第90話 産業スパイの潜入と、炭水化物の重ね技(焼きそばパン)
夏祭りの喧騒が静まり、深夜のエデン領。
屋敷の裏庭に、二つの黒い影が音もなく滑り込んだ。
隣国「ガレリア帝国」から送り込まれた、エリート工作員『バイパー』と『コブラ』だ。
「……ここが、噂の『快楽都市』エデンか」
「ああ。ターゲットは、住民を堕落させている『黒い聖水コーラ』と『黄金の麺(焼きそば)』のレシピだ」
彼らは高度な隠密スキルで気配を絶ち、厨房への侵入を試みた。
だが、彼らは知らなかった。
この屋敷のセキュリティが、物理的な「壁」ではなく、圧倒的な「生物兵器」によって守られていることを。
***
ガサッ。
庭の茂みを抜けた瞬間、バイパーの足が何かを踏んだ。
柔らかく、弾力のある感触。
「……地雷か!?」
彼らが足元を見ると、そこには漆黒の巨大な獣――『シャドウ・ジャガー』のノワールが、ひんやりとしたジェルマット(冷却魔道具)の上で腹を出して爆睡していた。
「グゥ……(ムニャムニャ……キャラメル……もっと……)」
「なっ、魔獣が寝言を……!?」
コブラが短剣を構える。
その瞬間、ノワールの耳がピクリと動いた。
カッ!!
金色の瞳が見開かれる。
殺気ではない。「おやつか?」という期待に満ちた目だ。
「グルルッ?(お前ら、新しいウーバーイーツか?)」
「ヒッ……! こ、こいつ、速い!」
ノワールは残像を残して二人の背後に回り込み、その重い前足で「ドン!」と肩を叩いた(じゃれつき)。
ドサァッ。
エリート工作員、物理で圧死(気絶)。
***
数分後。
二人のスパイは、屋敷のダイニングルームで椅子に縛り付けられていた。
目の前には、不機嫌そうなアルリックが腕組みをして座っている。
「……やれやれ。せっかく祭りの余韻に浸っていたのに」
「くっ、殺せ! 我々は何も喋らんぞ!」
バイパーが叫ぶ。
「殺しはしないよ。……君たち、お腹空いてるだろ?」
アルリックは指を鳴らした。
厨房から、甘辛いソースの香りが漂ってくる。
「君たちが盗みに来た『焼きそば』だ。……だが、ただの焼きそばじゃない」
ドンッ!!
テーブルに置かれたのは、切れ目の入ったコッペパンに、これでもかと焼きそばが詰め込まれた物体だった。
『焼きそばパン』だ。
「……な、なんだこれは!? パンの中に麺が入っているだと!?」
「小麦に小麦(麺)を挟む……!? 正気の沙汰じゃない!」
スパイたちが戦慄する。
パン(主食)をおかずに、麺(主食)を食う。
それは栄養学的に見れば狂気。だが、味覚的に見れば「約束された勝利」だ。
「食え。……これは尋問だ」
アルリックが無理やりコブラの口にパンを突っ込んだ。
――ガブッ。
フワフワのパン生地。
その中から、濃厚なソースが絡んだモチモチの太麺が溢れ出す。
「…………ッッ!!??」
コブラの目が白黒反転した。
パンの小麦の甘み。
ソースのスパイシーな酸味。
そして、シャキシャキの紅生姜が、全体を引き締める。
「んぐ、んぐ……! ば、馬鹿な……! 合う! パンと麺が、口の中で喧嘩せずに融合している!」
「ソースがパンに染み込んでいる部分……そこが一番美味いんだよ」
アルリックはニヤリと笑い、さらに追い打ちをかけた。
「喉が渇いただろう? ……ほら、例の『黒い水』だ」
シュワァァァッ……。
グラスに注がれたコーラ。
だが、今回はその上に「バニラアイス」が浮いている。
『コーラ・フロート』だ。
「アイスが溶けて、コーラと混ざる瞬間の『泡』。……そこを飲め」
バイパーが震える手でグラスを煽る。
チリチリとした炭酸の刺激。
その後に来る、クリーミーなバニラの甘み。
「ぶはぁっ!! ……あ、悪魔だ……! こんな美味いものを隠し持っていたなんて……!」
スパイたちは泣き崩れた。
帝国の硬い黒パンと、薄いスープだけの生活。
それに比べて、このエデンはどうだ。
獣ですらジェルマットで寝て、捕虜には炭水化物とコーラが出る。
「……情報を吐くか?」
「吐きます! 全部吐きます! 帝国の機密でも何でも!」
「だからもう一本! その焼きそばパンをもう一本くれぇぇぇ!」
***
こうして、帝国のエリートスパイは陥落した。
彼らは「二重スパイ(という名のエデン広報係)」として雇われることになった。
主な任務は、帝国の若者たちに「エデンの飯は美味いぞ」という噂を流し、人材を引き抜くことだ。
「……ふぅ。夜食を食いすぎた」
アルリックは空になった皿を見て、少し後悔した。
深夜の炭水化物祭りは、QOLを高めるが、体重も高める諸刃の剣だ。
「明日は運動しよう。……『ラジオ体操』でも導入するか」
だが、そんな平和な決意をした矢先。
エデンの空に、またしても「異常」が発生した。
今度は敵襲でも、スパイでもない。
もっと根源的で、回避不可能な「自然の猛威」。
ゴロゴロゴロ……。
ザァァァァァッ!!
突然の豪雨。そして、止まない雨。
エデンを襲ったのは、季節外れの「長雨(梅雨)」だった




