薫色
私は夏が好きだ。
日本特有の湿度の高いジメジメとしたところが好きとか、立っているだけで汗ばんでくる熱気が好きだ、という訳ではもちろんない。
薄着で風を感じながら外を歩けたり、植物の生気が薫り立つように漂ってくるのが好きなのだ。
その夏の真っ盛りの中、私は近所のこじんまりとした公園のベンチに腰を下ろしている。
木造りのベンチは、閉じ込めていた森の香りを熱気に乗せて開き、私を華やいだ気持ちにさせてくれた。
サワサワと強い日差しを遮ってくれる天然の日傘があるのも、この公園を気にいている理由の一つだった。
広場の方では3・4人くらいの、男の子だろうか、甲高い声を上げながら走り回っている。
ボールを蹴る音や転がる音から、恐らくサッカーのようなものなのだろう。
勝ち負けもなく、転がるボールをただみんなで追いかけているだけで満足できる、そんな幼少時代が懐かしく脳裏に浮かんだ。
広場の方から「何やってんだよ」「お前取りに行ってこいよ」といった声が聞こえてきた。
乾いた砂の上をボールが転がる音が聞こえ、私の座るベンチの足に軽くぶつかって跳ね返った。
「すいません、ボール取ってもらえますか」
こっちが嬉しくなるような、子供らしい元気な声が届いた。
ボールの音と衝撃から、多分この辺に転がっているだろうと当たりはついていたので、私は軽く腰を浮かすと足元を手探りで探し始めた。
2・3回手を軽く振るように動かすと、指先に何かが触れた。
使い古されて、ナイロンの表面が所々ささくれ立ち、あちこちに泥のこびり付いたサッカーボールだ。
私はボールを両手に持つと「いくぞ」と声を上げ、軽く放り投げた。
何度かボールの弾む音が聞こえて、少年の手に収まった。
私はそちらの方向に向かってにっこり微笑む。
声もなくその場から走り去っていく足音が聞こえた。
少年が仲間の輪に戻ると、途端にざわめき出す。
あの年頃の子どもは残酷な程に素直だ。
そして好奇心が強い。
今度は息を殺して、忍び足で近づいてくる気配がする。
「押すな」とか「シー」といった声が聞こえてくる。
私は風に漂う陽光の匂いでもかいでいるような澄まし顔で、何も気づいていないような振りをする。
これが彼らにとってゲームであるように、私にとってもゲームなのだ。
子どもたちは、私に気づかれずにどこまで近づけるかを競い合っている。
私は彼らを十分に引きつけると、勢いよく杖を地面に突き立てて立ち上がる。
途端、よろけるようにして体制を崩した。
子どもたちは、大慌てで私の身体を支え、
「大丈夫ですか」「怪我はないですか」
口々に心配の言葉をかけてくれる。
人間は誰しも良い人、なんて言う気は毛頭ない。
ただ、人間は目の前の人が倒れてくると、無意識に支えたくなる生き物なのだろう。
私が人ではなく、ただの棒だったとしても、結果は同じだったかもしれない。
子どもたちは、たどたどしい手つきで私をベンチに座らせた。
私は大きく息を吐き出すと、軽く汗を拭う仕草をする。そして、
「ありがとう、助かったよ」
と、精一杯の笑顔で微笑みかけた。
子どもたちのはにかんだ様な笑顔が見えるようで、この瞬間が私は好きだった。
子どもたちが駆けていく足音に向かって、私は手を振った。
もしかしたら、彼らも手を振ってくれているかもしれない。
そう思うと、いっそう嬉しくなった。
少し動いて汗ばんだ肌の上を風が撫でていく。
ほんの少し涼しくて、でもやっぱり生ぬるい。
夏はまだ始まったばかりだ。