第19話 絶食姫と時間停止の弁当箱
魔導学院の昼休み。
学生たちは憂鬱な顔で食堂へと向かうか、あるいは固いパンを持参して中庭で齧るのが常だった。
そんな中、中庭の木陰にあるベンチに、一人の少女がぐったりと横たわっていた。
「……無理。もう限界ですわ……」
透き通るような金髪と、宝石のような碧眼。
隣国から留学してきている王女、カトリーヌだ。
『氷の美姫』と噂される彼女だが、現在の彼女は単に『空腹で死にかけている姫』だった。
(この国の食事は、なぜこれほどまでに……野蛮なのですか)
彼女の国は美食で知られている。
対して、この王国の学食は「餌」レベルだ。
繊細な味覚を持つカトリーヌは、入学してから一週間、パンの耳と水だけで食いつないでいたが、ついに限界が訪れていた。
「……お腹が空いて、目が回る……」
意識が遠のきかけた、その時。
ふわりと、風に乗って信じられないほど芳醇な香りが漂ってきた。
甘辛い醤油の香り。
焼けた卵の甘い匂い。
そして何より、湯気の立つ穀物の香り。
「……!?」
カトリーヌは弾かれたように上半身を起こした。
ゾンビのような動きで、香りの発生源へと顔を向ける。
そこには、少し離れたベンチで優雅に昼食を広げる、黒髪の少年の姿があった。
アルリックだ。
彼の手にあるのは、見慣れない四角い箱。
その蓋が開けられた瞬間、宝石箱のような輝きが溢れ出している。
「……あ、あの……」
カトリーヌはふらふらと立ち上がり、吸い寄せられるように近づいた。
プライドなど、胃袋の悲鳴の前では無力だった。
「……ん?」
アルリックが箸を止めて顔を上げた。
目の前に、幽鬼のように青ざめた美少女が立っている。
「……何か用かな? カトリーヌ王女」
「あ、あなたが食べているもの……それは、何ですの?」
カトリーヌの視線は、アルリックの顔ではなく、膝の上の箱に釘付けだ。
「これ? ……『弁当』だよ」
アルリックは箱の中身を見せた。
そこには、QOLの結晶が詰め込まれていた。
・左側には、炊きたてのように湯気を上げる『銀シャリ』。
・その上には、自家製の小梅(梅干し)と、黒ごま。
・右側には、昨日揚げた『鶏の唐揚げ』。
・出汁をたっぷりと含んだ『厚焼き玉子』。
・彩りを添える『ブロッコリーの塩茹で』と『ミニトマト』。
色彩の暴力だ。
茶色一色の学食とは、解像度が違いすぎる。
「ゆ、湯気が……? ここには調理場などありませんのに、なぜ湯気が出ていますの?」
カトリーヌが驚愕した。
弁当を持参するのはいい。だが、冷めているのが常識だ。なぜ、この箱の中身は、今まさに盛り付けたかのように熱々なのか。
「ああ、この箱ね」
アルリックは弁当箱の側面をコンコンと叩いた。
「『時間停止』……とまではいかないけど、内部の時間の流れを極限まで遅くする結界を張ってあるんだ。朝作ってから、まだ数秒しか経っていない状態を維持している」
「は……?」
カトリーヌは耳を疑った。
時空間魔法。それは大賢者クラスしか使えない高等魔法だ。
それを、この少年は……たかが昼食を温かく保つためだけに使っているというのか?
「……馬鹿なの?」
「失礼な。冷めたご飯はデンプンが老化(ベータ化)して味が落ちるんだ。温かいものを温かいうちに食べる。これは人権だよ」
アルリックは真顔で反論した。
グゥゥゥゥ……。
その時、盛大な音がカトリーヌの腹から響いた。
彼女は顔を真っ赤にしてうずくまった。
「……もしかして、お腹空いてる?」
「う、うるさいですわね! ……学食が、学食があまりにも不味いのが悪いですわ!」
涙目で叫ぶ王女。
アルリックは苦笑し、空間収納からもう一つの箱を取り出した。
「……はい、予備」
「え?」
「ルームメイトのレオナルド君が『俺の分も作れ』とうるさいから、余分に作っておいたんだ。あいつは購買のパンを買いに行ったみたいだから、君にあげるよ」
差し出された弁当箱。
カトリーヌは震える手でそれを受け取った。
ほんのりと温かい。
蓋を開けると、黄金色の世界が広がっていた。
「……い、いただきます」
彼女は震える手で箸(フォークが付いていた)を持ち、厚焼き玉子を口に運んだ。
――ジュワッ。
「……んんっ!」
噛んだ瞬間、甘い出汁が口いっぱいに溢れ出した。
ふわふわの食感。優しい甘さ。
母親に抱きしめられたような安心感が、空っぽの胃袋に染み渡る。
「おいしい……! なにこれ、お菓子みたいに甘いのに、おかずの味がする……!」
次は、唐揚げだ。
ザクッ、ジュワァ。
ニンニク醤油のパンチが、弱った体に活力を叩き込む。
そして、白米。
モチモチとした粘り気と、噛むほどに増す甘み。
「……っ、ううっ……!」
カトリーヌの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
あまりの美味しさに、理性の堤防が決壊したのだ。
「私、今まで何を食べていたのかしら……。これが、本当の『食事』なのね……」
彼女は王女であることも忘れ、弁当箱を抱え込んで貪り食った。
米粒一つ残さず、ブロッコリーまで完食し、最後に「はぁ〜」と幸せな溜息をついた。
「……ごちそうさまでした。アルリック様」
顔を上げた彼女の瞳には、先ほどの虚ろさはなく、代わりに燃えるような決意の光が宿っていた。
「私、決めましたわ」
「え、何を?」
「貴方のお嫁さんになります」
「ブッ!!」
アルリックは飲んでいたお茶を吹き出した。
「待って、飛躍しすぎじゃない!?」
「いいえ! この『お弁当』を毎日食べるには、それしかありません! 国へ帰ったら、父王に同盟……いいえ、婚姻の儀を申し入れます!」
「いやいやいや! ただの飯だから! 餌付けされたチョロインみたいにならないで!」
必死に否定するアルリックだったが、カトリーヌの瞳は本気だった。
彼女にとって、この弁当箱は国宝以上の価値がある。
こうして、アルリックの周囲には、
・「掃除の神」と崇める脳筋剣士
・「胃袋を掴まれた」求婚王女
という、厄介極まりない信者が増えてしまった。
そして、この「時間停止弁当箱」の技術が、やがて学院の卒業制作でとんでもない事件を引き起こす伏線となるのだが――。
それはまだ、少し先の話。




