第4話:現実という名のフィールドをキャリーして
一睡もできなかった。
正確には、寝ようとした瞬間に黒崎先輩の「……おやすみ、佐藤」という低音ボイスが脳内でオート再生され、そのたびに心臓が跳ね起きてしまったのだ。
結果として、私は人生最大級のクマを携え、かつてないほどのハイテンションでバイト先の扉を叩くことになった。
「……おはようございます」
「……ああ。おはよう」
カウンターの奥、開店準備をしていた黒崎先輩と視線がぶつかる。
昨日までなら「覇気がない、効率が悪い」と切り捨てられていたであろう私の顔を見て、先輩は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、視線を泳がせた。
そして、コホンと短く咳払いをする。
「……三時間しか寝ていないな」
「へっ!? な、なんで分かるんですか……」
「お前のログインとログアウトの時間は俺が一番把握している。……それと、左目の下がわずかに震えているぞ。マグネシウム不足だ。休憩時間にサプリを渡す」
相変わらずの、歩く精密検査機。
でも、その瞳の奥にあるのは冷徹な分析ではなく、過保護なまでの心配だということを、今の私は知っている。
昨夜のボイスチャットでの、あの甘い「Kさん」と、目の前の「黒崎先輩」が、ようやく一つに溶け合っていく。
だが、現実は甘いだけでは終わらせてくれない。
「ちょっと、佐藤さん! いつまで先輩と見つめ合ってるの? 手が止まってるわよ」
背後から飛んできたのは、キンキンと耳に障る高圧的な声。
バイト仲間の田中さんだ。
彼女は自分より仕事ができない後輩を見つけては、周囲に聞こえるような大きな声で説教をするのが趣味という、このカフェにおける「害悪プレイヤー」筆頭だった。
「すみません、すぐ準備します!」
「謝れば済むと思ってない? 佐藤さんがモタモタしてるせいで、こっちのシフトの計算が狂うのよね。……ねえ、黒崎君もそう思うでしょ? こういう効率の悪い子、本当に迷惑よね」
田中さんは、お気に入りの黒崎先輩に同意を求めるように、勝ち誇った笑みを浮かべた。
いつもなら、ここで黒崎先輩は「……確かに。佐藤、動け」とだけ言い、私はシュンとして作業に戻るのがお決まりのパターンだ。
けれど。
今日の黒崎先輩は、手にしていた布巾を静かに置いた。
その動作は、まるでお気に入りのスナイパーライフルを構える前のような、不気味なほどの静謐さを湛えている。
「……田中さん。一つ訂正していいか」
先輩の声が、いつもより一段低く、フロアに響き渡った。
田中さんが「えっ?」と顔を上向かせる。
「佐藤の今日の動きは、決して効率が悪いわけではない。むしろ、昨日俺が教えた最短動線を忠実に守ろうとして、予備動作を削ぎ落としている最中だ。……それに対し、貴方の今の発言。佐藤を呼び止めて説教に費やした時間は四十五秒。その間、貴方の手元にあるトレイの片付けは完全にストップしている。この時間の損失を、貴方はどう補填するつもりだ?」
「え、ええ……? そ、それは、教育として……」
「教育とは、相手のパフォーマンスを向上させるために行うものだ。貴方の今の言動は、佐藤の自己肯定感を下げ、集中力を阻害し、結果として店全体の回転率を三パーセント低下させている。……はっきり言おう。今、この店で最も非効率なのは、貴方のその『無駄な口出し』だ」
一気に、まくし立てるようなロジカル・バッシング。
田中さんは、まるで至近距離からショットガンを浴びた敵プレイヤーのように、口をパクパクさせて固まっている。
「それと、もう一つ」
黒崎先輩が一歩、踏み出す。
その圧倒的な威圧感。
彼は私の肩を抱くようにして、田中さんの視線を遮った。
その背中は、昨夜画面越しに見た、敵の銃弾をすべて弾き返していた最強の背中そのものだった。
「……彼女は俺の『固定』だ。公私ともに、俺が責任を持って管理している。……これ以上、俺の目の届く場所で彼女を不当に扱うなら。……俺にも考えがある」
「……ひ、ひいいいっ! ご、ごめんなさい……!」
田中さんは、まるでランクマッチで圧倒的な格上(プレデター級)に遭遇してしまった初心者のように、脱兎のごとくバックヤードへと逃げ去っていった。
静まり返るフロア。
私は、先輩の腕の中に収まったまま、茹で上がったタコのように真っ赤になって固まっていた。
「……せ、先輩。今の……」
「……言い過ぎたか。だが、あいつのエイム――いや、小言は、前から目に余っていたからな」
黒崎先輩は、ハッと我に返ったように私から手を離した。
その耳の付け根が、かつてないほど真っ赤になっている。
「……先輩。今、『固定』って言いましたよね? 公私ともに、って……」
「……。……。仕事に戻るぞ。ピークタイムまで、あと三十分だ」
先輩は露骨に視線を逸らし、ガシガシと頭を掻きながら、カウンターの奥へと引っ込んでしまった。
でも、その後ろ姿は、どこか吹っ切れたような、晴れやかなオーラを纏っているように見えた。
◇ ◇ ◇
バイトの終業後。
夜風が心地よい閉店後の店内で、私たちは二人きりになった。
「佐藤」
「は、はい!」
呼び止められて振り返ると、私服に着替えた黒崎先輩が立っていた。
黒のパーカーのフードを少しだけ被り、片手にはいつもの強炭酸水。
その姿は、バイト先の「氷の王子」ではなく、夜の街を闊歩する「神エイマー・K」の雰囲気に限りなく近い。
「……昨夜、ボイスチャットで言ったこと。覚えているか」
「はい。忘れるわけ、ありません」
私は、ぐっと拳を握りしめて答えた。
「俺が守るから、後ろにいろって。……先輩、あれ、本気だったんですよね?」
「……。……ああ。本気だ。ゲームの中でも、現実でもな」
黒崎先輩は、ゆっくりと歩み寄り、私の目の前で立ち止まった。
その大きな手が、私の頭を乱暴に、でも愛おしそうに撫でる。
「俺は、要領の悪いお前が、必死に食らいついてくる姿が好きだ。……お前が一人で戦場を駆け回って傷つくのを見るのは、もう限界だ。……これからは、二十四時間。……一生、俺がお前をキャリーしてやりたいと思っている」
「……一生、ですか」
「効率的に考えて、それが一番お前を幸せにできる方法だと結論が出た。……異論はあるか?」
不器用で、傲慢で、でもこれ以上ないほど誠実な告白。
私は、堪えきれずに吹き出した。
「……ふふっ、あはは! 先輩、告白まで効率重視なんですね。……でも、嬉しいです。私も、先輩以外のキャリーは、もう受け付けませんから!」
私が先輩の胸に飛び込むと、一瞬だけ体が強張ったけれど、すぐに力強い腕が私を包み込んでくれた。
「……分かっていると思うが。俺のキャリーは、厳しいぞ。……夜のランク上げも、現実の生活もな」
「望むところです! あ、でも、たまには『姫プ』もさせてくださいね?」
「……。……善処する」
先輩の腕の中で、幸せな予感に包まれる。
現実という名の、難易度最高峰の無理ゲー。
けれど、世界一頼もしいパートナーが隣にいるなら、どんなステージだってクリアできる気がした。
◇ ◇ ◇
それから一ヶ月後。
私の部屋には、もう一台のゲーミングチェアが並んでいる。
「佐藤、そこだ。右から来る。……撃て!」
「はいっ! ……やった、当たりました! 先輩、今の見ました!?」
「ああ。……少しずつだが、エイムが安定してきたな。……だが、さっきの遮蔽物の使い方はマイナス五点だ。次はもっと腰を落とせ」
「ええーっ、また厳しい……。たまには褒めてくださいよ、Kさん!」
「……。……よくやった。……今のは、完璧なヘッドショットだった」
ぶっきらぼうに言われ、頭をガシガシと撫でられる。
バイト先では、私たちは「付き合っていることが公然の秘密」となっている無敵のコンビとして知られている。
田中さんはあの日以来、私に嫌味を言うのをピタリとやめた。
黒崎先輩の、私に向ける「三パーセントだけ甘い視線」が怖すぎるからだという噂だ。
「……ねえ、先輩」
「なんだ」
「次のマッチ、勝ったら。……ご褒美、くださいね?」
「……。……善処する」
先輩の耳が、また少しだけ赤くなる。
私はそれを見てニヤリと笑い、再びマウスを握り直した。
私たちのランク上げ(人生)は、まだ始まったばかりだ。
最強のキャリー様と一緒に、私たちはどこまでも高い場所へ、共に駆け上がっていく。
――「後ろにいろ、守ってやる」
その言葉は、今日も私の耳元で、最高に甘い銃声のように響いている。




