第76話 聖剣の周波数と、マンゴーラッシー
道の駅が完成し、カレーパンが大ヒットした数日後。
アルリックは愛車『スリーピング・ビューティー号』を駆り、領内の「牧場エリア」へとやってきた。
次なる目的地は、未踏の「密林の最深部」だ。
以前、黄金のバナナを見つけた場所よりも、さらに奥地。そこにあるとされる「黒いダイヤ(コーヒー豆)」を求めて、長距離ドライブに挑む計画である。
だが、今の車のシートには不満があった。
スライムレザーの肌触りは良いが、長時間の振動を吸収する「究極のフィット感」が足りないのだ。
「……よう、牧場長。精が出るね」
車を降りたアルリックが声をかけると、作業着姿の青年が振り返った。
元勇者、現スライム牧場長のアレックスだ。
彼の背中には、伝説の聖剣エクス・カリバーンが無造作に背負われている。
「おお、領主様か。……見てくれ。今日の『収穫』は最高だぞ」
アレックスは、満面の笑みで柵の中を指差した。
そこには、餅のように平べったく伸び、デローンと弛緩したスライムたちが重なり合っていた。
「俺の聖剣タッピングも板についてきた。……今の俺は、剣の振動周波数を自在に操れる」
アレックスが聖剣を抜く。
刀身が微かに震え、キィィィン……というモスキート音のような高周波を放つ。
「見ていろ。……『聖剣・安らぎの波動』!」
彼が剣の腹で、硬直した野生のスライムをポンと叩く。
――ボヨヨン。
一撃。
たった一撃で、スライムの細胞壁から緊張が消え去り、極上の低反発素材へと変化した。
「……素晴らしい。解像度が上がっているな」
アルリックは感心した。
「君の剣から出る波動は、正確な『1/fゆらぎ』を描いている。生物が最もリラックスするリズムだ。……これなら頼めるな」
「頼む? 何をだ?」
「この車のための『運転席シート』だ」
アルリックは愛車のドアを開けた。
「コーヒー豆を求めて、再び南へ行く。だが、あの悪路は僕の腰椎ようついを破壊する。……だから、君の作った最高傑作の『キング・スライム(高密度低反発素材)』を一匹、譲ってほしい」
しかし、アレックスは首を横に振った。
「断る」
「……何?」
「こいつらは俺の家族だ。車の部品にするなんて可哀想だろう! それに、キング・スライムの『モチモチ感』を維持するには、毎日俺がマッサージしなきゃならないんだ!」
完全に牧場主としての愛着が湧いてしまっている。
魔王を倒す使命を忘れた勇者の目は、純粋そのものだった。
「……仕方ない。交渉といこうか」
アルリックは、助手席からバスケットを取り出した。
「君は、最近『道の駅』で流行っているアレを、もう食べたかな?」
「アレ? ……噂の『カレーパン』のことか?」
アレックスの喉が鳴った。
牧場にこもりきりの彼は、噂は聞いていてもまだ実物を食べていなかったのだ。
「揚げたてだよ」
アルリックが包みを開く。
――フワァッ。
スパイシーな香りが牧場に広がる。
牛舎の匂いを一瞬で塗り替える、暴力的なまでに食欲をそそる香り。
「くっ……! そ、そんな物で俺が……!」
アレックスが聖剣を握りしめるが、その手は震えている。
「カレーパンだけじゃない。……これには『相棒』が必要だ」
アルリックは、もう一つ。
氷魔法でキンキンに冷やしたガラス瓶を取り出した。
中には、鮮やかなオレンジ色の液体が入っている。
「これは……?」
「『マンゴーラッシー』だ」
「ラッシー?」
「うちの温室で採れた完熟マンゴーと、この牧場の新鮮なヨーグルトを混ぜ合わせたドリンクさ」
アルリックはグラスに注いだ。
とろりとした濃厚な液体。
「カレーのスパイスは舌を刺激する。……そこへ、このラッシーを流し込むんだ」
アルリックは実演した。
カレーパンを一口。ザクッ、ハフハフ。辛さに顔をしかめる。
その直後、ラッシーを一口。
「……ん。カプサイシンの刺激を、乳脂肪分カゼインとマンゴーの甘みが優しく中和する。……『辛い』と『甘い』の無限往復。これがインド(東方)の真理だ」
ゴクリ。
アレックスの理性が音を立てて崩壊した。
「……キング・スライムを一匹やる」
「毎度あり」
***
数分後。
「うめぇぇぇぇッ!!」
牧場の空に、勇者の絶叫が響き渡った。
片手には齧りかけのカレーパン。もう片手にはラッシー。
口の周りを黄色いヒゲ(カレーとマンゴー)だらけにして、彼は涙を流していた。
「なんだこの組み合わせは! 辛いのに、甘い! サクサクなのに、トロトロだ!」
「交互に食べると止まらないだろう? それが『味覚のコントラスト効果』だ」
アルリックは、車のシートに『キング・スライム(加工済み)』をセットしながら満足げに頷いた。
座ってみる。
――ムギュゥ。
素晴らしい。
お尻が底付きせず、まるで雲の上に座っているようだ。
これなら悪路の振動も完全に吸収し、リビングのソファでくつろぐのと変わらない。
「ありがとう、牧場長。……ああ、ラッシーのレシピは置いていくから、牧場の新商品として売り出すといい」
「あぐ、はぐ……! ああ! 絶対売る! 俺が毎日飲む!」
完全に餌付けされた勇者に別れを告げ、アルリックはエンジンを始動させた。
シートは完璧。
食料も満載。
道路も舗装済み。
「準備は整った。……行こうか、レオナルド」
「おう! 次はコーヒーだ! カフェインだ! 眠気覚ましだ!」
助手席のレオナルドも、すでにカレーパンを三つ平らげてやる気満々だ。
目指すは南の密林、その最深部。
そこには、眠気を吹き飛ばす「黒い果実」が待っているはずだ。
だが、アルリックはまだ知らない。
その密林には、とんでもない「湿気」と、車内に入り込もうとする「吸血昆虫の群れ」が待ち受けていることを。




