第7話 厳格な父と宝石のジャム
ガストン料理長が「ふわふわパン」の虜になってから、数日が過ぎた。
公爵家の朝食は、劇的な進化を遂げていた。
ダイニングルームには、焼きたてのブリオッシュの香りが漂い、その隣には、これまたアルリックの指導で改良された「口どけの良いバター」が添えられている。
だが、今朝の食卓には、いつもとは違う緊張感が張り詰めていた。
「……ふむ」
上座に座る、厳格な面持ちの男。
アルリックの父であり、この領地を治めるエドワード・フォン・クロムウェル公爵だ。
軍人あがりの彼は、食事中には私語を挟まない厳格な主義で知られている。その父が、眉間に皺を寄せたまま、ガストンが焼いた新作パンを凝視していた。
(……父上、怖い顔してるなあ)
アルリックは内心で肩をすくめた。
父は伝統を重んじる人だ。「パンとは硬いものだ」という固定観念を壊されたことに、怒っているのかもしれない。
エドワード公爵は、無言のままパンを手に取り、大きく口を開けてかぶりついた。
ガリッ、という音はしない。
ふわり、と空気を噛むような音がしただけだ。
「…………」
父の動きが止まる。
咀嚼するたびに、バターの香りと小麦の甘みが口内で弾ける。本来ならスープに浸さなければ噛み切れないはずのパンが、唾液だけで解けていく。
沈黙が続く中、アルリックは、自分の皿の上の「ある問題」に意識を向けていた。
(パンは百点だ。バターも及第点。……でも、このジャムが零点だ)
彼が睨みつけているのは、小皿に盛られたイチゴのジャムだ。
この世界のジャムは、保存性を優先して砂糖を限界まで煮詰めているため、果物の風味など消し飛び、ただ「甘くて赤い泥」のようになっている。
(甘すぎる。これじゃ、せっかくの繊細なパンの風味が死んでしまう)
アルリックの「解像度の瞳」が、ジャムの分子構造を捉える。
加熱しすぎて焦げた糖分。破壊された果実の細胞。酸化して黒ずんだ色素。
(修正だ。……僕が食べたいのは、果実そのものを閉じ込めたような『コンフィチュール』なんだ)
父がまだパンの味に衝撃を受けている隙に、アルリックはそっとジャムの皿に手を翳した。
(解像度を上げろ。……必要なのは『浸透圧』の制御と、『ペクチン』のゲル化だ)
煮詰める必要はない。
魔力で果実の細胞壁に干渉し、水分だけを適度に抜く。そして、砂糖ではなく果実本来の糖度を濃縮させる。
イメージするのは、朝露に濡れた摘みたてのイチゴ。
その鮮度を、時間を止めるようにゲルの中に固定する。
――キラリ、と。
皿の上の「赤い泥」が、一瞬だけ光を放った。
次の瞬間、そこにはルビーのように透き通った、鮮烈な赤色の物体が現れていた。
果肉の形がそのまま残り、光を浴びてキラキラと輝いている。
「よし」
アルリックは誰にも気づかれない速さで、その「宝石ジャム」をパンにたっぷり乗せた。
そして、一口。
(……うん。これだ)
口いっぱいに広がる、甘酸っぱいイチゴの香り。
砂糖の暴力的な甘さではなく、果実が持つ爽やかな酸味が、バターのコクと完璧なハーモニーを奏でる。
「……アルリック」
突然、重々しい声が響いた。
ビクリとして顔を上げると、父のエドワードがこちらを見ていた。
その目は、戦場で敵将を見据える時のように鋭い。
「……その、お前の皿にある赤いものは、なんだ?」
「え? あ、これは……ジャムです」
「ジャム? 我が家のジャムは、もっとドス黒い色をしていたはずだが」
さすが軍人。観察眼が鋭い。
アルリックは誤魔化すのを諦め、正直に答えた。
「……少しだけ、美味しくなる『おまじない』をかけました」
「ほう。……よこせ」
父は短く命じると、アルリックの皿から、ジャムがたっぷり乗ったパンを奪い取った(五歳児の朝食を強奪する公爵はいかがなものかと思うが)。
そして、躊躇いなく口に運ぶ。
瞬間。
カッ、とエドワード公爵の目が開かれた。
「――っ!?」
酸味が走る。続いて、濃厚な果実の甘み。
そして何より、パンのふわふわとした食感と、果肉のごろっとした存在感が、口の中で踊るようなリズムを生み出す。
(な、なんだこれは……!? ジャムだと? いや、これはもはや『果実の命』そのものではないか!)
厳格で知られる公爵の眉間の皺が、見る見るうちに解けていく。
強張っていた頬が緩み、口元には隠しきれない恍惚の色が浮かぶ。
「……う、美味い」
ボソリと漏れた本音は、静かなダイニングに大きく響いた。
母のエレナと姉のセシリアが、信じられないものを見る目で父を凝視している。あの「鉄仮面」のエドワードが、朝食でデレたのだ。
「……アルリック。これは、どうやった?」
父は、まだ半分残っているパンを愛おしそうに見つめながら問いかけた。
「ええと……果物の『元気なところ』だけを残して、余計な熱を与えないようにしました」
「……そうか。果実の、命を……」
エドワードは深く頷いた。
彼は軍人として、兵站の重要性を誰よりも理解している。
保存食は不味いのが常識。だが、もし行軍中に、こんな食事が取れたなら? 兵の士気は跳ね上がり、負けることなどあり得ないだろう。
(この子は……とんでもない『戦略物資』を生み出しているのかもしれん)
父の中で、アルリックの評価が「変わった神童」から「国家の至宝」へと書き換わった瞬間だった。
「……ガストンを呼べ。このジャムの製法も、我が家の機密事項とする」
「ええー……」
アルリックは嫌そうな顔をした。
また教える手間が増える。
「その代わり、アルリック。お前が望む食材があれば、私がどんな手を使っても取り寄せてやろう。……どうだ?」
父の提案に、アルリックの目が輝いた。
この世界には、まだ見ぬ食材があるはずだ。カカオ、コーヒー豆、あるいは米。
公爵家の財力とコネクションを使えば、QOL革命はさらに加速する。
「……交渉成立だね、父上」
五歳の息子と、公爵当主。
二人の間に、食を通じた奇妙な同盟が結ばれた朝だった。
なお、この数日後。
夜会に出席したセシリア姉様が、「光るドレス」と「肌が輝くような美容効果(高解像度食の副産物)」で王都の貴族たちを圧倒し、大量の釣書(婚約申込書)を持って帰ってくることになるのだが――。
アルリックはまだ、その騒動を知らない。




