第9話 王家からの招待状
王家の紋章――獅子と百合が描かれた封蝋を見て、エドワード公爵の手が微かに震えていた。
場所は公爵家の執務室。
重厚なマホガニーの机を挟んで、五歳のアルリックは父と対峙していた。
「……アルリック。陛下からの親書だ」
父の声は重い。
王からの手紙。それは貴族にとって最高の名誉であり、同時に、一歩間違えれば破滅を意味する「絶対命令書」でもある。
「内容は?」
アルリックは興味なさそうに尋ねた。彼の手には、ガストンが焼いた新作のスコーン(外はサクッ、中はしっとりの自信作)が握られている。
「……『貴殿の領地にて、精霊の愛し子と思わしき奇跡が起きているとの噂を聞いた。特に、光を放つ衣と、老いを忘れさせる聖水(石鹸のことらしい)について、興味がある。次回の建国記念の祝賀会に、その製作者を同伴して参内せよ』……とのことだ」
父が手紙を読み上げると、部屋の空気が凍りついた。
母のエレナと姉のセシリアは、顔を見合わせて青ざめている。
「製作者って……僕のことだよね?」
「他に誰がいる。……お前の姉上が夜会で『弟が作ってくれたの!』と自慢して回ったせいで、尾ひれがついて広まっているようだ」
エドワード公爵は溜息をついた。
噂では、アルリックは「精霊王の生まれ変わり」か「古代の錬金術師の再来」ということになっているらしい。
「……断れないの?」
アルリックはスコーンをかじりながら言った。
「王都なんて行きたくないよ。馬車は揺れるし、お尻が痛くなるし。それに、王城なんてどうせ石造りで寒いし、食事だって形式ばってて冷めてるに決まってる」
彼の言い分は、あまりにも子供らしく、かつ核心を突いていた。
アルリックにとって、公爵邸こそが現在世界で最もQOLが高い場所だ。
わざわざ解像度の低い場所へ出向き、堅苦しい挨拶をするなど、苦行でしかない。
「断れば、我が家は王家への反逆とみなされる」
父は厳しく言ったが、すぐにその表情を崩し、困り果てた父親の顔になった。
「……だが、私もお前を政治の道具にはしたくない。まだ五歳だ。本来なら、領地でのびのびと育てるつもりだったのだが……」
公爵家の平穏は、皮肉にも息子自身の才能によって壊されようとしていた。
アルリックは考え込んだ。
このまま引きこもっていたい。だが、家族に迷惑がかかるのは本意ではない。父も母も姉も、彼にとっては「快適な生活」を支えてくれる大事なスポンサーだ。
(……仕方ない。行って、適当に挨拶して、すぐに帰ってくればいいか)
そう妥協しようとした時、ふと父が言った。
「そういえば、王都には東方からの貿易船が来ているらしいな」
「え?」
アルリックの動きが止まる。
東方。その言葉が、彼の中にある前世の記憶を刺激した。
「東方……って、まさか」
「ああ。絹や香辛料、それに見たこともない穀物や、黒い豆のようなものを積んでいると聞いたが……」
穀物。黒い豆。
そのキーワードが、アルリックの脳内で弾けた。
(穀物……『米』か!? それに黒い豆……もしや『醤油』の原料の大豆か、あるいは『コーヒー豆』か!?)
アルリックの瞳孔が開いた。
公爵領の食事は、パンとスープと肉料理で完結している。
だが、もし「米」と「醤油」が手に入れば?
卵かけご飯、おにぎり、そして何より――炊きたての白米という「至高の主食」が解禁される。
さらに、食後のコーヒー。
あの芳醇な香りと苦味が、甘いシフォンケーキにどれほど合うか。想像しただけで、脳内の幸せ物質が溢れ出しそうだ。
(……行く価値がある。いや、行かねばならない)
アルリックのQOLレーダーが、最大レベルの反応を示していた。
王都へ行けば、食卓のレパートリーが倍増する可能性がある。これはもはや、ただの謁見ではない。「買い付け」だ。
「……父上」
アルリックはスッと立ち上がり、真剣な眼差しで父を見上げた。
「王命とあらば、逆らうわけにはいきません。クロムウェル家の名誉のため、このアルリック、微力ながら参内いたします」
「お、おう……? 急にやる気になったな?」
父は息子の変貌ぶりに戸惑ったが、アルリックの頭の中はすでに「王都の市場」のことで一杯だった。
「ただし、条件があります」
「条件?」
「王都までの移動手段です。……今の馬車では、王都に着く前に僕のお尻が砕けてしまいます。馬車の『改造』を許可してください」
公爵領から王都までは、馬車で三日の道のりだ。
舗装されていない街道を、サスペンションのない木製の車輪でガタガタと進む。それは現代人にとって、拷問に近い振動だ。
(振動はノイズだ。……排除しなければ、快適な旅はあり得ない)
「改造か。……まあ、好きにするといい。お前の魔法なら、空を飛ぶ馬車でも作りかねんからな」
父の許可は下りた。
こうして、神童アルリックの「初めての王都行き」が決定した。
目的は、国王への謁見ではない。
究極の食材「米」と「コーヒー」の確保。
そしてその道中を快適にするための、異世界初となる「魔導サスペンション付きリムジン馬車」の開発である。
王家が待ち受ける首都へ、規格外の五歳児が解像度を上げて乗り込んでいく。




