第2話:重なり始める二つの背中
「……佐藤さん。手、止まってるぞ」
低く、どこか心地よく響くテノール。
バイト先のスタッフルームに、冷たい氷のつぶてが降ってきた。
私はビクッと肩を揺らし、手に持っていた湯飲みを落としそうになる。
「あ、すみません、黒崎先輩! ちょっと考え事をしていて……」
「考え事をするのは勝手だが、今は休憩時間終了の三分前だ。着替えを済ませ、エプロンの紐を確認しろ。三秒の遅れは、ピーク時の三人の客を逃すことに等しい」
相変わらずだ。
黒崎蓮先輩。
この人は、とにかく無駄が嫌いだ。
今日も黒のシャツの襟元を完璧に整え、非の打ち所のない「効率の鬼」としてそこに立っている。
昨日の今日だ。
あの神エイマー『K』が、この氷の彫刻みたいな先輩だなんて、そんなバカげた妄想は早く捨てるべきなのに。
でも。
「……あの、黒崎先輩」
「なんだ」
「その、机にある……それ。マウスパッド、ですよね?」
私は先輩が広げていたノートPCの横にある、黒くて大きな板状のものに視線を走らせた。
それは普通の事務用マウスパッドとは明らかに違う。
表面には独特の光沢があり、端には『ARTISAN』という、ゲーマーなら誰もが知る最高級ブランドのロゴが入っていた。
黒崎さんは、私の視線に気づくと、わずかに眉を動かした。
「……これが何か?」
「いえ、すごく大きくて本格的だなと思って。先輩、もしかして……ゲームとか、されるんですか?」
心臓がドクンドクンとうるさい。
もしここで「FPSを少な」なんて答えが返ってきたら、私はその場で膝から崩れ落ちる自信がある。
黒崎さんは、冷ややかな瞳で私を数秒見つめた後、鼻で笑うように吐き捨てた。
「これは仕事用だ。ポインタのトラッキング精度を高めれば、事務作業の効率が二一パーセント向上する。……君のように、画面の中でカーソルを迷子にさせている人間には理解できないだろうが」
「に、二一パーセント……」
やっぱり、そうですよね。
仕事、ですよね。
夢の『キャリーしてくれた王子様説』が、音を立てて崩れていく。
この人が、ゲームの中で「お前は俺が守る」なんて甘い(?)ことを言うはずがない。
だって今だって、「君は画面の中で迷子」って遠回しにバカにされたばかりなんだから。
「さっさとフロアに出ろ。今日は新メニューの導入日だ。オペレーションを間違えたら、今度こそ帰ってもらう」
「は、はいっ!」
私は慌ててスタッフルームを飛び出した。
やっぱり気のせいだ。
昨日の「後ろは俺が見ていてやる」だって、単に私のミスをカバーするのが効率的だから言っただけだ。
そうに決まっている。
しかし、その日のピークタイム。
私は自分の予想を裏切られることになる。
「佐藤、交代だ。裏で三分の『リロード』をしてこい」
怒涛の注文ラッシュが一段落した瞬間、黒崎さんが背後から声をかけてきた。
リロード。
また、ゲーム用語みたいな言い回し。
「え、でも、まだ片付けが……」
「いいから行け。君のスタミナはもう切れている。動作が〇・五秒遅くなっているぞ。効率が悪い。これを飲んで、集中力を回復させろ」
そう言って私の手に押し付けられたのは、キンキンに冷えた炭酸飲料のボトルだった。
それは、昨日の夜、私がゲーム中に「これが一番美味しいよね」と独り言のようにチャットでKに話した、マイナーなメーカーの強炭酸水だった。
「……えっ」
偶然?
いや、でもこの銘柄、この店には置いていないはずだ。
わざわざ外で買ってきたっていうの……?
私が混乱している間に、黒崎さんは無言で私の分のバッシング(テーブル片付け)を、倍速以上のスピードで片付け始めた。
「……なんなの、もう」
冷たいボトルを頬に当てる。
冷徹なようでいて、一番欲しいタイミングで、一番欲しい言葉(と飲み物)をくれる。
――お前はそこにいろ、俺が当てる。
脳内で、Kのチャットが再生される。
目の前で、流れるような動作でトレイを運ぶ黒崎先輩の背中。
その背中が、昨日の夜、画面越しに見た最強のソルジャーの背中と、どうしても重なって見えてしまう。
私は夢中で炭酸水を飲み干し、喉を焼くような刺激と共に、ある決意を固めた。
今夜、確かめてやる。
◇ ◇ ◇
深夜〇時。
私は戦場にいた。
PCの前に座り、ヘッドセットを装着する。
フレンドリストを確認すると、そこにはすでに『K』の文字が点灯していた。
心臓が跳ねる。
誘うべきか、迷っている暇はなかった。
向こうからパーティー招待が届いたからだ。
『来たか』
チャット欄に流れる、簡潔な文字。
私は震える指で返信を打つ。
『こんばんは! あの、今日もよろしくお願いします』
『ああ。……今日は何かあったのか。キーボードの打鍵が少し迷っているようだが』
……えっ、そんなことまで分かるの!?
エスパー? それともやっぱり、あのアホみたいに細かい観察眼を持つ黒崎先輩なの?
『ええと、実は……今日、バイト先で不思議なことがあって』
『……ほう』
『あの、すごく怖い先輩がいるんですけど、その人が今日、私が好きな飲み物を差し入れしてくれたんです。普段は「効率が悪い」とか「三手先を読め」とか厳しいことばっかり言うのに……』
送信ボタンを押した後、私は画面を凝視した。
数秒の沈黙。
Kのキャラクターが、画面の中でピタリと動きを止める。
『……その先輩は、差し入れの時に何と言ったんだ』
『「リロードしてこい」って言われました。あはは、変ですよね、ゲームじゃないんだから』
……。
……。
Kからの返信が、なかなか来ない。
まさか、地雷を踏んだ?
それとも、図星すぎて固まっている……!?
『……変わった先輩だな。だが、そいつはきっと、お前のことをよく見ているんだろう』
『そうでしょうか。……あ、でも! やっぱりKさんの方が優しいです。私の先輩は、顔はいいんですけど、笑ったところ一度も見たことないし。私、Kさんみたいに優しくて頼りになる人が、リアルでも先輩だったらよかったのにな、って……』
送信。
その瞬間だった。
ガタンッ!
ヘッドセットの向こうから、何か重いものが倒れたような音が微かに聞こえた。
ノイズの向こう、誰かの焦ったような吐息が混じる。
『……っ、……』
『Kさん? どうしました?』
『……いや。何でもない。……少し、マウスを滑らせただけだ』
あの冷静沈着なKが、操作ミス?
ありえない。
私の疑惑は、確信へと加速していく。
Kは、いつも私の動きに合わせて「低感度」でじっくりと距離を詰めてくるような、慎重な戦い方をする。
今の反応。
動揺を隠そうとして、逆に不自然になっているこの感じ。
私は、意を決して、物語の「安全装置」を外すことにした。
『あの、Kさん。……いつもチャットだけですけど、もしよかったら……』
一文字ずつ、ゆっくりと打ち込む。
『今夜、初めてボイスチャット、使ってみませんか?』
画面の中のKが、今まで見たこともないような不規則な動き(キャラの視点がぐるぐる回るムーブ)を見せた。
『……声、か』
『ダメ、ですか?』
『……。……いや。わかった』
Kのタイピングが、少しだけ遅れる。
『だが、驚くなよ。……俺の声は、あまりお前の理想とは、近くないかもしれないからな』
『そんなことないですよ! Kさんの声なら、どんな声でも嬉しいです』
私は期待と不安で、心臓が口から飛び出しそうだった。
もし、もしも。
このヘッドセットから聞こえてくるのが、あの「効率の鬼」の声だったら。
私は明日から、どんな顔をしてバイトに行けばいいんだろう。
でも、もう止まれない。
私はマウスを握りしめ、マイクのスイッチを入れた。
『……準備、いいですか?』
返信は、言葉ではなく、ボイスチャンネルへの参加通知だった。
ポーン、という接続音。
耳元で、静かなノイズが走る。
誰かが息を吸い込む音がした。
そして。
「……佐藤。聞こえるか」
その声を聞いた瞬間、私の視界が火花を散らしたように弾けた。
間違いない。
低くて、冷たくて。
でも、今この瞬間だけは、ひどく熱を帯びて震えている。
毎日私を叱り、毎日私を助けてくれる、あの人の声だった。




