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魔法の解像度を上げたら、世界が快適になりすぎた  作者: 茗子


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第115話 十本腕のイタリアンシェフと、旨味を逃がさないボンゴレ

「……よし。これでエデゾンの『深夜の出前デリバリー』のラインナップは、完璧な布陣となった」

 エデン本邸、アルリックの自室。

 ふかふかのベッドに仰向けに寝転がりながら、魔導タブレットの画面をスクロールさせていたアルリックは、深い満足の溜息を漏らした。

 画面に表示されているのは、エデンが誇る飲食店のメニュー一覧だ。

 クラーケン店長が握る『海王丸』の極上寿司。

 そして先日、苛酷な料理特訓(塩分濃度と細胞壁の理解)を乗り越え、ついに「人間のための繊細な味覚」をマスターした大王イカの魔族・カラマリが店長を務める、新店舗のイタリアンメニューである。

「(真空魔法瓶とドローンによる完全自動配達。これで僕は、冬の凍えるような寒い夜でもベッドから一歩も動かずに、和食とイタリアンを無限にローテーションできる。……だが、本格稼働の前に、新店舗の『味のクオリティ』と『オペレーション』は、領主としてこの舌で直接確かめておかなければならないな)」

 アルリックは渋々といった様子で、極上のマットレスから身を起こした。

 己の究極の引きこもり生活を完成させるための一時的な労働(外出)。

 彼はパジャマの上に厚手のガウンを羽織ると、護衛のレオナルドと、常に新作の飯を嗅ぎつける聖女エレノアを引き連れて、エデンのメインストリートへと向かった。

        ***

 雪が舞う大通りに、真新しい赤と緑と白のオーニング(日よけ)が目を引く新店舗。

 看板には『オステリア・カラマリ(海鮮イタリア食堂)』の文字が躍っている。

 カランコロン、とドアベルを鳴らしてアルリックたちが店内に入ると、厨房の奥から凄まじい水音が聞こえてきた。

 厨房の最奥に設置された巨大な『溶存酸素(DO)飽和水槽』。

 そこに、真っ白な装束に身を包んだ長身の男――大王イカの魔族カラマリが、首まで水に浸かって極楽浄土のような顔で目を細めていた。

「……うむ。高濃度酸素の整い(サウナ)は、いつ入っても最高だ……。塩分濃度3.5%のしょっぱい深海での無益な縄張り争いなど、もはや前世の記憶のようにどうでもいい……」

「おい、新米シェフ。水槽でふやけてないで、さっそく修行の成果を見せてよ」

 アルリックがカウンター席に腰を下ろしながら声をかけると、カラマリはビクッと肩を揺らし、ザバァッと水槽から立ち上がった。

 彼は鋭い三角の頭部ヒレに、エデン特製の細長いコック帽を被り、エプロンをキュッと締め直す。

「ふん。来たな、我が恩人オーナーよ」

 カラマリは尊大な態度を取り繕いながら、腕を組んでみせた。

「深海の覇者たるこの我に、人間の飯を作らせるなど……と言いたいところだが、この厨房環境(QOL)は最高だ。今日は我が持てる十本の腕のすべてと、貴様から教わった『科学』を使い、貴様らの貧相な舌をひれ伏させてやろう!」

 カラマリの背中から、太くしなやかな白い触手が何本もウネウネと展開した。

「期待しているよ。海鮮の旨味を極限まで引き出した、最高のパスタを頼む」

「フハハハッ! 造作もない! 我がマルチタスクの真髄をとくと見よ!」

 カラマリの十本の触手が、凄まじいスピードで動き始めた。

 第1・第2の触手は、まな板の上でニンニクを微塵切りにしていく。

 数日前のように、力任せに握り潰すことは決してない。カエデが研いだ鋭い包丁を使い、細胞壁を壊してえぐみを出さぬよう、「スッ、スッ」と滑らせるように美しい均等のサイズに切り揃えている。

 一方、第3・第4の触手は、ボウルに入った黄色い小麦粉に水を加え、凄まじい腕力でね始めた。

「……すげぇ。あのイカ野郎、腕がいっぱいあるから一人で四人分の動きをしてやがるぞ!」

 レオナルドがカウンター越しに目を丸くする。

「ただ速いだけじゃない。彼の本当の武器は、その『深海の馬鹿力』だ」

 アルリックは、タブレットでその様子を録画しながら解説した。

「(解像度を上げろ。……タンパク質の結合と、強固なグルテン網目構造の形成)」

「パスタのコシを生み出すのは、小麦粉に含まれるタンパク質が水と結びついてできる『グルテン』という成分だ。これをいかに強く結びつけるかが生パスタの命になる。……彼のあの強力な吸盤と、深海の超高水圧に耐えうる強靭な筋肉で生地を捏ね上げれば、機械のプレスすら凌駕する最強の『グルテンの網目』が形成されるんだよ」

 バシィッ! バシィッ!

 カラマリの触手が生地に叩きつけられるたび、生地は赤ん坊の肌のように滑らかになり、恐ろしいほどの弾力を持ち始めていた。

 捏ね上がった生地を、第5・第6の触手がパスタマシンに通して極薄に平らに伸ばし、細く平べったいリングイネへと一瞬で切り出していく。

 と同時に、コンロの前では第7・第8の触手がフライパンに多めのオリーブオイルと、先ほど美しく切ったニンニク、唐辛子を熱し、香りを引き出していた。

「さあ、ここからが本番だ! エデンの海で獲れた新鮮な『アサリ』の出汁スープをとるぞ!」

 カラマリは白ワインと共に、大量のアサリをフライパンへ投入した。

 だが、彼は決してコンロの火力を「強火」にはしなかった。弱火よりもさらに弱い、ごく僅かな炎でフライパンを温め続けている。

「……ほう。アサリの口が開くか開かないかギリギリの『低温(70度前後)』で、じっくりと加熱しているな。わかってるじゃないか」

 アルリックが感心したように深く頷く。

「アルリック様。貝を煮るなら、強火で一気に沸騰させたほうが早いのではなくて?」

 エレノアが不思議そうに首を傾げた。

「(解像度を上げろ。……タンパク質の熱凝固点制御と、旨味成分『コハク酸』の最大抽出)」

「駄目だよ、エレノア。貝類のタンパク質は、高温(80度以上)で加熱しすぎると、急激に縮んで『ゴム』のように固くパサパサになってしまう。王都の酒場で出される海鮮スープの具が縮んで美味くないのは、ただ無駄にグツグツ煮込んでいるからだ」

 アルリックはフライパンを指差した。

「低温でゆっくりと火を通すことで、アサリの身を細胞破壊から守り、限界までプリプリのまま保つ。それと同時に、アサリが持つ強烈な旨味成分である『コハク酸』を、一滴も逃さずにオリーブオイルの中にじっくりと溶かし出しているんだ」

 パカッ、パカッ。

 アサリの口がゆっくりと開き、白く濁った濃厚な貝のスープがフライパンを満たしていく。

「そしてパスタの茹で汁だ! アルリック様から教わった通り、人間の体液の浸透圧に合わせた『塩分濃度1%(等張液)』を完璧に計量してあるぞ!」

 カラマリは誇らしげに叫び、別の鍋で茹で上がったばかりの生パスタを素早くフライパンへ投入した。

 そして、十本の腕をフル稼働させ、フライパンを凄まじい回転数で激しく煽る。

 シャカシャカシャカッ! と心地よい音が鳴り、オリーブオイルとパスタの茹でデンプンが完全に結びつく。水と油の結合――完璧な『乳化エマルジョン』である。

 仕上げに刻んだ新鮮なパセリを散らし、カラマリは三つの皿にパスタを美しく高く盛り付けた。

「完成だ! 我が十本腕と科学の結晶……『極上・生搾りヴォンゴレ・ビアンコ』!」

 ドンッ! と三人の前に、熱々のパスタが置かれた。

 その瞬間、暴力的なまでの磯の香りと、えぐみのない純粋なニンニクの食欲をえぐる香気がカウンター席に爆発した。

 まずは視覚ビジュアルだ。

 見事に乳化したソースが、麺の一本一本を真珠のように艶やかに光り輝かせている。

 そして何より目を引くのが、ゴロゴロと乗ったアサリの身だ。縮んで殻にこびりつくようなことは一切なく、殻の限界までパンパンに膨れ上がり、水分を湛えて宝石のように輝いている。

「い、いただきますっ!」

 たまらずレオナルドがフォークで麺を巻き取り、大口を開けて頬張った。

 ――モッチィィィッ!

「…………ッッ!!?」

 レオナルドの目が、限界まで飛び出さんばかりに見開かれた。

「なっ……なんだこの麺は!? 乾麺とは次元が違いすぎる! モチモチで、歯を跳ね返してくるようなとんでもない弾力だ! そして噛んだ瞬間、中からアサリの旨味が爆弾みたいに弾けやがる!」

「……っ! このアサリの身、信じられないほど柔らかくて、ふっくらしていますわ!」

 聖女エレノアも、お上品な作法を完全に忘れてフォークを動かし続けている。

「貝の強烈な旨味とニンニクが、オイルと完全に一体化して……口の中が海そのものですわ! それに、前のような暴力的な塩辛さではなく、小麦の甘さを引き立てる完璧な塩加減……フォークが、フォークが止まりません!」

 アルリックも無言でパスタを咀嚼していた。

 深海の筋肉によって極限まで鍛え上げられた強固なグルテンの食感。そして、低温抽出によって引き出されたコハク酸の波が、脳の快楽中枢を直接殴りつけてくる。

「……完璧な乳化と、完璧な火入れ、そして完璧な塩分濃度だ。これなら王都の貴族たちから、金貨をいくらでも毟り取れるぞ。そして何より、これを深夜にベッドの上で食える僕のQOLは、ついに神の領域に達した」

 アルリックが満足げに頷くと、カラマリは誇らしげに胸を張り、得意満面で笑い声を上げた。

「フハハハハッ! 美味かろう! 深海の覇者たる我が捏ねた麺と、科学の絶妙な火加減だ! この厨房(城)は、我の触手が最も輝く最高の戦場よ!」

 彼が魔王のプライドを満たした、その時だった。

『ピピッ。エデゾン・イーツ。新規の出前注文(ペスカトーレ、イカスミパスタ)が5件入りました』

『ピピッ。追加で3件入りました』

『ピピッ。王太子ルディウス様より、ヴォンゴレ・ビアンコ10人前の深夜注文が入りました』

 厨房の魔導タブレットから、無機質な通知音が立て続けに鳴り響いた。

「(……またルディウスか。あの男、どれだけ私財を削ってストレスを発散しているんだ)」

 アルリックは呆れたように肩をすくめた。国費には手をつけず、己の小遣いを切り詰めてまでエデンの味に縋る不憫な悪友の姿が目に浮かぶ。

 するとカラマリは、先ほどの尊大な態度から一変し、まるで訓練された優秀な兵士のように猛烈なスピードで動き始めた。

「むっ! オーダーだ! 急いで真空魔法瓶サーモスを十八本用意しろ! 塩分濃度1%の湯を沸かせ! 外の鉄のドローンを待たせるな!」

 第1から第10までの触手が、凄まじい速さで複数のフライパンを同時に煽り、熱々のパスタを次々と真空魔法瓶に詰め込み、蓋を閉めていく。

 その見事なワンオペレーションの姿は、もはや深海の魔王の面影など微塵もなく、ただの『超優秀な社畜(キッチン長)』の顔つきであった。

「……完全に『飲食店の店長』の顔つきになったな、あいつ」

「……ええ。エデンの圧倒的な福利厚生(DO水槽)と料理の喜びは、魔族のプライドすらも簡単に『労働の快感』へと書き換えてしまうのですね……」

 最高のヴォンゴレを啜りながら、アルリックとエレノアは生温かい目で厨房のイカを見つめる。

「(……大成功だ。これで末端のロジスティクスは完璧に回る。今夜からは、僕も自室のベッドから一歩も出ずにこれを注文しよう)」

 アルリックは満足げにグラスの水を飲み干した。

 深海の覇者が汗を流して作る絶品イタリアン。それを空飛ぶドローンが絶対保温で届ける未来。

 エデンのQOL至上主義は、こうして魔王すらも経済の歯車として組み込み、盤石の引きこもりライフを完成させるのだった。



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