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1.現代/事件考察

 

 1.現代/事件考察

 

 

 東京都郊外の市街、和良沙市を囲う三つの町の内のひとつである零芯町。理想的な平和を描いたような町は、今日も動いていた。そりゃ、細かいところで諍いはあるだろうけど、町っていうひとつの世界は、ノストラダムスの予言にあったんじゃないか、というぐらい平和だった。

 住み易く家賃も安価、群れを成して泳ぐ鰯|(流石に多すぎか)の如く集合住宅の多いこの町は、内部よりも外から来る人間のほうが多かった。あ、仕事とかじゃなくて、引越しという意味で。駅が町の中心にあるので、それなりに栄えているし(商店街とか)、小中企業の支部とかもある。それだけじゃない。公立の幼稚園、保育園、小学校、中学校、高校、とそれなりの教育機関も揃っているのだ。昔はわからなかったけど、中学一年生くらいになれば、そりゃあ人が増えるわけだと納得した。高校は進学校で、偏差値も五十二から五十三という中堅辺りに居座っているため、他県からの受験者はほとんどいず、ほとんどが地元か、偏差値に適している受験生がやってくる。故に競争率はかなり高い。もう一個、これと同じぐらいの学校があってもいいんじゃないだろうか。

 かくいうわたしも、都立零芯高等学校の去年の卒業生であり、真面目に三年間を過ごし、隣の県の私立大学に通っている。もちろん、ここからじゃない。あっちの大学の寮で過ごしている。別に零芯町から通っていも良いのだけれど、

 バス三十分→電車二時間(乗り換え三回)→バス三十分→徒歩十分→大学到着。

 なんていう、聞いただけでお尻が痛くなりそう(ついでに足も痛くなりそう)な道のりのため、涙を堪えて、バイトしながら独り暮らしをしているわけだよ、ワトソン君。一応親からの仕送りはあるけど、それでも足りないときがあるしね。

 町から離れて、一年ちょっと。大学もそれなりに楽しめてるし、スポーツマネジメントの勉強も真剣に取り組んでいるし、友達も、自分で言うのもなんだけどいっぱいいるし。充実した生活を送っているのは間違いないと思う。

 そんなわたしが、長期の休暇にも関わらず、大学の友達と旅行も行かずに、出身の町に戻ってきたのには、理由がある。帰省というのもあるが、一番の目的は、兄さんの様子を見に来たのだ。

 …本当の兄ではない。だって、彼とわたしは、孤児院で出会ったのだから。わたしは運悪く交通事故で死亡した夫婦の娘だったらしい。その頃のわたしは一歳だったから、両親との思い出なんてあるはずがなく。散々親戚関係を盥回しにされた挙句、零芯町にある小さな孤児院に預けられたというわけだ。その頃、わたしは二歳になっていた。後々に調べてみたら、どうやらわたしの両親は、勘当の駆け落ち婚だったらしい。

 兄さんがやって来たのは、わたしが十歳の頃になってから。兄さんは十二歳ぐらいに孤児院に入った。…兄さんの家庭の事情は少々複雑なので、わたしがその旨を口にすることは出来ない。その頃の兄さんはまだ明るかった。

 わたしはいっぱい遊んでもらった。だけどそれは、短い期間の話。十三歳の頃、わたしの引き取り先が見つかったからだ。けれど、わたしは一緒に遊んでくれた兄さんが大好きだったから、学校の帰り、ときどき孤児院に行った。

 あるときに、院長先生から告白された。

 …兄さんが、学校で苛められているということを。先生からも、同級生からも。最初、出会った頃の兄さんは明るかった。けど、だんだんと、命という蝋燭が融け落ちていくたびに、灯っていた炎も、弱々しくなっていった。あの頃の兄さんは、本当に、強い風が吹いたら吹き飛ばされそうなくらい空っぽだった。

 わたしは兄さんを助けたかった。でも、無理だった。明るかった頃の兄さんにはいっぱい世話をしてもらった。勉強を教えてもらった。いっぱい遊んでもらった。けど、今の兄さんは……出会った頃の兄さんじゃない。いつの間にかわたしは兄さんを拒絶し始めていた。後に、わたしは深い後悔をすることになる。

 ――飛び降り自殺。兄さんが高校三年生の頃。

 集合住宅の近いこの町では、そう難しいものではなかった。二十階を越えるマンションなんていっぱいあったし。兄さんは追い詰められていた。…いや、違う。疲れていたんだ。何かを感じるということに。苦痛を感じることも、喜びを感じることも、全部が辛くて辛くて仕方なかった。だから、心を無にして、空っぽになった。でもダメだった。人間が本当に心を空っぽにすることなんてできるはずがない。だって、そう考えてること自体が、そうしようとしていること自体が、心が空っぽじゃないっていう証拠だから。運よく木に引っかかって一命は取り留めたけど、昏睡状態。いつ死んでもおかしくない状況だった。

 …これが五年前の話。

 わたしは願った。…その願いは、本当に純粋なものだったのか疑わしい。だって、「あの頃の兄さんが戻ってきますように」とわたしは流れ星に願掛けしたんだから。自殺した兄さんの気持ちなんて理解しようとせず、美しい思い出に、わたしはすがりついた。

 三年間、兄さんはずっと眠っていた。眠ってばかりの兄さんが気がかりだったが、周囲の人たちが大学に行けと背中を押すので、わたしは見事合格。晴れて華の大学生となった。それが二年前の話。…二年前はいろいろあった。

 わたしが大学に通うために都心のほうへ行ったその矢先に、兄さんが目を覚ましたと、義父さんから連絡が入ってきた。わたしはすぐに兄さんの病院へ行った。

 ……美しい思い出は、還って来なかった。

 でも兄さんは、後遺症のせいか、苛められていたことは覚えていたけど、どうして自殺をしようと思ったのかわからないでいた。

 わたしは担当医の人に頭を下げた。ありがとうございます、と。

 だけど。医者は、予想外のことを口にした。

「彼を助けたのはわたしたちではありません」、と。

 え、と思った。医師たちが必死に介護して、その努力の積み重ねがついに兄さんの意識に手が届いたのだと思っていた。

 さらに、医師は予想外のことを口走る。

「彼を助けたのは、『クゼ』という方です。名刺を渡されているので、お礼をするのなら、その方にしてください」

 突如現れた『クゼ』という男。眼鏡を掛けた、謎の人物だと医師は語る。その後に、一枚の名刺を渡された。

 翌日、兄さんはまだ精密検査等があるので動けないというので、わたし個人としてクゼという人物を尋ねることにした。名刺には、こう、書いてある。

 

『トアル事務所所長 久瀬孝之 メールアドレス××××@×××××

  電話番号 090-××××-×××

  住所 零芯町×丁目 ××番地』

 

 住所の通りの場所に行くと、待ち構えていたのは、オープンな喫茶店。間違えたのかなと思って視線を上げると、喫茶店の上に「トアル事務所」と、大きく一文字窓に一枚ずつ張られてあった。こんなところがあったなんて、初めて知った。

 あー、なるほど。ここはいろんな企業の事務所が集中しているビルなのか。

 一番下が喫茶店で、その二階が、この久瀬って人の事務所。…トアル事務所って、小説とかでいう「とある事務所」の「とある」をカタカナにしただけだろ、とか文句を言ってやる。…って、目的を間違えるな。わたしは文句を言うためにここに来たんじゃない。兄さんのことでお礼をいうために来たんだ。

 息を吸って、喫茶店の入り口より脇にある、赤ペンキの剥げかけた階段を昇る。

 ひとつめの踊り場の左の壁に、金属のドアがある。「トアル事務所 責任者;久瀬孝之」という表札を見て、ここで合っているのだと安堵した。インターホンを鳴らす。

 ドアが軋んだ音を立てて開いた。

 …なんていうか、予想通り過ぎて笑いも起きなかった。

 ボサボサ頭で、手入れをしているのですかと問い質したくなる長く伸びた髪。眠たげな目と、ずれかかっている楕円型のレンズの眼鏡。とりあえず仕事をしてますよと告げる、しわくちゃなスーツとワイシャツ。…どうして起こしたんだと訴えている、眠たげな目。この人が、久瀬孝之。

 …うーん、尖ってそうな目に眼鏡は合うんだけど、ほかが、なあ…。ネクタイずれてるし。

「誰だ貴様」

 なんていうか、今回は予想できなかった。

 眼鏡をかけて、エリート気取ってて、仮にも事務所の所長で、わたしはお客様かもしれないのに、第一声が「誰だ貴様」。どこのヤクザの人だよとかいろいろと言いたかったけど。この人は恩人なんだぞと言い聞かせる。

「初めまして、わたし、鳴海和広の妹分の喜多村巴といいます。此度は、兄を助けていただいた件について、お礼を申し上げに来ました。…本当に、ありがとうございます」

 深々と頭を下げるわたし。

 …思えば、これが久瀬とわたしの関係を決める第一撃だったのかもしれない。

「なるみ、かずひろ……? ああ、奴か。何、礼を言われる筋合いはない」

 お、なんかいい人だぞ。第一印象が要という法則は…

「丁度奴隷が欲しかったところでな、そういう意味では、こちらも助かったといえる」

 ……ほう…そく……は…?

 わたしは顔を上げて男を見る。男は悦に浸っていた。うっわ、気持ち悪い。わたしの一番苦手なタイプだ。瞬時に思った。秒速で思った。音速で思った。神速で思った。

 ずれかけていた眼鏡を人差し指で押して、腕を組む。

「ある事情があってな。少々コキ使える奴が欲しかったんだ。噂で病院に昏睡状態の奴がいると聞いてな。助けてやったら、恩を返すために何かするだろう、人間って奴は。だから一生、わたしの奴隷になれというつもりなんだ」

「……ちょっ、どういう…」

「奴隷になれと言っても、断られる可能性はあるからな」

 どうやらこの男の耳には、途中から出現する便利なバリア機能が搭載しているようだ。

「助けてやった額として、これぐらいの金を払わせるつもりなのだ」

 といって、胸ポケットに入れているボールペンを一本取って、どこから持ってきたのかメモ用紙に数字を幾つか書き込む。書き終わったそれをわたしに渡した。はあ、と言いながら見て、ギョッとした。

 わたしみたいな庶民には、宝くじで一等を当てなければ手に入らないほどの額だった。

 こんな額、異常だ。

 男はわたしの様子に気づくこともなく、演説を続けていた。

「そんな金、貴様等のような低脳庶民には、到底払えないだろう? 大富豪でいう革命でも起きないと、奴隷は自由の身にはなれない」

 なんてメチャクチャな。

「一生わたしに金を返すために働き、そして全額返済することなく死ぬのだ」

「なっ……なんでそんな…!」

「奴はわたしに命を救われたんだ。だったら、その命を全て使ってわたしに従うのが当然のことだろう」

 …どんだけ歪んだ人生を歩いてきたんだろうか、この男は。

 なんていうか、日本刀を作っていたつもりがフライパンになってたみたいな…。ごめん、今のはわたしが馬鹿だった。聞かなかったことにしてください。

 男の高笑いが左から右へ耳を通っていく。聞こえない振りをして、逃げるようにその場を抜け出した。

 病院に戻って、精密検査を終えたばかりの兄さんに、ことの顛末を話した。兄さんなら拒否してくれると思っていた。だけど、兄さんは。

「……わかった。その男に従おう」

 なんてこと言った。

「…兄さん、正気?」

 わたしのほうが正気じゃなかったかもしれない。

「……わからない。…今の俺は、自分でも自分がわからないんだ」

 虚無の目。

 痛々しくて、わたしは思わず視線を逸らした。

「…恩人についていけば、俺は自分がわかるかもしれない」

「……にい、さん」

「ごめん、巴。俺が意識を失ってから、もう二年が経ってるんだろう。俺の記憶が正しければ、……俺はハタチだ。自分の意思で行動して、自分の意思で責任を取らなきゃならない。…さっきも言った通り、今の俺は空っぽなんだ。全部が灰色に見えるんだ。そんな俺に、その、久瀬…といったか。その男は、『奴隷』っていう価値を与えてくれた。わがままでごめん、巴。俺の好きにさせてくれないか」

 兄さんの中身は、空っぽだった。

 空っぽだったのに。兄さんの中身は、わたしと兄さんの共有した思い出で埋めなければならないと思っていたのに。いつの間にか、兄さんの空っぽの器に、熱湯が注ぎこまれていた。

 それからわたしは、今思い出すとすごく自分勝手な罵倒を怒鳴って、脱兎の如く病院から退散した。

 …恥ずかしながら、それから何かと理由をつけては、トアル事務所に顔を出しているのですが。兄さんは、やはり昏睡状態になる前と変わらず、灰色の目をしている。…っていうか、久瀬は「奴隷が欲しかった」と言っていたわりに、何もしていない。というか、仕事をしていない。雑務も、何もかも。こいつ、本当は兄さんを恋愛対象としてみているんじゃないか、というぐらい、観察していた。

 それでもわたしが度々来ていたので、怪しい雰囲気にはならなかったけど(多分)。

 …正直言って、悔しかった。兄さんに何かを与えられるのは、妹であるわたしだけだと思っていたのに。台風のように現れた男が、突如兄さんを救い、挙句には、空っぽの兄さんに目的という水を与えてしまった。

 だからだろうか。兄さんの恩人のはずなのに、あの男が嫌いなのは。

 兄さんが目覚めてから丸二年。今年も太陽の視線が熱い。二年も経つというのに、兄さんと久瀬がまともに仕事をしているところを見たことがない。ときどき兄さんがいないときがあったが、久瀬は、「買い物中だ」と言ってそれっきりだった。

 だというのに、丸一日帰って来なかったときもあったっけ。

 あのときと同じように、喫茶店の脇にある階段を昇る。インターホンを押して、自分の名前を告げて中に入る。

 ぶわっ。突然冷気が襲い掛かってきた。

「さ、さむっ」

 今まで暑かったというのに、空気は一変。ハワイからロシアへ。半そでで来たことが仇になったか。わたしは記憶を掘り出して、エアーをコンバートする機械のリモコンを探す。あった。エアコンの下に、頑丈に取り付けられていた。

 一番大きい赤い円のボタンを押す。上のほうで、ピピーという高い音とともに、風が外に送り出される音も聞こえた。ほっと一息。これ以上寒くなることはない。

「こら、何をしている、喜多村巴」

 わざわざフルネームでわたしを呼ぶのは久瀬の癖。ぷんすか怒りながら、睨めっこしていたパソコンとおさらばしてわたしに近づいてくる。

「何をしているって、電源切っただけだけど?」

「なんだと、貴様、こんな暑い日にエアコンを奪うとは…! 吹雪の中、暖炉で暖まりたいのに、貴様は外へ放置するのか? どれだけサドッ気が強いのだ」

「サドッ気の強さならあんたには叶わないよ、久瀬」

 べっ、と舌先を出してやる。

 個人的に、エアコンが提供してくれる涼しさというのは、どこか不健康な気がする。男なら上半身裸になって、団扇でも扇いでればいいのに。

「……久瀬、今のはお前が悪い」

 ソファの向こう側からの低い声。こっちに背中を見せて、正面を向けてはくれない。…兄さんだ。久しぶりに、背中が見れて、少し安心した。

 久瀬は頬を引きつらせて振り返る。

「…なんだとぉ? 貴様、奴隷の癖にわたしに意見するつも…」

「誰が誰の奴隷よ、誰の」

 別に兄さんは奴隷になるって言ったわけじゃない。本当に、十桁のお金を払いきるためにこいつのもとで働いているのだ。途方もないことといえる。給料は、依頼があったらそのときの全額。…兄さんはこいつに借金をしているわけだから、結局給料にはならない。

 兄さんはこれのほかにもアルバイトをしている。住居は、久瀬の事務所(つまりここ)の部屋をひとつ貸している。無料で。久瀬にしてはなかなか待遇が良いほうではないだろうか。…と思ったら、

「なに、そっちのほうが、きっと恩をもっと感じるだろう」

 なんていう、恩を売る気満々発言。

 でもまあ、ハタチの年齢で孤児院のお世話になるわけにもいかないし、わたしの両親もわたしだけで手一杯なのに、兄さんの面倒を見れるわけがないし、…渋々承諾した。

 だというのにどうしてアルバイトをしているのか? それは久瀬が、「食事や衣服ぐらいは自分でどうにかしろ」、という慈愛のひとつもない言葉を掛けてくださったためだ。

 ホント、兄さんが心配だ。こいつの躊躇いと慈悲と道徳のない発言に、盲目的に従ってしまうかもわからない。…だけど、さっきのように、久瀬が悪いときは兄さんが咎めることがある。やっと、兄さんが人間らしいものを見せ始めた。少し嬉しい。

 でも久瀬のおかげかと思うと吐き気がする。

「…? どうした、喜多村巴。奴隷の分際でわたしに恋でもしたか」

「するかこの馬鹿野郎!」

 思いっきり右ストレート。これでも野球部のマネージャーだったんだぞ。中学の頃はソフトボール部だったんだぞ。わたしの投げたボールは、彗星とも呼ばれたんだぞ(多分)。あんたみたいに色白の優男に、鍛え抜かれたこの拳を避けられるか!

 …と思ったら、こいつは見事に身体をノの字に変えて回避しやがった。

 ときどきある。こいつは色白で不健康そうに見えるんだけど、運動神経を発揮するときが。

「ふん、貴様程度の拳、当たれというほうが無理な相だ……ぐっはっ!?」

 油断大敵。こいつは思いっきり油断してた。右ストレートの拳が、国民に迎えられる王様みたいに綺麗に決まった。

 腹を抱えるように、よろよろと歩き回る久瀬。

「ふ…ふふ……流石だな、喜多村巴よ」

「…あんた、さっき、奴隷の分際とか言ってなかった?」

「貴様を奴隷から一般人に昇格させてやろう…。嬉しかろう、喜べ」

「……兄さん、コーヒー飲みますか」

「ああ、頼む」

「……ふん、これだから女という生き物は…。まあいい。おい、喜多村巴、わたしの分も作れよ」

 兄さんの座っているソファとテーブルを挟んで置いてある、もうひとつのソファに蟹股で座りながらふんぞり返る久瀬。あー、なんでこんな奴と巡り会っちまったのかねえ、まったく。やっぱり挨拶なんてしに行かなければ…。…いや、こいつのことだ、きっと、退院時期を待って、病院に駆け込んで来ただろう。

 コーヒーメーカーを起動させる。と、暇な久瀬がテレビをつけた。兄さんは突起しない感情の波を取り戻すためのリハビリとして、最近は小説や漫画を読み漁っている。しかし、効果はない。それでも失っているものを取り戻そうと、兄さんは必死な表情で書物を読む。

 …目的と手段がこんがらがっている。絡み合った複数の糸を一本ずつ直す作業の繰り返しを見ているようだった。感情を取り戻すために本を読んでいるのか。どうして感情を取り戻さなくてはならないのかと思いながら本を読んでいるのか。無表情だけど、強張った頬は見逃さない。

 …違う。兄さんを、もう二度と失いたくない、ただそれだけのことだ。そのために、兄さんといるときは、じっと観察している。そう、ただそれだけのこと。

 言われたとおり、渋々久瀬の分のコーヒーも、どこで調達したのか高級そうなカップに注いで、ソファに挟まれているテーブルの上に置いた。

 砂糖をざーざーと大量に入れて、スプーンでかき混ぜる久瀬。コーヒーっていうのは、苦さと香りを楽しむものなんじゃないかと思う。以前そんなこと言ったら、「馬鹿者、貴様等低脳とは違い、わたしは脳を常にフル活動させているのだぞ」といわれた。糖分が足りないから、一度の摂取量を増やしただけ、とも言っていた。本当に変人だ、こいつは。…頭がいいことは認める。広く深い知識、『概念』という見えないものに対する考え方、観方、恐ろしいほど、こいつは綺麗に簡潔に述べてみせる。だけど馬鹿だ。お墨付きの馬鹿だ。馬鹿専用のオークションで、こいつが兄さんに出した額ぐらいつけてもいいほど馬鹿だ。

 わたしも兄さんの隣に座って、自分の分のコーヒーを口にする。

「はっはっは、人間同士が、たった百万程度の金を巡って知識を披露する番組だと。何とも、人間観察にはもってこいの番組だな」

 クイズ番組を観て笑っている久瀬。

 ………どうしてこうも歪んでるんだろうか、こいつは。親の顔が見てみたい。そしてこいつのお金に対する感覚はどうなってるんだろう。脳の構造がわたしたちよりも単純なのか、それとも複雑なのか。

 なんか不愉快で、わたしは久瀬からリモコンを奪取し、チャンネルを変えた。

「あ、こら、きさ…」

『昨日午後十時頃、殺人事件が発生しました』

 久瀬の声を裂いて、テレビの中のニュースキャスターは、横からADの渡す書類を舐めるように読み上げる。

『場所は東京都和良沙市の零芯町の零芯川の土手です。被害者は鈍器で何度も顔を殴られて判別不可能。身体の特徴から、十代後半から二十代前半と特定しました』

 鈍器で、顔がわからなくなるぐらいに殴るなんて…。どれだけの力とどれだけの回数、殴ったのだろう。現場はとてつもないことになっているだろうな、と思う。

 顔を何度も鈍器で殴るなんて、よっぽど被害者に恨みでもあったんだろうか。

「…三人目か」

 栞を本に挟んで、兄さんがパタンと閉じる。

「兄さん、三人目って…」

「……知らなかったのか」

 口では意外そうな振りをしているけど、顔には表れていない。そういえば、ここ最近テレビを観てなかったな。夏休みを楽しむために、レポートやら課題やらを部屋に引き篭もってやっていて…。終わったら終わったでそのまま眠っちゃったし。大学の生活は楽しいけど、世間を知らずに育ったら、そこの脳みそがプリンな奴と同レベルになっちゃう。

 兄さんは助けを求めるような目で久瀬を見る。けど、久瀬はそれを無視して口笛を吹き始めた。ふう、とたまった疲れを吐き出す。

 説明は苦手なんだがな…と言い訳じみたものをひとつ零した。

「…先月と先々週だったか。前者は、零芯川の橋の下で、後者は、工業地帯の廃工場の中に、…先と同じだ。顔を鈍器で潰されて、殺されていたんだ」

 零芯町の東のほうには、工業地帯がある。まだ使われてる工場とか、もう使われなくなった工場とかが放置されている。廃棄された工場に寄り付くのは、気まぐれに寄った野良動物ぐらい。犬猫の類に人間を止める力なんてないし、ましてや、通報なんてできるはずがない。

「今までの被害者は、全員十代後半から二十歳の若い男らしい」

「それ以外の共通点とか見つかってないの」

「さあな」

 久しぶりに喋って口が疲れたのか、少し温度の下がったコーヒーを喉に押し込む。

「…ふむ、そのことに関して、そろそろ台風が来ても良い頃なんだな。嫌だが」

 …こいつは身体のどこかに四次元ポケットが入っているんだろうか。兄さんの話に集中していた隙を衝かれて、テーブルの上にはチョコレート製品が沢山並んでいた。

 中にウェハースが入っているのが売りのものに噛み付いてやがる。

 久瀬は放っておいて…。そういえば…零芯町では、報道はされないが、奇妙な事件は多発する。去年も、一昨年も。そういう奇妙な事件、俗に云う「都市伝説」にカテゴリーされる妙な事件という奴は、あるひとりの女警部補と、久瀬の手によってほとんど事件として解決されているものらしい。動くのは、…「奴隷」である兄さんだ。わたしは実際に兄さんが何をしているのかは知らない。聞いたこともない。けど、例の警部補が「あなたのお兄さんにお世話になったわ」といつも電話をよこしてくる。ということは、兄さんと久瀬が何らかに手段で事件を解決しているのだろう。

 その手段というのも、久瀬が直接口を走らせてくれたのだが。

 …あ、そうか。

「久瀬、あんたのあの…万国人間ビックリショーに出れるようなあの力使えば、今回の事件も解決できるんじゃない」

 別にあの人が依頼しなくても、久瀬が個人的に動けば済む(かもしれない)話だ。

「馬鹿者」

 鼻から息を吐いて、わたしの発言は吹き飛ばされた。このやろう、と心の中で拳を握る。

 あいつは怒っているわたしの様子に気づくこともなく、ベラベラと喋っていた。

「何が万国人間ビックリショーか。あれはな、正しき――」

 どうやらわたしは、カンボジアの荒地に足を踏み入れたようだ。前に来たときも同じような話を長々と何度も聞かされた。

 通常、人間は長い話をするとき、気合を入れるために何回か咳き込む。…だけどこいつはそんなことしない。だって、久瀬の長ったらしい話は、本人にとっては、煙草を捨てた人に煙草を付き返しているようなものだからだ。

 

 

 魔術。それは化学技術のひとつ、『錬金術』の応用術のひとつである。

 人間は、体力という見えない概念を消費して行動を起こしている。魔術は、魔力というのは、体力と同じく人間の身体の中にある見えない概念エネルギーを消費して実行されるものだ。必ず人間であるならば誰もが持っているもの。科学では存在が証明されていないが、化学では証明されている。

 生物には「魔力属性」なるものがふたつは存在している。その魔力属性を行使することを魔術と呼ぶ。現在のところ、魔力属性は三つの種類があることが確認されている。

 ひとつは、生まれたときから既に持っている「先天属性」。

 ひとつは、三歳までの性格や環境によって決定する「後天属性」。

 ひとつは、後天属性の代わりに得ることの出来る先天属性から分離した「派生属性」。

 先天属性/付与属性;光⇔闇、星⇔冥、無

 後天属性/元素属性;炎⇔氷、雷⇔水、土⇔風

 派生属性;幻(光)⇔重力/圧力(闇)、覚(星)⇔眠(冥)、時

 先天属性は特性から、付与属性とも呼ばれる。例えば、ひとりの魔術師の属性が光と炎だったとする。魔術を行使するために、双方の魔力属性を右手に込める。すると、光を纏った炎が彼の手から飛び出すのだ。もちろん、個別に使用することも可能である。

「⇔」で繋がっている属性は、反対属性と称される。このふたつの属性が同じだけの魔力量で激突した場合、無属性の大爆発が起きる。

 簡単にいってしまえば、魔力は水で、魔術は器。魔力という液体を魔術という?式?を組んだ器に入れることで、型を為す。

 また、魔術を使う者には二つの種類に分けられている。自らの努力で魔術を行使する者を「魔術師」と呼び、遺伝的に魔術を使用するだけの魔力を持つ者を「魔女」、又は「魔女の血族」と呼ぶ。

 魔女の血族はその昔、何万年前に存在したヨーロッパの国で起こった、「魔女狩り」の生き残りの末裔である証。魔女狩りは現在も裏で行われているようで、魔女の血族は日々が闇の中なのである。

 

 

 …一字一句違いない…と思う。わたしは久瀬みたいな完璧人間じゃあないし、そんな面倒くさいことを覚えられるわけがない。

 魔術やら錬金術やら、大切じゃない記憶と判断した脳の中の裁判長は、耳から侵入した久瀬の言葉たちに死刑と怒鳴った。どんどんと頭の中が浄化されていく。想像では、今まで久瀬が喋ったこと全てに雷が落ちた、ってところか。

 喋り終わった久瀬は、偉そうに腕を組んでいた。

「魔術とは、百万分の一の確率で生まれる才能と努力がなければ習得できない。そう、わたしは百万分の一の証明」

 …毎回同じようなことを言っているような気がする。はいはい、そうですかと流して、わたしはコーヒーを飲み干した。そんな魔術だなんていわれても、ピンと来ないのが一般人というもの。つまりは、死ぬほど勉強した見返りだってことでしょ。それに魔術や魔女、魔術師だなんて…空想の世界で起こっているわけでもあるまいに。

 …でも、兄さんは言っていた。「久瀬の魔術のおかげで、俺は助かったんだ」、と。

 いつ目覚めるかも死ぬかもわからなかった昏睡状態。三年間植物状態と同様に生きていた兄さんは、ひとりの魔術師の手で復活した。

 そういえば、そのことについて、久瀬は復活ではないって否定してたっけ。

 兄さんは二十階建てのマンションの屋上から飛び降りたにも関わらず、木に引っかかって奇跡的に昏睡した。通常なら即死だ、と担当医は語る。ブレーキをかけたとしても、トラックは急に止まってはくれない。外部からの肉体的な刺激と、苛められたことによる神経と精神の消耗が合致し、脳が身を護るために思考を停めた(即ち昏睡状態)、と医者や久瀬は言う(この仮説は、脳の検査をしたとき、どこにも損傷が無かったから至ったもの)。…人間っていうのは、弱いのか強いのかよくわからない。それに兄さんは、飛び降りたときに、「俺は死んだ」と思ったらしい。その思い込みも強く影響しているのかもしれない、と、一年前まで定期的に兄さんを診断していたカウンセラーがわたしに教えてくれた。本当は教えるのはダメなんだけど、今の兄さんにとって、心から頼れる存在はわたしらしい。そういうことで。

 話は戻るが、兄さんの脳は冬眠状態だったらしい。しかし息は虫と同様。くどいようだが、「いつ生きるか死ぬかわからない」状態という奴だ。

 そんな冬眠状態の兄さんを、久瀬は復活させた。兄さんは眠っていたわけだから、復活というより、覚醒させた、といったほうが正しいだろうか。…記憶と引き換えに「感情」というものを失って。だが、やらなくてはならないことというのは何となく覚えているようだった。

 …だから、久瀬にコキ使われてしまう。

 久瀬が無茶いわないように、暇が出来たときに顔を出している。が、現在のように、特に大きな仕事(何をやっているかはわからない)がない日は、兄さんの日常というものは、実に平和そのもの。…感情が無いから、ちょっと話しかけづらいかな。…嫌だけど、必然的に、久瀬と話してしまう。

 視界の端でそんな久瀬がベラベラと未だ喋っている。兄さんもコーヒーを飲み終えたようだった。自分の分のカップと兄さんのカップを持って、キッチンへ急ぐ。

「…悪いな、巴。所員でもないお前にそんなことさせて」

 申し訳なさそうに兄さんが言った。

 感謝の念を述べられているのはわかる。だけど、それはどこか風船を突いている感覚に陥られた。兄さんのいうことは全部、虚無だった。今のだって多分、小説の登場人物の台詞を引用しただけなんだと思う。

「ううん、気にしないで、兄さん」

 一番そのことに対して違和感を抱いているのは、読書を勧めたわたしなんだから。

 逃げるようにキッチンに引っ込んで、真っ白なカップを洗う。水に溶ける黒は、兄さんの感情に見えた。

「どうして、人を殺そうとするんだろうね」

 濡れているカップを乾いた布で拭きながら何気なく呟いてみる。その返答が、すぐに返って来た。

「殺したいから、じゃないのか」

 …その言葉が、兄さんから返って来たことにわたしは驚いた。感情が死滅した兄さんに、人が憎いと思う気持ちがわかるはずなんてないのに、と思っていたのに。

 だからちょっぴり嬉しかった。憎しみ…負の感情であれ、兄さんが「感情」というものを理解してきたことに。

「…小説によると、憎しみが爆発した人間は、何をするかわからないようだしな」

 …違うか。理解とは近いけどまた違うものだ。

 感情というものがないから、主観というものがない。主観というものがないから、独自の意識を持つことが出来ない。ラジオみたいに、チャンネルを切り替えたときに、そのチャンネルの番組が、スピーカーの向こうから喋り続けている、っていう感覚。ほとんど機械のようなものだ。人間らしい器官を持った、人形。どこでどう間違えたのか、バグが起きて感情という信号が亡くなっている。

「別に、殺したくて殺したわけではないのではないか」

 久瀬が突然会話に飛び込んできた。

「じゃあ、それ以外に殺す理由って何かあるの?」

「……人は時に頭の中で選択肢を作る。そうだな、ある男は、テレビとパソコンの両方が欲しいとしよう」

 始まった。けど、こういう解説は役に立つから聞いておく。

「だが金が足りない。どちらかひとつは買えるが、どちらかひとつは買えないという状況だ。男は考える。今の自分にとって、|どちらが今自分にとって必要なものなのかを。考えた結果、男はパソコンを購入することにした。テレビを見送ってな。…もうわかったか、喜多村巴」

 よくわからなかったけど、『必要なものなのか』と考えると答えは単純だ。

「つまり、被害者は、犯人にとって必要のないものだった、って、そういうわけ?」

「そうだ。若しくは、あっては邪魔なもの、だろうな。比較対象は不明だが」

 わたしたちは日常の中で、不必要なものをゴミ箱の中に投げる。使われたティッシュ、もう読み終わった本、聞き飽きたCD、野菜の食べられない部分、等など。犯人は、人間とゴミを同じようなものだと考えているようだ。

 思わず寒気がした。

「久瀬、あんたよくそんなことわかるね」

「別に。わたしは犯人じゃないから、犯人の真実なんてわからないさ。ただ、そういう可能性もあるかもしれない、と、感情に任せて…などと勝手に解釈しようとする貴様等に、神の知恵をひとつ授けてやっただけだ」

 …見直そうと思ったけど、やめておいた。

 わたしや兄さんの「殺したいから殺す」というのは感情論。人間が一番わかりやすい殺人動機。久瀬の「不必要だから殺す」というのは合理的…社会的な論。人間の感情とはかなりかけ離れているもの。通常の人間では、そんなこと考えないだろう。

 だがわたしたちにとって、『人を殺そう』と思った、その瞬間から、その人は通常の人間ではないのだ。

「ん? そんなこと考えたってことは久瀬、あんた、もしかして、不必要な人間を殺そうとしたことあるの?」

「そんなことない」

 おお、断言されおった。

「だが、わたしにとって、不必要なものは貴様だ。まあわたしが殺しを働くことは無い。実行するのは、そこの木偶の坊だからな」

「なっ……」

 頭に血が昇った。例え冗談でも、それだけは許さない。

「兄さんを…そんな風に……!」

「…巴、……いいんだ、放っておけ」

 呟く兄さん。そんな兄さんを見て、わたしの怒りもどこかへと去ってしまう。慣れているのか、諦めているのか。多分後者。先の呟きが全てを物語っていた。

 わたしがいない間に、兄さんは何をされたのだろう。そして、何をしていたのだろう。

 すごく気になる。…きっと、訊いても、話してくれないだろうけど。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 東京都 和良沙市 和良沙警察署。

 一台のスズキ・エスクードが後退して駐車場に停まる。圧縮された空気が開放された音がして、中からひとりの女性が現れた。どこぞの大企業の社長の秘書のような格好をしているが、これでも一応警察官である。

 彼女の名は桂玲子。地位は警部補。美しく伸びている黒髪が、商店街ですれ違った人たちを振り向かせる。それは職場であっても変わらないことだ。狐のような細い目が、妖術でも使っているんじゃないかというぐらい魅了する。…見た目だけの雰囲気だけならば。

 彼女は大のプロレスファンだった。

「日下君」

 仕事場に入っての第一声。日下というのは、新人の日下弘文のことだ。警部補として彼を指導せよ、と上から命令されている。同時に、日下は玲子の直属の部下でもある。

「は、はい、なんですか、桂警部補」

「ちょっと、実験台になってくれないかしら」

 美人の笑顔には逆らえない。…のだが。ゴキゴキと両手の指を鳴らしている。おかしいことながら、相手の発する音が危険信号であり、警報に聞こえた。いや、もうこれは警報などではない。宣戦布告(一方的)も同然の行為である。笑顔なのに。

 こうして朝一に嫌なことがあると、部下は上司の餌食となっていた。むしろもうこれは恒例の域に入っていて、周囲の人間も笑って止めようとはしない。

 投げ技を決めてから十分、やっと彼女の腹の虫の居所は納まったようだった。

 乱れた長い髪を、犬のように首を振って整える。指定された椅子に座り、机に置かれている書類を手に取った。

「……日下」

「は、はい、なんでしょうか、警部補」

 部下を呼び捨てしているときの彼女を、人は「仕事モード」と呼ぶ。冷徹な声に、日下刑事の背筋が伸びた。が、普段から呼び捨てにされている日下巡査は別に気にはしていない。声色に怯えているようだが。

「これ、鑑識から渡されたもの?」

「はい。…今日の朝発見された被害者の鑑識結果です」

 また、被害者が現れた。今回は速い。

 一ヶ月前から、零芯町で起きている連続殺人事件。ひとりめは橋の下、ふたりめは使われなくなった工場の中、昨日発見された、現在関東域で報道にて流れている三人目――場所は雑木林、そして四人目が、今日の朝発見された。場所は、町内のゴミの行き着く市立の施設…ゴミ収集所。

 ゴミ収集所には、ボランティア青年団と、公務員が勤務している。被害者は、青年団のほうの人間だった。バッチと肉体的な特徴で判明したらしい。発見された場所は、ゴミ収集車を置いておく駐車場の真ん中。仰向けに倒れていて、顔がぐちゃぐちゃに潰されていた。そのため、今零芯町で起きている事件の犯人と、同一人物と思われている。

 大体ゴミ収集車を運転する人間は、午前六時頃に収集所に入る。機械警備を解き、施設内の関係者以外立ち入りを禁止している扉の鍵を開く。事務室に寄って、収集車の鍵を取り、収集所の裏側の駐車場|(一般の車の駐車場は、収集所を挟んで入り口のほう)に向かう。そこで、顔がグチャグチャの死体とご対面したというわけだ。生肉を数時間放置したときと同じ臭いがした、という証言から、被害者は仏になってからそれなりに時間が経っていると思われる。

 第一発見者は、公務員の宮崎幸之助四十五歳。携帯電話で警察に連絡。パトカーでやって来た警察官に事情を説明。昨日は、息子とテレビゲームで対戦していたため(宮崎氏は子煩悩で有名)、容疑者の枠から外されている。

「…日下、わたしたちも現場へ行くわよ」

「了解です」

 びしっと敬礼のポーズを決める部下を見て、桂警部補は頬を優しく吊り上げて笑んだ。

 まだまだヒヨッコだが、こう見ると頼もしい。

 日下刑事の運転する車は、三十分掛けてゴミ収集所に到着する。現場の鑑識や既に入っていた他の刑事たちとも合流。零芯町を震わせている一連の殺人事件は、桂玲子が担当で請け負っているため、この場は彼女が指揮の棒を執ることになった。

 死体の写真を見たが、酷いものだった。下手なB級スプラッター映画よりもグロテスクに映る。そんなものも、度を過ぎるとなぜか美しく見えるものだ。ツクリモノはただひとつの目的のために作られるが、ホンモノは実在のもののため、人によって感想が違う。いうなれば、ツクリモノというのは、人間の一定の感情を呼び起こすためにあるものだ。

 事件に話を戻そう。

「死亡推定時刻は?」

 先に到着していた鑑識に尋ねる。

「深夜ですな、午前二時から午前四時の間になるかと」

 そう、と頷いた。

 すぐに玲子は、死体が置かれていた場所に唾をつける。

「……仰向けの状態になっていた…ということは」

 狐の目が、キッと鋭くなった。

 殴られたた衝撃で倒れ込んで、立ち上がろうとしたのだが、顔を上げると同時に鈍器(のようなもの)がお出迎え。そのまま何発も殴られた。と見るのが自然だろう。だがこれはひとつの可能性。もうひとつの可能性は、殺した後に|わざと仰向けに倒れさせたかだ。おそらくは前者のほうが高いだろうが…後者のほうも捨てきれない。もしかしたら、ジョーカーを打ち消すスペードの3になるかもしれない。手札は、二枚。相手はどんなカードを持っているのやら。

 どんなに弱い人間でも、鈍器を持ち上げる力さえあれば人を殺せてしまう。銃弾や刀剣類のように一撃で殺すものではない。確実に、頭に衝撃という衝撃を重ねて、脳を揺らし、内出血を起こして死亡する。後頭部を殴られた場合は、それだけで死ぬと思ったほうがいい。人を殺すことだけを目的としているのなら、それだけで事足りる。

 だから桂玲子は、犯人が快楽殺人者だと推理する。

 快楽殺人者は、確かに人殺しではあるが、殺人という行為自体が欲望でも目的ではない。殺人はあくまでも結果だ。?顔を見られてしまった?、または、?痛めつけているときにショック死、又は出血多量で死亡?。このふたつが殺人の理由。本来の目的と欲望は、「痛めつける」ことにある。そのことを考えると、快楽殺人者という言葉は正しくない。快楽傷害者といったほうが良いだろうか。

 よほど被害者の顔が憎いのか、それとも喘ぎ声が彼の股間を揺さぶったのか、苦痛に耐える顔が背筋に快楽を走らせたのか、原型を失うまで顔面を破壊するのは、最早麻薬中毒者というべきなのかもしれない。

「警部補、これを。死体の近くに落ちていたそうです」

 日下が何かを手渡す。柔らかい手ごたえだった。

 ビニル袋だ。中には、黒ずんでいる一切れの布らしきものがある。透明な膜に閉ざされているものを、外部から何度も撫でる。

「……これは、Tシャツの生地ね」

 一目でわかった。黒ずんでいるのは、血で染まっているからだ。乾燥してパリパリになっているが、縫い目は見逃さない。

「…そうか、これで凶器についた血を拭いたのね。このTシャツの生地は…犯人のもの、ではないか」

 結論付けて、顎に手を添えて考えてみる。

 もしもあの生地が犯人のものだったとしたのなら、簡単に犯人は捕まる。血だらけの服で、破れているTシャツを着ていた人物を探せばいいのだ。

 だがそこは犯人も…というか、理性的な人間ならすぐに気づくこと。犯人は、おそらくだが、被害者が、ゴミ収集所の制服の下に来ていたTシャツを破り、拭いたのではないか。破壊するべきは顔だ。多少の血の雨がついているだろうが、凶器を拭くのには何の支障もきたさない。

 ただの傷害快楽者ではない。欲望と手段と後始末(死体はともかくとして)を順序よく並べて動いている。

 どうしてこうも賢い奴なのだろうか。思わず警部補は舌を巻いた。

(まずいわね…。でも、……殺人を起こすペースが、速まった)

 最初は先月。その次がその先々週。昨日、そして昨日(今日)の深夜。犯人も欲望を抑えきれなくなったということか。下手をしたら白昼堂々、町中で殺人をやってのけるかもしれない。昨日の殺人でテンションが高くなり、抑え切れなくて今日やったのだと考える。

 早く被害者たちの共通点を見つければならない。そうすれば、次の被害者が絞り込めるし、護衛をつけたり囮にしたりできる。そこで襲い掛かってきた犯人を捕まえる。単純だが、なかなか勇気がいる作業だ。

 後は、付近住民への事情聴取……といいたいところだが、ゴミ収集所周辺は、田んぼや畑に囲まれている盆地なので、夜での殺人で犯人らしき人間を見つけることはできないだろう。

 波が去れば新しい波がやってくる。だがその間には、海も休憩を取りたいのか、僅かながらの時間がある。問題は、その時間がどのくらいなのか。

「……あの、警部補、少しよろしいですか」

 おそるおそるといった感じで日下が尋ねる。

「何?」

「あの、死亡推定時刻と、ゴミ収集所が開く時間を聞いて考えたんですが…」

「噛み合わないってこと?」

 はい、と、次は目を真っ直ぐ見て言った。

「だって、おかしくないですか。朝、収集所の鍵を開けるのは、青年団の人間ではなく、役所のほうから派遣された公務員の人なのに。公務員の人に頼まれた、っていうのも考えたんですけど、それだったら、公務員のように、六時にここへ来て鍵を開けるはずでしょう? 死亡推定時刻から考えると、どうもおかしいです」

「…なるほど。犯人の目的ばかりが頭の中にあって、見失っていたわ。見直したわよ、日下」

 いつもは厳しく痛いことばっかりをしてくる上司に褒められては、少し照れてしまう。

 日下は咳で照れを吹き飛ばして、続けさせてもらいますが、と断った。

「僕が考えるにですね」

「犯人と被害者は知り合い、又はそれ以上の関係……でしょう」

 結論を出す前に出された。泣きそうになったが、自分の推理が玲子のプラスになったのだと思い直した。

 実際、玲子は心の中で日下に感謝していた。いつもはなよなよして頼りないが、頭のキレは本物である。

「被害者の名前は?」

「杉本健太郎。名札に書いてありました。年齢はおそらく十九歳だと」

 ボランティア青年団には高校を卒業した人間、または十八歳以上ではないと入ることができない。十八で高校を卒業したということを考慮すると、日下の予想は適していると考えてよい。

 十九。それは、被害者たちの推定年齢の平均値。何れも殺された者たちは男だった。それぐらいならば別に問題はないのだが、被害者全員の推定年齢が十八から二十代前半だというのは気味が悪かった。

 数式にして、(18+20)÷2=19。小学生中学年でも簡単に答えを導き出せる。

「…零芯町内の教育施設での、ここ十年間のイジメの数、調べてある?」

 前述したが、零芯町には、幼稚園、保育園、小学校、中学校、高等学校と、それなりの教育機関が揃っている。学校というのは、ある種の箱庭だ。異なる者、妬まれる者、嫌われる者などはイジメられる。学校では頼れる人がいなくて、結果自殺に陥る。もしもこの事件の犯人がイジメられっ子で、小学校か中学校か高校かはわからないが、イジメられていたとしたら…。報復として、復讐として、殺しまわっているのかもしれない。

 対して日下は、

「確か、ゼロのはずでしたが…」

「馬鹿。どんな学校でも、評判を落とさないためにイジメを隠してるのよ。それか平和ボケした自分のことしか考えられない教師が、見て見ぬ振りをしてるかなのよ。どっちも同じことだけどね。これ、今いろいろと問題になっているじゃない。新聞とかニュースとか、観てないの?」

「…いえ、ですが…」

「小学校とか中学校のときに負った心の傷は、時が解決してくれるもんじゃないのよ。何かで補われて解決されるものなの。わかった? それじゃ、零芯町で十八から二十代前半、それから杉本健太郎の親族に事情聴取しに行くわよ」

「わかりました」

 ずんずんと車に突き進み玲子。後に続く日下。

 今日もスズキ・エスクードは忙しく零芯町を走り回る。

 

 

「健太郎が死んだ? …はは、ちょっと、お姉さん、なに冗談言っちゃってるんスか…。え、ホントーのこと? そうスか…。…あー、でも、あいつならやられかねないかなあ。え、なんでって…。…言っちゃっていいのかな。あいつ、学校でも屈指のワルだったんスよ。オンナ作らねえんだけど、人様のオンナを寝取ってて…。ほとんどキョーハクと同じようなものだったんスけどね、それが楽しくて楽しくてしょうがないって奴で…。金払えねえならてめえのヒミツをバラすぞ、とか。手口はいろいろッス。健太郎がいたら、自慢げに語ると思いますよ? そういうこと、ゼーンブ、昼休みの教室で、飯食いながら大声で言ってましたからね。しかも、喰ったばっかのオンナとか、カノジョ取られた奴の前でも」

 

「あいつは死んで当然の屑だと思いますよ。僕は小学五、六年生のほとんどを、あいつに奪われたといっても過言ではないですからね。トイレで…その、下品ですが、大きいほうをしていると、あいつは廊下に行って叫ぶんです。『うんこ星人がいるぞー』って。大便器って個室じゃないですか。ですから、逃場がないんです。掃除用具入れからホースを水道につないで、ジャー…と、蛇口を捻って。僕が泣きながら個室から出ると、次は、『うわ、お前がうんこ星人だったのかよ』って言った後に、『うんこ星人は流さないとなー』って…また、水を僕にかけたんです。卒業するまで、僕の仇名はずっとうんこ星人でした…。友達は便乗して杉本側になるし、女子の前を通るだけで臭いって言われて…。中学、ですか。ああ、地元が同じだから、同じ中学に行ったと。違います。僕は私立の中学に行ったんです。もうあいつとは顔を合わせたくないですよ。こういうのも何ですが、今回ばかりは犯人に感謝しています。え、今の僕は何をしているかって? …大学受験に失敗して、浪人中です…。…ああもう、なんですかその目は! 別に浪人なんて珍しくないでしょう!? 帰ってください!」

 

「…っく、そんな、ケンちゃんが死んじゃったなんて…。…ひっく、犯人、絶対許さなーい! え、高校生の頃のケンちゃんのことを? オバさんに教えなきゃならないの? うーん、オネーさんも仕事だもんね。うん、教えてあげちゃう。ケンちゃんと××(プライバシー保護)はね、なんと、深夜のゲーセンで知り合っちゃったんだぁ。後で同じ学校だって知って、ビックリしたけどねえ。ビビッて、すっごいウンメイ感じちゃった。ケンちゃん、すっごく格好良かったなあ。地元の暴力団のメンバーで、学校の取締役だったもんね。でもね、学校の奴等、てんでヘナチョコで、ケンちゃんの足元にも及ばない奴等ばっかでねぇ、みんなイイコちゃんぶっててチョーつまんなかったの。でもね、ケンちゃんがね…(これより先は、杉本健太郎の世間的な評価にはまったく関係ないものとして省略)」

 

「…杉本健太郎? ああ、覚えています。彼の担任でしたからね。…彼は、零芯中学最大の不良ですよ。十四歳で無免バイク、それもヘルメット無しで学校に登校してくる。バイクを置く場所が無いと言って、自転車通学者の自転車を蹴り倒す。成績の良いクラスメイト、あまり目立たない人間をイジメの対象に選ぶ。その子を庇った子も同じような仕打ちを受けていました。万引き自慢を大声で、授業中に煙草を吸う。教育実習生を仲間と一緒にレイプする。…散々でした。で、彼、どうしたんですか。もしかして、逮捕され…え、殺された? 殺すのならともかく、殺されるとは…。ですが…彼に恨み憎しみを持つ人間はいますからね…。不思議ではないでしょう…」

 

「…確か、高一、二年生ぐらいだったかな…。あいつ、野球部入ったんですよ。こういうのもなんだかな…。ほら、ああいうタイプの人間って、口では偉そうなこと言っておきながら、変なところで素直じゃないスか。漫画か何かの影響で野球にハマっちゃって、運動神経だけは良かったッスからね。そつなく何でもできるんですよ。アタマからっきしでも。野球部で結構頑張ってる奴がいましてね、本当に、青春を謳歌してるって奴が。…気に入らなかったんでしょうね、なんというか、『夢はプロ野球選手です』って感じが。野球部の中で、そいつを標的にイジメを開始したんです。いえね、同級生ならまだしも…一年生をイジメてて…。一年生って、なんかまだ高校入ったばっかりで何もわからないじゃないですか。だから、イジメられてる奴以外の一年生も、便乗して…。それが原因で、あいつ、退学することになったんスよ。野球部も潰れたような気がしまっす」

 

「健太郎が殺された? …いつかはやられるんじゃないかと思っていたんですけど、まさか、本当に、とは。ああ、健太郎と俺の関係でしたね。高校で健太郎の上級生だったんです。あいつの兄貴とは仲が良かったですからね。その縁で、不良だったあいつも、一般の学生だった俺にも気さくに話しかけてきたんですよ。あいつ、性根は腐っていますけど、変なところで歳相応な部分を持っていて。そういうところもあって、俺も見捨てることはできなかったんですよ。それで、俺が卒業した後、かな。あいつが問題…はい、そうです、野球部の件です。他の後輩から聞いて、何をやっているんだとあいつがよく行くっていうゲーセンに行って、恥ずかしながら店内で怒鳴ってしまいました。その後、あいつを監視する目的で俺の所属している青年団に入れたんです。行動するときは常に俺と一緒にさせました。団長の指示もあったんです。それで目に見える素行はないと思っていたんですが…。…………いえ、あれ、すみません。世間ではどう思われようと、あいつは俺にとって大切な後輩だったんで……はい、すみま…せん」

 

「健太郎に何かあったんですか。あの子について調べている、と。…警察の方では…ない。そうですか。保険会社の…? …あの子は可哀想な子なんです。自分の居場所を作る術を知らなくて…。力ずくでしか人と溶け込むことができない、そんな子なんです…。高校時代も学校側の圧力で無理矢理退学させられて…。信じられなかった。子供から何かを奪うのは、いつも大人なんです。その大人であり親であるわたしたちしか、子供を守れないんです。ああ、可哀想な健太郎…。…今の健太郎ですか。ボランティアの青年団に所属しているはずですが…。兄のほう? ……知りません。帰っていただけますか?」

 

 レコーダーが、今までの杉本健太郎に対する評価を読み上げる。どうやら相当な不良らしい。イジメは当然として、同級生の彼女を寝取る、万引き、恐喝、部活壊滅、青春に身を置いていた他の部員たちは、彼が退学したとき、さぞ喜んだに違いない。

 今までこんな悪行が公に曝されなかったのは、やはり学校側の隠蔽か。それぐらいしか考えられない。

 同じ国家公務員として、まったく情けない。

 他数人にも尋ねてみたが、大体の内容は同じものがあったので、省くことにした。

 しかし。どうしてこんな悪行の塊みたいな男に、青年団に入っても面倒を見てくれるという良き先輩がいるのか。世の中というのは、実は悪を中心に回っているんじゃなかろうかと思ってしまった。

 日下は腕を組んでうーむと呻っている。

「レコーダーの中の発言にもありましたけど、杉本健太郎という男は、変なところで純な少年だったんですよね。野球の漫画か映画かに熱中して、野球部に入っちゃうくらいに。…アレぐらいの年齢で、純な少年っていうと…………本気で恋をしちゃったり、とか」

「…アホ」

 ゴスンッ。目一杯の力で、日下の脳天を殴ってやった。真顔でふざけたことをいう奴には、鉄槌を下す。

「こいつが恋する少年に思える? 同級生の彼女を食っちまう欲望の塊…いいえ、そのものみたいな男なのよ? そんな奴が、まともな恋なんてできると思ってるの?」

「い、言われてみれば…」

「こういう輩は、悪いことをしていると自覚しながらそれを楽しんでいる類よ。『正攻法、格好悪い』っていうスローガンを、頭と心臓に焼きつかせていたんでしょうね。目先のことしか考えられない奴は、何れその身を滅ぼす。これから先、ウラの世界でも、表の世界でも、彼に居場所はなかったでしょうね。…確かに、これからの零芯町の平和のことを考えると、彼は死んでくれて正解だったかもしれないわ」

「け、警察がそんなこと言っていいんですか」

「当たり前でしょ。あんな屑を擁護するのは、屑を生んだ屑ぐらいよ」

 後に調べた結果、杉本健太郎の父親は、生活に耐え切れなくなって入水自殺をしたらしい。この父親も馬鹿なものだ。あんな屑との間に子供を作ってしまうとは。そして、教育を任せてしまうとは。

 どのような経歴で結婚まで持ち込まれたのか。一番確率として高いのは、出来ちゃった婚だろう。

「杉本健太郎に関してはわかりましたけど、他の被害者は…?」

「さあ。身元がわからなくちゃ調べようがないわ。…日下君、わたしのパン取って」

 はい、と忠実な新人は、自分と同じコンビニで買った菓子パンを取り出し、手渡す。封を切ってパクリとがぶりつく。

 束の間の休憩。ああ、平穏とはなんと素晴らしいことよ。

 警察に入ってから、日本の平和ボケさと平穏の大切さの両方を学んだ。…ぶっちゃけ、それだけだ。正義なんてものはない。代わりに法律の名の、感情に左右される機械が、犯罪者を裁く。

 幾らか特別過ぎる犯罪者ともやりあってきたものだ。例えば―― 魔術師とか。魔術師が関わる事件の度に、あの男に協力を依頼していた。

 だが。

 …どうやら、今回の事件は魔術とは関係がなさそうだ。それだけが唯一の救いである。あんな万国人間ビックリショーな力を拝見したくはない。それ以上に、あの男にできるだけ、いや、絶対に顔を合わせたくない。

 日下の話ついで、というわけではないが、桂玲子は、ある男に本気で恋をしてしまった。当に昔の話だ。できるなら、墓の中まで持って行きたい。いいや、それだけじゃ済まされない。あいつより先に死んだら、首だけ跳んでアイツの喉笛に噛み付いてやる――!

「……和広君も、大変な奴に捕まっちゃったわよね…」

 何となく、あの男が「奴隷」と呼んでいた青年のことを思い出して、遠い目で二年前を見つめる。

「和広君? 和広君がどうかしたんですか」

 食事を終えた日下は、白いコンビニの店名が書かれたビニル袋にゴミを詰め込んでいた。疲れているのか、ぼやいたのに気づけなかった。

「もしかして警部補、今回の事件も魔術が関連してるとか…」

「思ってないわよ。ただの連続殺人でしょうが」

 日下は魔術についてのことを聞くと青くなる。見ていて面白いのだが、以前失神しかけたこともあったので、やめておく。これ以上弄ると、あの屑と同等だ。

 はあ、と溜息をつく。

 魔術が錬金術…つまり、化学技術のひとつだということはわかるのだが。まだよくわからない。対処法も教わったには教わったが、経験はないために試すことが出来ない。だから、知り合いの魔術師に頼るしかない。

 …大丈夫、今回は、普通の事件。普通の連続殺人事件。魔術に関わると、世間では大事なことも、普通のことに見えてしまう。感覚が狂っているのは一時期だけだ。しばらく魔術と係わり合いを持たなければ、元に戻る。

「魔術って、御伽噺の産物だと思ってましたけど、本当にあるんですねえ」

「…魔術は化学的なもので、魔法は完全に空想(フィクション)のものらしいわよ。間違えないようにって言ってたわ」

 一般人(魔術師も一般人に入るが、何も知らないという意味での一般人)からしたら、どっちも同じようなものだ。それに魔術は、化学の中でもマイナー中のマイナーだと聞く。百万分の一の才能と努力がなければ、半人前とすら認めてもらえない。そんな門、誰が叩くか。

 菓子パンの袋を握り潰して、日下がゴミ袋代わりにしていた袋にそれを入れる。

「…次は、零芯高校に行きましょう。車お願いね」

「はい」

 魔術の話を切って指示を出す。運転席で頷いた日下は、キーを捻ってエンジンをかけ、体重を足に落としてアクセルを踏んだ。

 零芯高等学校には、前以って連絡をしてある。正門から入り、来賓用の駐車場に止め、事務室で用件を言い渡し、校長室へ案内される。ソファを勧められた後に腰掛け、人の良さそうな校長と対面した。

 木村校長は、今年で五年この高校に勤めているらしく、各年の問題児と一対一で語り合ったことがあるという。無論、杉本健太郎のことについても知っていた|(電話で確認)。

 左の壁のほうに、歴代の校長の写真がじっとこちらを見つめていて、どこか居心地が悪い。それに、学校の臭いはあまり好きではない。両者が重なって、…情けないことに日下は緊張していた。「学校」というものを卒業してから、あまり年月が経っていないからか。挨拶もそこそこに、本来ならば日下が話を進めるのだが、様子を察した玲子が切り出すことになった。

「電話でお話したとおり、今日の朝午前二時から午前四時の間に、何者かに杉本健太郎が撲殺されました。顔面が、判別不能になるまで…。ですが、名札や友人の証言から、遺体が杉本健太郎であるということを特定致しました。彼の人間性がどのようなものかもわかっています。彼の小学校生活から高校生活が、どのようなものなのかも知っています。ですがそれでも、彼を殺した者は犯罪者です。しかも、連続殺人。これ以上の犠牲者を出すわけにはなりません。別に、過去のことで貴方方を責める気はありません。杉本健太郎のイジメの対象になっていた生徒のことを、何か知りませんか」

 単刀直入に刺し込むと、木村校長は難しい顔で禿げ上がっている頭を撫でる。

「彼が登校していた時間帯。つまり、午前八時半から午後四時ぐらいまでのことです。放課後、部活の時間でのイジメは確認していますが、授業中や休み時間のことまでは把握し切れていません。…ああ、当時の彼の担任を呼びましょうか」

「お願いします」

 少しお待ちください、と言って、校長は自室から出て行った。放送室に行くためだろう。

 校長というのは、学校全体の責任を負うもの。かといって、生徒の全てを知ることができるはずもない。

 と、校長がひとりの教師を連れて入ってきた。

 校長は先の通りに、玲子と反対のソファに座る。その隣に、新しくやって来た教師も座った。

「初めまして、彼の担任だった西沢竜二郎です」

「こちらこそ。零芯署の桂です。早速ですが…」

「校長から旨は聞いています」

「いえ、少し確認していただきたいことが」

 ごそごそと、ポケットからテープレコーダーを取り出す。

「これには、杉本健太郎の同級生、それから中学校時代の担任に事情聴取したときの音声が入っています。まずはこれを聞いて、間違いがないかどうか確認してみてください」

 再生ボタンを押して、ふたつの職を仕切っているテーブルの中央に置く。

 標準装備のスピーカーから、車の中で聞き直した話が、一字一句間違えることなく再現された。

「間違いありません」

 テープが全てを物語った後、西沢竜二郎が断定する。

「ひとつ補足するのなら。彼は学校の時間、午前八時半から午後四時までの時間帯では、イジメを行っていませんでした。高校三年間…いや、二年間でしたか。彼がイジメを働いたのは、野球部に入ってからですね」

「西沢先生は、彼の人間性を知っていて野球部に入れたのですか」

「当時の顧問の方が、その昔『鬼』と呼ばれるほど厳しい方でしたからね。それで彼のひん曲がりすぎた根性が直ると思っていたのですが…。どうやら、最初から完成された根性だったようです」

 阿呆につける薬はない。馬鹿は死ぬまで馬鹿なのだ。言葉通り、『鬼』という薬も効果を発揮せず、馬鹿は馬鹿のままその生涯を閉じた。

「では、野球部に入っていたときイジメられていた子は?」

「田神良輔。今は高校三年生です。彼は野球部が潰されたこと、イジメられたことが重なって、言いにくいのですが、不登校中です」

「本気でプロ野球選手になりたかったら、転校とかも考えたのでは?」

「わたしも彼にそのようなアドバイスをしました。『お前には夢がある。あの程度のことで夢を忘れてしまうのか』…と。ですが、彼の家は、貧乏でしてね。父親が失踪、母親が彼と彼の兄をひとりだけで育てていて、これ以上母親に負担を掛けたくないと…」

 世の中には、他人が知らなくてもいい家庭の事情というものがある。

 田神良輔は、プロ野球選手になるために、それ以上に青春を楽しむために野球をしていた。野球そのものを楽しんでいた。だが気まぐれでやって来た悪魔に、その全てを破壊されてしまった。彼の憎しみは計り知れないだろう。

 ならば、彼を殺す動機は充分だ。

 だが。あくまでも連続殺人事件。殺害されたのは杉本健太郎個人ではない。田神良輔が犯人である可能性はあるにはあるが、三割以下というのが妥当だろう。

 その後もいろいろ情報を入手したかったのだが、結局、手に入ったものは、田神良輔のことだけだった。しかし、これは大きな前進であると踏んだほうがいいだろう。

 学校を後にしたときには、既に陽は傾き始めていた。

 情報をパソコンでデータ化するという日下と別れて、桂玲子は、再びゴミ収集所の事件現場に舞い戻っていた。

「……明日は、田神良輔の家に行くか…」

 とりあえず今日はここで終わり。後は鑑識や何やら任せて、署に戻ろう。

 桂玲子は、一日の終わりに必ず事件現場に来る。被害者に、絶対犯人を捕まえてやろう、という意志を伝えるため。

 …黙祷。

 長い髪を振り払って、夕陽を見つめる。これから報告書を出すことに気が付いて、頭が痛くなった。ついでに、足も痛くなった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 喜多村巴が去った後のトアル事務所。彼女の目的は帰省、つまり、養ってくれた血縁ではない両親の元に泊まるために隣県から零芯町に帰って来たのだ。なので、彼女がここで宿泊することはない。事務所内が静かになるのは必然的だった。

 和広は本を読むこともなく、窓を通して目に刺さる夕陽を眺めていた。

「………」

 小説の一文。『落ちる黄金の輝きは、少年の気持ちを表しているようだった』。

 普通の人間は、このような文章に共感し、感動し、時には涙を流すのだろう。だが、和広にはそれが理解できなかった。

 昼から夕方、夕方から夜を告げる黄昏。

「…? どうした、奴隷。よもや貴様が感傷に浸るなどと、ダチョウが宇宙に飛び立つほどありえないことが起こっているわけではあるまいな」

 妙な言い回しで、久瀬が尋ねてくる。夕陽を見つめたまま、否定の意を唱える。すると、そうか、と久瀬は答えた。それだけで、沈黙が訪れた。

 …何気なく、久瀬は、巴が持ち込んだ和広のための文庫本を手に取り、ペラペラと捲る。

 無駄な努力をしているな、と思った。

 鳴海和広の感情というのは、もう死んでいる。眠っているのならともかく、死んでいるものに目覚めろといっても無理な話だ。横たわっている死者に、蘇ってとすがっているのと同じ。死んだものは目覚めない。機能もしない。鳴海和広の感情という奴はそういうものだ。

「………まあ、そういうことをしているのを眺めることは、わたしにとって、甘い蜜なのだがな……」

 必死になっているもの、空回りをするもの、自身の失敗に落ち込むもの。皆同じようだが違うその感情の表し方。久瀬はそれを見下ろして笑うのが大好きだった。

「残念だが…人間に慈悲など無いのだよ」

 根元から捻くれている人間を治す薬は存在しない。

 むしろ彼は、甘い毒を好んで飲み干すだろう。

 元から、普通の人間とは違うイキモノなのだから。

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