【44】
まだ明るさが残る夕焼けの中、目の前には二つの影が並んで伸びている。
ぎこちなく歩く私に、気を使ってるのは十分わかるヒロ兄は歩調を合わせてゆっくり歩いてくれる。
何か話さなくては!
でも、何を話せばいいのか?
ただ分かる事は、このまま何も話さないで終わってはダメだという事。
心臓がバクバクと煩いほど、鳴っている。
鞄を持つ手は少し震えていて、喉はカラカラで、考えが纏まらない。
「あ」
思わず、言葉が毀れた。
幼い日に通っていた小学校の前を通る。
今でも、はっきりと思い出せる懐かしいあの日の事。
実結と一緒に家に帰ろうとした時、降り出した雨の中、傘を持って迎えに来てくれてヒロ兄。
なのに、雨はすぐに止んでしまって、あのピンクの傘は無用の物となり、3人で手を繋いで歩いて帰った。
今、思い返せば、おませな女の子だったと思う。
でも、あの日を境にヒロ兄に対する気持ちが恋心に変わった。
そして、幼い想いは少しずつ大人になって切なさを知って――。
「少し、急ぐよ」
そう言った、ヒロ兄が一歩踏み出す。
ヒロ兄が、先に行ってしまう!
咄嗟にヒロ兄の手を掴んでしまう。
「え?」
「あっ」
ヒロ兄の驚いた顔に、無意識にとは言え、手を繋いでしまった事を後悔する。
放さなくちゃ!と思うのに、手の力は強くなるばかりで、私の手なのに私の思うようにならない。
「美雨ちゃん」
「…っ、はい」
俯いていた私にヒロ兄の声は優しく、私の手の力と同じぐらいの力で私の手を握り返してくれる。
「美雨ちゃんの好きなヤツって、どんなヤツだろう?」
ヒロ兄の言葉に、私は何も答えない。
そんな私を気にするでもなく、ヒロ兄は一人話すのを黙って聞いている。
「同じクラスのヤツ?学校の先輩?それとも、教師とか?」
フっと力無く笑うヒロ兄。私がヒロ兄にこんな顔をさせてるの?
「教師だと、かなり問題だな。う~ん、まさか年下とか?――でも」
“――でも”その先の言葉が気になって、ヒロ兄の顔を見たくなって顔を上げてしまった。
目が合う。
「美雨ちゃんが誰を好きでも、俺の気持ちは変わらないから」
「!!」
ヒロ兄にとって、私の好きな人が誰であろうと関係無いと言う。
吹っ切れた表情をして、以前よく見せてくれた優しい笑顔を見せてくれる。
視界が揺れる。
「降りそうだな」
ヒロ兄が、振り返って空を見上げている。
いつからなのか、ゴロゴロという雷の音と、黒い雲がこっちに向かって迫って来ている。
ポツポツと降り出した雨に、傘は無い。
「ヒロ兄に彼女が出来る度、悲しかったけど、諦めるなんて出来なかった」
「え?」
揺れる視界の中のヒロ兄は、まるで信じられないという顔をしてる。
何を格好付けていたんだろう。
誰の為でもない。私の為だけに、この気持ちは存在する。
誰かを好きになるのに、誰に遠慮なんて要るのだろう。
我慢なんて出来ない。捨ててしまう事なんて出来ない。
忘れてしまうなんて……。
「泣いてるの?ヒロ兄」
「っ!な、泣いてなんか――」
世界が揺れているのは――。
「本当は、泣き虫だって知ってるよ」
「あ、雨!雨が目に!」
兄貴は泣き虫だって、実結が言ってた。
実結とヒロ兄のお父さんが亡くなった日から、ヒロ兄は泣いてばかりいて。
そんなヒロ兄に向かって幼かった実結は「いつまでも、うじうじと鬱陶しい!!バカ兄貴ーー!!!!」って、叫んだらしい。
それ以来、ヒロ兄は変わったって、言ってたっけ。
「そう言う美雨ちゃんだって、泣いて――」
「泣いてなんかないって。雨に濡れてるだけ」
二人して、雨の中、無邪気に笑う。
顔を上げると降り出した雨が、涙と一緒に零れ落ちていく。
世界が揺れているのは、涙のせいなんかじゃない。
今、頬を伝うのは、優しい雨。