雪椿
原稿用紙三枚のショートショート。「牡丹雪」と連作です。
内藤新宿に追い出しの鐘が鳴る。
花街の女たちは、これで憂鬱な夜が明けたと胸を撫で下ろしたが、今朝の玉菊だけは違っていた。
雪でも降っているのだろうか、見世の外からは物音一つ聞こえない。
今この部屋に響いているのは、帯を締める身支度の音。玉菊は細い紺縞の袴から背を向けて、鏡の中を見つめていた。
映っているのは、化粧を直す白肌の後ろに着替え終えた男がひとり。方々に向いた髪を押さえて部屋から立ち去っていく。
玉菊は色身の無い唇に紅を引き、白塗りが剥げた指先に急いで粉をはたいてから後を追った。
「また、会いに来てください」
背を向けたまま頭を下げる清市朗に、「これをお持ちに」と白張りの番傘を差し出したが、受け取ることは無かった。
床廻しが部屋を片付ける合間、窓から雪を眺めて夕べを思い出していた。
「必ず、自分が迎えに来ます」
清市朗の言葉はいつも心地よい。その場限りの嘘と分かっていても、来るはずの無いその日を待ちわびてしまう。
今となっては清市朗だけが「菊枝」と呼ぶが、子供の頃の名前など諦めきれなくなるだけだ。いつまでも過去に縋るのはやめようと「全てをなくした女です」と呟けば、「それでもいい」と清市朗がまた嘘をついた。
次の客を迎える用意が整ったようで、半間の床の間には真っ赤な椿が飾られている。
夜が来るまでは、と化粧を落として、ふと気づいた。細い指先に小さな斑点があることを。
まさか、と思って足袋を脱ぐと、足裏にも広がっている。白い肌に散りばめた赤い斑点を見るうちに、急に恐ろしくなって、座り込んだまま体から力が抜けてしまった。
「清市朗さん、清市朗さん……」と、這うように窓へ近寄って雪に手を伸ばす。
今ごろ汽車に乗り込んでいるはずの清市朗の名を、啜り泣きながら何度も呼んだ。
震える指先を見つめても、今すぐには花柳病か分からない。だが、真っ白な冷たい雪に落ちる赤い椿のように、自分と清市朗の首が転げ落ちた気がした。