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ないとめあカーニバル・ラビィの受難編2

作者: 谷崎春賀

こんにちは、谷崎です。いきなりですが、第一弾についての反省。説明不足のうえに誤字があったりと、いろいろやってしまいました、すみません。メアの髪型は普段おろしてるんだよーとか、そういう設定を書いてないことにあとで気づきました。ホント、初歩的なミスで面目ない。ま、反省はここまでにして―――やっと、ラビィ編の続編が書きあがりました! 短編なのに新キャラ三人ですよ、すごいな! 恋愛脳メイドさんにおじいちゃん執事、噂大好き侍従長…。侍従長といえば、王子レベルのキャラにつく使用人のトップなのに、こんなノリでいいのか? と、書いててちょっと不安になりました。これはこれで面白いなあと思って頂けることを願います…。ではでは、本編へどうぞ!

 朝、目覚めて最初に行うのは、身だしなみを整えること。騎士たる者、いついかなるときも自分を律することを忘れてはいけない。きっちりとした服装は、そのまま心の有り様に通じ、だらしなくしていれば、自然と心構えまでだらけてしまう。よって、どんな状況であろうと、とりあえず服装を整えることはラビィの身に染みついた習慣の一つだった。

「――はあっ」

 美しい湖の桟橋に座り込んで、溜息まじりに空を見上げる。

 基本的に闇に満たされた世界なので、どんなにたくさんの光を灯そうとも、空は暗いまま変わらない。暗幕を張りつけたような漆黒はどこまでも深く広がり、それはラビィ自身の命運を物語っているようにも思えた。

 そう、ありていに言えば、ラビィは失望していた。もっと正確に言うなら、ひどい自己嫌悪に陥っていた。

(……メア様が元凶とはいえ、まさか、こんなことになるとは…)

 よもや、魔界征服を企むメアの奸計にあっさりと嵌まって一族を裏切る羽目になった挙げ句、魔王と敵対する日が来るなんて、夢にも思わなかった。というか、夢でも受け入れがたいため、これが紛れもない現実なのだと目の前に突きつけられても、やはり、現実感がわかない。認めたくない。しかし――今、一番の問題点は、自分は、騎士として正しいことをしているのかということだ。

(…どう考えても、悪に加担しているとしか思えない……)

 幼い頃から騎士になることが夢で、なってからも、より強く正しい理想を追いかけてきたというのに、一人の我儘性悪女のせいで呆気なく未来は奪われた。

(…しかし、ナイト殿と契約している以上、ここを離れるわけにもいかんしな)

 ここは、メアの所有している別荘の一つ。近くには、澄んだ湖と広大な森があり、その森の奥には美しい鳴き声の小鳥もどきが棲んでいて、夜の訪れと共に鈴のように愛らしい声で歌を歌う。環境としては申し分ないのだが、いかんせん、この人事は本意ではないので、一向に心は晴れない。

 そもそも、この別荘の周辺にはメアの張った強力な結界が張られているので、危険は皆無なのだ。となると、七糸ナイトを外敵から守るという役目そのものが存在しないわけで、手持ち無沙汰なのもまた、心を落ち込ませる。

(……かといって、日課の自主訓練を始めようものなら、メア様の執拗なイビリと嫌がらせの数々に邪魔されるし)

 何より厄介なのが、七糸の生兵法だ。気軽に、剣を教えろだの魔法を教えろだのと、まるで戦争を知らない深窓の令嬢みたいなことを言い出して、教えたら教えたで足を痛めたり転んで擦り傷をつくり、その度にメアに殺されかけるこちらの身にもなってほしい。しかも、困ったことに彼は彼なりに真面目に自衛の術を習得したいと考えているらしく、無下にできないのがさらに面倒だ。

「………それにしても、やることがないというのは、一種の拷問に近いものがあるな…」

 引きこもり生活を脱して、一ヶ月。ずっと、もやもやとしたものが胸の辺りを圧迫している。

「――はあっ」

 また、溜息をつく。もう癖になってしまっているのか、自分で知る限り、朝から二十回は繰り返している無駄な行為だ。

 大きな湖は、宙に浮かんだ光の玉を映して、きらきらと眩しく輝いている。何をするでもなくぼんやりと湖面を眺めていたら、ふと背後で嫌な足音がした。振り返った瞬間、ラビィの表情が凍りつく。

「――お、お前はっっ」

 それは、小柄で愛らしい――そう、見た目だけはぬいぐるみのように無害で癒し系の柴犬・アルトだった。七糸の愛犬で、言語らしい言語は喋らない。そのくせ、目と尻尾で雄弁に心境を語り――今現在、アルトは明らかに喜んでいた。遊び相手を見つけて。

「く、くるなっっ!」

 アルトが嬉しそうに息を吐きながら、全速力で駆けてくるのが見えた。愛犬家ならば、両手を広げて満面の笑みで迎えてやるところだが、いかんせん、ラビィはアルトが苦手だった。

 何が嫌といって、言語が通じないというのがいけない。この世界では、種族が違っても声として発せられる言葉は、自然翻訳される魔法がかかっている。魔界全体にかけられたその大規模な魔法は、魔王が数百年もかけて施した代物であり、魔王いわく「言語が通じれば、無駄な争いは減るだろう」とのこと。しかし、異世界の民である七糸とアルトにはその魔法自体が作用しない。七糸の場合、メアの特殊魔法によって会話には困らないが、どういうわけか、アルトには魔法が効かなかったという。なので、その心のうちを知るための意思の疎通そのものができない。つまり、何を考えているのかわからないうえに、見たこともない動物の姿をしているために、本能的に警戒心が働き、遠ざけようとしてしまうのだ。

(……あのメア様の魔法が通じないとは、何とも恐ろしい奴だ!)

 いくら小さくとも、その身のうちにどんな凶悪な正体が隠されているのか。考えただけでも冷や汗が出る。

 とりあえず、ラビィは、突進してくる犬のじゃれつき攻撃を宙に飛ぶことで回避した。

 地上を見下ろすと、キュンキュンと切なく鳴きながらこちらを見上げるアルトの姿があった。寂しげな瞳も声も同情するに値するものだったが、ラビィは情には流されなかった。一度、七糸にどうしてもと言われて、恐る恐る近づいたところ、いきなり飛びつかれて怖い思いをしたのだ。

「……悪く思うなよ」

 呟いて、湖から遠ざかる。そのまま空を飛び、メアの屋敷の広いバルコニーに着地すると、ちょうど大広間で何やら作業していた七糸の姿を見かけた。

 彼は、すぐにこちらに気づいて、眼鏡の向こうでにこっと笑う。

「あ、ラビィさん。ちょうどよかった。ちょっと、手伝ってほしいんですけど」

 そう言った彼の手には、白い布が握られている。

「…別に構わないが」

 言いながら、周囲の様子を窺う。七糸のいるところ、必ずメアがいるからだ。しかし、どういうわけか、彼女の姿は見えない。念のため気配を探ってみるが、やはり、いない。珍しく、彼を置いてどこかに出かけているのだろうか。

(いや、そうと見せかけて実はどこかに隠れているのかもしれない…)

 そんな警戒心が顔に出たのか、七糸が小さく笑って教えてくれた。

「メアなら、さっき買いものに行きましたよ。その足で、女子会に行くとか言ってましたけど」

 そういえば、今朝、彼女を遠目に見かけたとき、いつもはおろしている髪をポニーテールにまとめていたのを思い出す。メアは、女子会や夜会といった煌びやかな集まりには、決まって髪を一つに結う癖がある。何でも、ヘアースタイルを変えるだけで、気合いの入りかたが違うのだそうだ。そこから察するに、今回の集まりも、楽しいだけの女子会ではなく、女たちのオシャレ対決というニュアンスも含まれているのだろう。

挿絵(By みてみん)

「…そ、そうか。いないのか」

 呟きながらも、ラビィの目には落ち着きがない。出かけているとわかっていても警戒してしまうのが、苛められっ子の悲しい習性だ。

「しかし、メア様のことだからお前をつれていきそうなものだが」

 不自然なほど周囲を気にしながら言うと、七糸が視線の端っこで苦笑するのが見えた。

「まあ、僕も半分は女なんだから一緒に行くべきだってしつこく誘われたんですけどね。さすがに断りましたよ」

「…ふむ。それは英断だったな。女の買い物も話も異様に長いからな」

 以前、無理矢理メアの買い物に付き合わされたとき、三日間もあちこち引き摺り回されて半泣きになった経験から、家族だろうが誰だろうが、女の買い物には二度と付き合わないようにしようと心に決めたラビィである。

 しみじみと呟く様子に、七糸は、ちょっと笑って椅子を勧めてきた。

「とりあえず、座りませんか?」

「…あ、ああ。それで、ナイト殿。一体、何をやっているのだ?」

 すぐ傍にあった椅子を引き寄せて訊ねると、彼は手にしていた白い布を広げてみせた。

「服、つくってるんですよ。こっちの世界のものは、どうも身体に馴染まなくて。やっぱり、家にいるときくらいは、Tシャツとジャージでくつろぎたいじゃないですか」

「てぃーしゃつ? じゃーじ? 何だ、それは?」

 耳慣れない言葉に首を傾げると、七糸はまばたきをしてから説明してくれた。

「えーと。何て言うのかな。部屋着っていうか、リラックススーツっていうのかな? とりあえず、一番、着慣れてて落ち着く服ってことです」

「なるほど。しかし、何故、自分でつくる必要がある? 服ならば、専属の仕立て屋にでも任せればいいだろう」

 当然のように言ったラビィの言葉に、彼はつくりかけのシャツに視線を落とした。

「…メアにも同じこと言われたんですけどね。でも、あの人たちにはやらなきゃいけない仕事がいろいろあるのに、何もしてない僕が用事を言いつけるなんてこと、できませんよ。それに、裁縫くらいなら学校の家庭科で習ったし、簡単なものなら自分でつくれそうだなと思って」

「――前から疑問だったのだが、ナイト殿はどういう環境で育ったんだ? どうにも、価値観というか、根本的なところがズレているような気がするのだが」

 使用人は、雇い主のために働くのが仕事だ。用事を言いつけられたからといって、それを拒絶したり嫌がったりする権利そのものが存在しない。ましてや、メアの下で働く者たちならば、七糸から用事を言いつけられたら喜んで受けるに違いない。七糸に気に入られるということは、メアに気に入られるのと同じことだからだ。

 ラビィの問いに、七糸は眼鏡を指で押し上げて、視線をバルコニーの向こうへ投げた。

「…環境といわれても、普通ですよ。ただ、僕は、こういう中途半端な存在じゃないですか。男なのか女なのか、どう扱えばいいのかわからなくて、これまで、友達と呼べる人は一人もいなくて――だから、今は毎日が楽しいですよ。メアがいて、ラビィさんがいて、屋敷のみんなもいるから」

 そう言って、七糸は膝の上に置いた布と鋏を手渡してきた。

「あ、これ、線に沿って切っていってください」

「…切ればいいのか、わかった」

 とりあえず、他にやることがないので、言われたとおりに布を裁断していく。

 正直、何故、こんな使用人がやるようなことをやらなければならないのかと思うが、他にやることもないので、地道に作業する。

 七糸はというと、糸と針を手に、器用に布を縫いつけている。形からして、シャツをつくっているようだ。

「――終わったぞ」

 作業は、思ったよりも早く終わった。七糸を見やると、彼のほうも一段落ついたのか、針を針山に戻して大きく伸びをした。

「ありがとうございます。さて、ちょっと目が疲れてきたし、休憩しようかな。ラビィさん、バルコニーでお茶でも飲みません?」

「ん? まあ、別に構わないが」

 会話だけ聞いていると、二人の間に主従関係があるとは思えない。七糸が普通に扱ってほしいというので、素で対応するように心がけているが――やはり、どうにもしっくりこない。

「ナイト殿。何度も言うようだが、いちいちこちらの意思を確認する必要はない。私はお前に仕えている身なのだから、命令すればいいだろう」

 何をするにも、七糸は命令せずに、こちらの様子を窺うような言いかたをする。七糸に会うまで、個人的な意見を求められたことがないラビィは、こういうとき、居心地の悪さを感じてしまう。ズバズバと命令してくれたほうが落ち着くのに、その辺りの気遣いが七糸には欠けていると思う。

 しかし、そんなラビィの意見に、彼はちょっと首を傾げてみせて、

「え? でも、僕はラビィさんのことは、年上の友達か、先輩みたいなものだと思ってますから、命令するとか、そんな立場じゃないですよ」

 なんて意味不明なことを言い出す始末。

(……やはり、よくわからないな。ナイト殿の考えは、常識から外れすぎていて)

 この辺が、異世界人との差なのかもしれない。

 七糸は、こちらの困惑には気づかず、部屋の前で待機していた侍従長にお茶の準備を頼んでいる。そう、命令ではなく、主人らしくない低姿勢で頼んでいるのだ。

(………このままでは、ナイト殿のためにならないのではないか?)

 ふと、そんなことを思う。

 主人たる者、それなりの威厳と品格がなくては使用人に舐められる。使用人に侮られるということは、すなわち、権威の失墜に繋がりかねない。

(…品格はともかく、ナイト殿は、何というか、こう――尊大さが足りないというか、迫力がないというか。主らしくないというのが、まず問題だな)

 このままでいくと、七糸の立場が悪くなるのではないだろうか。

 少なくとも、騎士の立場で述べるとするなら、七糸のように使用人と自分が同等だと言い出し、あまつさえ、部下に命令も下せないような人物が主となった場合、かなりの確率で死を覚悟する。そういう優柔不断な博愛主義者は、長生きできないからだ。特に、七糸に関して言えば、そこらに生えている雑草よりも生命力がないうえに、魔力も体力もなく、生き延びるための粘り強さも感じられない。せめて、主としての自覚ぐらいは持ってくれないと、この先、まともに生きていけないだろう。

(――となれば、仕える者として、私のやるべきことは一つ)

 七糸を立派な主にすること。少なくとも、使用人に舐められない程度には、主としての責任というか立場を自覚してもらわなくては。

 そう思うのに、肝心の七糸は、すっかり腑抜けた顔でバルコニーに置かれた椅子に腰かけて景色を眺めている。その姿のどこにも威厳だの主の品格だのは存在しない。あるとすれば、無防備すぎる背中だけだ。

(………メア様が私を引きずり込もうとしたのがわかる気がするな)

 七糸は、自衛の必要な世界にいなかったのだろう。今日の味方が明日の敵になる可能性を想像していない。だから、知り合ってさほど時間が経っていないラビィにも警戒しないし、裏切るかもしれないという恐れさえ抱いていない。

 よく言えば、純粋。悪く言えば、世間知らず。

(…これで、自衛の術を持たないとなれば――)

 敵地に丸腰で飛び込むようなものだ。いつ、どんな殺されかたをしても文句は言えない。何故なら、この世界は、平和なようでいて、実は危険なところだからだ。

 一般的には、この世界を統べているのは平和主義者の魔王ということになっているが、実際に統治しているのは、魔王ではなく各国の王たちだ。魔王は、あくまでも傍観者であり、管理者であるという立場を崩さない。よって、国々が戦争を起こしても、それが大規模なものにならない限り、表に出てくることはない。ただ、その力は、絶大で破壊的だという話だ。魔王が動けば、それだけで地形が変わる。世界が揺らぎ、国どころか、種族の存亡にもかかわる大災厄が起きると言われているが、ラビィ自身、その光景を見たことがないので、真偽のほどは定かではない。とりあえず、今、はっきりしているのは、この国も他の国々も決して安全ではないということだ。

(…とにかく、本人が能天気な以上、私がしっかりしなければ)

 使命感にも似たものを胸に抱き、ラビィはバルコニーへと出た。



      *        *        *



 七糸は、どこからともなく吹いてくる柔らかな風に瞳を細めた。

 ここには、太陽もなければ、月もない。それなのに、木々や建物は人間界とどこか似通っていて、住人が大型の獣タイプだったり、動物っぽい人間だという点を除けば、居心地は悪くない。むしろ、快適といえるかもしれない。

(……とりあえず、ここじゃ僕は普通にしていられるもんなあ)

 小さい頃から自分は男だと思い込んでいたのに、成長するにしたがって体つきが変わり始め、あっという間に女の子になってしまった。その事実は、七糸にとっては不快でしかなかったが、周囲の人々にとっては七糸が自分を男だと言い張ることのほうがよっぽどおかしなことだったらしい。気づいたら、周囲に友達や理解者と呼べる人は誰もいなくなっていて、本とゲームだけが友達になっていた。

 しかし、不思議と寂しいという気持ちにはならなかった。

(――うーん、ちょっと違うかも?)

 孤独というのは、大勢のなかで独りぼっちでいるから感じることであって、最初から周りに誰もいなければ、何も感じない。いや、感じなくなる、といったほうがいいかもしれない。

(…でも、高校受験とか将来とか、いろいろ考えなきゃいけないから、なるべく早く帰りたかったんだけど――)

 今頃、人間界では受験シーズン真っただ中に違いない。そして、受験できない七糸は、必然的に浪人ということになるわけで――。

(……冷静に考えたら、今、向こうに帰ったら帰ったで大変だよね)

 世間体というやつは、本当に面倒くさい。子供だろうが大人だろうが関係なく、その人間の価値を一方的に決定づける。あいつは、駄目な奴だとか。あいつは、ろくでなしだとか。一度、つまらない付加価値をつけられると、何年経っても消えることなく、ずっと尾を引いてしまう。七糸自身、身をもってそれを知っているから、なるべく波風を立てないようにしてきたというのに、いきなり、中学生で浪人確定とかありえない。

(…うわー、超格好悪い! でも、まあ、学歴がすべてってわけじゃないのもわかる気もするしなあ)

 つまり、物事は考えかた次第でマイナスにもプラスにもなるということだ。今の状況も、無為に過ごしているのではなく魔界に留学していると考えれば、ここでの時間も無駄にはならない。

 だいたい、海外と違って、魔界なんて来たくても来れないし、受験なんて来年受け直せばいいだけの話だから、とりあえず、現状を楽しんでおいたほうが得だろう。

 そう思いながら海みたいにだだっ広い森を眺めていると、近くにやってきていたラビィのもの言いたげな視線に気づいた。

「…あの、どうかしたんですか? じっと見て」

 訊いた途端、ラビィはいつになく大きな声で一言。

「それだっ!」

「…えっ、どれですか?」

 いきなりわけもわからず指摘されて困惑する少年に、ラビィはちょっと怒ったような口調で言った。

「だから、何故、私に敬語を使うんだ? どう考えても、おかしいだろう!」

「え? だって、ラビィさんは僕より年上じゃないですか」

 年上に敬語を使うのは、当たり前。そう答えた七糸に、彼は細い眉をきゅっと寄せて反論してきた。

「そういう問題じゃないだろう! だいたい、メア様には普通に話すくせに、何故、私には敬語になるんだ? 立場上、お前は私の主なのだから、もっとこう、威厳というか、主としての品格というか、そういうものを持つべきだろうと言っているんだ」

「――はあ、そういうものですか?」

 主の威厳だの品格だの、まるでピンとこない。というか、これまでの生活で、使用人だの護衛だのが必要になったことがないので、ラビィの考える『主らしい振る舞い』自体、どういうものだかわからない。

「まあ、確かに、契約っていうんですか? そういうの、した覚えはありますけど。でも、ほら、ラビィさんは大人の男の人で、一応、僕を守ってくれてるわけだし、常識として、それなりの礼儀は尽くさなきゃいけないじゃないですか。メアは――まあ、出会いが出会いだったし、見た目からして、僕よりちょっと年上のお姉さんって雰囲気だったから、敬語を使う機会がなかっただけで。別に、深い意味はないですよ」

「そこがおかしいと言っているんだ、私は!」

 ぴしゃりと、やんちゃな子供を叱りつける母親みたいな口調で言って、ラビィは腕を組む。

「最低限、私や使用人たちに敬語を使うのはやめろ。あと、妙な気遣いも無用だ。主たる者、威風堂々としていなくてはいけない」

「――はあ、威風堂々、ですか」

 いきなり威風堂々とか言われても、有名なクラシック音楽に、そんな名曲があったなあというくらいの感想しかない自分は、頭が悪いのだろうか。

 ラビィがやや白熱した様子で熱弁をふるう一方、七糸が話についていけずにぽかんとしているところへ、すっと一つの影が滑り込んできた。老執事のルーベクだ。

「フォッフォッ、ご歓談中、失礼いたします。お茶と焼き菓子をお持ちいたしました」

 馬の尻尾みたいに長い白ヒゲに、しわだらけの浅黒い肌。声はしゃがれて、ぴったりとした黒服をまとった姿は、どこからどう見ても執事以外の何ものでもない。彼は、メアが実家からわざわざ引き抜いてきた有能な人物で、温厚な性格なのに、メアの悪戯心を理解している、ちょっとお茶目なおじいちゃんキャラだったりする。

「あ、ありがとうございます、ルーベクさん」

 手早くテーブルの上に二人分のティータイムの準備をした老執事は、温和な笑みを浮かべた。

「フォッフォッ。礼には及びませんぞ」

 そう言って、すうっと流れるような動作で離れていく。それと入れ替わるようにして、額に小さな角のある鬼のような風貌の侍従長が現れ、目をぱちくりさせた。巨漢のわりに瞳は丸く小さめで、実に愛嬌のある顔立ちをしている。

「…お茶をお持ちしたのですが」

 言いかけて、一足先にセッティングの終わっているテーブルを見つめ、息を吐く。

「また、ルーベク様に先を越されてしまったようですね。まったく、あの方の耳の早さには、毎度のことながら脱帽します」

 侍従長・キルトバの呟くような声に、七糸は肩をすくめた。

「本当に、どこで聞いてるんでしょうね?」

 ルーベクとキルトバは、密かに、どちらが早くティータイムの準備をするかを競っているらしいのだが、七糸の知る限り、キルトバが勝てた試しはない。

「キルトバさん。そのお茶も置いていってください。ちゃんと飲みますから」

「――はい。次こそは、必ず先にお持ちいたしますので」

 深々と、キルトバが頭を下げる。

 思えば、この会話も飽きずに何度も繰り返されている。

 キルトバが準備したものを素早くテーブルに並べていると、ラビィが我慢の限度とばかりに声を上げた。

「だーかーらー、敬語は使うなと何度も言ってるだろうが!」

「わ、びっくりした! 急に耳元で大声をあげないでくださいよ、心臓に悪いなあ、もう」

 すぐ傍で唐突に発された大声に、心臓がびくりと飛び跳ねる。

 ドキドキする胸を押さえる七糸を不満げに見下ろしつつ、ラビィが言う。

「まったく、お前はどうしてこうも主としての自覚がないんだ。このままだと使用人に軽んじられることになるぞ。それはすなわち、主として相応しくないということだ」

「…お言葉ですが、ラヴィアス様」

 不意に、キルトバが割って入る。

「ナイト様に主としての自覚がないとおっしゃるのならば、それは、ラヴィアス様にも言えることではないでしょうか?」

「どういうことだ?」

 訝しげに訊くラビィに、キルトバは臆するどころか、飄々とした口調で言う。

「主人に対しての礼儀がなっていないように思われます。いくら騎士とはいえ、主人と同じ席に着くこと自体、恐れ多いことです。それに、その言葉遣い。それは、親しい友人等に用いるものであって、主人に向けて放つ言葉ではないでしょう」

「うぐっ。し、しかし、これは、ナイト殿がそうしろと言うから」

 キルトバの的確な指摘に、ラビィがわずかに後ずさる。

 それを好機とばかりに、キルトバは続けて攻める。一歩、ずいっと足を前に進め、

「それこそ、身の程知らずというものでしょう。主人がどうおっしゃろうと、ため口など、もっての外。常識外れもいいところです。主人に対し、誠心誠意、騎士としての礼を尽くすのが、ラヴィアス様の使命。違いますか?」

「――…いや、違わないが。だが」

「違わないのならば、今すぐ改めるべきでしょう」

 反論しようとするラビィを制するように、淡々としたキルトバの言葉が容赦なく放たれる。

「そもそも、ナイト様は、両性具有なのです。半分は女性なのですから、騎士としてエスコートすることはあっても、詰ったり叱ったりするなど言語道断。騎士として成すべきことを見失わないで頂きたいですね」

「……そ、それは――その、た、確かに、そうだな。す、すまない」

 ラビィは、もっともすぎるキルトバの言葉に負けて、すっかりしょげ返ってしまった。

(…うわー。ラビィさんって、何かちょろいなあ…)

 さっきまでの強気な発言はどこにいったのか。

 完全にキルトバに言い負かされ、それを悔しがるどころか、素直に反省しているところは何とも彼らしいが――。

(………思えば、ラビィさんって可哀想な人…じゃなくて、竜だよね…)

 メアに嵌められて一族と対立する羽目に陥っただけでなく、家族とも完全に縁が切れてしまい、今や、孤立無援の状態。

(……家族と離れ離れにされて、それでも僕との契約を守ってくれようとしてるんだから、僕にできることはしてあげないと)

 どうやってフォローすればいいのか考えながら、しょんぼりしているラビィを見つめていると、それに気づいたらしいキルトバが気を利かせた。

「…まあ、あまりナイト様にご迷惑をかけないよう心がけて頂ければ結構です。長々と失礼いたしました」

 すっと頭を下げて、キルトバがその場を離れた。

「えっと、ラビィさん。大丈夫ですか?」

 とりあえず、声をかけてみる。

 ラビィは、可哀想なくらい落ち込んでいて、ぶつぶつと何事か呟いていた。

「ああ、私としたことが何たることだ。確かに、ナイト殿の主としての自覚のなさは問題だが、それを責められるほど私は騎士として立派なのか? 否。思えば、ナイト殿と契約したとはいっても、実質、騎士としての働きは何もしていないではないか。そんな私に何を言う権利があるというのだろう。いや、あるわけがないではないか。そもそも、ここに来てからの私ときたら…」

「――うわ、何かめっちゃぼやいてる…」

 傍に七糸がいることすら忘れて自己嫌悪に没頭してしまっているらしい。何となく、負のオーラがこちらにまで流れてきてしまいそうだ。

「あ、あの、ラビィさん。そんなに自分を責めないでもいいんじゃないですか? ラビィさんは立派な騎士ですよ。僕のことを守ってくれてるんですから」

 とりあえず、慰めの言葉を並べてみると、ラビィがどこか虚ろな目でこちらを見た。

「――ちなみに、私のどの辺りが立派だと?」

「えっ!?」

 思わず、焦る。まさか、この切り返しは考えてなかった。

「え、ええと――ラビィさんの立派なところ、立派なところ…」

 しかし、思い浮かぶのは、メアにいびられて半泣きになっている姿ばかり。よくよく考えてみたら、ラビィが騎士らしいことをしているところを見たことがない。

(…ぶっちゃけ、一緒にお茶したり、散歩したり、たまに体力作りとか、護身術もどきを教えてもらったりとかしかしてないもんなあ)

 困った。騎士として褒めるべきところが一つも見つからない。

「――……」

 沈黙する七糸に、ラビィは吐息した。

「…わかっている。メア様に協力することになった段階で、すでに、私には騎士として生きる資格はないのだということくらいはな」

「えっ!? いやいや、生きる云々の話じゃないでしょう、こんなの!」

 急に、話がズドンと重くなったのは気のせいだろうか。

 何だか猛烈に不安になってきて、七糸は慌てた。

「えーと、ラビィさんのいいところはたくさんありますよ。ありすぎて、逆に言えないってだけで。だから、これからも頑張って強く生きてください!」

「? いや、まあ、今のところ死ぬ気はないが」

 どこか訝しげに言われて、七糸は、心底ほっとした。

「そ、そうですか、よかったー。急に生きる資格がないとか言い出すから、びっくりしましたよ」

「それは、騎士としてという意味でだ」

 そう言って、ラビィは咳払いした。

「――キルトバの言い分は、正しい。ナイト殿。私は、これからはお前に対して礼を尽くすことに決めた。よって、お前も主として私に敬語を使うのをやめてほしいのだが」

「あ、結局そこに戻っちゃうのか…」

 まあ、どうしてもというのならば努力はするが――何となく、釈然としない気がするのはどうしてだろうか。

「――どうして、そこまで言葉遣いにこだわるんですか? 第一、ラビィさんの場合、好きで僕と契約したわけじゃないんですから、主従関係とか気にしなくていいと思いますけど」

「そういうわけにはいかない。騎士たる者、好む好まざるにかかわらず、主に尽くすのが使命だからな。いや、使命なのです」

「――…別に言い直さなくてもいいのに」

「…いえ、礼を尽くすのは、騎士として当然のことです。お気になさらず」

 言って恭しく頭を垂れる様は、実に騎士らしい――が、七糸のよく知るラビィとは別人みたいな気がして、落ち着かない。

「…あの、ラビィさん。それ、やめません? 何か他人行儀で嫌なんですけど」

 言ってみるが、元々頭が固いラビィには通用しない。すっかり騎士モードに突入していて、とりあえず、周辺に危険がないかどうか確認してくると言って一人で飛んで行ってしまった。

「えーと…何か、僕、完全に置いてけぼりくってるんだけど」

 騎士というと、常に傍に控えているというイメージがあったのだが、傍にいなくてもいいのだろうか? それとも、あんなふうに、巡回するのも騎士としての役目の一つなのだろうか? だとしたら、随分と仕事が多くて大変だなあ。そんなことを考えているうちに、見慣れた細長い姿がみるみるうちに高く舞い上がり、尖塔の影に隠れて見えなくなった。

「――ラビィさんって、何か扱いにくいかも」

 ちょっと疲れたような口調で、七糸がぽつりと呟く。ラビィと話していると、妙に肩が凝る気がするのは、何故だろう。ぐるぐると軽く肩を回していると、背後から、思わぬ声が聞こえた。

「若者の特権ですな、あの石頭っぷりは」

「! び、びび、びっくりした!」

 しゃがれ声に飛び上がって驚いた七糸が振り返ると、背後に立っていたのは執事のルーベクだった。長いヒゲをさすりさすり、ラビィの消えた尖塔を見上げる。

「そもそも、騎士という奴らは、口を揃えて『主のために』と言いますがな。あれは、どうも好かんのですよ。連中の考える『主のため』と、主自身が感じる『自分のため』とは完全に別モノだということに気づこうともしないのですから、心は離れる一方ですわな」

「…ルーベクさんは、ラビィさんとは顔見知りなんですよね?」

 ラビィはメアの元婚約者だという話だったので、当然ながらメアの実家にいた執事・ルーベクとも顔を合わせたことがあるはずだ。

 ルーベクは、フォッフォッといつものように笑い、肯定した。

「メア様ほどではないですがな。よく存じておりますとも」

「――やっぱり、主従関係とかにうるさい人ですか? 僕としては、友達というか、そういう感じで接してほしいんですけど」

 その言葉に、ルーベクがヒゲをさする手をとめた。

「そうですなあ。他の騎士どもに比べれば、随分と静かな人物だと思いますが…。そうそう、ナイト様。敬語を使われるのがお嫌ならば、やめろと一言、命じればよろしい。それがお願いではなく命令ならば、あの石頭も拒めんでしょう」

「――うーん、それも何か違うんだよなあ…」

 もっとこう、自然体で接してほしいというか。主従関係抜きで仲良くなりたいというか。

「命令しちゃうと、何か大事なものが壊れるような気がするんですよねー。命令しないで、ラビィさんと打ち解ける方法って何かないですか?」

「ふむ、難しい問題ですな」

 再びヒゲをさすりながら唸ったルーベクは、ふと大広間の奥にある扉へと目を向けた。

「お前は何か思いつかないのかね、キルトバ?」

 さして大きな声で言ったわけでもないのに、ルーベクの問いかけに応えるようにドアがノックされた。

「えーと、はい、どうぞ入ってください」

 侍従長は、七糸の声に短く返事をして、ゆっくりと入ってきた。

「どうせ、卑しくも聞き耳を立てておったのじゃろう。話は、聞いた通り。お前の意見をナイト様にお話しなさい」

 キルトバは、指示を出した老執事をちょっと不満げに一瞥して、七糸に一礼した。

「失礼ながら、ナイト様。先ほどのお話ですが――少々、視点を変えてみてはどうでしょうか?」

「視点を変えるって、どういうことですか?」

 訊ねると、キルトバが、大きな体躯には似合わない神経質そうな声音で答えた。

「――騎士というものは、総じて、規則や体面に縛られているものです。それは、我々使用人の比ではないと聞きます。ということは、それに伴う精神的負荷もケタ違いなわけで」

「うんうん、何か大変そうだよねえ」

「そこで、発想の転換をするわけです。ラヴィアス様があそこまで意固地になっている原因は、持ち前の騎士道精神のせいです。しかし、あれはもう、代々擦り込まれた呪いのようなものだと思われますので、そこは置いといて――」

 ここで一旦言葉を切り、キルトバはやや声を潜めた。

「…実は、知り合いの使用人から聞いた話なのですが、騎士のストレスにまみれたかたくなな心を解きほぐす最終手段というものが存在するそうなのです」

「え、そんな方法があるんですか? すごい! で、どうするんですか?」

 わくわくしながら目を輝かせた七糸と興味深げに耳を傾けるルーベクを前に、キルトバは真剣な顔つきで告げた。

「――あの手の職種の者には、総じて、特定の傾向、いえ、性癖があるらしいのです。そう、束縛されたい願望が!」

「……え…? 束縛?」

 予想していたのと話の流れが違うような気がするが――首を傾げつつも話を促してみる。

「ええと、つまり、それってどういうことですか?」

「要するにですね。命令を好むが故に自己主張というものがなく、絶対的な主導権を握っている主人に束縛・支配されることに生き甲斐を感じているのです。よって、そこから導き出される結論といたしましては――彼らは、磨き抜かれたドMなのです! 命令され、服従することを最大の喜びとする騎士の心を掌握するには、常にドSであれ! ということですね!」

「――…え、ど、どえす? え、それって、その、そういう意味で…?」

 磁石とは無関係な、SとMがペアになって行われる刺激的なアレのことだろうか。

(………いやいや、まさか、そんな…)

 あまりにも想定外すぎる内容に、頭がついていけない。そもそも、十五歳の、大人になりきらない子供に聞かせるような内容ではないだろう。

 しかし、ぽかんとしている七糸と違い、ルーベクは得心がいったとばかりに頷いた。

「ふむ、一理ありますな。あのメア様に散々苛められたにもかかわらず逃げ出さなかったのは、ラヴィアス様くらいのもの。ということは、騎士には、M傾向があると思って間違いはないでしょうな」

「え、そ、そうなの!? ラビィさんって、実は、そういう人!?」

 言われてみれば、メアに嫌がらせの数々を受けても、仕返しをしようとかそういう気概は微塵も感じなかった。ということは――。

「…嫌がっているように見えてたけど、本当は、好きでメアに苛められてたってことなのかな…?」

 理解できない。あまりにも次元が違う。大人の世界すぎて、ついていけない。

「で、でも、だとしたら、僕には無理かも。ラビィさんを苛め倒す自信なんてありませんし」

 弱気になる七糸を、ルーベクが温和な口調で励ました。

「何もしないうちから決めつけるのはどうかと思いますぞ、ナイト様。男ならば、行動あるのみです! 不肖ながら、このルーベクとキルトバが、粉骨砕身ご協力いたします故、ご安心なさってください!」

 男ならば、というフレーズに、七糸が敏感に反応する。

「…そ、そうですよね、男なら逃げちゃ駄目ですよね。これしか、ラビィさんと仲良くなる方法はないわけだし――わかりました、ルーベクさん、キルトバさん。僕、心を鬼にして頑張ってみます!」

「さすがは、ナイト様です! どんな困難にも立ち向かう、その心意気! このルーベクの記憶に、生涯、刻み込まれましょうぞ!」

「……ええと。何か、ときどき、メアみたいなこと言いますよね、ルーベクさんって」

 本気で感涙しそうなルーベクの様子にちょっと引きつつも、七糸は二人を見つめて頭を下げた。

「…仕事を増やして申し訳ないですけど、僕に協力してください。お願いします」

「! そんな、恐れ多い――どうか、そのような真似をなさらないでください!」

 キルトバが慌てた口調で言い、ルーベクは楽しげにフォッフォッと笑った。

「ナイト様にそこまでされたとなれば、こちらの士気も上がるというもの。のう、キルトバ?」

「は、はいっ! ナイト様、必ずや成功させましょう!」

 キルトバが、ただでさえごつい手を強く握りしめて、こちらを見つめる。

 つぶらだが、どこか剣呑としている鬼の瞳にちょっと怖いものを感じつつも、七糸は頷いた。

「はい。やるからには、成功させないと意味ないですもんね。そうとなったら、まずは計画を立てませんか。やっぱり、こういう下準備からきっちりしとかないと」

 普段はのほほんと生きている七糸だが、やると決めたことだけはしっかりと集中して行うことにしている。

 大広間に戻った七糸は、テーブルの上に広げたままの布を手早く片づけて、椅子に腰かけた。

 この大広間は、来た当初は何も置かれていなかったのだが、七糸がここからの景色が一番好きだと言ったところ、メアがテーブルや椅子、本棚や雑貨類を置いて、広すぎるリビングのように模様替えしてしまったのだ。そのため、かつては、ここで頻繁に開かれていた舞踏会や音楽会といった夜会は、別の別荘で行うようになった。

(……ホント、いろいろ気を遣わせちゃって悪いなあ)

 連れてきたのはメアだが、その好意に甘えているのは自分なので、若干、申し訳なく思っていたりもする。

「…ナイト様、お茶が冷めてしまいましたので、新しく淹れ直してまいります」

 キルトバがテーブルの上をあっという間に片づけて、ちらりと執事を一瞥してから部屋を出て行った。それを横目で見やりつつ、ルーベクは、筆記用具とノート代わりの羊皮紙を数枚、七糸の前に準備した。

「あ、すみません」

「いえいえ、お気になさらず」

 温和な声で言い、七糸が気にならない位置に移動するあたり、いかにも執事らしい気の利かせかただ。

「ええと、とりあえず、何をどうしたらいいんですかね?」

 SだのMだの言われても、正直、ピンとこない。

「…僕的には、苛めるのが好きな人がSで、その逆がMって感じなんだけど。この世界でも同じなんですか?」

「そうですな。まあ、ざっくばらんに言ってしまえば、そうなるでしょうが――世のなか、マニアというものがございましてな。あのレベルに達してしまえば、正直、我々の常識が通用するかどうか」

「……マ、マニアですか? よくわかんないですけど、ちょっと怖いですね」

 願わくは、ラビィがそこまでひどくなければいいのだが…。

 不安げな表情になる七糸に、物知り執事は優しく言う。

「まあ、そこまで到達するには相当の試練があると聞きますが――まずは、相手がどの程度のレベルなのかということを探ってみるというのがよろしいのではないでしょうかな?」

「あ、そうですね。それは大事ですね」

 とりあえず、メモする。

「…まずは、ラビィさんのM度を探ること、と」

 書いてから、何だか目を背けたくなった。

(……文字に変換すると、ラビィさんより僕のほうが変人っぽい気がするな…)

 ただの中学生なのに、何故、こんな脇道に足を踏み入れようとしているのか…。

 ちょっとだけ、ここで踏みとどまったほうがいいのではないかという思いがよぎったが、温かなお茶を淹れてくれたキルトバの再登場で、意識が元の位置に引き戻された。

「ナイト様、お茶をどうぞ」

 すっとカップの載ったソーサーが、音もなくテーブルに置かれる。

「…あ、ありがとうございます」

 礼を述べて、七糸が温かな茶を一口飲む。適度な温度に、好みの甘さが全身に染み渡る。

(……原材料が何なのかは、あえて考えないことにして)

 とりあえず、美味しいお茶を味わっていると、唐突に、ルーベクが口を開いた。

「キルトバ。例のものは持ってきたかね?」

 その問いに、キルトバが頷く。

「もちろん、抜かりなく」

「? 何なんですか、例のものって」

 以心伝心で通じているらしい二人を交互に見やると、七糸の目の前に思いがけないものが置かれた。

 見るからに、黒々と光って不気味な気配を放つ、物体。それは――。

「――…む、鞭?」

 初めて実物を見るが、一目でそれとわかる。しかし、これをどうしろというのか。

「あとは、これですな」

 ことりと、テーブルに赤くて図太い物体が置かれる。

「――…ろ、蝋燭……」

 思いきりしなりそうな鞭と、真っ赤な蝋燭。

 どう好意的に考えても、その二つからは、ある光景しか思い浮かばない。

「とりあえず、それらを使用するのが王道と思われます。ナイト様は初心者ゆえ、そちらから参られたほうがよろしいかと――」

 真面目な声で言われて、七糸は思わず声をあげた。

「む、無理無理無理っ! これ、どう考えてもアダルトなほうじゃないですか! 十八禁ですよ、僕には荷が重すぎますっ!!」

「しかし、それがもっとも一般的な道具だと聞いておりますが」

 キルトバが困ったように呟き、ルーベクが納得したように、ふむと唸る。

「…ナイト様は、初心者のうえに、半分は非力な女性。これらの道具を的確かつ効果的に扱えるかどうか。まずは、そこから考え直す必要がありますな」

「いやいや、考えるも何も、道具は使いませんから!」

 珍しく大声で訴えると、ルーベクが、ほう、と感心したような声を漏らした。

「…道具なしで挑むのですか――ふむ。さては、ナイト様。実は、マニア、ですな?」

「え、そ、そうなの!? 道具使わないとマニアになっちゃうの!?」

 まさか、自分にそんな一面があるとは思えないが――キルトバは、やけに感慨深げに同意する。

「ただでさえ難しいお役目だというのに、あえて無手で挑もうとは……さすがです、ナイト様! それでこそ、メア様のお選びになった御方です!」

(…それって、褒めてるつもりなのかなあ?)

 メアといい、キルトバといい。いちいち、褒めるところがおかしい。

 それはともかく、鞭と蝋燭から二人の意識を逸らせなければ。

 七糸は、一つ咳払いをしてから、仕切り直した。

「えーと、道具を使わないでいい別の方法を考えたいと思います。できれば、暴力的でアダルトなのはナシの方向で」

「――肉体的ダメージが駄目となると、あとは、精神攻撃しかありませんが」

 キルトバの言葉に、ルーベクが憂鬱な息を吐く。

「それは、やめておいたほうが賢明じゃろうな。儂の見たところ、ラヴィアス様のメンタル面はさほど強くない。ほれ、メア様に嵌められたと知ったあと、寝込んだうえに部屋に引きこもっておったじゃろう。あれから推察するに、かなり打たれ弱いとわかる」

「そういえば、そうでしたね」

 一週間も寝込んだうえに、一ヶ月も引きこもっていたのだ。そのときのことを思い出すと、確かに、精神的に追い込むのはよくない。

「…となると、他に方法は」

 しん、と場が静まり返る。三者三様の思案ポーズで考え込み、最初に声を発したのは、七糸だった。

「ええと、とりあえず、ラビィさんのMレベルを探ってみて、詳しい方法はそれから考えるということでどうでしょう?」

 その提案に、執事と侍従長が顔を見合わせてから頷いた。

「そうですな。情報収集しておいて損はないですからな」

「…では、私めが探って参ります」

 言って動こうとするキルトバを、七糸が制止する。

「あ、ちょっと待って。僕の問題だし、僕が訊いてきますよ」

 仕事の時間を割いてまで相談に乗ってくれている彼らに、これ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。

 七糸は、ポケットに蓋を閉めたインク瓶を放り込み、紙とペンをつかんで立ち上がった。

 行き先は、湖の桟橋。バルコニーで彼を待つのもいいが、見回りに行くと言っていたので、空からよく見える場所にいたほうが早く会えるだろう。そう思って、桟橋に向かっていると、途中で柴犬のアルトに会った。

「…姿を見ないと思ったら、こんなトコにいたのか」

 頭を撫でると、嬉しそうに鼻をこすりつけながら尻尾を振る。

 きらきらした瞳も、柔らかな毛並みも、とても愛らしい。

「――そういや、ラビィさんって犬嫌いなんだっけ」

 人懐っこいアルトは、よほどのことがない限り噛んだり襲いかかったりしないのに、ラビィは近づくだけで逃げようとする。

「…こんなに可愛いのに、何でだろうねー?」

 もしゃもしゃーっと頭を豪快に撫でると、アルトが嬉しそうに地面に寝っ転がった。しゃがみ込んで、温かな犬の腹部を撫でてやっていると、ふと視界が翳った。頭上を仰ぐと、空中で一時停止しているラビィの姿が見えた。

「――あ、ラビィさん。見回りは終わりましたか?」

 立ち上がって訊くと、ラビィがアルトを警戒しつつ答えた。

「…はい。結界内および周辺に異状及び危険はありません」

「……はあ、そうですか。ところで、ちょっと話があるんですけど。いいですか?」

 その言葉に、ラビィがアルトを見つめる。

「――ご命令とあらば」

 そう言うものの、アルトが気になるのか、かなりの距離をとって着地する。

「アルト、キルトバさんにおやつもらっておいで」

 優しく話しかけると、アルトは、少し離れたところに立っていたキルトバのところへ一直線に駈けていった。侍従長であるキルトバは、いつも七糸の視界に入らない場所で、陰ながらフォローしてくれている。出会った当初は、いつもどこにでもくっついてくるので、気になって仕方がなかったが、その不満を告げた日から、物陰に隠れるようになった。

(…これはこれで気になるけど……)

 そのうち、慣れれば気にならなくなるのだろう。

 アルトがいなくなるのを待って、七糸はラビィに近づいた。



        *         *         *



「ええと、ラビィさんに訊きたいことがいくつかあるんですけど」

 七糸は、ラビィから一メートルほど手前で一時停止して、きょろきょろと周囲を見回した。

 その視線が、ある一点でとまる。

 湖の畔にある、ベンチだ。

「あ、あっちで座って話しませんか。そのほうが都合がいいですし」

「…はあ、構いませんが」

 都合がいいとは、どういう意味なのか。

 少し疑問に思いつつも、ラビィは素直に従う。

 二人は、一メートルほど距離を取って、並んで座った。

 目の前できらきらと輝く湖は嘘臭いほど綺麗で、どこからともなく流れてくる木々のざわめきもどこか爽やかに感じられる。

(……一体、何の話なのだろうか?)

 立ち話ではすまない内容だから、ここまで移動したのだろうが――。

 一抹の不安を覚えつつも、七糸が話を切り出すのを待つことにする。

「ちょっと待ってください。ちょっと準備するんで」

 七糸はそう言って、膝の上に数枚の紙を置き、右手にペンを持った。携帯用のインク壺をベンチに置いて、インクをペン先に浸してから、こちらを見る。

「ええと、まず、一つ目の質問です。ラビィさんの好きなシチュエーションを教えてください」

「…は? シチュエーションって、一体、何のですか?」

 唐突すぎる質問に面食らう。

 きょとんとするラビィを見つめ、七糸は言いにくそうに言葉を濁した。

「え、と――だから、その、ラビィさんがされて嬉しいことというか、こういうことされるとテンション上がるなーみたいな状況っていうか…」

「???」

 訊かれている質問の意味が理解できない。

「…つまり、何をしているときが一番楽しいかという質問ですか?」

 自分なりに解釈して訊き返すと、七糸はぱっと表情を明るくした。

「そうです、それです! で、どういうのがいいですか?」

「どういうのが、と言われましても――」

 そういうことを意識したことがないので、よくわからない。

「…強いて言えば、剣術の訓練をしているときですね。楽しいというよりは、無心になれるのがいいです」

 そう答えたら、何故か七糸がひどく悲しそうな顔をした。

「…やっぱり道具がいるのかー。でも、剣って……当たったら死んじゃうよね、絶対」

「? いえ、実戦ならともかく稽古なら死にはしませんよ。せいぜい、怪我する程度です」

 説明を付け加えるが、七糸の顔色は冴えない。

 緩慢な動作で、羊皮紙に見たこともない文字を書き込む。

「剣を使うのが好き、怪我も大歓迎、と。じゃあ、次の質問。苦手な食べ物は何ですか?」

「……特にありません。好き嫌いをしていては、立派な騎士にはなれませんから」

 七糸が、再び羊皮紙に書き込む。

「…食べ物の好き嫌いはなし、と。じゃ、苦手なスポーツは?」

「――いえ、別に」

「じゃあ、苦手な人とかは?」

「……ご存じの通り、メア様ですが」

「メアが苦手、と。それじゃあ、次の質問」

 七糸は、こんな調子で十数個ばかりの質問をして、羊皮紙に書き留めていく。その様子をラビィは不思議そうに眺めた。

(……今さら、私のことを調べて何をしようというのか――)

 そう思いながら、七糸の複雑怪奇な文字を見つめていたのだが――ふと、よくない考えが脳裏をよぎった。

(…ま、まさか、私の騎士としての実力を疑っているのでは!?)

 思えば、七糸には情けないところばかり見られている。騎士らしい振る舞いどころか、使用人以下に思われても仕方のない光景の数々が思い出される。

(――確かに、これまで、何の役にも立っていない。いや、それどころか、ナイト殿にあれこれ気を遣わせてしまっているではないか!)

 メアの執拗なイジメから助けてくれたり、心配してくれたり。はっきりいって、七糸を守るどころか、守られてきたような気さえする。

 主従関係というものは、互いへの信頼感がなければ成立しない。ましてや、主が疑問を抱くような無能な部下は、即刻首を切られて終わる。

 しかし、七糸の生温い性格からして、そんなに厳しいことは言わないだろうし、言えないのだろう。

(……つまり、これは、婉曲に私を責めているのではないのか!?)

 お前は、騎士として半人前だと。もっと、しっかりしろと。

 そういう話なら、口に出して文句なり不満なりを言われたほうがマシだ。七糸自身に悪気はなくても、じわじわと精神を圧迫するようにして責められたら、正直、凹んだまま浮上できなくなる。

 思えば、昔から家族や親戚、騎士仲間や教官から、メンタル面の弱さを指摘され続けてきた。もちろん、ラビィ自身、問題を克服しようと努力したのだが、持って生まれた資質はどうしようもない。この無駄に素直で甘い性格は、周囲の人々に好感を与えることはできても、騎士としては致命的な欠陥でしかなかった。

(……私の甘さは、もはや、努力して治るものではないのかもしれないな)

 敵を追いつめて降伏させることはあっても、死を覚悟して突っ込んでくる敵相手にとどめをさすことができない。一対一で向き合ってしまうと、どうしても考えてしまうのだ。

 相手にも家族がいて、仲間がいて、夢があって。たとえ、戦争だとしても、それを無情に奪うだけの権利が自分にあるのかと。

(…どうせ戦うのなら、敵は大勢のほうがいい)

 普通は逆なのだろうが、顔の判別もできないくらい大勢いたなら、余計なことを考えずにすむからだ。

 本来、騎士の役目は大きく分けて、二つある。一つは、主を護衛すること。もう一つは、国からの召集令により戦争に赴くことだ。ラビィの場合、ほとんど後者の役目を言い渡されることが多かった。

(……竜族のなかでも、四枚羽の竜は少ないからな)

 火竜、水竜などの違いにかかわらず、竜といえば二枚羽の者がほとんどだ。しかし、稀にラビィのような四枚羽の竜が生まれる。数万体に一体、生まれるかどうかというほど稀少な存在で、そうして生まれた者は、決まって他の竜よりも、魔力や身体的能力がずば抜けて高い。そのために、絶対的な実力を必要とする断罪者と呼ばれる者たちは、ほとんどが四枚羽の竜で構成されている。才能という点においてはラビィも彼らに負けていないはずだが、戦った場合、弱すぎて勝負にならないだろう。何故なら、ラビィは騎士として生きるには、あまりにも優しくて甘すぎるからだ。ついでに疑うことをしないので、嘘でも敵に「降伏する」と言われると、すんなりと信じてしまう。それで何度も痛い目を見ているのだが、どうしてもやめることができずに同じ過ちを繰り返してきた。

(……最終的には、一族からはぐれて、こんなところで隠居生活みたいなことをしているわけだが…)

 七糸の警護というよりは、療養にでも来ているような感覚だ。そして、七糸がこれまたラビィに優しすぎて、さらに気が緩んでしまい、騎士としての自分を見失いかけていた。

 これでは駄目だと名誉挽回しようと思った矢先に、七糸の質問攻撃がきた。

(…このままでは、まずい。何とか、ナイト殿に頼りになるところを見せなければ!)

 そう思うものの、ここはメアの結界のなか。基本的に、平和で安全で、とても穏やかだ。騎士としての出番などあるはずがない。

(――わ、私は一体どうしたらいいのだろうか?)

 思わず頭を抱えそうになったところへ、チャッチャッと爪の先で地面を掻くような小さな足音が聞こえた。それを耳にした途端、背筋がぞわわっと寒くなる。

「あ、アルト。おやつ、食べ終わったの?」

 七糸の声に、アルトが尻尾を振りながら近づいてくる。

「っっっ」

 その無邪気だか凶悪だかわからない姿に、ラビィが反射的に立ち上がる。それに気づいた七糸が、慌ててアルトに声をかけた。

「アルト、待て」

 アルトの耳がぴくりと動いて、足がぴたりととまる。前足の片方をぶらんと宙に浮かせたまま、もの言いたげな瞳で七糸を見つめる。

「…駄目だよ、今はちょっと待って。ラビィさんと話してるから」

 七糸の言葉がわかるのか、アルトがやや耳を垂れて、しょんぼりする。それを少し寂しそうに見るナイトの横顔に、ラビィははっとした。

(…そ、そうだ! もし、ここで私がアルト殿と仲良くなれば、これ以上、ナイト殿に気を遣わせずにすむのではないか?)

 それは、名案に思えた。

 苦手を克服するのは、騎士として必要不可欠なことだし、いつまでも逃げ回っているなんて格好がつかない。何より、主に気を遣わせたうえ、そんな寂しそうな表情までさせては、騎士失格だ。

 ラビィは、ごくりと唾を飲み込んで、やや低い声を出した。

「だ、大丈夫です、ナイト殿。いつまでも苦手なものから逃げ回っていては、騎士の名折れ。私に克服の機会をお与えください」

 その言葉に、七糸がまばたきをした。

「え、でも――…本当に、平気なの? ラビィさん、いつも、アルトを見たら脱兎の如く逃げ出してたのに。この前だって、背後からじゃれつかれそうになって、ものすごい悲鳴をあげて森の向こうまで飛んでいったじゃないですか。なかなか帰ってこなくて、心配したんですよ?」

「……それは忘れてください」

 いい加減慣れてもいいのにと思うが、アルトは基本的に気配がないから困る。いや、正確には、敵意や殺意といったものが皆無なので、背後から忍び寄られた場合、本当に本気で恐怖を感じてその場を離脱することしか頭に浮かばなくなる。安全なところまで逃げてしまってから、とんでもなく凹んでしまって、帰るに帰れなくなるのがパターンになりつつあった。

「とにかく、もう逃げるわけにはいかないのです! たとえ、背中の鱗を引き剥がされようが、顔中を生臭い舌で舐め回されようが、死ぬ気で耐えてみせます!」

 勇気を奮い立たせるように言ったラビィの言葉に、七糸が心底嫌そうな表情でぼそりと呟いた。

「……うわあ、やっぱりMな人は言うことが違うなあ。痛々しいったらないよ…」

「何かおっしゃいましたか?」

 よく聞こえなかったので訊いてみたが、教えてくれなかった。 

 とりあえず、気を取り直して、一時停止したままのアルトの正面に立つと、ひゅううっっと冷たい風がラビィの鼻先をかすめて通り過ぎた。

「いざっ!」

 じっと、互いの目を見つめて相手の出方を窺う。

 アルトの黒々とした瞳には、悪意も敵意もない。しかし、同時に好意も友好的な雰囲気もない。

「あ、ラビィさん。駄目ですよ、そんな怖い顔で睨んじゃ。もっと笑顔で、フレンドリーにいかないと!」

「わ、わかりました!」

 七糸のアドバイスに、ラビィは視線を逸らせることなく、口角を吊り上げた。友好的というよりは、何かよからぬことを企んでいるようにしか見えない腹黒そうなつくり笑いに、アルトが警戒して唸る。

「っっ!!」

 地を這うような威嚇の声に、頬の辺りにピリピリとした緊張が走る。

 しかし、ここで逃げてしまえば、いつものパターンになる。

(……が、我慢だ、我慢っ!)

 今、自分は騎士として大事な局面に立たされている。ここでの行動いかんで未来が決まるといっても過言ではない。

 本当は、死ぬほど逃げたいけど。

 アルトの気が変わって、戦いをやめてくれるといいなあとか思ったりしているけど。

 しかし、戦意を胸に秘めた四本足の獣は、唸りつつ、ゆっくりと足を動かせる。正面にではなく、やや斜めに歩を運び、じりじりと近づいてくる。

(――やはり、できるな。アルト殿)

 ほどよい距離を保ちつつも確実に間合いを詰めてくる、この見事なまでの足さばき。そこには、一分の隙もない。しかも、全身の感覚を研ぎ澄まし、敵を見据える獰猛なまでの眼光ときたら、一流、いや達人レベルのハンターそのもの。

(…しかし、私とて騎士として、いや、戦士として場数を踏んでいる!)

 だから、遅れはとらない。たぶん――いや、きっと…。

 じりじりと、睨み合い、互いの思考を探り合う時間が続く。

 いつ、どう攻めるか。

 それは、相手の目や足の動き、気の流れでだいたいわかるものだ。しかし――。

(………よ、読めない…)

 言葉が通じないのは元より、アルトの表情からは、戦いにおける計画性や指針などがまったく感じられない。戦法や武器、扱う魔法の種類など、まったく未知数の相手を前に、ラビィはこれまで感じたことのない焦りに捉われていた。

 それが、伝わってしまったのか。それとも、まったくの偶然か。

 アルトが、ふと視線を逸らした。

 七糸が声をかけたのだ。

「アルト、ちょっと落ち着いて。っていうか、ラビィさんも。犬相手に本気で戦おうとしないでください。おとなげないですよ」

「お、おとなげないっっ!?」

 これからまさに死闘が始まろうとしていたところなのに、思わぬ注意を受けて、ラビィが困惑する。

 七糸は、ふうっと息を吐いて、ベンチから立ち上がった。そして、アルトの頭を優しく撫でてやる。

「…よしよし、唸っちゃ駄目だよ。ラビィさんは敵じゃないんだからね」

 くうんと、アルトが反省したような声を出し、鼻をこすりつけるようにして七糸にすり寄る。七糸は、すっかりアルトの愛らしさに夢中だ。

(……アルト殿。な、何て計算高い奴なんだっっ)

 さっきまでの緊迫した空気はどこへやら、ご主人様の機嫌を取りつつも甘えてみせるとは。これでは、ラビィのほうが完全に悪者ではないか。

 案の定、アルトを撫で終わった七糸は、ラビィに呆れたような眼差しを送ってきた。

「……アルトが苦手なのはわかりますけど、ラビィさんのほうがどう考えても強いんですから、喧嘩を売らないでくださいよ」

 あまりにも理不尽なセリフに、ラビィが敬語を使うのも忘れて訴える。

「なっ!? 何故、私だけが叱られなければならんのだ! 第一、喧嘩を売った覚えはない。いや、むしろ、アルト殿のほうが先に唸ったではないか!」

 だから、アルトのほうに非がある。そう言いたかったのだが、七糸は眼鏡を指先で押し上げ、どこか同情たっぷりな眼差しでこちらを見上げてきた。

「――…ラビィさん。犬と竜を同等に扱えというほうが無理ですよ。同じ『動物』というくくりでも、戦闘力は地球人の一般人とスーパーサ○ヤ人並みに違うんですから、ラビィさんのほうが大人になって受け流すくらいでないと。っていうか、仲良くなろうとしてるのに、何で戦おうとするんですか? わけがわかんないんですけど」

 その問いに、ラビィが苛立ちながら答える。

「だから、さっきも言っただろう。こちらに戦意はないというのに、アルト殿が唸ってきたからだ。それはすなわち、戦闘開始の合図ではないのか?」

「いやいや、違うから。ラビィさんがものすごい形相で構えてたのが怖くて唸ってただけだから」

「? 私は普通にしていたぞ。それどころか、友好的な笑顔を浮かべていたではないか!」

 怖いのを我慢して、無理矢理笑顔をつくってまで敵意がないことを証明してみせたというのに、アルトは警戒心を剥き出しにして戦闘モードに突入したのだ。

 よって、ラビィは何も悪くない。戦いを挑まれたから、それに対抗しようと身構えていただけなのだから。

 しかし、七糸は言う。どこか疲れた表情で。

「――いや、かなり怖かったですよ? 笑顔っていうか、今にも取って食いそうな不穏な空気が漂ってましたし」

「な、何だとっっ!?」

 まさか、そんなふうに映っていたとは。

 やはり、恐怖心があると、笑顔は笑顔に見えないらしい。

「……そ、そうか。それならば、非はこちらにもあるということになるな」

 ちらりとアルトを見下ろすと、ぱっちりとした瞳でこちらを見つめていた。その目はとても澄んでいて、ラビィを責めているような感じはどこにも見えない。

「…申し訳ない、アルト殿。決して、喧嘩を売るつもりはなかったのだ。それだけは、わかってほしい」

 アルトは、ちょっと首を傾げつつ、鼻を近づけてきた。どうやら、わかってくれたらしい。周囲の空気が、みるみるうちに和らいでいく。

「よかった。これで仲良しですね」

 七糸が嬉しそうに言った途端、アルトが親しげにラビィの足にすり寄ってきた。

「ひいっ!?」

 ぞわぞわーっと寒気がしたが、我慢する。ここで引いたら、せっかく縮まった距離がまた開いてしまう。

(…平常心だ、平常心! とにかく、無心になれ!)

 逃げ出したい衝動をこらえつつ、七糸の期待に満ちた眼差しを裏切らないように、恐る恐る手を伸ばす。アルトの頭に向かって。

「ラビィさん、頑張れっっ! もうちょっとですよっっ」

 震える手を動かせて、あと十センチで指先がピンと立った獣耳の先に当たろうかというところで、アルトが思わぬ行動に出た。

 くいっと顎を上げたかと思うと、二、三度ラビィの指先を嗅ぎ――隙ありとばかりにガブリと噛みついたのだ。

「っっっ!?」

 ラビィがびっくりして手を引っ込めるが、指先に痛みはない。当然だ。ヒトの形に変化しているとはいえ、竜の皮膚は硬い。ちょっとやそっとでは傷一つつけられない。

 それを知らなかったアルトは、噛みついた直後にキャンッと痛そうな悲鳴をあげて、ラビィから距離を取った。どうやら、攻撃されたと思ったらしい。完全に敵を見る目つきになっている。

「わ、わっ! ラビィさん、手、大丈夫ですかっ!?」

 七糸が青ざめて、ラビィの手を取る。しかし、そこには歯形もなければ血痕もないのを見て、不思議がりつつも、ほっと息を吐く。

「…ご、ごめんなさい。いつもはこういうことしないんだけど……気が立ってたみたいで」

「いや。こちらこそ、いきなり頭を触ろうとしたからな。驚いたんだろう。悪いことをした」

「――でも」

 七糸がちょっと落ち込んだ表情で、うつむいたとき。

「ナイト様、危ないですよーっっ!」

 キルトバの声に引かれて、七糸とラビィが反射的にそちらを向いた。

「なっ!?」

 瞬間、ラビィの視界に飛び込んできたのは、手のひらよりも一回り大きな石だった。避ける暇もなく、ラビィの眉間辺りに直撃する。ゴスッと、嫌な音が響いた。

「ラ、ラビィさーんっっ!?」

 痛みはほとんどないが、衝撃までは消せない。視界が揺らぎ、そのまま後方へ倒れ込む。七糸を巻き添えにして。

「ナイト様ーっ!」

 キルトバが巨体を揺らしながらも音は立てずに駆け寄ってくるのがわかった。

「いたた。って、ラビィさん、大丈夫ですか?」

 背中のほうから声がして、ラビィは慌てて飛び起きた。

「す、すまない。私としたことが……」

「ううん、不可抗力だし、気にしないでください」

 尻もちをつく形で座り込んでいた七糸を立たせようと手を差し出したとき、

「ナイト様、危なーいっっ!」

 無防備なラビィの横腹に、キルトバの飛び蹴りが見事に決まった。

「ぐはあっ!?」

 戦闘民族出身のキルトバの蹴りは、鋭い剣の一閃と同等のパワーを秘めていた。何とか受け身は取ったものの、じりじりと焼けつくような痛みに顔をしかめる。

「ラ、ラビィさーんっっ!?」

 七糸の声が少し遠くに聞こえる。見やれば、五メートル以上も吹っ飛ばされていた。

「ちょっと、キルトバさん! さっきから、何やってるんですか!? いきなり石投げたり、蹴り飛ばしたり。ひどいじゃないですか!」

 珍しく本気で怒る七糸に、キルトバはスポーツマンのように爽やかに額の汗を拭う仕草をしてみせて、ラビィを見据えた。

「…いえ、知り合いの使用人が言っていたことを思い出したのです。騎士というイキモノは、異常なほど女に手が早いという話を。本当に危機一髪でしたね、ナイト様! あのまま、手を取っていたら、あの輩に何をされていたか――ああ、考えただけでも恐ろしいっ!」

「ちょっと待て! 手が早いとか、何の話だ!?」

 確かに、騎士のなかにはそういう輩もいるが、それはごく一部だけだ。少なくとも、ラビィはそういうことに興味がない。そもそも、好きでもない相手を口説いたところで何の意味もないではないか。

 しかし、キルトバはやけに自信満々に言う。

「いいですか、ナイト様。いくらナイト様がご自分は男だとおっしゃっても、半分は女性だということをしっかり自覚なさってください。そもそも、騎士という者は、女と見れば見境なしに口説く習慣があると言います。正義面して、虎視眈々と女性の隙を狙っているのです。いくら仲間とはいえ、気を抜いてはいけません。ましてや、手を握るなど言語道断! そのままお持ち帰りで、気づいたら翌朝ですよ!」

「そんなわけがあるかっっ!」

 偏見もいいところだ。キルトバは、何でもかんでも人の話を鵜呑みにするので困る。

 ちらりと七糸を窺うと、僕は信じてませんよという笑顔を浮かべて、すすすっと距離を取られた。どうやら、キルトバの話を真に受けているようだ。

「ち、違う、誤解だ! 確かにそういう軽薄な輩もいるが、私は違うからな!?」

 無実を訴えるラビィだったが、キルトバは鬼の首を取ったような顔つきで七糸に囁いた。

「…やはり、見境なく女性を口説く不埒な輩もいるそうです。騎士相手に油断は禁物ですよ、ナイト様!」

「…そ、そうですね。僕は男だけど、確かに気をつけなきゃ」

「そうです。あえて両性具有、もしくは同性を口説くという変わった趣味の者もいるでしょうから」

「…ま、まさか、ラビィさんも」

 不安げにこちらを窺う七糸の眼差しに、ラビィは強い口調で否定した。

「私にそんな趣味はない!」

「ふうむ。はっきり否定するところが、これまた怪しいですな…」

 背後から低いしゃがれ声が聞こえて、ぞっと背筋が寒くなる。

 見やれば、白いヒゲの老執事――ルーベクが立っていた。

「気配を断って背後に立つなと言ってるだろう、ルーベク!」

 思わず上擦った声で言うラビィに、ルーベクが笑う。

「フォッフォッ、失礼いたしました。つい、若かりし頃の癖が出てしまいまして」

 ルーベクは、影男と呼ばれる特殊種族の出身である。人や物の影のなかを自在に動き回ることができ、暗殺や密偵といった隠密行動を得意としている。現役を退いでからは、執事として働く一方、メアの周辺にいる者たちの身辺調査を行ったりしているらしいが、メアを孫娘のように可愛がっているせいで、その行為が行きすぎることも多々あった。

 そんな彼は、長い白ヒゲをしごくように撫でつつ、会話に参加する。

「ちなみに、儂の調査によりますれば、ラヴィアス様の好みの女性像は、まず、品行方正であること。次に、控えめで誰にでも優しい博愛主義者であること。容貌は、か弱く儚げで、思わず守ってあげたくなるような感じがよろしい、とありますな」

 すらすらと事前に準備した原稿を読み上げるような流暢な喋りに、ラビィはうすら寒いものを感じた。

「……ど、どこからそんな情報を取ってくるんだ…」

 誰かに話した記憶はないし、自分でもそこまではっきりしたビジョンはなかったというのに。だが、まさにそんな女性がいれば、思わず心惹かれてしまうかもしれないと思う。

 気味悪そうに自分を見るラビィを一瞥し、ルーベクは七糸を見つめた。

「以上のことを踏まえますと、残念ながら、ナイト様。ラヴィアス様には充分に警戒なさったほうがよろしいかと存じます」

「だから、なんでそうなるんだ!?」

 いきなり降りかかってきた火の粉を払おうと、ラビィが全力で吠える。

 それをやや冷やかに見やり、老執事は咳払いをした。

「ならば、問わせていただきますが、ラヴィアス様。もしも、ナイト様が身体的だけでなく心まで女性だったとしたら――どうですかな?」

「は? どうといわれても、別に何も思わないが」

 そもそも、七糸に関しては、本人が男だと言い張っているので、そういう目で見たことは一度もない。両性具有の扱いは、本人がそうありたいと願うほうの性別が優先されるので、ラビィもその通例に従っているわけだ。

 しかし、ルーベクは何が気に入らないのか、気難しげに目をすがめてみせた。

「儂の知る限りでは、ラヴィアス様のやたらめったら無駄に高い理想のすべてを兼ね備えておられるのは、ナイト様ぐらいしかおられません。魔界の女性は、揃ってプライドが高く、男など、自らを飾りつけるための服飾品にすぎないと考えているような者ばかり。戦闘力も男に劣るどころか、それ以上ですからな。いやはや、女性は強しです。よって、ラヴィアス様はナイト様にとっては要注意人物ということになるわけです」

「何故、そういう話になる!? だいたい、性別にかかわらず、ナイト殿は私の主ではないか! そのような方を相手に、間違いなど起こすはずがないだろう!」

 まあ、なかにはそういう知り合いがいないでもないが――この場では、黙っておいたほうが賢明だろう。

 しかし、断言するラビィを見据え、ルーベクはぴしゃりと言う。

「そうやって、自分は無害だ、安全ですよと言う者に限って、問題を起こすのです。それに――ラヴィアス様、このルーベクはしっかり見ておりましたぞ! ナイト様の白く柔らかな、それこそ絹よりも繊細な御手に触れてほくそ笑んでいるのを!」

「どこ情報だ、それは!? だいたい、手に触った覚えなんか――」

 ない、と言いかけて、ふと思い出す。

 アルトに噛まれて、心配した七糸が手を握ってきたことを。

(――そういえば、確かに白くて柔らかくて小さい手だったな)

 細くて、頼りなげで。そのか弱げな印象が心を通りすぎて――はっとする。

 三人が、もの言いたげな眼差しでじーっとこちらを見ていたからだ。

「やはり、ほくそ笑んでいたのですな」

 ルーベクが低い声で言い、

「ナイト様、あの顔は確信犯ですよ!」

 キルトバが勝ち誇ったような顔つきで七糸に囁く。

「――ラビィさん…」

 七糸は呟き、ひどく気まずそうに視線を逸らせた。

「…すみません。僕、男には微塵も興味がないので、そういうの、本気で勘弁してください。迷惑です」

「ちっがーうっっ!」

 全力で否定するが、すでに三人のなかでは結論が出ているらしい。

「さ、ナイト様。変質者は放っておいて、屋敷に戻りましょう」

 キルトバが優しく言い、ルーベクもそれに続く。七糸は、ちょっと申し訳なさそうにこちらを見たものの、声をかけることなく去っていく。その七糸の足元で、アルトが唸りながらこちらを警戒している姿が見えた。

「ちょっ、待っ!」

 引き留めようとするが叶わず、ラビィは一人、湖の畔に取り残された。

「――何故、こんなことに…」

 がっくりと肩を落として、項垂れる。

「……私は単に、騎士としての名誉と信頼を取り戻したかっただけなのに――」

 ベンチに腰掛け、泣きそうになりながら小一時間ほどぼんやりと湖を見つめていると、右方向から、さくさくと草を踏む音が聞こえた。

「ラヴィアス様ーっ!」

 声をかけてきたのは、メア付きのメイドの一人・リシリーである。本日は、厳しいメイド長がメアに付き添って出かけているためか、表情も声も明るく朗らかだ。

 彼女は、ふわふわした青い三つ編みを揺らしながら近づいてきて、きらきらしたスミレ色の瞳でラビィの冴えない顔を見つめた。

「聞きましたよ、ラヴィアス様! ナイト様に愛の告白をなさったそうですねっ!」

「愛の告白!?」

 どうやら、この一時間の間に、話がおかしな具合に捻じ曲げられて伝わっているようだ。

 もちろん、ラビィは声を大にして否定したが、噂話以上に他人の恋愛事情が大好きという彼女には通用しなかった。

「はあっ、素敵すぎます。主従を超えた愛! メア様に殺されることも覚悟のうえで、そんな――っっ! この感動は、言葉にできませんっっ!」

「頼むから、無責任な噂を撒き散らすな! というか、リシリー。その話を誰から聞いて、どこまで伝わっているんだ?」

 まさか、七糸はそんなことは言わないだろうし、執事のルーベクもそこまでしないだろう。ということは――。

「もちろん、侍従長のキルトバ様ですよ」

「やはり、そうか!」

 彼は、見かけは無口そうなのに、意外と口が軽い。

 リシリーは、ふわふわした髪を揺らしながら、白い頬に手を当てて言う。

「何でも、ラヴィアス様がナイト様にいかがわしいことをしようとしたところに、格好よく飛び蹴りをして助けに入ったとか聞きましたけど」

「何っ!? いかがわしいことなど、何一つしていないぞっ!?」

 とんでもない話に目を剥くラビィに、リシリーが無邪気に微笑んだ。

「わかってますよ、それくらい。ノミの心臓のラヴィアス様にそんな大胆な真似ができるわけありませんし。せいぜい、手を握ったとか、その程度でしょう?」

「――ま、まあ、その通りだが」

 ノミの心臓というところを気にしつつ答えて、ラビィは自らの発言に焦った。これでは、本当に七糸に手を出そうとしたみたいに伝わってしまうではないか。

 案の定、勘違いしたリシリーは、きゃあっと頬を赤らめて、メイド服のスカートをひらひらさせた。

「やっぱり、本当だったんですね、あの話! ああ、もう、主従で三角関係とか、超萌える展開! 頑張ってくださいね、ラヴィアス様! メイド一同、応援してますから! ま、どうせ無理だと思いますけど!」

 満面の笑顔でここまで喜ばれると、反論する気も失せる。というか、もう、何をどう説明すればいいのかわからなくなってきた。

挿絵(By みてみん)

「――…私は、どう答えればいいんだ…?」

 ああ言えば誤解され、こう言っても誤解され。果てのないアリ地獄状態だ。

 すっかり暗い表情のラビィを見つめ、ふと、リシリーは声を潜めた。

「…ラヴィアス様。大丈夫ですよ。玉砕した挙げ句、メア様に半殺しにされても、私たちがいますから。いつでもお相手しますよ。恋でもデートでも、夜伽でも」

「よとっ!? な、何を言い出すんだ、お前は! 軽率にそういうことを口にするな!」

 慣れない色恋の言葉にラヴィアスが赤い顔で怒ると、彼女はちょっと困ったように笑った。

「いえ、うちのメイドの間じゃ、ラヴィアス様人気すごいんですよ! だから、ちょっと抜け駆けしとこうかなーと思いまして」

「……そ、そうなのか?」

 どういう意味での人気なのかが気になるが、好かれているというのはいいことだ。その一言で、傷つき、弱りきった心が癒されていく気がする。

 しかし、そんなラビィの傷心っぷりを知らないリシリーは、無邪気に残酷な真実を突きつけた。

「そう、大人気ですよ! だって、ラヴィアス様は、離反されたとはいえ、貴族出身じゃないですか。しかも、名誉ある騎士という大層な身分もありますし、何より、他の貴族男に比べて明らかに女慣れしてませんから、ちょっと色目つかっただけで即陥落しそうですしね。玉の輿に乗ろうと思ったら、ラヴィアス様を口説くのが一番手っ取り早いってメイドの間では有名なんですよ!」

「――………」

 まさか、自分の知らないところで、使用人たちにそんな扱いを受けていたとは思いもしなかった。

 何だか、無性に切なくなってきた。このまま地面に突っ伏して、土に同化できたら、どんなに楽か…。

(……私は、どこで道を間違えたのだろう…)

 七糸に会ったときか、はたまた、メアと婚約したときか――。いや、メアがこの世に生まれ落ちた、その瞬間からかもしれない。

「? ラヴィアス様? どうなさったんですか?」

 リシリーが心配そうに顔を覗き込む。それに手を小さく振って応えて、ラビィは立ち上がった。

 ここで落ち込んで引きこもるのは簡単だが、それでは、何も変わらない。

(――もう、余計なことは考えないようにしよう。変に何かしようとすると全部裏目に出るからな)

 これからは、心を無にして、騎士としてやるべきことだけをやろう。そうしていれば、いつか誤解は解けるだろうし、失った信頼も取り戻せるに違いない。

 そう自分自身を慰めたラビィだったが――残念ながら、それすらも叶わなかった。

 女子会から帰宅したメアが、語るのも恐ろしい制裁を加えたのち、ラビィに対して七糸への接近禁止令を出したからだ。

「……半径十メートル以内接近禁止って。それで、どうやって主を守れというんだ…」

 理不尽すぎる。横暴すぎる。それ以上に――やるせない。

 しかし、命令厳守の掟が心身に染みついているラビィは、命令に抗うこともできずに、誤解が解けるまでの二週間、七糸からきっちり十メートル離れた木陰や物陰から、こっそりと様子を窺うしかなかったのだった。




                               《 完 》


読んで頂き、ありがとうございました! いやあ、ラビィ可哀想という声があちこちから聞こえてきそうな気がします。ないとめあシリーズに関しては、次回、ラビィ編の続きかメアの話を書きたいと思います。ラビィに関しては、あと一、二話くらいで格好いい見せ場をつくってあげたいなと思っています。実はすごい強いんだよーってところを書いてあげたいですね。メア編の場合は、七糸との出会いと拉致までを書く予定です。我儘で鬼畜なメア様も、本当はいろいろ乙女な悩みとか可愛いところがあったりします。ま、いつ書き終えるかわかりませんが…気長に待って頂けると嬉しいです。最後に、本編に出てきた鞭と蝋燭の持ち主について。あれは、メイド長の私物です。彼女の趣味は動物調教。何の動物かは、想像にお任せします…。それでは、再びご縁があることを祈って。            谷崎春賀。

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