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第1話:最低の現実と最高の夜



 人生には、どうしても「あ、今すぐ地球滅びないかな」と願ってしまう瞬間がある。

 私、佐藤結衣にとって、それは今この瞬間だった。


「佐藤さん。その動き、無駄が多すぎる。三手先を読んで動けと言ったはずだが」


 鼓膜を冷たく叩くのは、バイト先の先輩である黒崎蓮さんの声だ。

 夕方のラッシュ時、戦場と化したカフェのカウンター裏。

 黒崎さんは、乱れた前髪一つ直すことなく、機械のような正確さでエスプレッソマシンを操っている。その横顔は彫刻のように整っているけれど、体温を感じさせないほどに無機質だ。


「す、すみません! すぐに片付けます!」


 私が慌てて落としたスプーンを拾おうと腰を浮かせた瞬間、背後から低い声が降ってきた。


「待て。右から来る客の動線に干渉している。一度引け」

「ひゃいっ!」


 言われるがままに身を翻すと、そこには私がぶつかるはずだったトレイを持った別の店員が通り過ぎていく。

 黒崎さんは私を見ることさえせず、手元だけで完璧なラテアートを完成させ、それをカウンターに置いた。


「……君の効率は、昨日から五パーセントも改善されていない」

「ご、五パーセント……そんな厳密に計算されてるんですか」

「見ていれば分かる。やる気がないなら帰ってもらって構わないが」


 黒崎さんの視線が、わずかに私を射抜く。

 その瞳は「合理性」という名の氷でできているようだった。

 私は、キュッと唇を噛み締める。

 そんなに冷たく言わなくてもいいじゃないか。私だって、精一杯やってるのに。

 結局、その日のバイトが終わるまで、黒崎さんと交わした会話は「効率」と「修正命令」のみだった。


***


 最悪だ。

 駅までの夜道を歩きながら、私は大きくため息をついた。

 今日も怒られた。今日も役立たずだった。

 黒崎先輩は仕事ができるし、顔もいいから女子大生の間では「氷の王子様」なんて呼ばれて人気だけど、私からすればただの歩く計算機だ。

 心なんて、きっと回路図でできているに違いない。


「……帰ったら、絶対ぶっ放してやる」


 私は誰にも聞こえない声で呟き、家路を急いだ。

 私には、この最低の現実をリセットするための、最高のご褒美があるのだ。


 帰宅して三分。

 メイクも落とさず、コンビニのパスタを口に放り込みながら、私は愛機のゲーミングPCの電源を入れる。

 モニターが青白く光り、世界的人気FPS『ファイナル・ストライク』のロゴが浮かび上がる。

 ヘッドセットを装着すれば、そこはもう、バイト先の無能な佐藤結衣がいない場所。

 

 だが、現実は残酷だった。

 今夜の私は、ゲームの中でも絶不調だったのだ。


「うそ、なんで当たんないのっ……!?」


 画面の中で、私のキャラクターが無残に地面に這いつくばる。

 野良マッチングで組んだチームメイトからは、容赦ないチャットが飛んできた。


『おい、この初心者どこのどいつだ?』

『動かないなら抜けてくれ。邪魔だ』


 ……現実でも邪魔者扱い。ネットでもお荷物。

 目元が熱くなる。

 必死にマウスを握る指が震えた。

 もう、今日はやめよう。これ以上、自分を嫌いになりたくない。

 そう思って離脱ボタンにカーソルを合わせた、その時だった。


『――気にするな』


 チャット欄に、短い文字が躍った。

 それは、今回ランダムでマッチングしたもう一人の味方、プレイヤー名『K』からのものだった。


『サトウ、後ろにいろ。俺が全部抜く』


 ……えっ?

 私の本名を知っているはずがないから、おそらく私のID『SATO』を呼んだのだろう。

 それより驚いたのは、その後のKの動きだった。


 彼はそれまで機械のように一切の無駄な動きをしていなかったが、私の前に躍り出た瞬間、まるで猛獣のように豹変した。

 画面の中を縦横無尽に駆け回り、敵の姿が見えた瞬間に銃声が響く。

 

 パーン!

 乾いた音と共に、敵が一人倒れる。

 パーン! パーン!

 さらに二人。

 すべてが正確無比なヘッドショット。

 

 まるで魔法を見ているようだった。

 彼は一度も弾を外さない。それどころか、敵の攻撃が飛んでくる方向を予知しているかのように、完璧なタイミングで遮蔽物に隠れ、カウンターを叩き込む。


『SATO、そこは射線が通る。あと三歩、右へ』


 チャットの指示に従うと、さっきまで私を狙っていたスナイパーの弾が、鼻先をかすめていった。

 彼が私の「盾」になっている。

 

 バイト先での黒崎さんの指摘は「私がダメだから」言われているように感じたけれど、このKの指示は違った。

 私を生かすために、私が勝つために、最短のルートを提示してくれている。

 

 ……すごい。

 画面越しの彼の背中が、あまりにも頼もしすぎて、私はいつの間にか涙をこぼしていた。


 最終局面。

 残った敵は三名。こちらは、ボロボロの私と、傷一つないK。

 Kは一瞬だけ操作を止め、チャットを打ち込んだ。


『弾は足りるか?』

『あ、はい。……でも、私、また外すかも』


 情けない私の返信に、Kは短くこう返した。


『外してもいい。俺が当てる。お前はただ、そこにいろ』


 その瞬間、彼はビルから飛び降りた。

 空中でのエイム。着地際の一撃。

 最後の一人をナイフで仕留めた瞬間、画面いっぱいに『VICTORY』の文字が輝いた。


「勝った……勝っちゃった……!」


 私はヘッドセットを外し、机に突っ伏した。

 あんなにかっこいいキャリー、見たことがない。

 Kとのチャット欄を見つめる。

 彼は勝利の余韻に浸ることもなく、ただ一言、こう残してログアウトしようとしていた。


『よく頑張ったな。お前の囮、助かったぞ』


 あ。

 反射的に、私はチャットを打ち込んでいた。


『あの! ありがとうございました! 今日、本当に嫌なことがあって、でも、あなたのおかげで救われました!』


 ……何言ってるんだろ、私。

 ネットの向こうの、顔も知らない人に。

 でも、どうしても伝えたかった。

 しばらく反応がなかった。

 ああ、無視されちゃったかな……そう思った矢先、Kから返信が来た。


『……そうか。なら、明日も同じ時間にここへ来い。また勝たせてやる』


 胸の奥が、ジンと熱くなる。

 現実の世界では、黒崎先輩に「明日も来い」なんて言われたら、それは「明日も説教してやる」という意味にしかならないけれど。

 このKの言葉は、まるで魔法の約束のように聞こえた。


***


 翌日。

 私は、昨日よりも少しだけ軽い足取りでバイト先へ向かった。

 もちろん、仕事が急にできるようになったわけじゃない。

 案の定、開店準備中にトレイの置き場所を間違えて、黒崎先輩に呼び止められた。


「佐藤さん」

「……はい、すみません。すぐ直します」


 いつもの冷たい視線を覚悟して、私は頭を下げた。

 けれど。


「いや、直さなくていい。……そこ、動線としては非効率だが、君のような小柄な人間には一番手が届きやすい位置だ」


 ……えっ?

 驚いて顔を上げると、黒崎さんは相変わらず無表情で、手元のチェックリストを眺めていた。


「少しだけ、君の使いやすいように調整してやってもいい。……その代わり、ミスはするな。後ろは俺が見ていてやる」


 その瞬間、心臓が跳ねた。

 今の言い方。

 どこかで、聞いたことがあるような。


 黒崎さんは、私の視線を避けるように背を向けると、長い指先でトントンとカウンターを叩いた。

 そのリズム。

 ゲーム内でKが、リロード中や待機中にキャラを屈伸させる時に見せる、独特の間隔にそっくりだった。


 まさか。

 いや、そんなはずはない。

 あんなに冷たくて、効率の鬼みたいな黒崎先輩が。

 ゲームの中で、あんなに優しく、私を守ってくれるヒーローなわけがない。


 けれど、私の耳には、昨夜ヘッドセット越しに聞いたチャットの「声」が、今の先輩の言葉と重なって離れなかった。


「……あ、あの、黒崎先輩?」

「なんだ」

「……先輩って、夜、何されてるんですか?」


 唐突な私の質問に、黒崎さんの手が止まった。

 彼はゆっくりとこちらを振り返ると、わずかに眉を寄せ、氷のような瞳で私を凝視した。


「……無駄な質問だ。仕事に戻れ」


 突き放すような言葉。

 でも、その耳たぶが、ほんの少しだけ赤くなっていたのを、私は見逃さなかった。

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