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魔法の解像度を上げたら、世界が快適になりすぎた  作者: 茗子


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第2話 浴室の熱力学

 三歳でスープを『高解像度化』してから、二年の月日が流れた。

 五歳になったアルリックは、公爵家の中で「少し変わった神童」として扱われていた。

 彼は決して我がままを言わない。

 だが、身の回りの環境に対してだけは、異常なまでのこだわりを見せるのだ。

 そして今、アルリックの前には最大の敵が立ちはだかっていた。

 ――冬の浴室である。

「……寒い。これじゃ、体を洗う前に風邪を引いてしまう」

 石造りの浴室で、アルリックはガチガチと歯を鳴らした。

 この世界のお風呂事情は、公爵家といえども過酷だ。使用人たちが台所で沸かしたお湯を、バケツリレーで運んでくる。

 だが、広い屋敷を移動する間に熱は奪われ、浴槽に溜まる頃には「ぬるま湯」を通り越して「冷めかけた水」になっているのが常だった。

 熱力学の法則は無慈悲だ。エントロピーは増大し、熱は高いところから低いところへ逃げていく。

「アルリック様、すぐにお湯を足しますからね。……よいしょっ」

 乳母のノーラが、湯気の上がる重いバケツを抱えて入ってくる。

 その顔は寒さと重労働で赤くなり、手はあかぎれで荒れていた。

「いいんだよ、ノーラ。そんなに無理しなくても」

「何を仰いますか。アルリック様のお体を冷やすわけにはいきませんわ」

 ノーラが次のお湯を汲みに去ったあと、アルリックは一人、半分ほど溜まった鉄の浴槽を見つめた。

 水面には湯気もなく、ただ冷たい波紋が広がっている。

(僕が快適になりたいのは当然だ。……でも、ノーラたちに毎日こんな重労働をさせるのは、効率が悪すぎる)

 アルリックは裸足のまま、冷え切った浴槽の縁に手を触れた。

 彼の『解析』の瞳が、浴槽内の水の温度分布をサーモグラフィのように色分けして表示する。

(水温、二八度。……低い。これでは入浴とは言えない。ただの修行だ)

 普通の魔導師なら、ここで「火よ、水を温めよ」と念じて、火球をぶち込むだろう。

 だが、そんなことをすれば水は突沸し、一部だけが煮えたぎって、他は冷たいままという最悪の結果になる。

 アルリックに必要なのは、均一で、持続的で、優しい熱だ。

(解像度を上げろ。イメージするのは『炎』じゃない。……水分子の『振動』だ)

 彼は脳内で、浴槽全体を覆う巨大な魔法回路を展開した。

 現代の給湯システムと、床暖房の仕組みを複合させたオリジナル術式だ。

(まずは、浴槽の素材自体に魔力を浸透させて『断熱材』の特性を持たせる。外部への熱伝導を遮断。……よし)

 次に、浴槽の底に薄く広げた魔力の膜を振動させる。

 電子レンジのマイクロ波のように、水分子そのものを揺り動かし、摩擦熱を発生させるのだ。

(目標温度は四二度。〇・一度の誤差も許さない。……そして、ここからが重要だ)

 ただ温めるだけでは、すぐに冷めてしまう。

 アルリックは、浴槽内の水に「対流」のベクトルを書き込んだ。

 温まった水は上昇し、冷たい水は底へ沈む。その自然な物理現象を魔力で加速させ、常に新しいお湯が肌に触れるよう循環させる。

 ――ボォウ、と。

 浴槽の底から、音もなく無数の気泡が立ち上った。

 今まで沈黙していた水面から、爆発的に白い湯気が溢れ出す。

 灰色に濁っていたお湯は、循環の過程で不純物を濾過され、クリスタルのような透明度を取り戻していく。

「……ふう。設定完了」

 アルリックは満足げに、その『聖域』へと足を踏み入れた。

 肌に触れた瞬間、鳥肌が立っていた皮膚が歓喜の声を上げる。

 熱すぎず、ぬるすぎず。四二度という黄金比に保たれたお湯が、冷え切った体を優しく包み込んだ。

「……極楽だ」

 思わず、前世の言葉が漏れる。

 全自動温度調整、循環濾過、そして保温機能付き。

 それは、中世レベルの文明に突如として現れた、オーパーツ級のシステムバスだった。

 数分後。

 新しいバケツを持ってきたノーラが、浴室の扉を開けて絶句した。

 そこには、立ち込める真っ白な蒸気の中で、顔を赤くして幸せそうに笑うアルリックの姿があった。

 鉄の浴槽からは、見たこともないほど透き通ったお湯がコンコンと湧き出し、浴室全体が春の陽だまりのような温かさに満ちている。

「あ、アルリック様!? こ、これは……! お湯が、勝手に湧いて……それに何ですか、この、息をするだけで体が温まるような空気は……っ!」

 ノーラはバケツを取り落としそうになりながら、その光景に見入っていた。

 外の寒さが嘘のように、ここだけが別世界になっている。

「あ、ノーラ。お疲れ様。……ちょっとだけ、お湯の『巡り』を良くしてみたんだ」

 アルリックは浴槽から顔だけ出して、ふにゃりと笑った。

「もうバケツを運ばなくていいよ。このお湯、ずっと温かいまま設定しておいたから。あとでノーラも、ゆっくり浸かっていくといい」

「は、はひ……!? 私が、このような奇跡の泉に……!?」

 ノーラはその場に膝をつき、祈るように手を合わせた。

 彼女にとって、それはまさに女神の奇跡。だが、アルリックにとっては、ようやく手に入れた「最低限の生活インフラ」に過ぎない。

(よし、お風呂は解決。……次は、お風呂上がりの『肌触り』だな)

 彼の視線は、脱衣所に置かれたゴワゴワの麻のタオルに向けられていた。

 風呂上がりの敏感な肌に、あのヤスリのような布を当てるなど、神童のQOLが許さない。

 五歳のアルリック。

 彼の「ついで」の工夫が、また一つ、公爵家の常識を過去のものにしようとしていた。

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