第28話 敏腕密偵と床暖房の魔力
深夜のエデン。
荒野の夜は氷点下近くまで冷え込む。
その闇に紛れ、一人の男がアルリックの屋敷(兼・温泉旅館)に忍び寄っていた。
男の名はキース。
王都の商業ギルドに雇われた、裏社会の掃除人だ。
潜入、窃盗、暗殺。あらゆる汚れ仕事を完璧にこなすプロフェッショナルである。
(……フン。警備が甘いな)
キースは屋敷の塀を音もなく飛び越えた。
番犬代わりの白い魔獣は、主人のベッドで爆睡しているらしく、気配がない。
レオナルドという剣士も、酔いつぶれて寝ているようだ。
(狙うは、あの『透明な酒』の製法と、『白い穀物』の種籾。……サクッと盗んでずらかるか)
キースは本館の勝手口に狙いを定めた。
鍵開け(ピッキング)の道具を取り出し、ドアノブに手を伸ばす。
ウィーン。
「……は?」
彼が触れる前に、ドアが滑るように勝手に横へと開いた。
自動ドアだ。
(な、なんだ!? 罠か!?)
キースは身構え、バックステップで距離を取った。
だが、攻撃魔法が飛んでくる気配はない。ただ、ドアが開いて「どうぞ」と招いているだけだ。
(……不気味な。だが、入らねば仕事にならん)
彼は意を決して、屋内へと足を踏み入れた。
靴を脱ぎ(土足厳禁の気配を感じたため)、廊下に足を下ろす。
その瞬間。
「――――ッ!?」
キースの全身に電撃が走った。
いや、痛みではない。
足の裏から伝わってくる、じんわりとした「熱」だ。
(あ、温かい……!?)
外気で冷え切っていた足先が、解凍されるように温まっていく。
床暖房。
アルリックが温泉の余熱をパイプで循環させ、床下に張り巡らせた、極上の暖房システムである。
(馬鹿な……石の床なのに、なぜこんなに温かい? 魔法陣も見当たらないぞ?)
キースはその場から動けなくなった。
プロとしての理性が「進め」と命じているのに、本能が「ここから動くな」と叫んでいる。
冷えた体に、下半身からポカポカとした熱が回っていく快感。それは、どんな媚薬よりも強力なハニートラップだった。
「……誰?」
突然、背後から声がした。
ビクリとして振り返ると、そこには湯上がりの濡れた髪を拭きながら、牛乳瓶を持ったアルリックが立っていた。
「……チッ、見つかったか!」
キースは反射的に短剣を抜いた。
殺気。プロの技だ。
だが、アルリックは驚く様子もなく、むしろ憐れむような目を向けた。
「……君、顔色が悪いよ。それに、すごく寒そうだ」
「問答無用! 死んでもら……」
キースが踏み込もうとした瞬間、パッ! と廊下の照明が点灯した。
人感センサー付きLED(魔石灯)だ。
突然の光に目が眩む。
「うぐっ!?」
「まあまあ、落ち着いて。……どうせ泥棒かスパイだろうけど、ウチは『来るもの拒まず』がモットーだから」
アルリックは指を鳴らした。
風魔法がキースの手から短剣を優しく奪い取る。
「冷えてるね。……とりあえず、ひとっ風呂浴びてきなよ」
「は? ふ、風呂だと?」
「うん。奥が男湯だよ。……かけ湯は忘れないでね」
***
十分後。
キースは、ヒノキの香りが充満する大浴場で、お湯に首まで浸かっていた。
「……あぁ〜……」
情けない声が出た。
プロの密偵としてのプライドは、源泉かけ流しの41度のお湯に溶けて消滅していた。
ヒノキの肌触り。硫黄の香り。
冷え切った体が芯まで温まり、長年の裏稼業で蓄積した古傷や肩こりが、嘘のようにほぐれていく。
(なんだここは……。天国か? 俺は任務中に死んだのか?)
彼は放心状態で天井を見上げた。
もう、種籾とかどうでもよくなってきた。このままここで茹でられていたい。
「……あがった?」
脱衣所に戻ると、アルリックが待っていた。
彼の手には、キンキンに冷えた二本の瓶が握られている。
「風呂上がりには、これがないと始まらない」
差し出されたのは、茶色い液体が入った瓶だ。
表面には水滴がつき、白く冷気が漂っている。
「……毒か?」
「『珈琲牛乳』だよ。……王都で買った豆を濃いめに抽出して、新鮮なミルクと砂糖をブレンドした特製ドリンクだ」
キースは疑いながらも、喉の渇きには勝てなかった。
火照った体に、冷たい水分が欲しい。
彼は瓶を受け取り、腰に手を当てて一気に煽った。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……。
「――――ッッ!!!」
キースの目がカッと見開かれた。
甘い! 冷たい! そして香ばしい!
濃厚なミルクのコクと、コーヒーの苦味が絶妙なバランスで混ざり合い、風呂上がりの渇いた細胞の一つ一つに染み渡っていく。
「ぷはぁっ!!」
飲み干した瞬間、キースは叫んだ。
「う、美味すぎる……! なんだこの悪魔の飲み物は! 酒よりも中毒性があるぞ!」
「糖分補給にもなるしね。……で、どうする? まだ盗む?」
アルリックがニッコリと笑った。
その笑顔は、どんな拷問官よりも恐ろしかった。
一度この快楽(QOL)を知ってしまったら、もう王都の冷たい石畳の上での生活には戻れない。
キースはその場に膝をついた。
敗北だ。完敗だ。
「……頼む。俺を雇ってくれ」
彼は頭を下げた。
「俺は裏社会の人間だ。情報収集、護衛、そして『裏の交渉』……何でもやる。だから、ここに住まわせてくれ!」
「交渉? いいね」
アルリックは頷いた。
ちょうど、これから商売を広げるにあたって、王都のギルドとの折衝役が必要だと思っていたところだ。
「採用。……給料は現物支給(三食・温泉付き)でいい?」
「望むところだ!」
こうして、アルリックの開拓団に、
・最強の密偵
が加わった。
彼の加入により、アルリックの「辺境スローライフ」は、ついに「国家規模の経済侵略」へと舵を切ることになる。
次なるターゲットは――王都の富裕層に向けた「高級リゾート計画」である。




