第95話 魔王の休日と、高濃度酸素の誘惑
西の海に面した、エデン公認・回転寿司『海王丸』。
梅雨の晴れ間の強い日差しが照りつける中、店内はキンキンに冷房が効き、極めて快適な空間が保たれていた。
そのカウンターの隅に、二人の男が座っていた。
エデンに潜入中のガレリア帝国スパイ――バイパーとコブラである。彼らは「視察」という名目で非番の休日を満喫し、冷えた緑茶を啜っていた。
「……信じられん。あの伝説の『深海の魔王』が、あんなに嬉々として皿を洗っているなんて」
コブラが戦慄しながら、カウンターの奥を見つめる。
そこには、巨大な単眼と10本の触手を持つクラーケン・ロードがいた。彼の第8、第9触手は洗剤の泡を完璧な表面張力でコントロールし、一枚の皿をわずか0.5秒でピカピカに磨き上げている。同時に別の触手では、見事な手つきでアジの小骨を毛抜きで処理していた。
耐えかねたバイパーが、握りの合間に店長へ問いかけた。
「店長……失礼ながら、貴方ほどの御方がなぜ、この地で人間の小僧に仕えているのですか? 我がガレリア帝国に来れば、一国の守護神として崇め奉られるというのに」
ピタリ、と10本の触手が静止した。
クラーケン・ロードの巨大な単眼が、冷徹にスパイたちを射抜く。
「……小僧ども。貴様らは**『溶存酸素量(DO)』**という概念を知っているか?」
「ド……ドウ?」
「アルリックがこの生け簀と厨房に施した魔法……いや、科学だ。水魔法で生成した気泡を『超音波キャビテーション』で極限まで粉砕し、目に見えぬほどの微細気泡を充填している。……深海とは比較にならぬほどの、高濃度酸素環境だ」
クラーケンは、恍惚としたように数本の触手をゆらゆらと揺らした。
「この環境で呼吸をしてみろ。全身の細胞が活性化し、魔力の循環が加速する。脳は冴え渡り、10本の腕が自分の意思以上に0.01ミリの精度で完璧に動く……。いわば、我は今、永劫に続く『整い(サウナ用語)』の中にいるのだ。……泥臭く酸素の薄い深海など、今さら戻れると思うか?」
スパイ二人は、その圧倒的な「QOLの暴力」に絶句した。
彼らが「誇り」だと思っていたものは、エデンにおいては「圧倒的な快適さへの依存」にあっさりと上書きされていたのだ。
そこへ、カランコロンと涼しげなベルを鳴らして、アルリックが母セシリアと姉フェリシアを連れて店に入ってきた。
「やあ、店長。今日は母様たちの歓迎会なんだ。……例の『高圧熟成』、いけるかな?」
「フン……アルリックか。貴様の要求は常に無茶だが、この快適な職場への『家賃』だ。……見せてやろう、極限の解像度を」
クラーケン店長が、深海の高水圧を魔法で再現した「特殊プレッシャー容器」から、一切れの切り身を取り出した。それは、ただの赤身ではなかった。表面に真珠のような美しい脂の霜降りが浮き出ている。
「(解像度を上げろ。……タンパク質のアミノ酸分解を、高圧下で4倍速に加速。細胞壁を破壊せず、旨味成分のみを飽和状態に引き上げる)」
アルリックが解説する間もなく、店長の触手が閃いた。
カエデとガリンが打った銘刀『柳』が、熟成された身を細胞一つ潰さずに切り分ける。アルリックが考案した『エアリー・グリップ(米粒の間に空気の層を作る魔法握り)』で、シャリとネタが一体化する。
「へい、お待ち。……**『深海圧熟成・大トロ』**だ」
母セシリアが、おそるおそるその一貫を口に運ぶ。
――ホロリ。
「……っ!? アルリック、これ……身がありませんわ!」
「身がないんじゃないよ、母様。……熟成によって旨味成分(イノシン酸)が飽和し、かつ高圧で組織が極限まで柔らかくなっているから、人間の体温(36度)に触れた瞬間に液状化しているんだ」
セシリアの口の中で、極上の脂がジュワァァァッと溶け出す。
噛む必要すらない。芳醇な磯の香りと、熟成によって何倍にも膨れ上がった濃厚な旨味が、空気を含んだシャリの酸味(赤酢)と完璧に混ざり合い、喉の奥へと消えていく。
「なんてこと……。王都の『最高級の焼き魚』が、ただの消しゴムに思えてしまいますわ……!」
セシリアが涙ぐみながら、二貫目に手を伸ばす。
フェリシアも、あまりの美味しさに無言で両頬を押さえ、身悶えしていた。
「……さて。店長、食後には新作の『マンゴー・ガリ』を出してやってくれ。甘酸っぱくて口直しに最適だからね」
「……ふん、面白い。やってみよう」
その光景を見ていた帝国スパイたちは、確信した。
もはや帝国軍が何万の兵で攻めてきても無駄だ。この店長を一人「国境へ出張」させるだけで、全軍が美味さと快適さの前に、戦う前に自ら武装解除するだろう。
「……コブラ。俺たち、もう帝国への定期報告、サボらないか?」
「……ああ、バイパー。食後のプリンを頼もう」
エデンの海は、今日も平和(という名のQOL支配)に包まれていた。




