第6話 硬いパンとふわふわ革命
快適な寝具と極上のバスタイムを手に入れたアルリックだが、彼にはまだ、解決しなければならない重大な問題があった。
――食卓の「パン」である。
「……硬い」
朝のダイニングルーム。
アルリックは、目の前に置かれた黒っぽいパンをナイフで突いた。
コツ、コツ、と乾いた音がする。それは食べ物というより、建築資材のレンガに近い音だった。
この世界のパンは、保存性を高めるために水分を極限まで飛ばし、ライ麦を主体にした硬いものが主流だ。
大人たちはこれをスープに浸して食べるのだが、五歳のアルリックの顎には、これ自体が凶器だった。
(前世の記憶にある、あの『ダブルソフト』のような……あるいは、口の中で溶けるシフォンケーキのような食感が恋しい)
アルリックは遠い目で天井を仰いだ。
公爵家の料理は決して不味くはない。スープは自分がこっそり直しているし、素材も良い。
だが、このパンだけは、物理的な「硬度」という壁に阻まれている。
「アルリック様、お気に召しませんか?」
背後から、低い声がかかった。
振り返ると、コックコートに身を包んだ巨漢の男が立っていた。
料理長のガストンだ。元宮廷料理人という経歴を持つ彼は、自身の料理に絶対のプライドを持っている。
「……ガストン。このパン、もう少し柔らかくならない?」
「ははっ、アルリック様。パンとはこういうものですぞ。噛みしめるほどに麦の滋味が味わえる、これぞ大地の恵みです」
ガストンは胸を張った。
彼の言い分もわかる。この世界では「柔らかいパン=すぐに腐る=贅沢品」なのだ。
(でも、僕は贅沢がしたいんじゃない。……快適に咀嚼がしたいだけなんだ)
アルリックは溜息をつき、テーブルからパンを一つ手に取った。
そして、ガストンに向き直る。
「ガストン。ちょっと厨房を借りてもいいかな? ……僕が、本当の『柔らかさ』を見せてあげる」
「は? アルリック様が、料理を……?」
***
数分後、公爵家の厨房は異様な空気に包まれていた。
踏み台に乗った五歳の少年が、ボウルに入った小麦粉と卵、砂糖、そして牛乳を見下ろしている。
(解像度を上げろ。……パン作りは科学だ。勘や経験じゃない。化学反応の連続だ)
アルリックは、ボウルに手を翳した。
本来なら、酵母を育て、発酵を待ち、焼き上げるまでに半日はかかる工程だ。
だが、彼には魔法がある。
(まずは、タンパク質の結合制御。……グルテンの網目構造を形成しつつ、生地の中に微細な気泡を無数に作り出す)
イメージするのは、スポンジの断面図。
魔力がハンドミキサーのように生地を撹拌し、同時に酵母菌の活動時間を加速させる。
(発酵プロセス、圧縮完了。……次は、加熱だ)
ここが一番の難所だ。
石窯の熱は不均一で、外は焦げ、中は生焼けになりやすい。
アルリックは、生地全体を魔力の膜で包み込んだ。
(熱伝導率を均一化。……中心部まで、〇・一度の狂いなく熱を通す。『対流熱』モード、起動)
――ボゥッ!
魔力の炎が、ボウルの中身を直接加熱するわけではない。
空気中の熱エネルギーだけを集め、生地を優しく、しかし確実に膨張させていく。
甘い、暴力的なまでに芳醇な香りが厨房に充満した。
バターと卵、そして焦げた砂糖の匂い。
それだけで、見守っていた料理人たちの喉がゴクリと鳴った。
「で、できた……」
アルリックの前には、黄金色に輝く山のような物体が鎮座していた。
それはパンではない。
極限まで柔らかく焼き上げられた、巨大なブリオッシュ――あるいは、シフォンケーキそのものだった。
「……ガストン。これを食べてみて」
アルリックがナイフを入れる。
サクッ、という音はなく、ナイフが重みだけで沈んでいく。切り口からは、真っ白な湯気が立ち上った。
「こ、これは……パン、なのですか?」
ガストンはおそるおそる、切り分けられた一切れを口に運んだ。
その瞬間。
「――っ!?」
ガストンの巨体が、雷に打たれたように硬直した。
(な、なんだこれは……! 噛む必要がない!?)
口に入れた瞬間、生地が淡雪のように解けたのだ。
濃厚な卵の風味と、麦の甘み。それらが、空気のように軽い食感と共に口いっぱいに広がる。
「う、美味い……! なんだこの、雲を食べているような食感は……! これに比べたら、私が焼いていたパンなど、ただの漬物石だ……!」
ガストンは膝から崩れ落ちた。
元宮廷料理人のプライドが、五歳児の作った「ふわふわ」の前に粉砕された瞬間だった。
「わかってくれたかな? ……これが、僕の求めていた『QOL』だよ」
アルリックは満足げに、自分用の一切れを頬張った。
うん、悪くない。これなら顎も疲れないし、朝から幸せな気分になれる。
「あ、アルリック様……! お願いでございます!」
ふと見ると、ガストンが床に頭を擦り付けていた。
その目は、獲物を見る猛獣ではなく、神を見る信徒のそれだった。
「この『ふわふわ』の魔法……いえ、技術を! どうか、この愚かな老いぼれにご教授ください! この味を知ってしまっては、もう二度とあのレンガのようなパンを焼くことなどできません!」
「えー……」
アルリックは面倒くさそうに顔をしかめた。
だが、ここで断れば、明日からまた「漬物石」が出てくるかもしれない。
(……仕方ない。僕の食生活のためだ)
「わかったよ。……ただし、温度管理(火加減)は厳しいからね? ついてこられる?」
「ははっ! 料理人の命に代えましても!」
こうして、公爵家の食卓に革命が起きた。
翌日から、朝食には王族でさえ食べたことのない「極上の生食パン」や「シフォンケーキ」が並ぶことになり、噂を聞きつけた貴族たちが「朝食会」への招待状を奪い合う事態となるのだが――。
それはまた、別のお話。




