第92話 家族の亡命と、三層構造のアフタヌーンティー
エデン領の領主館。
除湿の効いた快適な自室で、アルリックが新作の紅茶を味わいながら、ブランの美しい夏毛をブラッシングしていた時のことだ。
ピピピッ、ピピピッ。
机の上に置かれた、黒い魔石と水晶を幾何学的に組み合わせた金属箱――自作の**『魔導通信機』**がけたたましく鳴った。
(解像度を上げろ。……王都に仕掛けておいた中継器からの『電磁波』を受信。水晶発振で特定の周波数のみを同調し、音声信号へ復調する)
アルリックがトグルスイッチを弾くと、ノイズ混じりの音声が空間に響いた。
「……アルリック! 助けてちょうだい!」
スピーカーから飛び出してきたのは、王都の公爵邸にいるはずの姉・フェリシアの悲鳴に近い声だった。
「どうしたんだ、フェリシア姉さん。そんな大声を出したら、せっかくのダージリンの香りが台無しだよ。上空の電離層の反射を使っているから、もう少しゆっくり喋ってくれないと音声が割れる」
「そんなこと言ってる場合じゃありませんわ! ヴィクトール兄様が、お父様がエデンから帰ってこないのをいいことに、わたくしと母様を隣国の成金貴族へ売り飛ばそうとしていますの!」
「……ヴィクトール兄さんが?」
「ええ! 『魔力を持たぬ女は金に換えて、俺の軍備拡張の資金にする』って! 今も下の階で、暖炉をガンガン焚いて俺の火力を見ろと暴れていますのよ!」
アルリックは、静かにティーカップを置いた。
長男・ヴィクトール。魔力出力(火力)の大きさだけが自慢の、典型的な脳筋貴族。アルリックを「クロムウェル公爵家の汚点」と呼び、辺境への追放を主導した男でもある。
「……なるほど。自分が当主代行のつもりか。身内のQOL(生活の質)を著しく下げるなんて、最高に不快なノイズだね」
アルリックは立ち上がり、ガレージの鍵を手に取った。
「いいよ。ちょうど、新しい飛行車の『自動操縦』と『防音・断熱性能』を悪天候の中で試したかったんだ。今から迎えに行く。バルコニーで待っていて」
「本当ですの!? お願い、早く……ッ!」
通信が切れる。アルリックは首元のブランを撫でながら、静かに魔力を練り上げた。
「さて。……時代遅れの『火力至上主義』に、現代科学の冷や水を浴びせに行こうか」
***
王都を濡らすのは、鉛色の重い雨だ。
石造りのクロムウェル公爵邸は、壁という壁がじっとりと結露し、鼻をつくカビの匂いと不快な湿気に支配されていた。
「ええい、鬱陶しい雨だ! 暖炉に火を焚け! 湿気ごと焼き尽くすのだ!」
大広間で怒声を張り上げているのは、長男のヴィクトール。
エデンへ入り浸って帰ってこない父(公爵)に代わり、当主代行としてふんぞり返る彼は、典型的な「魔力量こそ権力」と信じて疑わない旧時代の権威主義者である。
「ヴィクトール兄様! 今の季節に暖炉など焚いたら、蒸し暑くて倒れてしまいますわ!」
「黙れフェリシア! 魔力を持たぬ女は、大人しく隣国の成金貴族へ嫁ぐ準備だけしていればいいのだ! 母上もだ、エドワード父上が失踪した今、この家の絶対者は俺である!」
姉フェリシアと母セシリアが、暴力的な暑さと理不尽な扱いに青ざめる。
王都の生活水準(QOL)は、エデンを知らない彼女たちにとってすら、もはや限界に達していた。
だが、その時。
――ドォォォォォン……ッ!!
窓の外から、空気を激しく震わせる重低音が響き渡った。
「な、なんだ!? 魔獣の襲撃か!?」
ヴィクトールがバルコニーへ飛び出す。
そこには、重力を完全に無視し、雨降る空中にピタリと静止した銀色の金属塊――魔導飛行車**『スリーピング・ビューティー号』**が浮かんでいた。
*ウィィィン……*と、滑らかな駆動音と共にガルウィングドアが跳ね上がる。
「やあ、ヴィクトール兄さん。相変わらず、無駄に声が大きくて非効率だね」
ふかふかのレザーシートに深く腰掛け、片手でハンドルを握るアルリック。
その首元には、美しい夏毛に生え変わった神獣ブランが、退屈そうに巻き付いている。
「ア、アルリック!? 貴様、エデンへ追放されたゴミの分際で、その奇妙な鉄屑はなんだ!」
「鉄屑じゃないよ。君の生涯年収でもタイヤ一個買えない、僕の移動式寝室だ。……さあ、母様、フェリシア姉さん。乗りなよ。こんなノイズだらけの家、肌荒れの原因になる」
「アルリック……! ええ、行きますわ! こんなカビ臭い家、もう一秒たりともお断りですの!」
「待ちなさいあなたたち! 俺を差し置いて、その無能について行くというのか!」
激高したヴィクトールが、杖を振り上げた。
杖の先端に、周囲の雨を瞬時に蒸発させるほどの巨大な炎の球が圧縮されていく。
「クロムウェル家の面汚しめ! 貴様のその鉄屑ごと、灰燼に帰してやる! 『大炎球グレート・フレア』ッ!!」
轟音と共に、灼熱の火球が飛行車へと放たれた。
母と姉が悲鳴を上げる。だが、アルリックは欠伸を噛み殺しながら、ダッシュボードのスイッチを一つ弾いただけだった。
(解像度を上げろ。……熱エネルギーを電力へ変換。ゼーベック効果による**『熱電発電』**機構、起動)
飛来した大炎球は、車体の周囲に展開された見えない被膜に触れた瞬間――シュゥゥゥンッ! と、まるで掃除機に吸い込まれるように一瞬で消滅した。
爆発も、熱波もない。ただ、車内の魔導バッテリーの残量ゲージが**100%**へと跳ね上がっただけだ。
「なっ……!? 俺の最大火力が……消えた!?」
「莫大な熱量を提供してくれてありがとう。おかげで帰りのエアコン代が浮いたよ」
アルリックは涼しい顔でアクセルを踏み込んだ。
「じゃあね、兄さん。せいぜい暖炉の前で汗だくになっていてくれ」
シュバッ!
飛行車は垂直上昇し、ヴィクトールの絶叫を置き去りにして、雨雲の彼方へと消えていった。
***
数時間後。エデン領、領主館のサンルーム。
全館除湿によって湿度40%、室温24度に完璧にコントロールされた清涼な空間で、二人の貴婦人は言葉を失っていた。
「……息が、しやすいですわ。それにこのソファ、座った瞬間に体が吸い込まれるようですの」
「長旅お疲れ様。エデンへようこそ。……さあ、ガリン特製のスタンドが届いたよ」
アルリックの合図で、三段重ねの豪奢な銀のティースタンドが運ばれてきた。
エデン流、**『三層構造のアフタヌーンティー』**だ。
「一番下は、焼き立てのスコーン。真ん中は、温室で採れた完熟マンゴーのフルーツサンド。一番上は、氷魔法で冷やしたイチゴのムースだよ」
母セシリアが、震える手で温かいスコーンを手に取る。
真ん中からふたつに割り、濃厚なクロテッドクリームと、自家製マンゴーコンフィチュールをたっぷりと乗せて口に運んだ。
――サクッ。ホロリ。
「……っ!!」
セシリアの目が見開かれた。
外側のサクサクとした香ばしい生地が、口の中で脆く解ける。そこに、乳脂肪の極めて高いクリームのコクと、マンゴーの暴力的なまでの甘さと酸味が、ジュワッと絡み合う。
フェリシアも、純白のパンに挟まれた極厚のマンゴーサンドを頬張っていた。
フワッ、ジュワァァァッ。
「んんっ……! 果汁が、果汁が口いっぱいに弾けますわ! パンが雲のように柔らかくて、マンゴーの甘みを一切邪魔していませんの!」
「美味しい紅茶もあるよ。……この空間では、『不快』という言葉は存在しないからね」
アルリックが、琥珀色の液面を揺らしながらティーカップを傾ける。
「アルリック……なんてこと。わたくし、今まで何を食べて生きてきたのかしら」
あまりの美味しさと、空間の快適さに、セシリアの目から一筋の涙がこぼれた。
そこへ、「お、母さんたちも着いたのか」と、風呂上がりの父エドワードが現れた。
彼は片手にキンキンに冷えたビールを持ち、あろうことかだらしない浴衣姿で呑気に立っている。
「あなた……。公爵家を放り出して、こんな極楽で毎日堕落していたのですか?」
「ひっ! せ、セシリア! 違う、これはアルリックのインフラ視察で……!」
静かに立ち上がる妻の圧倒的なプレッシャーに、大陸有数の騎士だった父が後ずさる。
エデンにおけるヒエラルキーが、瞬時に確定した瞬間だった。
(……やれやれ。これで実家のノイズは完全に消えたな)
極上のスコーンを齧りながら、アルリックはブランの美しい夏毛を撫で、一人満足げに微笑むのだった。




