第93話 聖域の門と、泥まみれの救済
降り続く梅雨の雨は、世界を平等に泥濘へと沈めていく。
ガレリア帝国との国境付近。ボロボロの衣服を纏った難民の群れが、重い足取りで西へと歩を進めていた。
「父ちゃん……もう歩けないよ。足が、泥から抜けない……」
泥水に足を取られ、膝をついた少年・マルコ。
終わらない戦争と重税に耐えかね、村を捨てて逃げてきた彼らは、すでに数日間ろくなものを食べていない。雨に打たれ、体温は奪われ、限界が近づいていた。
「頑張れ、マルコ。あの丘を越えれば『エデン』だ……。そこには、泥のない道と、雨風を完全に防ぐ魔法の家があるらしいんだ」
父親が励ますものの、その声にも覇気はない。
そんなおとぎ話のような場所が、この過酷な辺境にあるはずがない。半分は絶望に飲まれながら、彼らはついにエデンの国境を越えた。
その瞬間。
マルコの足裏の感覚が、劇的に変わった。
「え……?」
泥がない。
彼らが足を踏み入れたその道は、黒く滑らかで、それでいて適度な摩擦があり、全く滑らない。さらに驚くべきことに、激しい雨が降っているというのに、道には水たまり一つできていなかったのだ。
「水が……道に吸い込まれていくぞ!?」
父親が驚愕の声を上げた。
無理もない。この道は、ただ石を敷き詰めたものではない。大小の砕石を魔法のタールで結着させつつ、石と石の間に『水が通り抜けるための無数の隙間』を意図的に確保した、エデン特製の**『透水性アスファルト』**なのだ。
降ってきた雨水はスポンジのように瞬時に吸い込まれ、地下に張り巡らされた排水管へと直接逃がされる。だから、エデンではどれだけ大雨が降っても、決して泥濘にはならない。
さらに、彼らの行く先を照らすように、等間隔に立てられた柱の上の魔石が、太陽のように明るい白い光(LED風の指向性照明)を放ち始めた。
「次の方、前に出てください。……ああっ、もう! 難民の数が事前の予測データを超えているじゃないですか!」
光の先にある関所(道の駅)では、エデンの実務官キースが、防水加工された『魔導タブレット』を片手に悲鳴を上げていた。
その横には、大量の荷馬車を率いた商業ギルド長・カルロの姿もある。
「おいおいキースの旦那、これだけ労働力が増えれば、領主様が計画している『新工場』の稼働も早まるぜ? 喜ぶべきだ」
「審査と手続きをするのは私なんですよ! ……おや?」
キースが見上げた先、雨空を切り裂いて銀色の飛行車が音もなく降下してきた。
ウィィィン、とドアが開き、快適な車内からアルリックが降り立つ。その首には、雨を一滴も弾く美しい夏毛の神獣ブランが巻かれている。
「領主様! 視察ですか? 申し訳ありません、入国審査の手が回っておらず……」
「いや、キース。僕の静かなお茶の時間を邪魔する『不快なノイズ』を消しに来ただけだ」
アルリックは鼻を覆うように顔をしかめ、泥まみれの難民たちを見渡した。
「君たち、エデンへ来るのは構わないが……その泥と悪臭のまま僕の領地に立ち入ることは、僕のQOL(生活の質)に対する重大な侵害だ。まずは綺麗になってもらう」
アルリックが指を鳴らすと、関所の横に巨大なドーム状の施設が隆起した。
「エデン市民権獲得のための第一関門、**『クレンジング・ゲート』**だ。入って」
***
恐る恐るゲートに足を踏み入れたマルコたちは、目を丸くした。
ドームの中は暖かく、天井から無数のシャワーヘッドが突き出ている。
アルリックが魔力を通し、浄水機構を起動させる。
(解像度を上げろ。……水に高圧をかけ、超音波で粉砕。光の波長よりも小さな『マイクロ・ナノバブル』を生成し、銀イオン(Ag+)を付与する)
シューゥゥゥッ!
頭上から、乳白色の細かい霧のようなお湯が降り注いだ。
それはただのお湯ではない。毛穴の奥まで入り込む極小の気泡が、擦ることもなく泥や皮脂汚れをマイナスイオンの力で吸着し、一瞬で洗い流していくのだ。
「うわあっ! なんだこれ、温かい! 擦ってないのに、泥が溶けていく!」
「それにこの香り……。長年こびりついていたシラミや皮膚病まで、綺麗さっぱり消え去っていくぞ……!」
温水洗浄の次は、温風による急速乾燥。
最後に、壁からポンッと「防汚・速乾素材の清潔な衣服」が支給された。
わずか五分。ゲートから出てきたマルコたちは、王都の貴族すら嫉妬するほどの清潔さと、真新しい服を手に入れていた。
「うん、これなら僕の領地を歩かせてもノイズにならないね。……カルロ、彼らの胃袋を満たしてやって。空腹で倒れられると、死体処理のコストが無駄にかかるから」
「へっへへ……承知いたしました、アルリック様。さあ難民ども、エデンの飯を食いな!」
カルロの合図で、屋台のせいろからモウッ、と白い湯気が立ち昇った。
配られたのは、大人の拳よりも大きな、ふっかふかの**『肉まん(豚まん)』**だ。
「熱いうちに食いな。酵母(イースト菌)の呼吸を利用して、極限までフワフワに膨らませた特製の生地だぜ」
マルコは震える手で、その白くて温かい塊を受け取った。
両手で割ると――フワッ。
きめ細かい純白の生地が裂け、中から琥珀色の肉汁がジュワァァァッと溢れ出した。
限界までメイラード反応を引き出した飴色の玉ねぎと、粗挽きの豚肉。そこへ熱で溶けたゼラチン質の極上スープがたっぷりと絡みついている。
「はふっ……! あむっ……!」
マルコが一口かじりついた瞬間。
モチモチの皮の甘みと、暴力的なまでに濃厚な豚の旨味が、口の中で爆発した。
「美味しい……っ! なんだこれ、すっごく美味しいよ父ちゃん!」
「ああ……ああ……っ! 生きてて良かった……。こんなに温かくて美味いものが、この世にあるなんて……!」
難民たちは、雨の中で熱々の肉まんを頬張りながら、次々とその場に泣き崩れた。
そして、冷たい雨に濡れることなく、傘もささずに悠然と佇むアルリックを見上げ、祈るように両手を合わせた。
「ああ……貴方様は神の使いだ! 我々を泥と飢えから救い出してくださった、慈悲深き聖者様……!」
「……聖者? 冗談はやめてくれ」
アルリックは心底嫌そうな顔をした。
「僕はただ、自分の視界に汚いものが入るのが嫌で、不味い飯の匂いを嗅ぐのが嫌なだけだ。君たちはこれから、僕が快適に昼寝するためのインフラ整備(労働)に組み込まれるんだからね」
だが、その言葉すらも、難民たちには「この楽園に住まわせていただける」という神の啓示にしか聞こえなかった。
「命に代えても! このエデンの快適な明日を、我らが労働で守り抜いてみせます!!」
(……まあ、道が綺麗になるなら何でもいいか)
アルリックは欠伸を一つすると、ブランの首元に顔を埋め、再び飛行車へと乗り込んでいくのだった。




