第112話 空間を飛ぶ情報と、黄金の半熟ホットサンド
「……痛い。腰と背中が、致命的に痛い」
エデン本邸、アルリックの自室。
朝の光が窓から差し込む中、アルリックは重い隈を作った目で、机の上の巨大なタイプライター型通信機を睨みつけていた。
昨晩開通した『有線式・魔導インターネット』は、屋敷の住人たちに劇的な娯楽革命をもたらした。
深夜の匿名掲示板は連日連夜の大盛況。厨房への出前注文も文字一つで完結し、アルリックのQOL(生活の質)は飛躍的に向上したかに見えた。
だが、夜通しネットサーフィンを楽しんだ結果、ここに来て致命的な『物理的バグ』が発生していたのである。
「通信機に『光ファイバーの線』が繋がっているせいで、僕は常にこの硬い木製の椅子のうえで、背筋を伸ばして机に向かい続けなければならない……。これは拷問だ。すぐ後ろに最高のマットレスを敷いたベッドがあるのに、それに背を向けて座り続けるなど、もはや重労働と何ら変わりない!」
キュピィィッ……(うるさいぞ、ご主人……。静かに寝かせろ……)
アルリックの膝の上では、神獣である皇帝オコジョのブランが丸まって不満げな鳴き声を上げている。
アルリックはブランの柔らかい毛並みを撫でながら、ギリッと歯を食いしばった。
「こんな中途半端な文明は認めない。僕が求めているのは、ベッドの極上のマットレスに深く沈み込み、毛布にくるまりながら、指先一つで世界と繋がる『究極の怠惰』だ。……よし、線をなくそう」
アルリックは即座に通信機を叩き、ドワーフの親方ガリンを自室へ呼びつけた。
「おいおい大将、朝っぱらから酷い顔だぞ。徹夜で掲示板の管理人でもやってたのか?」
「ガリン、緊急事態だ。あの『光ファイバー』の線をぶっ壊す」
「はあ!? あんだけ苦労して壁の中にガラスの糸を這わせたのによぉ! 今度は何が不満なんだ!」
激怒するガリンに対し、アルリックは空中に青白い魔力で新しい図面を描き出した。
「線があるから、人間がその場所に縛られるんだ。情報を『空間』に飛ばす。……光ファイバーの点滅信号を、人間の目には見えない波長の長い『電磁波』に変換するんだ」
「(解像度を上げろ。……電磁波の波長変換と、空間透過性の確保。および、アンテナによるパケット通信網の構築)」
アルリックは、魔力を用いて空間の物理法則に干渉する。
「光も電波も、本質は同じ『電磁波』だ。ただ波の長さ(波長)が違うだけ。光ファイバーから送られてきた光の信号を、魔石で作った『変換器』に通す。そこから波長を長くして、壁や障害物をすり抜ける『電波』として屋敷中に放射するんだ。……無線通信(Wi-Fi)の完成だ」
「目に見えない波が、壁をすり抜けて情報を運ぶってのか? 相変わらず大将の魔法は気味が悪いぜ……」
「そして、その空間を飛んでいる電波を受信するための『新しい端末』がこれだ」
アルリックが取り出したのは、一枚の薄い板だった。
エデンのガラス工場で作らせた強化ガラスの裏に、極小の魔力回路を焼き付けた、A4サイズの平らな板。キーボードなどの物理的なボタンは一切ない。
「(解像度を上げろ。……静電容量方式タッチパネル。人体の微弱な電流感知)」
「人間の体は、常に微弱な電気を帯びている。このガラスの表面には、その静電気(静電容量の変化)を感知する魔法陣が組み込まれているんだ。つまり、画面に直接指で触れるだけで、文字を入力したり画面を動かしたりできる」
「これぞ、線に縛られない究極の携帯型端末……『魔導タブレット』だ。これで僕は、ベッドから一歩も動かずに世界を支配できる」
***
数時間後。
屋敷の天井裏に電波を飛ばすルーターが設置され、エデン本邸に『無線通信(Wi-Fi)』の空間が完成した。
アルリックは、ふかふかのベッドに仰向けにダイブした。
羽毛布団を首まで被り、胸の上には湯たんぽ代わりにブランを乗せ、両手で薄い魔導タブレットを掲げる。
「……あぁ、これだ。背中と腰をマットレスに預けたまま、指先だけで掲示板のスクロールができる。最高だ……。まさに神の領域に達したQOLだ」
スワイプ、タップ。
滑らかなガラスの表面を指でなぞるだけで、画面が次々と切り替わっていく。
アルリックは至福の溜息を吐きながら、ふと自分の腹の虫が鳴るのを聞いた。
「(……いかん。徹夜の作業で腹が減った。タブレットの完成を祝して、極上の朝食といこう)」
アルリックはタブレットのチャットアプリを起動し、一階の厨房へメッセージを飛ばした。
『宛先:厨房
本文:タブレット開通記念だ。ベッドに寝転がったまま片手で食べられて、なおかつ中の具材が爆発的に溢れ出す、熱々の「ホットサンド」を作れ。具材の指定は以下の通り』
――ピコンッ。
一階の厨房。
そこで朝食の準備をしていた元・騎士科首席のレオナルドと、聖女エレノアの魔導タブレット(彼らにも支給されていた)が一斉に鳴った。
「おっ、大将からの初チャットだぜ! なになに……『ホットサンド』? なんだそりゃ?」
「アルリック様からの詳細なレシピが添付されていますわ。……まあ、なんて罪深く美味しそうな調理法でしょう!」
エレノアはタブレットの画面に見入りながら、素早く食材を揃え始めた。
「レオナルド、まずは食パンを二枚用意して、その『外側』にたっぷりとバターを塗ってくださいな!」
「外側? 内側に塗るんじゃなくてか?」
「アルリック様いわく、外にバターを塗ることで、鉄板で挟んで焼いた時に『揚げ焼き』のようなサクサクのクリスピー食感になるそうですわ!」
レオナルドが言われた通りにパンの外側にバターを塗りたくる。
エレノアはパンの内側に粒マスタードとマヨネーズを塗り、その上に分厚く切ったエデン・ポークの『特製燻製ベーコン』を乗せた。
さらに、たっぷりの『シュレッドチーズ(とろけるチーズ)』を山のように盛り付ける。
「そしてここがアルリック様のこだわり……真ん中に窪みを作り、そこに『生卵』を一つ落としますわ!」
「おおっ! ベーコン、チーズ、生卵! 男の夢みてぇな具材の暴力だな!」
エレノアはもう一枚のパンで蓋をし、それをガリンが作った『鋳鉄製のホットサンドメーカー』でギュッと挟み込んだ。
取っ手の金具をロックし、魔導コンロの弱火でじっくりと両面を焼き上げる。
「(解像度を上げますわ。……メイラード反応によるパン表面の結晶化と、タンパク質の熱凝固点制御)」
エレノアがアルリックの真似をして魔法の理屈を口にしながら、火加減を調整する。
鉄板の中でバターが溶け、ジュワジュワとパンの表面を焦がしていく暴力的な香りが厨房を満たした。
白身が固まり、黄身が『半熟』の絶妙な状態になるまでの時間を正確に計り、エレノアはコンロの火を止めた。
「完成ですわ! ……さあ、大将のベッドへお届けに参りましょう!」
***
「失礼しますわ、アルリック様。ご注文の品です」
自室のベッドでタブレットの海を泳いでいたアルリックのもとに、エレノアがお盆を運んできた。
「ご苦労。……完璧な焼け具合だ」
アルリックは身を起こし、お盆の上のホットサンドを見つめた。
真ん中で斜めにカットされたホットサンド。その視覚は、まさに朝食の王様だった。
外側に塗られたバターによって、食パンの表面はキツネ色を超えた黄金色に輝き、カリカリに結晶化している。
そして、その美しい『断面』。
何層にも重なったピンク色の分厚いベーコン。その隙間から、熱でドロドロに溶けたチーズが滝のように溢れ出している。
さらに中央には、絶妙な火加減で温められた『半熟卵の黄身』が、オレンジ色の濃厚なソースとなってトロリと顔を覗かせていた。
「この圧倒的なシズル感……。これぞ、片手メシの最高峰だ」
アルリックは右手で魔導タブレットを持ちながら、左手でアツアツのホットサンドを掴み、大口を開けてかぶりついた。
――ザックゥゥゥッ!!
バターで揚げ焼きにされたパンの表面が砕け散る、脳髄に響くような極上のクリスピー音。
直後、パンの内側に閉じ込められていた熱気と旨味が、一気に口の中へ雪崩れ込んできた。
――トロォォォッ、ジュワァァァッ!
「……っっ!!」
アルリックは無言で大きく目を見開いた。
噛みちぎった瞬間、濃厚なとろけるチーズが糸を引きながら舌に絡みつく。
極厚ベーコンの燻製の香りと、エデン・ポークの強烈な豚の旨味。
そして何より、弾け飛んだ『半熟卵の黄身』だ。
ねっとりとしたオレンジ色の黄身が、ベーコンの塩気とチーズのコクを一つにまとめ上げ、マイルドかつ暴力的な「旨味の奔流」となって味蕾を蹂躙する。
「……美味すぎる。サクサクのパン、塩気のあるベーコンとチーズ、それを包み込む濃厚な卵黄。粒マスタードの酸味がアクセントになって、無限に食えそうだ……」
指を汚さず、ぽろぽろとこぼれることもなく、すべての具材がパンという名の完璧な『器』に収まっている。
アルリックは左手でホットサンドを咀嚼しながら、右手でタブレットの画面をスワイプした。
ネットの掲示板を読みながら、極上の朝食をベッドの上で食う。
「(……勝った。僕はついに、人間としての『動く義務』に完全勝利したのだ)」
キュピィィィッ!?(お、おい! 俺の分は!? その美味そうな匂いの塊をよこせ!)
たまらず目を覚ましたブランが、アルリックの胸をよじ登ってホットサンドに飛びついてきた。
アルリックはもう一切れのホットサンドをブランの口に押し込み、熱々のアールグレイの紅茶で一息ついた。
***
数日後。
魔導タブレットとWi-Fiの導入により、エデン本邸はかつてない静寂に包まれていた。
「……誰も、廊下を歩いていないな」
実務官のキースが、呆れたように溜息をつく。
騎士のレオナルドも、聖女エレノアも、さらには隠居していた国王オスワルドや公爵エドワードまでもが、各自の部屋のベッドやコタツに引きこもり、支給された魔導タブレットの画面をひたすらスワイプし続けていたのだ。
食事はすべてチャットで厨房に注文し、情報も娯楽もすべて指先一つで完結する。
「アルリック様。QOLを上げるのは結構ですが、これではエデンの首脳陣が全員『廃人』になってしまいます! 昨日なんて、オスワルド国王がタブレットの『遠隔の将棋ゲーム』にハマって、三日三晩部屋から出てきていませんよ!」
「……いいじゃないか。平穏で何よりだ。僕はもう少し寝る」
自室のベッドに完全に同化したアルリックは、キースの悲鳴を右から左へ受け流し、今日もホットサンドをかじりながらタブレットの光に顔を照らされる。
だが、彼の「怠惰への欲求」はまだ底をついていなかった。
「(……情報と厨房のご飯だけじゃ足りない。エデンの外にある『すべての物資』を、このベッドの上から指先一つで取り寄せたいな)」
アルリックの邪悪な欲望は、次なる悪魔のシステム――『電子商取引』の開発へと向かっていくのである。




