第97話 皇帝の潜入と、全自動シャワーの洗礼
ガレリア帝国、皇帝ヴァレリウス。
大陸最強の武神と謳われ、恐怖と鉄の規律で広大な帝国を支配する覇王である。
その男が今、単騎でエデン領の国境に立ち、深い闇の中で目を細めていた。
「……忌まわしき辺境の地め。我が精鋭部隊を『ヤキソバ』なる謎の毒で狂わせ、優秀な密偵たちを骨抜きにした魔境。この皇帝自らが、その正体を暴き、灰燼に帰してくれる」
ヴァレリウスは漆黒の外套を翻し、エデンの入り口である『クレンジング・ゲート』へと足を踏み入れた。
潜入行動において、自らの臭いや汚れを落とし、現地の民に擬態するのは基本である。彼は油断なく周囲に闘気を張り巡らせながら、ドーム型の施設内へと進んだ。
だが、その張り詰めた闘気は、頭上から降り注いだ**「お湯」**によって、わずか数秒で洗い流されることとなる。
シューゥゥゥッ……!
「むっ!? なんだこの水は。ただの湯ではない……妙に柔らかいぞ!?」
ヴァレリウスは驚愕した。
彼に降り注いでいるのは、エデン特製の『マイクロ・ナノバブル温水』である。水に高圧をかけ超音波で粉砕された、光の波長よりも小さな無数の気泡群。
それが、歴戦の古傷が痛む皇帝の強靭な肉体に、優しく、しかし確実にまとわりつく。
気泡が弾ける際の微小な衝撃波が、凝り固まった筋肉を奥深くまでマッサージしていく。擦る必要すらない。マイナスイオンを帯びたナノバブルが、血と泥に塗れた皇帝の汚れを、毛穴の奥から根こそぎ吸着して剥がし落としていくのだ。
「おお……おおおっ……!? 背中の……三十年前に受けた剣傷の痛みが、溶けていく……!」
戦場での水浴びなど、冷たい川の水を被るだけの苦行だった。
だが、これは違う。温かく、柔らかく、まるで雲に抱かれているような圧倒的な安らぎ。
温水洗浄が終わると、今度は心地よい温風が全身を包み込み、瞬く間に水気を飛ばしていく。
最後に壁からポンッと排出された「防汚・速乾素材のルームウェア」に袖を通した時、ガレリア帝国皇帝は、完全に毒気を抜かれた顔で立ち尽くしていた。
「……いかん。我が闘争心が、削ぎ落とされたような錯覚が……」
ポカポカと火照る体を抱え、ヴァレリウスはふらふらとゲートの出口――『湯上がり休憩所』へと歩を進めた。
そこは、適度に冷房が効いた清涼な空間だった。
部屋の中央には、見たこともない四角い鉄の箱(自動販売機風の冷蔵庫)が鎮座しており、その前で、首に白い獣を巻いた一人の青年がガラス瓶を手にして佇んでいた。
「……ん? 見ない顔だね。難民のおじさん?」
アルリックだった。彼は深夜の散歩がてら、風呂上がりの一杯を楽しみに来ていたのだ。
「お、おじさんだと……!? 貴様、我が顔を知らぬのか!」
激昂しかけたヴァレリウスだったが、アルリックの視線は皇帝の顔ではなく、彼の手首の「古傷」に向けられていた。
「ひどい傷だね。神経まで痛んでる。……まあいいや。風呂上がりの火照った体には、水分と糖分の補給が必要だ。おじさんにも奢ってあげるよ」
アルリックは冷蔵庫から、キンキンに冷えたガラス瓶をもう一本取り出し、ヴァレリウスへと放り投げた。
「なっ……! 毒か!?」
「毒なわけないだろ。エデン特製、**『氷温・珈琲牛乳』**だ」
受け取ったガラス瓶の表面には、びっしりと冷たい水滴(結露)が浮かんでいた。
ヴァレリウスは警戒しながらも、風呂上がり特有の猛烈な喉の渇きに抗えず、紙のフタをペリッと剥がした。
「……ごくり」
一口、喉に流し込む。
その瞬間、皇帝の脳髄に雷が落ちた。
「っ……!! な、なんだこれはぁぁぁッ!?」
遠心分離機で乳脂肪分を『4.0%』の極めて濃厚な状態に調整された、エデン産の特濃ミルク。
そこへ、深煎りされたコーヒー豆から高圧抽出されたエスプレッソの強烈な香ばしさと、甜菜糖の優しくも暴力的な甘みが、完璧な比率で溶け合っている。
そして何より――痛いほどの冷たさだ。
過冷却(氷結する一歩手前)のマイナス1度で管理された液体が、風呂上がりで火照りきった内臓を一気に急速冷却していく。
「ああっ……! 苦味と、甘みと、圧倒的な脂肪の暴力が……冷気と共に胃の腑に染み渡る……ッ!」
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……プハァァァァッ!!
気づけばヴァレリウスは、腰に片手を当て、天を仰ぐような完璧な姿勢で、瓶の底に残った最後の一滴までを飲み干していた。
「……美味いだろう。交感神経が優位になっていた風呂上がりの体に、糖分と冷気を与えて副交感神経を刺激する。自律神経を強制的に『リラックス状態(快楽)』へと書き換える、最強の合法ドラッグだよ」
アルリックが空の瓶を回収しながら、涼しい顔で言う。
「……あ、ああ。美味い。余は……いや、俺は今まで、泥水のようなワインを飲んで喜んでいたのか……」
ヴァレリウスは膝から崩れ落ち、休憩所のふかふかのソファに深々と沈み込んだ。
筋肉の痛みはない。清潔な衣服。そして、胃袋を満たす極上の甘みと冷気。
(……勝てるわけがない。兵士たちに「泥水をすすり、痛みに耐えて戦え」と命じる我が帝国の規律など、この圧倒的な『安らぎ』の前では、砂上の楼閣に過ぎん……!)
大陸最強の皇帝は、目を閉じ、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
帝国軍の崩壊の理由は、武力ではなかった。あまりにも高すぎる、生活水準(QOL)の暴力だったのだ。
「……おい、若者よ。この国に、俺のような年寄りが働く場所はあるか?」
「ん? キースのところへ行けば、透水性アスファルトの敷設工事を紹介してくれるよ。……三食と、この風呂とコーヒー牛乳付きでね」
「……そうか。ならば、明日からスコップを握るとしよう」
こうして、世界を震え上がらせたガレリア帝国の覇王は、たった一回のシャワーと一本のコーヒー牛乳によって己の帝国を捨て、エデンの優秀な土木作業員へと華麗なる転職を果たすのだった。




