第74話 パスカルの原理と、ドライブスルーの流儀
「――おい、壁だ! 壁が来るぞッ!」
レオナルドの絶叫が響く。
魔導自動車は、工房のレンガ壁に向かって時速60キロで突っ込んでいた。
アルリックは冷静にコーヒーカップをダッシュボードに置いた。
ブレーキはない。だが、助手席には最高級の「制動装置」が乗っている。
「レオナルド、頼む」
「頼むじゃねぇよおおおおッ!」
ドォンッ!!
レオナルドが助手席の床を踏み抜き、両足を地面に突き刺した。
とてつもない摩擦音と土煙。
騎士の脚力が、地面を削り取りながら、1トンの鉄塊を強引に停止させる。
キキキキキキッ……ズザザザッ!
車のバンパーは、壁まであと数センチのところで静止した。
「……ふう。カップの中身が一滴もこぼれなかった。さすがだな、筋肉」
「殺すぞテメェ!! 俺のブーツが摩擦熱で溶けたじゃねぇか!」
レオナルドが、靴底のなくなったブーツを脱ぎ捨てて怒鳴る。
アルリックは悪びれもせず、メモ帳を取り出した。
「やはり、物理的な『摩擦ブレーキ』は必須か。……筋肉ブレーキは消耗品(ブーツ代)が高くつくし」
「俺への謝罪とか感謝はねぇのか!?」
***
数時間後。
アルリックは再びガレージに潜り込んでいた。
「止まるための機構……。単に棒で車輪を押さえつけるだけでは、力が足りないし、振動もひどい」
彼は設計図に数式を書き込む。
「必要なのは『パスカルの原理』だ」
「……パスカル?」
新しいブーツに履き替えたレオナルドが、訝しげに覗き込む。
「密閉された液体の一部に加えた圧力は、すべての部分に均等に伝わる……という流体力学の法則だよ」
アルリックは、細い管と太い管がつながった装置を指差した。
「ブレーキペダルを踏む力は小さい。だが、この油圧オイルで満たされた細い管を通し、車輪側の太いシリンダーに伝えることで、力を数倍に増幅アンプできる」
彼は車輪の内側に、円盤ディスクを取り付けた。
「この回転する円盤を、油圧の力で両側からパッドで挟み込む。運動エネルギーを熱エネルギーに変換して捨てるんだ。……名付けて『油圧式ディスクブレーキ』」
「……お前の魔法なら、風で止めるとかできねぇのか?」
「風魔法だと急制動で首がむち打ちになる。この油圧制御なら、絹を撫でるような『極上の減速』が可能だ。僕が寝ている間に止まっても、目が覚めないレベルでな」
「結局、寝るためかよ!」
***
改良された魔導車『スリーピング・ビューティー号(仮)』の再試験だ。
今度はエデン領の外周道路を走る。
アクセルを踏み込み、時速80キロへ。
そして、ブレーキペダルをじわりと踏む。
――スゥゥゥ……。
ガックンという衝撃は皆無。
まるで巨大な手に優しく包み込まれたかのように、車は滑らかに減速し、停止した。
「……すげぇ。ピタリと止まったのに、体が前につんのめらなかった」
「制動力を電子制御(魔導回路)で分散させているからね。アンチロック・ブレーキシステムも完備だ」
アルリックは満足げに頷いた。
これで移動手段は完成した。
だが、彼にはもう一つ、試したいことがあった。
「さて、レオナルド。腹は減ってないか?」
「おう、試運転で叫んだからペコペコだ」
「なら、この車の真価を発揮しよう。……『ドライブスルー』の時間だ」
アルリックは後部座席からバスケットを取り出した。
中に入っていたのは、見慣れた「ハンバーガー」だった。
しかし、その「包み紙」がいつもと違う。
「なんだこれ? いつもの皿じゃなくて、紙に包まれてるぞ?」
「これは『オイルプルーフ・ペーパー』だ。耐油加工された紙で包むことで、手を汚さずに片手で食べられる」
アルリックは片手でハンドルを握りながら、もう片方の手でバーガーの包みを器用に開いた。
「運転しながら皿とナイフは使えないだろう? だが、このスタイルなら景色を楽しみながら食事ができる」
「なるほどな! これなら馬に乗りながらでも食える!」
「馬はやめろと言っただろう。揺れてソースがこぼれる」
レオナルドも包みを開き、豪快にかぶりついた。
ガブッ。
いつもの肉厚パテと、とろけるチェダーチーズ。
しかし、車内で食べるという背徳感が、その味を数倍に引き立てていた。
「んぐ、んぐ……。車の中で食う飯って、なんでこんなに美味いんだ?」
「『非日常感』というスパイスだよ。それに、これを見ろ」
アルリックはコンソールボックスを指差した。
そこには、二つの丸い穴が開いていた。
「『カップホルダー』だ。ジャイロ機能付きで、車が傾いても中身がこぼれない」
そこに、氷魔法でキンキンに冷えたコーラのカップが収まっている。
「脂っこいバーガーを流し込むための、シュワシュワする黒い水。……これを運転中に飲むのが、大人の嗜みだ」
ズズッ、とストローでコーラを吸い上げ、炭酸の刺激で口の中の脂を洗い流す。
そしてまた、バーガーにかぶりつく。
無限ループだ。
「ぷはぁ! 最高だぜ! なあアルリック、もっとスピード出せよ! 風を感じながら食いたい!」
「おっと、ソースをシートに垂らすなよ。クリーニング代を請求するからな」
エデンの街道を、一台の車が走っていく。
それは単なる移動手段ではない。
「移動」そのものを「娯楽」へと昇華させた瞬間だった。
だが、この快適さが仇となる。
翌日、エデン中の住人が「私も乗せろ」「その紙に包んだやつをくれ」と殺到し、アルリックの安眠はまたしても妨害されることになるのだった。




