少年大号泣
前回のラストより、数時間ほど遡った状況からのスタートです。
馬車を降りたヒロユキはとギンジは、道なりに歩いていた。だが、ヒロユキは異変に気付く。ギンジの足取りが妙に重いのだ……いくらも歩かぬうちにギンジは立ち止まった。そして腕時計に視線を移す。
「ヒロユキ……ここで止まれ。人と待ち合わせをしてる」
「人……ですか?」
「ああ……オレたちの協力者だ」
そばにあった巨大な切り株の上に腰掛ける二人。待っている間、ギンジは一言も話そうとしなかった。ヒロユキの不安はさらに強まる。一体、何なのだろう? 自分たちにしかできないこと、とは? 人と会うとは?
ヒロユキは考えながら、何の気なしに横を見る。その瞬間、心臓が止まりそうになった。赤いローブを着た男が、自分のすぐそばに立っていたのだ。
「だ、誰だ!」
ヒロユキは弾かれたように立ち上がった。警戒心をあらわにした表情で身構える……しかし、ギンジに肩を叩かれた。
「ヒロユキ、落ち着け……この人は味方だよ。フリントさんだ……この人がオレたちを、目的地まで運んでくれる。頼むぜ、フリントさん」
ギンジがそう言うと、赤いローブの男……いや、老人は頷いた。そして、右掌をギンジたちの方にかざす……。
次の瞬間、ギンジとヒロユキはまばゆいばかりの光に包まれ――
気がつくと、ヒロユキとギンジは奇怪な場所に立っていた。ゴツゴツした岩場……しかし、ほんの数メートル先には巨大な穴が空いている。周囲には、草木が全く見当たらない。動物はもちろん、虫の気配すら感じられない。
さらに、異様なまでの妖気……そう、妖気としか表現のしようがない気体が、空気に混じり大量に漂っている。はっきりと肌で感じ取れるくらいに。そして、息苦しさすら感じるくらいに……。
ヒロユキはあまりの不気味さに、思わず後退りしていた。ここはもはや、人の領域ではない。魔の棲む場所……そう、魔界だ。本物の魔界と人界との境界線、それがこの場所なのだ。
「ギンジさん、ここは一体……」
「ヒロユキ、ここは魔王の祭壇だ……かつて、多くの権力者がこの場所を訪れ、何人もの人間を生け贄に捧げたんだ……呪われし場所だよ。ほら、そこの穴が祭壇だ」
言いながら、ギンジは穴を指差す。ヒロユキは近づき、恐る恐る覗きこんでみたが……。
恐ろしい光景だった。
穴は恐ろしく深く、底が見えない。だが、それよりも……穴の中を支配する闇は濃く、よく見ると蠢いているのだ。まるで生き物のように蠢く闇……ヒロユキは慌てて目を逸らした。これ以上見続けていると、闇に捕らわれてしまいそうな気がした。これは穴とは呼べない。奈落だ……。
「こんなの、初めて見たよ……いやはや、変わった場所だぜ」
軽い口調とは裏腹に、ギンジの表情はどこか虚ろで……しかも、ひどく哀しげだった。
「今まで、何人もの権力者たちが、何百人もの奴隷を生け贄として捧げてきた。魔王の力を授かるために、な。だが、誰一人として力を授かった者はいなかった……ハザマを除いては」
狭間日出雄、黒岩真二、白田由美、赤沢麗子の四人は数年前、この世界に飛ばされてきた。彼らはギンジたちとはまるで違う、ごく普通の若者たちだったのだ……本来なら、彼らは三日ももたずに死んでいたことだろう。少なくとも、異世界に転移して早々にゴブリンたちの襲撃を受けたギンジたちのような目に遭っていれば、確実に皆殺しにされていたはずだ。
だが、ハザマたちは運が良かった。この世界に来てすぐ、気の優しいドラゴンと出会ったのだ。そのドラゴンはハザマたちを、異世界への門――滅びの山である――の近くへと運んだ。ハザマたちは門をくぐり元いた世界に戻り、一件落着となるはずだった。
しかし、ハザマは知ってしまったのだ。魔王の力を得る方法を……。
「ハザマは生け贄に捧げたんだ……クロイワとシロタをな。そしてハザマとアカザワ・レイコは魔王の力を手に入れた。ハザマはレイコをここに門番として残し、自分は元いた世界に帰った……この世界をさんざん荒らしまくってからな」
「そ、そんな……」
ヒロユキはそれだけ言うのがやっとだった。ギンジの言葉はあまりにも衝撃的であり、ヒロユキは即座には受け入れられなかったのだ……。
そんなことが……。
ハザマは自分の仲間を生け贄にして、力を得たというのか?
いや、でも……。
「ちょっと待って下さいよ……他にも、生け贄を捧げた権力者は大勢いたんですよ。でも、みんな駄目だった……何故、ハザマだけが力を手に入れられたんですか?」
「それはな……生け贄は誰でもいいってわけじゃなかったんだ。生け贄にも資格が必要だったんだよ……異世界の人間でなくてはならない、という資格がな」
「……」
何だよ、それ……。
異世界の人間を生け贄にする、だと……。
そんなことが……。
いや、ちょっと待てよ。
ギンジさん、あなたはここに何しに来たんだ?
まさか……あなたは……ぼくを生け贄に……。
(オレはどんな手段を使っても、どんな犠牲を払おうとも、奴を殺す。でないと……オレは死んだ後、あの世で子分たちに合わせる顔がねえ。このままじゃ、オレは地獄にも行けやしねえよ……)
ギンジの言葉が甦る……ギンジは本当に、どんな手段でも用いるだろう。
ぼくを生け贄として捧げることくらい、この人には何でもないのだ……。
ギンジさんは、そんな世界で生きてきたのだから……。
「ヒロユキ……オレはお前に謝らなくてはならない。お前にこんな役目を押しつけてしまって、本当にすまないと思っている。だが、オレにはこれしか思いつかなかったんだ。門番を倒して、元の世界に帰るには……魔王の力とやらを手に入れるしかないんだ」
そう言うと、ギンジは深々と頭を下げる。
「オレにはこんなことくらいしかできんが……お前には嫌な役目を押しつけてしまい、本当に申し訳ない……」
「……」
ヒロユキは頭を下げるギンジを、虚ろな目で見つめた。だがその時、ニーナの顔が思い浮かぶ……。
そうだよ……。
ニーナを、この世界から脱出させなきゃ……。
ニーナだけじゃない。ガイさんも、カツミさんも、タカシさんも……。
それに、リンも奴隷なんだよ……。
みんな、この世界にいちゃいけない。
みんなを、元の世界に帰さなきゃ……。
ぼくのかけがえのない、仲間たちのために……。
ヒロユキの脳裏に、仲間たち一人一人の顔が思い浮かぶ……
彼らのためならば……。
「ギンジさん、一つ約束してください。ニーナを……ニーナの面倒を見ると……約束してください」
ヒロユキは、震える声でギンジに懇願した。
だが、それを聞いたギンジの顔に浮かんだのは……奇妙な表情だった。お前は何を言ってるんだ、とでも言わんばかりの……だが次の瞬間、苦笑し首を振る。
「悪いがな、それは無理だ……ヒロユキ、お前は勘違いしてるようだな」
そう言うと、ギンジは自らの鼻を指差す。
「生け贄になるのは、オレだ。あとはお前に託す」
「……はい?」
今度は、ヒロユキの顔に奇妙な表情が浮かぶ。唖然とした顔で、ただ聞き返すことしかできなかったのだ……。
「さあヒロユキ……さっさとやれ。オレをこの穴に突き落とせ。そして強く願うんだ……我に力を――」
「無理です……そんなこと……できるわけないじゃないですか……」
声を震わせながらも、きっぱり拒絶するヒロユキ……ギンジは眉をひそめた。
「ヒロユキ……ワガママ言うな……オレだって好き好んで――」
「絶対に嫌だ! ギンジさんを……ギンジさんを犠牲にするなんて嫌だ!」
「ヒロユキ……」
「ギンジさんは……みんなを導いてくれた……みんなを助けてくれた……ギンジさんが居なかったら……みんなじんでだ……ぼぐは……ギンジざんがら……いろんなものを……もらっだ……いっばい……いっばい……もらっだ……」
ヒロユキは泣き出していた……泣きながら、ギンジに詰め寄る。
「ぼぐは……ぜっだい嫌だ……あなだをごろずなんで嫌だ……ぼぐがいげにえになる……ぼぐを――」
「そうしたいのは山々だがな……それじゃあ、奴らに勝てないんだよ」
「ぞんな……」
「いいかヒロユキ……フリントから聞いた話によると、生け贄になった人間の強さによって、得られる力が違ってくるらしい。ゲームに例えるとな、生け贄のレベルだよ……お前を生け贄にしたところで、門番のレイコに勝てるかどうかも怪しいもんだ。しかも、その後はハザマを殺さなきゃならないんだ」
ギンジの顔には、これまでに見られない表情が浮かんでいた。とても優しげな表情……笑みを浮かべ、諭すように話した。
「ヒロユキ……オレは確実に勝たなきゃならないんだよ。そのためには、オレが生け贄になるしかない。これが、元の世界に帰るための唯一の方法なんだ……はっきり言うが、門番のレイコは一人でも小さな国と戦えるくらいの力を持っている。そしてハザマは……レイコよりも強いんだ」
「……」
「さあ、早くしろ……オレたちがここにいるのを、レイコに気づかれたら終わりなんだぞ。今、カツミとタカシが注意を引いている。もう、奴らの戦いが始まっている頃だ。ぐずぐずしてると、カツミもタカシも殺されちまうんだぞ」
そして、ギンジは両手を広げた。
「早くやれ……前に言ったはずだ。善人と呼ばれる弱者を救いたいなら悪人になれ、と。悪人となって得た力で、弱者を救え……とも言った。今がその時だ。オレを生け贄にして、力を手に入れろ」
「……」
ヒロユキは顔を上げ、涙で曇った瞳でギンジを見つめる。ギンジは穏やかな顔をしていた。これまで見せていた悪党面が嘘のような……これから死に逝く者とは思えないような優しい表情をしている……。
なんて人だよ……。
ギンジさん……あなたはやっぱり凄い人だ。
ぼくたちのリーダーは、あなたじゃなきゃ務まらないよ……。
みんなには……あなたが必要だ。
この先も、ずっと……。
「でぎまぜん……」
ヒロユキは立っていられなくなった。その場に崩れ落ちる。涙でぐしゃぐしゃに歪んだ顔で、ギンジを見上げる。
「ヒロユキ……」
「ぼぐは嫌だ……ギンジざんを……ごろずなんで……嫌だ……ぜっだい嫌だ……じぬのは……ぼぐだ……ぼぐがいげにえに……ギンジざんじゃ……駄目だ……」
「ヒロユキ……お前って奴は本当に……最後の最期まで手間をかけさせやがるんだな……」
ギンジは大きなため息をついた。そして、表情が一変する。
「ヒロユキ……最期の教えだ。決断は……正しいか間違っているかに関わらず、即断即決が基本だ。決断が早ければ、間違っていても早く修正できる。それと……もう一つ」
ギンジは言葉を止め、奈落を覗きこんだ。そして不敵な笑みを浮かべる。
「いいか……後悔だけはするな。ハザマのこと、頼んだぜ」
次の瞬間、ギンジの体は奈落に消えた。
「え……ぞんな……うぞだ……ギンジざん?」
ヒロユキは慌てて、奈落を覗きこむ。
だが、ギンジの姿は消えていた……。
「ギンジざあぁぁぁん!」
・・・
随分と、ゆっくり落ちていくんだな……。
奈落の中……魔法の力の為せる業なのか、落下速度はひどく遅かった。ギンジは苦笑し、周りを見回す。だが黒い霧のようなものに覆われ、何も見えない。
人間の本質は悪――
ギンジは今まで、そう信じて生きてきた。 十代の時、全てを失ったあの日……それ以来、ギンジは人間らしさを捨てた。ひたすら、力のみを信じて生きてきたのだ。この世において、力とは金である。ギンジは手っ取り早く稼ぐため、ヤクザの世界に身を投じた。
抜群にキレる頭と、一度は地獄を見たが故の度胸……そして冷酷さとで、ギンジは瞬く間にのしあがっていく。
だが、ギンジは止まらない。むしろ、さらに加速をつけていく。親代わりとも言える組長の沢田を自らの手で暗殺し、組を乗っ取った。そして、ありとあらゆる悪事に手を染め……。
だが、ハザマに全てを奪われた。金という力を失ったギンジは、あっという間に狩られる立場へと身を落とし……。
そして、気がつくと異世界に来ていた。
ヒロユキ……初めのうちは、上手く利用するつもりだった。
ガイ、カツミ、タカシ……三人とも、これまで見てきた連中とはまるで違う。本物の怪物だ。そんな連中と、こんな奇妙な世界に来てしまった……ならば、自分はヒロユキを味方につけておこう。ひ弱なガキだが、使い道はあるだろう。丸め込むのは簡単だ。
ギンジはヒロユキに近づき、優しく接し、おだて上げ、そして自分の味方……いや、手駒にした。
しかし、ギンジは間違っていたことに気づく。
ヒロユキは、自分の想像を超えていたのだ。
ひ弱で世間知らずのガキだったはずのヒロユキ……だが、彼は想定外の成長を見せたのだ。この世界の不条理に本気で怒り、自身の無力に涙を流し、そして愛する者のために、人外の化け物と必死で戦ったのだ。ひ弱な少年だったはずのヒロユキが……。
その姿を見ているうちに……ギンジの胸には、ある感情が芽生えていた。
ヒロユキに言ったことは嘘ではない。フリントから聞いた話によると、生け贄に捧げた人間の強さによって得られる力が変わってくるのだという。ヒロユキを生け贄にするよりは……ギンジを生け贄にする方が、ハザマに勝つ可能性は高いのだ。ハザマだけは絶対に生かしてはおけない。そのためならば、命を捨てる覚悟はできている……。
だが、それだけではなかった。
人間の本質は……本当に悪なのか?
少なくとも、あいつは違っていた。
オレは……間違っていたのだろうか?
これまで、何人もの人間を地獄に叩き落としてきた……裏社会に生きる以上、それは当然のことのはずだった。この世は戦場だ。善人はしょせん、悪人の食い物でしかない。ならば、悪の側に身を置く……それこそが、当然の行動のはずだった。
たとえ聖人君子であろうとも、裏社会の中では悪鬼羅刹のごとき者と化す……むしろ、それが人間の本来の姿。ギンジは今まで、そう信じていたのだ。
しかし、ヒロユキは違っていた。
法律も道徳も通じない、残酷な中世ヨーロッパ風異世界……裏社会と同じくらい命が安い場所にいるにもかかわらず、ヒロユキは人間らしさを捨てなかったのだ。
早々に人間らしさを捨て去った自分と違い……。
奴隷にされる運命の子供たちのために本気で怒り、そして自らの無力を知り無念の涙を流したヒロユキ……一方、無邪気に笑う子供たちを、金持ちの変態親父や裏社会のブローカーに売り飛ばしたギンジ。
ニーナを守るため、ひ弱な体を張ってヴァンパイアやライカンスロープに立ち向かっていったヒロユキ……一方、組織の規律と自分の地位を守るために、組の内情を知ってしまった自分の恋人を殺し、死体を処理するため豚に食わせたギンジ。
そして、師匠ともいえるギンジを殺すことを断固拒絶し、身代わりに自分が死ぬと言ってのけたヒロユキ……一方、実の親にも匹敵するほどの恩を受けた沢田組長を、何のためらいもなく射殺し後釜に座ったギンジ。
ヒロユキの姿を、そして行動を見ていると……自分という人間があまりにも恥ずかしく、醜く、そして惨めに思えてきた……。
自分のしてきたことに、耐えられなくなっていたのだ。
だからこそ、自分という人間を消し去りたくなった……。
自分が本当に人でなしであることを、自覚してしまったがゆえに。
この残虐な異世界……そこで死ぬにふさわしい人間であることを、理解してしまったために。
自分の信念が、そして行動が間違っていたことを、ヒロユキから教えられたために。
落下していくギンジ……彼の内部に、何かが侵入してきた。
何か、超自然的な意識……それがギンジの体の隅々まで侵していく。
(オマエハ ナニヲノゾムノダ?)
脳内に直接語りかけてくる、何者かの意識……その時、ギンジは叫んだ。
「オレの命を捧げてやる! だから! 上で泣いてるヒロユキってガキに……力を授けてやってくれ!」
(イイダロウ)
ヒロユキ……後は頼んだぜ。
ガイ……幸せになれよ。
カツミ、タカシ……オレのバカな作戦に付き合わせちまって申し訳ない。
地獄で会おうぜ。




