第5話 姉の襲来と幻のシルク
その日の昼下がり。
アルリックの部屋は、さながら舞踏会場のような騒ぎになっていた。
「まあっ! なんてこと! お母様、これをご覧になって!」
絹を裂くような高い声が、静謐な寝室に響き渡る。
声の主は、アルリックの姉であり、公爵家の長女であるセシリアだ。
十二歳になる彼女は、社交界デビューを控えた美少女として知られている。
普段は淑女教育の賜物で優雅に振る舞っているのだが、今の彼女は、獲物を見つけた肉食獣のような目をしていた。
「……セシリア、落ち着きなさい。……でも、これは……」
たしなめる母のエレナ公爵夫人もまた、言葉を失っていた。
二人の視線は、アルリックがまだゴロゴロしていたベッドのシーツに釘付けになっている。
「アルリック! あなた、一体何をしたの!? このシーツ、ただの麻でしょう? どうしてこんなに……濡れているように艶やかなの!?」
セシリアがシーツを掴み、自分の頬に押し当てる。
普通ならザラつくはずの麻布が、彼女の肌の上を水のように滑り落ちた。
「……うっとりするわ。まるで空気の膜を纏っているみたい。王家のドレスに使われる最高級シルクだって、ここまで滑らかじゃないわよ!」
アルリックは、興奮する姉と母を、布団の中から冷ややかな目で見上げていた。
(……見つかってしまったか)
事の発端は、昼過ぎまで起きなかった彼を心配して、ノーラが夫人を呼んでしまったことだ。
部屋に入った瞬間、二人は「浄化された空気」と「発光するようなシーツ」に目を奪われ、今はこうして品評会が始まっている。
「……姉上。それはただ、繊維の表面を魔力でコーティングしただけだよ」
アルリックは面倒くさそうに答えた。
「コーティング? そんな魔法、聞いたこともないわ!」
「繊維の毛羽立ちを抑えて、摩擦係数をゼロに近づけたんだ。……物理的に、引っかかりをなくしただけ」
彼の説明は、二人には呪文にしか聞こえなかっただろう。
だが、現実は雄弁だ。
母のエレナがおずおずとシーツに触れ、その感触に陶酔のため息を漏らす。
「……信じられないわ。冷んやりとして、それでいて温かい。肌に吸い付くような、官能的なまでの手触り……。これがあれば、ドレスの着心地がどれほど変わることか」
母の言葉に、セシリアが反応した。
彼女はバッとアルリックに向き直り、その両手をガシッと掴んだ。
「アルリック! お願い! 私のドレスも、これにして!」
「……は?」
「来週の夜会に着ていくドレスよ! デザインはいいのだけれど、生地が少し硬くて、着ていると疲れるの。……あなたのその魔法で、このシーツみたいに『とろけるドレス』に変えてちょうだい!」
姉の瞳は本気だった。
社交界は戦場だ。美しさだけでなく、ドレスの質感や光沢さえも武器になる。この「幻のシルク」のような加工ができれば、彼女は夜会の華となるだろう。
(……面倒くさい)
アルリックの本音はそれだった。
彼は自分のQOL(生活の質)を上げたいだけで、他人のために働きたくはない。
だが、ここで断れば、この肉食獣のような姉が、毎晩自分のベッドに潜り込んでくる未来が見えた。「このシーツで寝かせなさい!」と占領されるのは御免だ。
「……わかったよ。そのドレス、持ってきて」
「キャーッ! アルリック大好き!」
セシリアは嵐のように部屋を飛び出し、数分後には大量のドレスを抱えて戻ってきた。
一着だけと言ったはずなのに、腕には五、六着が抱えられている。
(……まあいいか。練習台にはなる)
アルリックは溜息をつき、ドレスの山に手を翳した。
解像度を上げろ。
硬いベルベットも、重たいサテンも、すべてはただの繊維の集合体だ。
(構造解析。……柔軟性の付与。繊維の結合を緩め、空気の層を含ませる『エアリー加工』を実行)
――フォン、と。
ドレスの山が淡い光に包まれる。
重厚だった生地が、ふわりと重力を失ったように軽やかになった。
光沢はより深みを増し、見る角度によって真珠のような輝きを放つようになる。
「で、できたわ……!」
セシリアが震える手でドレスを広げる。
それはもはや、貴族の衣装を超えた、精霊が織り上げた羽衣のようだった。
「軽い……! 着ていないみたいに軽いわ! これなら、一晩中踊っても疲れない!」
「ありがとう、アルリック! あなたって本当に天才ね!」
姉と母は、新しくなったドレスを抱きしめ、嵐のように去っていった。
部屋には再び静寂が戻る。
「……ふう」
アルリックは、ようやく訪れた平和に安堵し、二度寝をするために枕に頭を沈めた。
(やれやれ。……でもまあ、これで安眠は守られた)
だが、彼はまだ知らなかった。
この夜会で、セシリアのドレスが「動くたびに光の粒子を撒き散らすようだ」と大絶賛され、王都中の貴婦人が「あの生地はどこの商会のものか」と血眼になって探すことになる未来を。
公爵家のQOL革命は、まだ始まったばかりだった。




