第106話 皇帝の決死の潜入と、泥のない黒い道
ガレリア帝国、帝都の中心にそびえる豪奢な宮殿。
石造りの玉座の間は、芯から冷え切っていた。
現・帝国皇帝であるユリウスは、毛皮のローブに身を包みながら、震える手で一枚の手紙を握りしめていた。
「……北部方面軍の最前線基地から、500名の歩兵が消失。さらに、討伐に向かったガリウス将軍の精鋭騎兵300名も、国境で音信不通……だと?」
ユリウスの顔は蒼白だった。
手紙は、あの冷徹で知られるガリウス将軍の伝書鳥が届けてきたものだ。
『陛下、申し訳ありません。我々は敗北しました。エデンのロジスティクス(兵站)は神の領域です。私はこれから出張回転寿司の常連客となり、食後はエデンの第三工場へ面接に行ってまいります。探さないでください』
「馬鹿な……っ。あのガリウスが、戦わずして工場労働者に転職するなどあり得るはずがない! スシとはなんだ、呪文か!?」
ユリウスは玉座から立ち上がった。
国境で何が起きているのか。未知の洗脳魔法か、あるいは精神を破壊する猛毒か。
このままでは、帝国軍は一滴の血も流さずに内側から瓦解してしまう。
「……こうなれば、私が自らその『エデン』とやらを視察する。我が父、先代皇帝ヴァレリウスが行方不明になったのも、あの辺境の地だったはずだ」
ユリウスは決意を固めた。
ボロボロの旅商人のマントを羽織り、顔を泥で汚し、最悪の軍事国家の正体を暴くための決死の潜入を開始した。
***
数週間後。エデン領、中央区画。
「…………なんだ、ここは」
国境を越え、エデンの街並みに足を踏み入れたユリウスは、呆然と立ち尽くした。
彼が想像していたのは、洗脳された奴隷たちが鞭打たれながら兵器を作る、おぞましい軍事要塞だった。
しかし、目の前に広がっていたのは――。
「泥が……ない。雪解けの時期だというのに、馬車が通る道に一切の泥濘がないぞ!?」
地面は漆黒の『透水性アスファルト』で舗装され、どれだけ水が流れ込んでも一瞬で地中へと吸い込まれていく。帝国の宮殿の中庭ですら、雨が降れば水たまりと泥はねで靴が汚れるというのに。
さらにユリウスを驚愕させたのは、道端の公園に設置された「公共の水飲み場」だった。
平民の子供たちが泥遊びをした後、金属の蛇口をひねると、そこから湯気を立てる「温水」が出てきて、キャッキャと笑いながら手を洗っているのだ。
「ば、馬鹿な……。ただ平民が手を洗うためだけに、高度な火属性と水属性の複合魔導具を常時稼働させているというのか……!? どれほどの魔石エネルギーを浪費すれば……」
狂っている。この国の為政者は、狂人の類だ。
平民の生活水準(QOL)を極限まで上げるために、国家予算レベルの魔力と技術を惜しげもなく注ぎ込んでいる。
皇帝である自分の生活環境が、エデンの「ただの公園の手洗い場」に敗北しているという現実に、ユリウスは目眩を覚えた。
「……おい、そこの新入り。突っ立ってないで手を動かせ。アスファルトの温度が下がるぞ」
「あっ、はい! すみません!」
背後から声をかけられ、ユリウスはビクッと肩を揺らした。
そこでは、エデンの道路拡張工事が行われていた。熱々のアスファルトを平らにならす作業員たち。
ユリウスは、その作業員たちの顔ぶれを見て、心臓が止まりそうになった。
「あ、あれは防毒マスクで出陣したはずのガリウス将軍!? なぜスコップを持って、あんなに血色の良い顔で汗を流しているんだ!?」
かつての帝国の誇り高き猛将が、泥と汗にまみれながら、しかし「帝国の最前線にいた頃よりも遥かに生き生きとした顔」で道路を舗装していたのだ。
そして、その現場監督のように腕を組み、首にタオルを巻いた白髭の筋骨隆々な男の姿を見て、ユリウスはついに声を漏らした。
「ち、父上……!?」
それは間違いなく、数ヶ月前に行方不明になった先代皇帝・ヴァレリウスであった。
「ん? なんだ、ユリウスじゃないか。お前も帝国の生活が嫌になって、エデンに就職しに来たのか?」
ヴァレリウスは息子を見ても全く驚かず、豪快に笑った。
かつて玉座で世界を睨みつけていた覇王の面影はない。完全に、この仕事に生きがいを見つけた「現場の親方」の顔だった。
「な、何をなさっているのですか! 帝国を捨てて、敵国で平民のように土木作業など……帝国の誇りはどうしたのです!」
「誇りだと? そんなもので腹は膨れんし、夜の寒さは凌げん」
ヴァレリウスは鼻で笑うと、懐から茶色い紙袋を取り出した。
「お前は知らんのだ。このアスファルトという『完璧な平面』を造り上げる芸術的な作業の後に食う、エデン名物『焼きそばパン』の美味さを」
「や、やきそば……?」
「食ってみろ。領主のアルリック殿が考案した、炭水化物と炭水化物を暴力的なソースで繋ぎ合わせた、悪魔の兵站食だ」
ヴァレリウスから無理やり押し付けられたパン。
ユリウスは毒を疑ったが、それ以上に、漂ってくる「ソースの焦げた匂い」と「豚肉の脂の香り」に、胃袋が強烈に収縮した。
帝国の宮殿で食べていた塩茹での肉とは次元の違う、複雑で完成された「香り」だった。
ユリウスはたまらず、パンにかぶりついた。
――ガツンッ。
「…………っ!!??」
ユリウスの瞳孔が開いた。
フカフカでほんのり甘いコッペパン。その中に挟まれた、濃厚なスパイシーソースが絡んだ麺。
噛み締めるたびに、ソースの酸味と旨味、そして青のりの風味が鼻腔に抜け、皇帝の貧弱な味覚を根底から破壊した。
「美味い……。なんだこれは……。冷めているのに、どうしてこんなにパンが柔らかく、味が濃厚なんだ……!?」
「フハハハッ! そうだ! 帝国のフルコースなど、この『焼きそばパン』の前では泥水と同義よ! そしてこの後に、労働の汗を流す『スーパー銭湯』とキンキンに冷えた『コーヒー牛乳』が待っているのだ!」
ヴァレリウスが誇らしげに空を指差す。
ユリウスは、焼きそばパンを咀嚼しながら、ポロポロと涙をこぼした。
洗脳でも、毒でもなかった。
兵士たちが国を捨てた理由が、あまりにも残酷な真実として理解できてしまったのだ。
「……父上。私も、スコップを持てば……その『スーパー銭湯』とやらに入れますか……?」
世界最大の軍事国家ガレリア帝国の現・皇帝が、玉座を捨ててエデンの土木作業員に志願しようとした、まさにその時だった。
「――却下だ。君に土木作業員への転職は認めない」
背後から、ひどく不機嫌そうな声が響いた。
振り返ると、そこにはパジャマ姿の上に皇帝オコジョ(ブラン)を首に巻きつけた少年、アルリックが立っていた。




