第12話 黄金の穀物と黒い聖水
王城での謁見を終えたその足で、アルリックは王都の港へと向かった。
父のエドワード公爵も、「護衛」という名目で同行している。
彼もまた、息子が何を買うのか気になって仕方がないのだ。
港は活気に満ちていた。
カモメの鳴き声、荒くれ者たちの怒号、そして潮の香り――いや、正確には「腐敗した魚と生活排水の入り混じった悪臭」が漂っている。
(……くさい。解像度が低すぎる)
アルリックは馬車を降りた瞬間、眉をひそめた。
すかさず鼻先に小さな風の結界を展開し、臭気分子だけを物理的に弾き飛ばす『微細空気清浄』を起動する。
「……ふう。これで呼吸ができる」
快適さを確保した彼は、お目当ての巨大な帆船へと歩を進めた。
東方の国からやってきたというその船は、独特の反り返った船首と、赤い帆を持っていた。
「おや、これはこれは。……公爵様とお見受けします」
甲板から降りてきたのは、小柄で日焼けした東方人の商人だった。
揉み手をして近づいてくるその目は、抜け目なく利益を計算している。
「ようこそ。絹織物ですか? それとも陶磁器? 素晴らしい品が揃っておりますよ」
商人が豪華な布を広げて見せるが、アルリックは見向きもしなかった。
彼は五歳の子供とは思えない鋭い視線で、船倉の奥を指差した。
「……そっちだ。あそこにある麻袋。あの中身を見せてほしい」
「え? ああ、あれですか?」
商人は呆気にとられた顔をした。
彼が指差したのは、煌びやかな商品の裏に積まれた、薄汚れた袋の山だったからだ。
「あれは売り物ではありませんよ。……我々船員が食べるための食料、それに家畜の餌にする雑穀です」
「いいから、開けて」
アルリックの強い口調に押され、商人は渋々袋の口を開いた。
ザラッ、と音を立てて中身がこぼれ落ちる。
それは、黄金色の殻に包まれた、小さな粒だった。
(……あった)
アルリックの心臓が早鐘を打つ。
間違いない。籾だ。
脱穀する前の、稲の果実。
ジャポニカ種に近い、短粒種の米だ。
(水分含有量一四%。保存状態は良好。……これならいける!)
彼は感動に震える手で、籾を一粒拾い上げた。
この硬い殻の中には、白く輝く宝石――白米が眠っている。
「……これを全部くれ」
「はい?」
商人は耳を疑った。
「全部だ。この船に積んである在庫、一粒残らず買い占める」
「い、いや、しかし坊ちゃん。これはただの雑穀ですよ? 硬くてボソボソしていて、貴族様が食べるようなものでは……」
「僕にとってはダイヤモンドより価値がある。……金貨で支払うよ」
アルリックが父に目配せすると、公爵は苦笑しながら革袋を取り出した。
中には眩いばかりの金貨が詰まっている。
「……商談成立だ」
商人の目が点になった。
ゴミ同然の家畜の餌が、金貨の山に化けたのだ。彼は内心で「この国の貴族は味音痴なのか?」と嘲笑ったが、アルリックにとってはどうでもいいことだった。
(よし、主食は確保した。……次は)
アルリックは鼻をヒクつかせた。
風の結界をすり抜けてくる、強烈で、それでいて懐かしい芳香がある。
発酵臭。それも、ただ腐った匂いではない。大豆と小麦が麹菌によって分解され、アミノ酸の塊へと昇華した香りだ。
「……その樽。黒い液体が入っているね?」
彼が指差したのは、船の片隅に置かれた古びた木の樽だった。
「ああ、これですか。……これは『魚醤』に近い調味料ですが、匂いがキツすぎて、こちらの国では売れないんですよ。捨てて帰ろうかと……」
「それも全部もらう」
「はあ!?」
商人が蓋を開けると、ドロリとした黒褐色の液体が波打っていた。
醤油だ。
それも、何年も熟成させた、濃厚な溜まり醤油に近い。
(……勝った。これで勝った)
アルリックは拳を握りしめた。
米と醤油。
この二つが揃えば、食卓のQOLは劇的に跳ね上がる。卵かけご飯、焼きおにぎり、煮付け、照り焼き……無限の可能性が広がっている。
「父上。……帰りますよ。今すぐに」
「お、おい。王都観光はどうするんだ?」
「そんな暇はありません。……一刻も早く、この『宝石』を磨き上げなければならないのですから!」
アルリックは金貨を商人に押し付け、使用人たちに米俵と醤油樽を馬車へ運ばせた。
その背中は、どんな武勲を立てた騎士よりも勇ましかった。
***
帰りの馬車の中。
アルリックは膝の上に籾の入った小袋を抱え、ニヤニヤと笑っていた。
「……アルリックよ。本当にそれが美味いのか?」
父のエドワードは半信半疑だ。
見た目はただの鳥の餌にしか見えない。
「父上。……見ていてください」
アルリックは小袋から一掴みの籾を取り出し、掌に乗せた。
(解像度を上げろ。……必要なのは『脱穀』と『精米』だ)
本来なら、千歯扱きや精米機が必要な重労働だ。
だが、彼には風魔法がある。
(籾殻だけに風圧をかけ、中身を傷つけずに弾き飛ばす。……そして、玄米の表面にある糠層を、ミクロの研磨剤(風の刃)で優しく削り取る)
イメージするのは、最新鋭のコイン精米機。
摩擦熱を与えず、旨味層(亜糊粉層)を残したまま、白く磨き上げる。
――シュオオオ……。
アルリックの手の中で、小さな竜巻が起きた。
黄金色の殻が霧散し、中から現れたのは――。
「……おお」
父が感嘆の声を漏らした。
そこにあったのは、真珠のように白く、艶やかに輝く楕円形の粒だった。
白米。
日本人の魂。
「……これを水で炊き上げると、銀色に光る『ご飯』になるのです。それに、あの黒い醤油を垂らせば……」
アルリックはゴクリと喉を鳴らした。
「父上。今日の夕食は、僕が作ります。……覚悟しておいてください。舌がとろけて無くなるかもしれませんよ」
公爵家の食卓に、ついに「和食」という黒船が来航しようとしていた。
神童アルリックの野望は、とどまるところを知らない。




