう。そんなわけだ。それじゃ、俺はちょいと遠いところに行かなくちゃならなくなった。どこかで会ったら、そのときはよろしくな。

 だって、俺とお前って、親友、だろ?

 

 史明』

 

「……巴! 史明はどこだ!?」

 嫌な予感がする。嫌な汗が湧いて出る。とにかく、嫌なものが、第六感を鋭くさせる。

 巴は険しい顔をして、

「……それが、田神先輩、退学、しちゃって……」

「………………っっ!」

 無意識に身体が動こうとする。しかし、痛みという壁に跳ね返された。

 

 どうして。どうしてなんだ。どうして、俺が頼りにしようとした人たちがみんな消えていくんだ!? なんでだよ。どうしてなんだよ。俺は、ただ、普通に生きたいだけなのに。俺は、普通の生活ができれば、それだけでいいっていうのに。

「………なんで、なんだよ…」

 

 

 傷が完治して歩けるようになった。巴の見舞いに来る回数も少なくなった。

 高校に行っても、鮫島の舎弟だった連中に毎日殴れた。蹴られた。

 もう、何も感じなくなっていた。

 …何も感じなくなったはずなのに。大切な人たちが目の前から去って、これ以上辛い目に合いたくないはずなのに。

 どうして、心の奥の俺は、生きたいって叫び続けているんだろう?

 これ以上、巴に迷惑は掛けたくない。巴もまた、俺の目の前から、世界のどこかから消えてしまいそうだから。高杉さんにも、孤児院の小さな弟や妹たちにも、こんな姿見られたくない。何も感じられない、砂の入った人形なんてみすぼらしい姿を、見せたくない。

 

 

 カツンカツン。頼りない錆び付いた金属の階段を上がっていく。

 マンションの階段。本来なら住居人しか入れないはず。だが、老人が入った瞬間、その隙を狙って、和広はマンションに宣布することに成功した。

 エレベータで行こうかと思ったが、ダメだ。アレは速すぎて、考え事が纏まらない。

 カツンカツン。徐々に、外の風景が遠くなっていく。風が強い。そう、思った。

 カツンカツン。一体何階あるのだろう? 目につく限り、高いものを選んだはずなのだけれど。

 カツンカツン。どうやら、ここから先に階段はないらしい。仕方なく、エレベータを使うことにした。

 

『屋上に参ります』

 

 無機質な女性の声。今の自分の心みたいで、なぜか笑えた。

 

 あっという間に、目的地へ到着。自動の扉が開いて、和広は箱から出た。

 夏だというのに、寒い風が吹いた。当たり前か。今、雨が降っている。それに高いところは、気候が違うと誰かが言っていた。

 …誰だっけ?

 まあ、そんなことはどうでもいいか。

 …本当に、どうしてこのマンションを選んだんだろうか。一番空に近いから、だろうか。

 まあ、そんなことはどうでもいいか。

 今から、人生という舞台を降りる人形にとって、そんなものは無価値な考え。罅割れた器。罅割れた心。ズタズタな身体。ふらふらとしているのに、目的地にはちゃんと着いてくれた足。

 ありがとう。心から礼を言いたかった。

 灰色の空。夏だというのに、いや、夏だからこそか。

 生まれたのは冬で、死ぬのは夏。なんて詩的な死に方なんだろう。まるで、物語の主人公にでもなった気分だ。こんなときは、人形でも、笑っても、歌ってもいいだろうか。

 …ああ、わかってる。人形は人形らしく、四肢をバラバラにして死ねってことなんだろう? 強風が、嘲笑っていた。

 端から下を見下ろす。吸い込まれそうになって、思わずたじろいだ。

 目を瞑る。

 本当に、今までいろんなことがあったなあ。

 本当に、辛かったなあ。

 本当に、…楽しかったなあ。

 これからのことを考える。巴や高杉には迷惑がかかるだろう。けど、それも一瞬の風に過ぎない。生きていたら、余計な苦労が、大切にしたいと思っていた人たちに降りかかる。疫病神は疫病神らしく、人形は人形らしく、自分の舞台の幕を閉じてやろう。

 疫病神はいなくなって、人形も四肢バラバラに砕け散って、いろんな人たちに幸せが訪れたのでした。パチパチパチパチ。

 …さあ、もうこれでいいだろう。せめて最後は、空を見上げて落ちよう。こんな、灰色の空でも、見ながら逝ったほうがずっとましだ。

 背中から落ちるために、後ろに振り返る。

 そして、少年は目を大きく開けて驚いた。

 見覚えのある人影を視界に納めて。

 なんでお前がここにいるんだ、と言いたかったのか。口がそう動く前に、少年の前方から手が伸びる。どん、と押す。手の主は、ニヤリと片頬を吊り上げる。

 少年は落ちる。想像していた安らかな笑顔ではなく、驚愕の一点張りで。目を見張りながら、遥か下の地上まで落ちていく。

「…なんで、お前がいるんだ」

 届かないと知りつつも、問いかける。

「なんで、お前が……」

 清々しい気持ちで飛び降りるはずだったのに。腑に落ちない気持ちのまま、少年は空気の中を落ちていく。

 そして、少年は落ちた。硬い硬い樹木の枝に。

 彼が最後に見たものは、一面が赤で塗りつぶされた世界だった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

「…自殺、でしょうか」

 ××マンション前。新米刑事、桂玲子は事件現場を、目を細めて見つめていた。マンションの住人が、ひとりの少年がマンションから飛び降りたという通報。だが少年は運よく木に引っかかって、身体中の骨を折る程度の傷で済んだ。

 意識不明。…より上の昏睡状態。このまま死んでもこのまま目覚めてもおかしくはない状態だ、と担当医は語る。

「ったく、定年直前の仕事がこんなんとは、俺も運がねえなあ」

 煙草を吹かしながら、先輩警部が一服。

「…残念ながら、これは単なる自殺としか思えねえ。桂ぁ、自殺したガキの身元近辺を洗っとけ」

「了解しました。……それにしても、自殺とは。最近多いですね」

「情緒不安定な奴等が多いからな、アレぐれえの歳は。俺もなかなかナイーブな奴だったんだぞ? 好きな子を親友に盗られたとか、尊敬してた人に裏切られるとかあったしな」

「警部も人並みの青春を歩んでたんですね」

「………それ、どういう意味だ、桂」

 

 

 結局、鳴海和広の事件は、飛び降り自殺ということで話がついた。

 それから三年、鳴海和広は眠り続けることになる。

 久瀬孝之という魔術師が来訪するまで。

 

 

 


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