第3話:この声、知っている
心臓の音が、ヘッドセットのイヤーパッド越しに鼓膜を叩いている。
ドクン、ドクン、と。
深夜一時。自室の明かりを消し、モニターの青白い光だけが私の顔を照らしている。
今、私は人生で最大級の「審判の時」を迎えようとしていた。
『準備、いいですか?』
震える指先でチャットを打ち込み、送信する。
数秒後、ボイスチャットの接続を示す緑色のランプが点灯した。
スピーカーから、サーッという微かなノイズが流れ込む。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
もし、もしもここから聞こえてくる声が、あの冷徹な「効率の鬼」だったら。
私は明日から、どんな顔をしてコーヒーを淹れればいいのか。あるいは、即座にバイトを辞めて山に籠もるべきか。
静寂。
そして、短い咳払いが聞こえた。
「……ゴホッ。……佐藤。聞こえるか」
瞬間、私の脳内に雷が落ちた。
思考が真っ白に染まり、手に持っていたマグカップがデスクの上でガシャリと音を立てる。
「ひぇっ、……あ、あ、……」
声が出ない。
間違いない。いや、間違いようがない。
低くて、落ち着いていて、どこかチェロの低音を思わせるような、心地よい響き。
少しだけ喉を痛めているのか、今日のバイト中にも聞いた「微かに掠れた」あの独特の質。
それは間違いなく、バイト先の教育係、黒崎蓮先輩の声そのものだった。
「…………嘘、でしょ」
絞り出すように呟いた私の声は、マイクを通して彼に届いたらしい。
回線の向こうで、黒崎さんが――いや、Kさんが、ふっと短く息を吐く気配がした。
「嘘じゃない。……驚かせて悪かったな。なかなか言い出すタイミングが掴めなくてな」
「…………」
「佐藤? おい、大丈夫か。……回線を切るなよ」
「……っ、うわあああああああ!?!?!?」
私は叫び声を上げながら、椅子ごと後ろにひっくり返った。
盛大に尻餅をつき、ヘッドセットのコードが限界まで引っ張られる。
パニックだ。脳内がオーバーヒートして、警告ランプが全点灯している。
あの黒崎先輩!?
「三手先を読め」とか「五パーセントの改善」とか言ってた、あの冷血人間が!?
毎晩私をキャリーして、「後ろにいろ、俺が全部抜く」とか最高にかっこいい台詞を吐いていたあの神エイマー様!?
「無理無理無理! 設定が重すぎる! キャパオーバーです! 神様、これなんのバグですか!?」
床に転がったまま、バタバタと足を動かして虚空を蹴る。
モニターの上で、私のキャラクターは無惨に壁を見つめたまま立ち尽くしている。
「……佐藤。落ち着け。お前が今、床で暴れている音まで丸聞こえだぞ」
ヘッドセットから流れてくる声は、いつものバイト中よりずっと柔らかい。
いや、柔らかいなんてレベルじゃない。
まるで、壊れ物を扱うような、ひどく過保護で甘い熱が混じっている。
「……なんで、ですか」
私は這い上がるようにして椅子に座り直し、震える手でマイクを口元に寄せた。
「なんで、先輩が……。だって、バイト先ではあんなに怖いのに。私のこと、いつも足手まといみたいに言ってるのにっ」
少しだけ、鼻の奥がツンとした。
今までの「厳しい黒崎先輩」と「優しいKさん」の差が激しすぎて、感情の整理が追いつかない。
「……足手まといだなんて、一度も思ったことはない」
黒崎さんの声が、さらに低くなる。
「効率の話をしたのは、お前を早く帰らせるためだ。新人のお前は、真面目すぎて放っておくとサービス残業でもしかねない。……早く帰って、しっかり飯を食って、ゲームをする時間を確保させてやりたかった」
「え……?」
「差し入れの強炭酸も、昨日お前が『これが一番効く』と言っていたからだ。……店にはないから、隣のブロックのコンビニまで走った」
「…………」
衝撃の事実が次々と投下される。
あの無愛想な態度の裏側に、そんな執念……もとい、配慮が隠されていたなんて。
「リロードと言ったのも、お前の体力が限界だと分かっていたからだ。……本当は、直接『休め』と言いたかったが。現実の俺は、お前に嫌われている自覚があったから、あんな言い方しかできなかった」
嫌われている自覚。
……まあ、正直「怖いな」とは思っていたけれど。
でも、それは嫌いとは違う。
「……じゃあ、ゲームで私に優しくしてくれてたのは、罪滅ぼし的なやつだったんですか?」
私が恐る恐る尋ねると、黒崎さんは少しだけ、困ったような笑いを含んだ声を出した。
「……違う。ゲームの中だけが、俺が本音でお前を守れる場所だったんだ。現実のお前は、危なっかしい癖に一人で頑張ろうとしすぎる。……放っておけるわけがないだろう」
心臓が、今日何度目かの限界突破を迎えた。
「放っておけるわけがない」。
その言葉に含まれた重厚な独占欲に、顔が火が出るほど熱くなる。
「……先輩」
「なんだ」
「……今の、録音していいですか?」
「却下だ。……恥ずかしくて明日から出勤できなくなる」
黒崎さんはそう言って、小さく笑った。
バイト先では絶対に見せない、少年のように悪戯っぽくて、温かい笑い声。
そこからは、怒涛の答え合わせタイムだった。
「あの時のあの指示は実はこういう意味だった」「あの日のミスをカバーしたのは、実はわざとだった」。
話せば話すほど、黒崎さんの「徹底した過保護ぶり」が露わになっていく。
彼は私がログインする時間を逆算して自分のタスクを終わらせ、野良マッチングで私を見つけるために、実は何時間も前から待機していたらしい。
「……先輩、それ、ストーカーの一歩手前ですよ」
「……否定はしない。だが、お前が他の男にキャリーされるのを見るのは、どうしても耐えられなかった」
さらりと恐ろしい独占欲を吐露する先輩。
でも、不思議と怖くはなかった。
むしろ、画面の中の彼と、現実の彼が、ジグソーパズルの最後のピースがはまるように合致していく快感があった。
夜が更けていく。
私たちは一度もゲームをスタートさせないまま、ただボイスチャットで話し続けた。
バイトのこと。ゲームのこと。
「実は佐藤のあのミス、俺は結構好きだぞ」「えっ、どこがですか!?」「必死に修正しようとして、耳まで赤くなるところだ」なんて、リアルなら絶対に言えないような会話が、ネットの回線を通じて溶け合っていく。
「……あ。もう、四時ですよ」
時計を見て、私は驚いた。
明日はバイトの中番だ。今から寝ても、三時間も眠れない。
「……そうだな。そろそろ落ちるか」
黒崎さんの声には、まだ名残惜しそうな響きがあった。
「佐藤。……明日、店で会ったら。……いや、なんでもない」
「なんですか、気になります!」
「……ふっ。明日、お前が店に来るのを楽しみにしている、と言おうとしただけだ」
耳元で囁かれるようなその言葉に、私はヘッドセットを投げ出しそうになるのを必死に堪えた。
「……私も、楽しみにしてます。黒崎先輩……じゃなくて、Kさん……ううん、やっぱり先輩」
「ああ。……おやすみ、佐藤」
「おやすみなさい、先輩」
通話が切れる。
部屋にはまた静寂が戻ってきたけれど、さっきまでの孤独な静けさとは全く違っていた。
モニターの中、私のキャラクターの横にいたKの姿が消える。
でも、明日になれば。
数時間後になれば。
私は、あの「神エイマー」に、現実で会うことができるのだ。
私は布団に潜り込み、顔を埋めた。
明日のバイトは、きっと世界で一番過酷で、世界で一番甘い時間になる。
何しろ私の「教育係」は、世界で一番私を甘やかしたがっている、最強のキャリー様なのだから。




